ポチャン
暑い夏休み前の七月、プールの授業の後の更衣室。
女子更衣室特有の、遠慮のない、いつもの会話が飛び交っている。
「ひな、ドライヤーかしてー」「まじ、前髪死んだんだけど!園山のやつ、しっかり顔つけろって」
「せなのキャミ、かわいい。ブルーん゛夏向き。やっぱり、しまむら?」と、私、なずな。
「へへっ、これGUなんだー」と、せなはワイシャツのボタンを留めながら、答える。
と、その時だ。ひなが、いつものように、「ブルブル」を、今日はなぜか、いつもより盛大に始める。
「ブルブル」とは、ひなが半分くらい拭いた、ロングボブの髪を右に二回、左に三回、振って水分を飛ばす一種の儀式?のことだ。
当然、残った水分が近くにいる、私、なずなとせなの顔に「ピシャ、ヒシャ、ピシャ」と当たる。
「もう、あんたは、濡れた子犬じゃねーんだから」と、せな。
「いつもしぶきを、かけられる、こっちの身にもなれっつーの」と、私、なずな。
「だって、これやらないと、髪を拭いた気にならんのよ」と、いつものひな。
周りを見渡すと、更衣室の中は私たち、三人きり。みんなはもう、教室だ。
「ちょっと、急がんと、次は前田の数学だよ、遅れたら、ルートの問題、当てられるよ」と、せな。
私たちは、バタバタと上靴の音をさせて、3-1の教室へ急いだ。
この世で、水泳の後の数学ほどダルイ、かつ眠いものがあるのだろうか?
教室の中は、(眠―い、ダルーイ)という空気が32人分詰まった重たい世界と化していた。
前田の声が、まるで、地の底からの呪文のささやきのように聞こえる。
心地よい睡魔が2分おきにやってくる。ゆらり~、ゆらりから。
すとんっ、一瞬、意識が眠りの世界へと落ちた。
その時だった。「ポチャン」
前田のささやきにかきけされ、やっと一人に聞こえるぐらいの大きさで、水音がした。
(水音?また、ひなの髪の水?)私は思わず、隣のひなを見る。
すると、ひなは、立てた教科書に身を隠し、机に突っ伏して、すでに夢の中であった。
(全く、あんたは)、私がプリントを丸めて、つついて起こそうとしたとき
「キーンコーン、カーンコーン」、チャイムとともに授業は終わった。
「ジャバージャバー」と大き目の音のシャワーで体の泡を流して、
なずなのバスタイムは、湯舟につかって、終わりとなる。
「ジャブン」「あー今日は疲れたー」と独り言を言いながら、肩まで湯につかる。
「あー、ごくらく、ごくらく」
(あたしゃ、オヤジかといつも思うが、他の言葉じゃいい表せんのだ。この気持ち)
そして、心の中があまりの心地よさで、「無」になった。
その時だった、「ボチャン」
結構、大きな音がした。なずなは思わず、(また、せな?は、いるわけないよね)、天井を見た。
しかし、24時間換気の風呂場なので、大きな水滴などついているはずもない。
「疲れてるんなー」、なずなは、風呂から上がると、早々にベッドに入った。
「今日は、父親は出張、母は会議と、言ってたな」
「こんな日は、~ユーチューブ~♪」自分で作った変な節を口ずさみながら、スイッチを入れ、
お気に入りの○○兄妹チャンネルにする。ドッキリ系が好きなのだ。
兄が家に帰ると、妹が倒れている系のドッキリらしい。いつも妹の仕掛けるドッキリは面白い。
なずなは、本気で、「ギャハハハハ」と遠慮なく、大笑いした。
その時だった。「フッ」
アイパッドと天井のライトが消えた。エアコンの「サーッ」という音も、ライトもみな消えている。
なずなは、思わずベッドに起き上がっろうとする。
なずなのかけ布団とTシャツが「かさっ」と音をたてた。
見渡しても、部屋は一瞬にして、墨汁を天井から、部屋中に流し込んだような、真っ黒闇で、
耳には、「しいん」と表現するしかない、本当の無音の静寂。何も見えない。聞こえない。
「ちょっと待って、停電?じゃないよね。だって、アイパッドは電池じゃない!」
なずなは、急いで、カバンの中のケータイを取ろうと、ベッドから降りようとした。
その時だった。「ポチャン」と音がした。(えっ、そんな、ここには、水は)
「ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン、ポチャン」水音は続く。
「ボチャン、ボチャン、ボチャン、ボチャン、ボチャン」そして、大きく
「ボヂャ、ボヂャ、ボヂャ、ボヂャ、ボヂャ」激しく
「ドヂャ、ドヂャ、ドヂャ、ドヂャ、ドヂャ」なった。
なずなは音に押しつぶされた。
(なに?なに?)
実際、水音だけで、水が降ってきているわけではない。
しかし、少しずつ大きく、激しくなる水音が、確かな重みをもって、なずなの体に乗っかってくるのだ。
声も出せなかった。
例えるならば、音とともに布団を、次々にかぶせられるられるようだった。
小さな音の時は、一枚、中ぐらいの音になると、三枚、大きな音になるといっぺんに五枚の布団が、
なずなの体にかぶさってくるのだ。
(おもいー、たすけてー)、叫びたいけど、重くて叫べない。
もっとも、叫んだとしても数十枚の水音の下からでは、だれも聞こえなかっただろう。
なずなは、だんだん気が遠くなっていった。
「なずな、なずな、聞こえる、大丈夫?」、お母さんの声がする。
なずなは目を開けた。目の前にお母さんの顔があった。
目が大きく見開かれ、瞬きを忘れたように、じっと、なずなを見つめている。
横には、どういうわけか、おばちゃんがいる。
「水が、水が」とだけ、なずなは言うことができた。
今度は、お母さんの目が、点になり、動揺を隠しきれずに
こう言った。「なんで、知っているの?」
「水がどうかしたの?」と、今度は、なずなが聞き返す。
「お父さんが、お父さんが・・・・」母はわっと、その場に泣き崩れた。
ここからは、泣いている母に代わり、おばちゃんが教えてくれたことである。
父はずっと、出張だと言っては、信州にある親からもらった別荘で、愛人と過ごしていたらしい。
昨日も自分の車で行っては、同じように愛人とのデートを楽しんでいたのだが、
今回、一つだけ違っていたのは、別荘のある北信地方に、レベル5・大雨特別警報が出され、
実際、27年ぶりの豪雨が降ったとのことだ。
その豪雨で天井と屋根が一気に壊れ、父は愛人とともに、下敷きになって死んだらしい。
それで、母は、なずなが「水が」と言ったとき、父が大雨で死んだことを知っていたと思い、
「どうして知っているの」の一言になったのだった。
あの「ポチャン」から続く音の洪水は
最初の教室での「ポチャン」が雨の降り始めで
そのまま豪雨にいたるまでの雨音が、別荘の屋根と天井が崩落するまで
なずなの上に降り注いだものと思われる。
では、なぜ、なずなだったのか。それを解くキーワードはおばあちゃんだ。
5年前に死んだ父の母、つまり、なずなのおばあちゃんは
孫の中でなずなを、ことにかわいがってくれ、いや完全に特別扱いしてくれたのだ。
だから、家でもおばあちゃんの写真に
「家族仲良く暮らせますように」といつもお願いしている
今も、別荘の大広間には元気だったころの、おばあちゃんの写真が飾ってある。
多分、愛人と自分の別荘を利用する父を嘆きながらも
その父が、自分の息子の命が危ないとなったときに
なずなにだけは「父の命が危ない」ことを水音を伝えることで
何とか教えてくれようとしたのだと思う。
ところが、雨の量と勢いはおばあちゃんの予想をこえていた。
それは、なずなの上に、重く激しく、のしかかり
なずなの気を失わせるほどすごかった。
なずなは「おばあちゃん、教えてくれてありがとう。でも、パパは救えなかったよ」
「さようなら、パパ、おばあちゃんの気も知らないで親不孝者。私はママといっしょに強く生きていきます」
「おばあちゃんのように強く」
とおばあちゃんの写真に話しかけるのだった。




