一
友の、そのまた知り合いに、めくらの者がおりまして、わたくしが、彼に初めて相対したのは、一昨年の春のことであったと思います。ふるい共同病室の、窓側のベッドのひとつに、彼は臥して居りました。床のタイルはくすんで、スリッパは垢じみてぺたぺたし、鉄パイプのベッドの塗装は禿げて、白い布団の端々は薬品で黄ばんでいました。ツンとすっぱく不快なにおいがただよっており、ほかの五ツのベッドの病人は、起きているのも臥しているのも、まるで布団と同化してしまったかのようにしずかでした。わたくしの脳裏に退廃、ということばが落ち着きました。
わたくしの隣には友がおり、仲介してくれましたが、わたくしは彼に最初のあいさつをして、型どおりのことばを二ツ三ツ交わしただけで、手一杯になってしまいました。彼の顔面は、双眸を覆って、包帯に横断されておりましたが、そのかわりに、立派な眉や、口元が、ころころとよく動き、大きな声でよく笑い、手のひらを上手に操って、ものを喋りました。彼の肢体が本来、使い古されたベッドに封印されるものではないのだということを、そのはつらつとした声で知りました。
会話に入れないわたくしが、まるで空気のようにたたずむようになってから、数刻ののちでしょうか。
病室のそとでは、もうさくらの頃でした。窓は放たれており、時折薫風がはいりましたが、窓から二列めのベッドに達するまでに、退廃的な在来の空気にやられてしまうのでした。その窓から、ピンクのはなびらが、いちまい、ちらちらと、舞い込んできました。
あら、とわたくしは思って、その軌跡をじっと見つめておりますと、めくらの彼が、ひょいと白い腕を伸ばして、空中をつかみました。そして、わたくしの方へそのこぶしをぐい、と尽きだして、指を開きました。するとそこに、先ほど、空中を舞っていた花びらがありました。
まるで手品を披露されたようで、わたくしは、あら、とか、まあ、とか、はあ、とか、気の利かないことを切れ切れに漏らす以外ありませんでした。彼は、わたくしを驚かせたとみて、満足げにわらっておりましたが、わたくしは、そのとき、おどろいたのでは、ありませんでした。
彼の、寝間着の袖からにゅっと伸びた白い腕。浮き立った青い血管。筋張った手首。しかくい拳。その中からあらわれたピンク色の花弁に、まるで、そう、疲労のような、吐き気のようなものを感じたのです。身体のなかの、たったひとつの、大事な吐息がこぼれて、酸欠になったようでした。わたくしはとまどっていたのです。