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目の前には背中を丸め、机に向かうアカネの姿。
アカネは、俺の、短冊を書いてみないかという呼びかけに、しばし、視線を彷徨わせていたが、何か思い至ったような顔を見せると、何かを書き始めた。
そんなアカネの姿を見ながら、俺はポケットに丸めて突っ込んだ短冊を、右手でもてあそんでいた。机の上に放っておいたのを、アカネに見られるかも、と慌ててポケットに突っ込んだのだ。
願いを込められながらも、無残に丸まった紙片は二枚。一枚目は、タクミの書いた短冊だ。「琴月茜と付き合いたい」と書かれたもの。もう一枚は、俺の書いた物。タクミがジュースを買いに行くと出ていってしまい、独り取り残された夕暮れの教室で、自分の心を見つめ直そうと書いてみたものだ。
「琴月茜と、」とまで書いたあと、筆が止まった、書きかけの短冊。
書きかけた短冊を前に、どれくらいの時間ペンを握って固まっていたかはわからないが、結局、俺は自分がどうしたいのかという問に答えを出せずにいた。
タクミが、代筆した様に、付き合いたい、と書くことはできなかった。
アカネのことは好きだし、付き合うということが恋心の延長線上として、ごく自然な発想だということも理解できなくはない。そして、そんな事を悶々と考えるうちに、タクミがどうして、こんな話を切り出したのかという心理も少しわかってきていた。
でも、それば分かればこその、踏ん切りのつかなさだった。
選択の恐怖。何かを選ぶということは、選んだ方でない方を選ばなかったということになる。もし、仮に、アカネと付き合いたいという想いが自分の中で形になったとして、それを躊躇わせるのは、それと二者択一にある思い。自分と、周りをつないでくれている、タクミとアカネと、これまでやってきた三人の絆を大事にしたいという願いだった。
「なぁ、アカネ」
「ん~?」と帰ってきたのはアカネの生返事。「もう、なに、このマッキー潰れてるじゃん、ペン先」
アカネは、書きかけた字が気に入らなかったのか、今まで書いていた短冊を丸めると、脇に放り、積まれた短冊から新たな一枚を引きぬく。
俺は腰掛けていた机に転がってる、ゲルインクのボールペンをアカネに渡してやる。
「サンキュー! って、うぎゃ、なにこれ、なんかインクがヌルヌルして超、文字滲むじゃん!!」
「なに? アカネ、その手のボールペン使ったこと無いの?」
「無いよ、こんな変なペン」
「変じゃないよ、書き味が柔らかくていいだろ?」
アカネは、先ほど丸めた短冊を広げると、グリグリとペン先を当て、書き味を試している。女の子のくせにと言っていいのか、アカネは字があまり上手ではない。俺が思うに、筆圧が強すぎるのが原因な気もするのだけど、アカネが冗談めかして言うには、ラッパ吹くのに字など巧くなくても良い、のだそうだ。
男の字と間違われるほど、強い筆圧で、やたらとゴツゴツとした字を書くアカネは、ようやく、ゲルインクのペンの書き味に馴染んだのか、意気揚々と新たな短冊に向かった。
短冊に向かいながら、アカネが口を開いた。
「願い事ってさ、いろいろあるじゃん? ハンバーグ食べたいとか、大金持ちになりたいとか、期末の数学の山が当たりますようにとか、さ、色々」
「随分即物的だな」俺は、アカネの奔放さに、思わず笑みがこぼれた。
アカネは、そんな俺の態度に、怒り半分照れ半分で、慌てて、自分の言葉を釈明する。
「ち、ちがくて、今のは例えばって言うか、そうじゃないの!」
「あぁ、わかってるよ」
「今どうしたいかとか、明日どうしたいかとか、一年後とか、将来とかさ」
「うん」
「ヒカルの願い事ってどんなの?」
「え?」
俺の応え方に、アカネは筆を止め、こちらを振り返る。俺は視線を外すタイミングを逸してしまって、アカネと正面から見つめあう事になってしまう。
「え、じゃなくてさ、ヒカルの願い事よ? あれ? 書いたんじゃないの?」
慌てて隠した短冊は、アカネの目に止まっていたのだ。書き損じか何かと思われる、丸まった短冊と、ペンが机の上に転がっていて、さらには、書いてみないか、とまでアカネに持ちかけているのだ。アカネが俺が短冊を書いてるものと踏むのも自然な話だ。
アカネの視線が俺を射ぬく。急に鼓動が早くなっているのを感じた。耳の下あたりが熱い。内側からドクンドクンと血管が波打つのを感じた。
告白のチャンス、かもしれない。
これは抜け駆けになるのだろうか。一瞬目の前のアカネを無視して、タクミの顔が過る。今もし仮に、俺がここで、想いを告げたとして、もし仮にアカネがそれを受けたとして、そうしたらタクミはどうなるのだろうか。想いを告げる機会すら永遠に失ったまま、タクミは三人の絆から放り出されてしまうんではないだろうか。二人と一人、歪な三角形になってしまう気がして、恐怖が募る。
俺は口を開けなかった。
「あのね、ヒカル? 変な意味じゃないだけどね、えっと、今、好きな人っている?」
俺の返事を待たずして、アカネが口を開いた。
そのセリフで、早鐘の様になっていた、俺の心臓が今度は、一瞬止まった。
「ええ?」
またも、間抜けな、声が俺の口から漏れた。アカネは何を言ってるんだろう。俺に好きな人が居るのかって、聞かれても、はいあなたですとは、俺は口が裂けても言えない。なんで、アカネがそんなことを訊いてくるのかがさっぱりわからないから、なんと答えていいのかもわからない。
「あ、ごめん、やっぱ、嘘。今の忘れて、うん。間違い。えっと、あのね、最近ね、ちょっとだけショッキングなことがあったの。で、えっと、あの、あたし自分を見つめ直さなきゃなって思ってた言うか、あれ、あたし何言ってんのかな」
身振り手振りを混ぜ、急に饒舌になるアカネに、俺はますます付いて行けなくなる。これは今、なんか、いい雰囲気なのか、そうじゃないのか。タクミへの思いも忘れて、必死に混乱を収めるために、アカネの言葉を理解しようと努める。
俺は自然と、言葉の意味をすくい取ろうと、前のめりになっていたのだろう。急にアカネが、こちらの態度に驚き、目を逸らしてしまった。そんな態度が照れ隠しのように見えて、急に、アカネへの愛しさが込み上げて来た。
「ほら、あたしさ、音楽ばっかだったでしょう? 字とかも下手だしさ、いっつもタクミとかヒカルとかとつるんで、遊んだりとかさ。だからヤッとんにも三兄弟とか馬鹿にされるしさ」
ヤッとん。矢島は、小学生の頃、五、六年とアカネとクラスを同じくした同級生だ。俺やタクミに混ざって遊ぶアカネを男勝りだとよくからかっていた気がする。今にしてみれば、異性を意識しがちな年齢にあって、男女の壁を気にせず関係を結ぼうとする爛漫さを備えたアカネに恋心を寄せていたのかもしれない。冷たく当たるのは、好意の裏返しだ。
そんな矢島に、アカネは、何よ、と笑いながらドッヂボールをぶつけていたような記憶があるが、今の塩らしくなったアカネの言葉を聞く限り、事はそんなに単純なことでもなかったのかもしれない。
俺もタクミも、アカネが好きだ。異性として意識しているし、もう、好意を幼稚な反発で表すような年齢でもないので、字が汚かろうが、休み時間に楽器ケースを抱えて、全力疾走に近い勢いで廊下を駆けていく姿を目にしようが、男勝りなどと、弄ることはない。
でも、俺達以外の周りはもしかしたら、そういった目で見ていないのかもしれなかった。だからこその、今のアカネの言葉なのかもしれない。
「二年生にね、あたしのパートの子なんだけど、すっごい可愛い子が居るの。その子がね、今好きな人が居るんだって。それですっごい目を輝かせて、その話をするのよ。その笑顔がね、なんだか、とっても可愛くて、でも、ね。……見てられなくて」
アカネは言いながら語気を落としてった。見てられなくて、と口にしたあとはうなだれ、視線を落としている。
今、後輩の恋愛話をエピソードを切りだすのに、アカネはショッキングな事があったと言った。その後輩に気後れのようなものを感じたんだろうか。
「とにかく、ね」
アカネの声は消え入りそうな程、小さく儚い。
「決めたの」
「決めた?」
「うん。願い事。今のあたしの素直な願い」
アカネがコクンと頷きながら答えた。短冊を書き終え、ペンを脇に置く。
面を上げたアカネの顔には、先ほどとは打って変わった笑顔。白い八重歯を覗かせ、柔らかに弧を描いた口元と目元に、俺は一瞬目を奪われた。
「じゃん!」
アカネの笑顔に見とれていた、俺の視界に、文字が飛び込んできた。アカネの短冊だ。不慣れなペンで滲ませてしまいながらも、思いのこもった力強い字。そこにはこうあった。
「県コンクール、絶対優秀賞!!」
音楽にかけるまっすぐな想い。その文字はアカネの笑顔と一緒に、眩しく光ってる気がした。