第三話『心の隙間、無意味な鍵穴』
隣にいてくれるだけでよかった。笑って話しかけてくれるだけでよかった。大きな声で呼んでくれるだけでよかった。
その瞬間だけ、自分はここにいていいのだと思えたから。
「せーんーぱい!」
おかしい。鍵はかけておいた筈だし、合鍵なんて渡す筈もない。
じゃあコレはなんだ?弱り目に祟り目の人間を前にして、この世の始まりの如く歓喜するこの女はいったい。
「おはようごさいます、先輩!貴方の愛しの舞ちゃんがお見舞いにやって来ましたよ!喜んでください!」
「……死にたい」
「ふえっ!?」
死にたい。生きていたくない。こんな奴に心配された。お見舞いに足を運ばれた。それはなんて屈辱的なことなのだろう。
ああ、でもその表情はいいと思うよ。鳩が豆鉄砲食らったらみたいっていうのかな?
ははっ、僕が落ち込んでいるのがそんなに不思議か。予想外か。このアホ女はいい加減自分の立場を理解した方がいい。
「死にたいだなんて、そんなネガティブなこと言っちゃ駄目です!生きたい!もっと舞ちゃんと話していたい!くらいに言ってみましょう、さあ!」
「死にたい。もうおまえなんかと話していたくない。死にたい」
「全否定っ!?」
僕は眠たいんだよこんちくしょうめ。いや本心ではこれっぽっちも眠たくないんだけど、早く風邪を治して果たさなくちゃならない約束があるわけで。
だから僕は寝るんだ。昨日の双葉のようにお粥を作ってくれるわけでもない、しかも五月蝿くて仕方のないこの女に構ってやる理由なんか一つもない。
「もう、先輩ったら照れちゃって。男の子だからって、後輩に弱いところを見せるのは全然恥ずかしいことじゃありませんよ」
「おまえの存在より恥ずかしいものなんかないよ。それに後輩だと思ったこともない」
もう面倒くさいので、とりあえず捨て台詞を吐いて布団に潜ることにした。
季節は冬、十二月の初頭である。布団に全身を包まれる感覚は、まさに天にも昇ると言えるものだ。
「後輩だと思ったことはない……つまり、一人の女として見ているということですね!」
「アホかっ!つーかなに顔赤らめてんだよ!おまえなんか良くて雌だ!」
ちくしょう、僕は負けてしまった。突っ込んだら負けとわかっていながら、温かい布団を飛び出してまで突っ込んでしまった。
「雌だとか突っ込むだとか……先輩もお盛んなんですねえ」
「やめてくんない!?おまえの妄想押し付けんのやめてくんない!?」
だからなんで頬赤らめて言うんだよ気持ち悪い!あと突っ込みのくだりは口に出してない筈なんだけど!
「つーかおまえ、どうやって入って来たんだよ」
ピッキングか?ピッキングなんだな?よし携帯だ。警察を呼ぼう。
「ってあれぇ!?僕の携帯はっ!?」
「おかしいですねぇ、どこにもありません」
なんだ、こいつも探してくれるのか。知らないうちに最低限の気遣いができるように……って!
「それ、手に持ってんのそれ、僕の携帯だよね?」
「そうですけど?おかしいんですよね、えっちな画像や動画がどこにも」
「アホかっ!何度も言うけどアホかっ!僕のプライバシーはどうしたってんだよええこら!」
「あははっ、先輩面白いこと言いますね。そんなものあるわけないじゃないですかー」
「警察!警察ぅ!」
ちょっ、こら!携帯返せクソがぁぁぁああ!
「アドレス帳見ちゃおーっと。ロックかけてないから楽ですねー」
「……もういい。返す気がないなら力ずくでいかせてもらうぞ」
のんびりと人のベッドに腰掛けやがって。風邪をひいてるとはいえ僕も男で先輩だ。意地を見せなくちゃなるめえよ。
「返せ!」
「きゃっ」
ベッドに腰掛けるアホを押さえつけてマウントポジションを取ると、勢いに任せて携帯をひったくる。
「きゃーっ!犯されるぅぅぅう!」
「はあっ!?ちょっ、やめろ!アパートだから!お隣さんに怪しまれるから!」
最近ようやく仲良くなれた隣の女子大生さんに妙な誤解を招くだろ!ってまさかそれが狙いか!?
「鍵は開けたままですからね。このまま叫び続ければ隣の女子大生さんが駆けつけて、年下の女の子を無理矢理ベッドに寝かせてマウントポジション取る先輩の姿が晒されることになりますよ」
「やめてくださいお願いします。つーかなんで隣が女子大生だって知ってんだストーカー女」
「ストーカーとは失礼な!恋する乙女のカンです!」
「誰かこいつの頭に絆創膏貼ってあげて!全身包みこんでそのまま東京湾に沈められるくらいおっきい奴!」
頭が故障中とかってレベルじゃねーぞ!だいたいこいつは妙に頭回るし情報力あるしで……ほんと、気持ち悪いんだよなぁ。
「もう先輩ったら、さっきから気持ち悪い気持ち悪い言って!もう一度貴方の愛しの後輩の姿を良く見てみなさい!」
「愛しの後輩なんてどこにもいねーよ」
と言いつつ、未だマウントポジションを取るアホ女の姿を改めてまじまじと見てみることにした。
漫画の世界の生き物としか思えない桃色の髪が真っ先に目についた。肩に届く程度の長さに切り揃えられており、少し内巻きになっているのが特徴的だ。
更にはワンポイントの黒のカチューシャが良く似合っていて、この時点で女の子らしい女の子といった風貌であることが窺える。
双葉と同様にほっそりとした小柄な体型で、なんとなく後輩らしさが醸し出されている。
ぱっちりとした瞳は妙に人懐っこい猫を思わせ、いつも楽しそうに微笑んでいるのが印象的。
それが僕の不肖の後輩、アホピンクこと牧野舞という女だった。年齢で言えば僕や双葉の一つ年下で、確かに形式上後輩にあたる。
「あっ、あの、先輩?そんなにまじまじと見つめられると、流石の私でも照れちゃいます」
「いや、おまえが見ろって言ったんだろ」
そのとき彼女は、さっきまでの変態チックな理由ではなく、純粋な羞恥から顔を真っ赤にしていた。
言いたかないが、確かに可愛いんだよな、こいつ。冗談でも気持ち悪いだなんて言うのが失礼なくらいに。
「それで先輩、私の可愛らしさを再認識していただけましたか?」
「自分が可愛いと理解してる奴にはろくなのがいないんだよ」
「……かっ、可愛いいのは否定しないんですね」
否定できないんだよちくしょう。僕は自分の感情で事実を曲げるのが大嫌いなんだよちくしょう。
「―――で、その可愛い後輩がなんの用だ?僕は生憎風邪をひいているんだが」
あっ、そういえばマスクしてない。まあいいか、こいつはどうなっても別に。
「決まってるじゃないですかぁ!先輩を餌付けしに来たんですよ!」
こいつ、何言ってんだろう。さっきから警察呼ぼうとしてたけど、これはむしろ病院の管轄なのかもしれない。
「はい、お嬢ちゃんちょっとじっとしててね」
桃色の髪を掻き分けて、額に手を当ててみる。なんかちょっと熱いか?また赤くなってきてるし。
「せせせ先輩!?あのっ、私まだ心の準備が!」
なに恍惚としてんだこいつ馬鹿じゃねーの……可愛いけど。
「いや、おまえも風邪かと思ってさ。熱はないみたいだけど、僕のが伝染らないうちにさっさと帰ることを勧めるよ」
「先輩が心配してくれるなんて感激です!」
……そんなキラキラした視線を浴びせるな。僕は自分の理性の心配をしてるんだよ。
嘘臭いとはいえ求愛行動の激しい、しかも無駄に見てくれの良い後輩とベッドで密着状態じゃ身が持たないもの。
「でも帰るわけにはいきません!今日は先輩にこの手作りお弁当を食べてもらうために来たんですから!」
ああ駄目だわ、やっぱり僕は持たないかもしれないよパトラッシュ。なんでこいつ変なとこ健気なんだよちくしょう。
「そうか、じゃあ僕が食べたら帰ってくれよ」
「先輩、食べてくれるんですか!?」
驚かれてしまった。普段からぞんざいに扱い過ぎたせいだろうか。僕は他人の好意を無下にするような真似は基本的にしないというのに。
「食べるよ。腹減ったし、普通に嬉しいし」
「……先輩は、ときどき物凄く素直になるので卑怯です。今流行りのツンデレという奴なのです、きっと」
「誰がいつ誰にデレたってんだ。つーか僕を勝手にイロモノにしないでくれ」
くっそ、なんか妙に愛らしくに微笑みやがって。日頃の行いで株を下げてさえいなけりゃ普通に惚れたぞ。
だから馬鹿だって言うんだ。ホントに。
見てくれはいいし頭もキレる。行動力もあるし器用で努力もできる。
いい女なんだよ、こいつは。だから、さっさとどっかでいい男引っ掛けて幸せになればいいんだ。
そのためなら、僕だって相手探しの手伝いくらいはするぞ。
「先輩、何か私の気持ちに対して失礼なこと考えてません?」
「それこそ失礼な。今はおまえのことべた褒めしてたところだぞ」
「そっ、そうでしたか!」
ほら、こうやっていちいち照れるところがまたいいんだ。
本当に、どっかにいい男いねえかなぁ。この娘託しても釣り合うくらいのできた奴。
「それじゃ、少し早いお昼ご飯にしましょうね」
るんるんと擬音が出そうな勢いではしゃぎながら、彼女は緑の布で綺麗に包まれたお弁当をベッドに置いた。
僕と彼女は正座して対面し、はたから見れば仲睦まじげに卓を囲んでいる。
「それでは、オープン!」
「……おお、ちゃんとしたお弁当だ」
なんだが皮肉じみた言い方になってしまったものの、そこにはお子様もクラスで人気者になれそうな可愛らしいお弁当が広がっていた。
新鮮そうなミニトマトの赤、ハムのピンクに包まれたきゅうりの緑、だし巻き卵の黄色。レタスの上のミートボールにミニハンバーグ。ご飯にはシンプルに胡麻塩が振ってあるだけだが、むしろそれに好感が持てた。
「すごいな。いいママになれるぞ、舞」
「是非とも先輩が私をママにしてください!というか今、私の名前を……」
そんなことでいちいち喜んでどうする。双葉といいこいつといい、僕の欠陥くらいお見通しってか。
「つーかママにしてとか性質の悪いこと言うんじゃねーよ」
「ではまず女にしてください!」
「あのね、君わざわざでかい声で言ってるでしょ」
まったくこいつは……そんなの僕なんかに頼んでも損するだけだ。料理もこれだけできるのだから、余計にいい男を探すべきなんだよ。
「あっ、でもごめん。僕トマトは苦手なんだ」
「好き嫌いは駄目ですよ。めっ」
めっ、じゃねえよ僕はガキか。そういう無駄に可愛い仕草はもっと別の奴に見せろと。
「仕方ないですね。罰として、トマトは私にあーんしてください」
「あーん」
「早っ!?躊躇いが一切ないのは予想外です!」
五月蝿いなぁ。予想なんてのは往々にして外れるものなんだよ。現に僕もこのアホが予想外に可愛くて困ってるし。
「うーん、流石私のミニトマト、美味しいですねー」
「自家栽培したわけでもあるまいに……それじゃ、僕もいただきます」
でもなんだろう。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、幸せだなって思う。誰かと食べるご飯なんて、久し振りだから。
そのせいか、体の調子もやけに良くて。これがこいつに伝染したからではないことを祈っておこう。
それじゃ、まずはだし巻き卵を……。
「ああ!待ってください先輩!私があーんしなくちゃなんの意味もないじゃありませんか!」
「……知るか。食事にそんな付加価値はいらない」
そもそもそんな恥ずかしいことができるか。これは誰かが見てるとか見てないとかの問題じゃないぞ。
「……結先輩には、やらせてあげたくせに」
「なんでそれを知ってんのかなぁ君は」
「簡単です、本人から聞きました」
そっか、そういや仲良かったもんな。贔屓は良くないね、不可抗力とはいえ。
「早く終わらせてくれよ。弁当が終わるのが先か僕が壊れるのが先かみたいな話になるから」
「駄目ですよぅ、ちゃんと味わってくれなきゃ。さぁ、あーん」
「あーん」
馬鹿なんじゃねえのかな、僕って。恥ずかしいことやしたくないことは素直に断ればいいのに。
本当に、馬鹿だ。
今、こんな風にしてくれる彼女を前にして、心のどこかで喜んでいる自分がいる。抱き締めたいって思ってる自分がいる。
それを偽るのが、理性の仕事というわけだ。
「さぁ、このミートボールで最後です。あーん」
「あーん」
美味しいって、思えた。同時にどことなく薬品チックな風味を感じた面もあるけど、それを差し引いても美味しかったのだ。
「御馳走様。美味しかったよ、ありがとう」
恥ずかしいのを堪えて、一応のことご褒美のつもりで、彼女の頭を撫でてやる。ちゃんとご褒美になってりゃいいけど。
「えへへ、ありがとうございます、先輩」
まるで猫だな、なんて言葉が喉の辺りまで出かかった。頭を撫でられる彼女の様子が、まさにそんな風だったから。
「さて、それじゃあ今日はもう帰りなよ。これ以上いたら風邪が伝染っちゃうから」
「ええ!?せっかくお弁当まで出したのに、そんなのあんまりです!」
おい話が違うじゃねーか嬢ちゃんよ。まぁ気持ちはわかるけど、こっちだって心配して言ってるわけで。
「風邪なんか今さら変わりませんよ!それに、まだお昼じゃないですか!私たちの時間はこれからです!」
「いや、僕だって追い出すような真似したかないけどさ。でも仕方ないじゃないか」
「うぅー」
確かに、可哀想だよな。お弁当持参ってことは午後も居座る気満々だったろうし。
……埋め合わせは、必要か。
「わかった、交渉しよう」
「ふえ?交渉ですか?」
そういえば、昨日も双葉と水族館に行く約束をしたっけ。風邪が治ったら埋め合わせに店にもたくさん顔を出さなくちゃならないしなぁ。
休日、消えてくなぁ。とほほ。
「今後一度だけ、できる範囲で何でも言うことを聞いてやる。これでどうだ?」
「乗ります!是非乗らせてください!」
「ちょろいなおい。まあいいや、そういうわけで今日は帰ろう、な?」
自分としても最大限の誠意を込めたカードを切ったつもりだが、やけに快諾してくれたものだ。
「約束ですよ!絶対に反故にしたりしたら駄目なんですからね!」
「あっ、それなら指切りでもするか?」
口元が自然につり上がるのをなんとか隠して、僕は彼女に昨日と同じ行為を打診した。
「いいですね!やりましょう先輩!」
「―――よし、じゃあこれな」
「……へ?」
ギラギラ輝く銀色が目に痛い、冷たく無機質な鉄器具がそこにあった。
略称『小指落としマシーン』愛称『けじめなさい』といったところだろうか。
恐らくは元々彼女の手にあったであろうそれを、巡り巡って僕が彼女に手渡すのだ。
「さっ、ぐっといけよ」
「……えぐっ……ひっく……」
あれ?なんか……あれ?
ちょっ、これ、泣いてんじゃないのおおお!
なにこれ違う!俺の知ってる牧野舞はこんなか弱い女の子じゃない!
「いやその、悪かったよ!冗談だから!ほらっ、指切りしよう、なっ!」
「ふえぇ……指切り……したいの」
そんなにしたかったのか。なんか本当にごめんって感じだな。僕としたことが、珍しくデリカシーに欠けたかもしれない。
「ほら、いくぞ」
指切りげんまん
嘘吐いたら
針千本飲ます
「「指切った」」
「いや、切れよ、離せよ」
「離したら帰らなくちゃいけないじゃないですか」
「だから帰れよ、マジで」
最後まで粘り強い女だった。そこは最早評価に値する点かもしれない。もちろん、面倒なことこの上ないのだが。
「それじゃあ、帰りますからね」
「ああ、今日はありがとう。助かったよ。またな」
「……ほっ、本当に帰っちゃいますからね!」
「だから帰れよ!しゃらくせえ!」
今生の別れでもあるまいに、なんなんだこいつは。またすぐに店で合うというのに。
いや、半泣きで訴えかけるその仕草は物凄く好みなのは認めるよ。けど僕は病人なわけで。
「先輩、最後にもう一度だけ、名前で読んでくれませんか?」
だから今生の別れか!?女心ってのが本当にわからないよ、僕は。
……わからないけど、できることはしておきたいな。
「じゃあね、舞。また会うのを楽しみにしてるよ」
「―――はいっ!また!」
最後の最後で今日一番の微笑みを見せた不肖の後輩は、勢いよく扉を開けて外の世界へと消えていった。
僕はまた、一人になった。寂しいとは、今更思わないようにしている。ただ、温かい時間があったというだけ。
むしろそれが異常なことで、この静寂は普通のことなのだ。だから、寂しくなんか、ない。
「それにしても、何か忘れてるような……?」
「結局、先輩に合鍵のことばれずに済んじゃった。ラッキーです」
これでは、彼女の前に真宮家の門戸が全開であるのと相違はない。
そんな自身の危機に気づくこともなく、物語の主人公たる少年の世界は輪を閉じるのであった。
一人の少女がくれた、微かな温もりだけを残して。
その過去は嘘で
この現在も偽りで
あの未来さえも欺瞞
全ての感情はフェイク
きっと
それすらも―――
牧野 舞
十六歳・高校一年生
暫定ヒロインB