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婚約者に『幻覚を見る異常者』と断罪されましたが、満月の夜だけ現れる彼こそが本物の王子でした

作者: uta
掲載日:2026/05/08

「ルナ・クレセンティア嬢。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」


王宮大広間に、第二王子クロード殿下の冷たい声が響き渡った。


シャンデリアの光が煌めく中、私は数百もの視線に晒されていた。嘲笑、憐憫、そして——期待に満ちた残酷な眼差し。社交界の華と名高い夜会は、いつの間にか公開処刑の舞台へと様変わりしていたらしい。


(ああ、ついに来たのね、この瞬間が)


私の心臓は、驚くほど穏やかに脈打っていた。


「殿下、一体どのような理由で……」


震える声を装って問いかける。けれど内心では、笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。


「理由?」クロード殿下は嘲るように唇の端を吊り上げた。艶のある黒髪と冷たい青灰色の瞳——端正な顔立ちに浮かぶのは、明らかな侮蔑の色。「貴女には分かっているはずだ。存在しない恋人がいると嘘をつき、私との婚約を蔑ろにした罪——虚言癖の令嬢に、未来の王妃たる資格などない」


ざわり、と広間が揺れる。


「まあ、なんてこと……」

「やはり本当だったのね、あの噂」

「可哀想に、殿下も大変でしたわね」


囁き声が波のように押し寄せてくる。その中心で、純白のドレスに身を包んだ女性が涙ぐんでいた。


蜂蜜色の巻き毛と澄んだ翡翠の瞳。桃色の唇を震わせ、『可憐な聖女様』の顔で私を見つめる——男爵令嬢セレナ・ミラベル。


「ルナ様……私、信じたかったのです」


セレナは目尻に涙を浮かべながら、か細い声で言った。


「でも、存在しないお方を恋人だなんて……ご病気なのではないかと心配で……」


(この女、本当に大した女優ね。涙を流しながら私を狂人扱いするその技術、舞台にでも立てばいいのに)


「セレナ、もう泣くな」


クロード殿下がセレナの肩を抱き寄せた。まるで宝物でも守るかのように。


「今日からは私が君を守る。この欺瞞に満ちた婚約者ではなく、真の聖女である君を」


私は静かに広間を見渡した。


華やかなドレスを纏った貴婦人たち。勲章を煌めかせた貴族の紳士たち。誰もが私を——『狂った令嬢』を見る目で、嘲笑と憐憫を浮かべている。


誰も、私の言葉を信じなかった。


満月の夜だけ現れる、銀色の髪をした青年のことを。


幼い頃から十年間、毎月欠かさず逢瀬を重ねてきた、私の——本当の想い人のことを。


『君だけが僕を見つけてくれた』


彼の声が、記憶の中で優しく響く。


「ルナ・クレセンティア嬢には、社交界からの追放を命じる」


クロード殿下の宣告が、広間に響き渡った。


「二度と王宮に足を踏み入れることは許さない」


歓声とも嘲笑ともつかない声が沸き起こる。


「ああ、お可哀想に」

「でも自業自得ですわよね」

「変わり者の令嬢の末路ね……」


私はゆっくりと息を吸い込んだ。


胸の奥で、何かが——ふっ、と解けた気がした。


そして私は、微笑んだ。


「……かしこまりました、殿下」


広間が、一瞬静まり返る。


「殿下との婚約を解消できること、光栄に存じます」


泣き喚くと思ったのだろうか。許しを請うと思ったのだろうか。


クロード殿下の顔が、驚愕に歪んだ。


「な……何だと?」


「長らくお時間を頂戴いたしました」


私は完璧な角度で礼をした。社交界で培った所作は、こういう時にこそ役に立つ。


「どうぞセレナ様とお幸せに」


(ああ、やっと解放される。これで堂々と『彼』だけを想える)


背を向けた私に、怒声が飛んできた。


「待て! 逃げるな、ルナ・クレセンティア!」


私は肩越しに振り返った。銀灰色の瞳で、真っ直ぐにクロード殿下を見つめる。


「逃げる? 殿下、追放を命じたのは貴方様ですわ。私はただ従っているだけ」


一拍、間を置いて。


「それとも——私がいなくなると、何かお困りのことでも?」


一瞬、クロード殿下の目に動揺が走った。


(やっぱり。この婚約、クレセンティア家の財力目当てだったのね。分かりやすい人)


「ふ、ふざけるな……!」


「ルナ様は病気なのですわ!」


セレナが叫んだ。翡翠の瞳に、一瞬だけ剥き出しの敵意が光る。


「存在しない恋人を信じて、現実が見えていないのです! お可哀想に……きっと頭が……」


「ご心配には及びません、セレナ様」


私は穏やかに微笑んだ。


「私には、ちゃんと見えておりますから」


一歩、セレナに近づく。


「——貴女には見えないものが」


セレナの顔から、作り物の憐憫が消えた。代わりに浮かんだのは、恐怖にも似た動揺。


けれどそれも瞬きの間に消え、再び『可哀想な病人を憐れむ聖女』の仮面が被せられる。


「……行きましょう、ステラ」


控えていた侍女に声をかけると、濃紺の髪をした女性が静かに歩み寄ってきた。夜空を思わせる髪を一つに結い、落ち着いた琥珀色の瞳を持つ——私の侍女、ステラ・ノクターン。


「お嬢様。お車の準備は整っております」


「ありがとう」


嘲笑の視線を背に受けながら、私は広間を後にした。


足取りは、驚くほど軽かった。



◇ ◇ ◇



馬車の中、ステラが淡々と問いかけた。


「お嬢様、お加減はいかがですか」


その琥珀色の瞳には、いつもと変わらぬ静かな光。心配でも同情でもない——ただ、私を見守る光。


「最高よ」


私は窓の外を見上げた。雲間から、丸い月が顔を覗かせている。煌々と輝く、満月。


「今夜は満月だわ」


「ええ。月齢十五日、満月です」


ステラが静かに頷いた。そして、珍しく言葉を続けた。


「……お嬢様。私は最初から、お嬢様の目に映るものは全て真実だと申し上げてきました」


「知ってる」


私は微笑んだ。


十年間、私を『変わり者』と呼ぶ者たちの中で、ステラだけは一度も私を疑わなかった。『見えない人と話している』と周囲に馬鹿にされた時も、決して否定せず黙って傍にいてくれた。


「あの方は、今夜も来られますか」


「来てくれるわ」


私は月を見上げた。銀色の光が、夜空を照らしている。


「……いつだって、来てくれた」


馬車が伯爵邸に着く頃には、月は完全に雲から解き放たれていた。


銀色の光が、庭園を照らしている。銀木犀の香りが、夜風に乗って漂ってきた。


「ステラ、今夜は一人にして」


「かしこまりました」


ステラが一礼する。そして——


「……お嬢様」


「何?」


「あの方に、よろしくお伝えください」


ステラが、初めて穏やかな微笑みを浮かべた。


「『月守の一族』は、今もお待ち申し上げていると」


私は驚いてステラを見た。月守の一族——それは、クレセンティア伯爵家に代々仕える者たちの名。そして、月の巫女を守護する一族の名。


「……ええ、伝えるわ」



◇ ◇ ◇



庭園の奥、月光が最も美しく降り注ぐ場所。


銀木犀に囲まれた小さな泉のほとりで、私は彼を待った。


風が吹く。花の香りが漂う。月明かりが水面に揺れる。


そして——


「待たせたね、ルナ」


振り返ると、そこに彼がいた。


月光を紡いだような銀髪が、風に揺れている。深い紫水晶の瞳が、優しく私を見つめている。透けるように白い肌は淡く光を帯びていて、この世のものとは思えないほど美しい。


「アルテミス……」


私は駆け寄った。


彼の姿は儚げで、触れれば消えてしまいそうなほど。けれど確かにここにいる。十年間、ずっと——満月の夜だけ、私の前に現れてくれた人。


「今夜は、少し早いね」


彼が穏やかに微笑んだ。十七歳で止まった時間。呪いによって閉じ込められた、永遠の若さ。


「何かあった?」


「……婚約破棄されたの」


私は彼を見上げた。


「今夜、舞踏会で」


「そうか」


彼の紫水晶の瞳が、静かに細められた。そこに浮かぶのは——怒り。普段は穏やかな彼が見せる、珍しい感情。


「弟が、君を傷つけたのか」


「ううん」


私は首を振った。


「傷ついてなんかいない。だって——」


私は彼を見上げた。月明かりに照らされた彼の顔は、十年前に出会った時から少しも変わっていない。


「やっと、貴方だけを想えるようになったの」


「ルナ……」


彼の手が、私の頬に触れた。ひんやりとした、けれど確かな感触。十年間、この温度を知っている。


「十年だ」


彼が囁いた。


「十年、君だけが僕を見つけ続けてくれた。月に一度しか逢えないのに、一度も疑わず、一度も諦めず」


「当たり前でしょう?」


私は彼の手に自分の手を重ねた。


「だって貴方は——」


「ルナ」


彼の声が、少し震えた。


「僕は、この呪いが解ける日を待っている。君と永遠に一緒にいられる日を」


紫水晶の瞳が、月光を映して揺れた。


「けれど同時に、恐れてもいる」


「恐れる?」


「僕が完全にこの世界に戻った時——君は、僕のせいで多くのものを背負うことになる」


彼の声が、苦しげに歪んだ。


「王宮の闘争に、陰謀に、巻き込まれる」


「知ってるわ」


私は彼の手を、ぎゅっと握り返した。


「貴方が第一王子アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア殿下だということも」


彼の目が、驚きに見開かれた。


「十年前に呪いで消されたことも。全部、知ってる」


「……いつから」


「最初からよ」


私は微笑んだ。


「八歳の私は馬鹿じゃなかったもの。消えた第一王子殿下と同じ名前、同じ銀髪、同じ紫水晶の瞳。月に囚われた王子様——気づかないわけがないでしょう?」


彼は目を見開いたまま、しばらく私を見つめていた。


そして——声を上げて笑った。


「君は本当に……本当に、強い人だ」


「強くなんかないわ。ただ頑固なだけ」


「それが強さだよ、ルナ」


彼が私を抱きしめた。月光の中、彼の体温を感じる。冷たくて、けれど温かい。生きている証のような、不思議な温度。


「必ず戻る」


彼が誓った。


「この呪いを解いて、君の隣に立つ。そして——」


彼の紫水晶の瞳が、冷たく光った。


「僕を消そうとした者たちに、相応の報いを与える」


「……楽しみにしてるわ」


私は彼の胸に顔を埋めた。


月が、静かに二人を照らしていた。



◇ ◇ ◇



翌朝。


王宮では、一つの報告が波紋を呼んでいた。


「申し上げます。国境の魔力障壁に異常が発生しております」


「なんだと?」


クロード殿下の声が、玉座の間に響いた。


「原因は不明ですが……『月に関わる呪い』が関係しているのではないかと」


傍らに立つイザベラ王妃——退色した金髪と疲れた青い瞳を持つ女性——の目が、冷たく光った。


「……まさか、ね」


誰にも聞こえないほど小さく、王妃は呟いた。


「あの子が、目覚めようとしているとでも言うの——?」


月は沈み、夜が明ける。


けれど物語は、ここから始まるのだ。



◇ ◇ ◇



婚約破棄から三日が経った。


社交界では私の話題で持ちきりらしい。『狂った伯爵令嬢』『虚言癖の変わり者』『哀れな断罪令嬢』——ステラが淡々と報告してくれる噂話は、どれも聞くに堪えないものばかりだった。


「——そして『聖女セレナ様が第二王子殿下の傷ついた心を癒された』という美談が広まっているそうです」


「あら、随分とお早いことね」


私は紅茶のカップを置いた。


(傷ついた心、ねえ。あの人に心なんてあったかしら。あるのは打算と欲だけでしょうに)


「お嬢様。お客様がいらしております」


「客?」


私は眉を上げた。この状況で訪ねてくる人間がいるとは思えなかったのだが。


「子爵令嬢リリアーナ・ベルモント様です」


「リリアーナ……?」


私は驚いて立ち上がった。



◇ ◇ ◇



「ルナ!」


応接間に入るなり、桜色の髪をした少女が駆け寄ってきた。空色の瞳に涙を浮かべて、私の手を両手で包み込む。


「ごめんなさい、ごめんなさいルナ……! 私、ずっと貴女の味方でいたかったのに、怖くて、自分のことしか考えられなくて……!」


「リリアーナ……」


幼馴染の彼女は、社交界では私と距離を置いていた。当然だ。『変わり者』と呼ばれる私と親しくすれば、彼女まで同じ目で見られる。それは分かっていた。


「謝らないで」


私は彼女の手を握り返した。


「貴女を責めてなんかいないわ。社交界で生き残るためには、仕方のないことよ」


「でも……!」


「それに」私は微笑んだ。「こうして来てくれたでしょう? 婚約破棄されて社交界から追放された私のところに。それだけで十分よ」


リリアーナの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「ルナは変わらないのね……昔から、そう。誰に何を言われても、自分の信じるものを曲げない」


「頑固なだけよ」


「それが貴女の強さでしょう?」


リリアーナは涙を拭いて、真剣な顔になった。


「ねえ、ルナ。一つ聞いてもいい?」


「何?」


「……あの、満月の夜に会うっていう人。本当にいるの?」


私は一瞬、言葉に詰まった。


「信じないわよね」私は苦笑する。「誰も信じてくれなかったもの」


「違う!」リリアーナが首を振った。「私は信じたいの。だって——」


彼女は私の手をぎゅっと握った。空色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「私、覚えてるもの。小さい頃、ルナが嬉しそうに話してくれたこと」


リリアーナが、懐かしそうに微笑んだ。


「『銀色の髪の人がいるの。満月の夜だけ会えるの。とっても綺麗で、優しい人なの』って」


「……覚えてたの」


「当たり前でしょ? 幼馴染なんだから」


リリアーナは微笑んだ。あの頃と変わらない、屈託のない笑顔。


「ねえ、その人ってどんな人? 素敵な人?」


——八歳の頃と、同じ言葉だった。


「……ええ」


私は窓の外を見た。今は昼間だから、月は見えない。けれど。


「とても素敵な人よ。優しくて、穏やかで、時々悲しそうに笑うの」


「悲しそうに?」


「ずっと、一人ぼっちだったから」


私は目を閉じた。


十年前の、あの夜を思い出す。



◇ ◇ ◇



——十年前。


八歳の私は、満月の夜に森へ迷い込んだ。


社交パーティーの喧騒から逃げ出したのだ。『変わり者』『夢見がちな令嬢』『また訳の分からないことを言っている』——そんな言葉が飛び交う場所にいたくなくて、一人で屋敷を抜け出した。


月明かりだけを頼りに歩いていると、不思議な場所に辿り着いた。


銀木犀が咲き乱れる、小さな泉のほとり。


そこに——彼がいた。


「……誰?」


銀色の髪が、月光を受けて輝いている。白い肌は透けるように淡く、紫水晶の瞳は驚きで見開かれていた。


「僕が……見えるの?」


「え? 見えるって、だって、そこにいるもの」


少年は呆然と私を見つめた。そして——


「そうか……」


彼の声が、震えた。


「三年、三年経って初めてだ。僕を見てくれる人がいるなんて」


「三年?」


「僕は呪いをかけられたんだ」


少年は悲しげに微笑んだ。月明かりの中、その笑顔はあまりにも儚かった。


「満月の夜だけ、こうしてこの世界に姿を現せる。でも誰にも見えない。誰にも触れられない。僕はただの——幻なんだ」


「幻?」


私は彼に近づいた。恐くなかった。彼の瞳があまりにも悲しそうだったから。


「私には見えるわ」


「……え?」


「私、昔からそうなの。他の人に見えないものが見える。月の精霊とか、不思議な光とか」


私は彼の前に立った。小さな手を差し出して。


「だから、貴方が見えても不思議じゃないわ」


少年は目を瞬かせた。


そして——泣いた。


「ありがとう……ありがとう……」


銀色の涙が、月明かりの中できらきら光っていた。


「ねえ、名前は?」


「……アルテミス」


「私はルナ。ルナ・クレセンティアよ」


私は笑った。


「ねえ、アルテミス。また会える?」


「……来月の満月に、ここに来てくれるなら」


「約束ね」


私は小指を差し出した。彼は戸惑いながら、そっと小指を絡めてきた。ひんやりとした感触。けれど、確かに触れた。


「約束だ」


彼は、初めて笑った。



◇ ◇ ◇



「——それから、毎月逢い続けた」


私は遠い目をして呟いた。


「最初は子供同士の約束。でも、続けていくうちに……」


「好きになったのね」リリアーナが静かに言った。


「ええ」


私は頷いた。


「彼のことを、たくさん知っていった。優しいところ、時々意地悪なところ、悲しい時に無理に笑うところ。呪いの孤独に耐えながら、それでも私との逢瀬を楽しみに待っていてくれること」


「……それって」


リリアーナが何か言いかけた時、扉が開いた。


「お嬢様」ステラが静かに現れる。「旦那様がお呼びです。王宮から、密命が届いたと」


「密命?」


私は眉をひそめた。


社交界から追放された令嬢に、王宮から密命?


「……何かが、動き始めているわね」


私は立ち上がった。



◇ ◇ ◇



父の執務室。


フェリクス・クレセンティア伯爵——私の父は、穏やかな顔に似合わぬ鋭い目で一通の書状を見つめていた。淡い金髪と銀灰色の瞳。私と同じ色だ。


「来たか、ルナ」


「お父様。王宮からの密命とは」


「これを見なさい」


差し出された書状には、こう記されていた。


『月の呪いを解ける者を探している』


私の心臓が、大きく跳ねた。


「これは……」


「どうやら、国境の魔力障壁に異常が起きているらしい」


父が腕を組んだ。


「原因は『月に関わる呪い』。それを解呪できる者を探しているそうだ」


「なぜ、それがうちに?」


「……ルナ」


父が、私を真っ直ぐに見た。銀灰色の瞳に、複雑な感情が浮かんでいる。


「お前の母のことは、話したことがあったな?」


「……月視の巫女の血筋だと」


「ああ」父は頷いた。「そしてお前も、その力を受け継いでいる。お前が幼い頃から『見えないものが見える』のは、そのせいだ」


私は息を飲んだ。


知ってはいた。けれど、父の口から直接聞くのは初めてだった。


「ずっと隠していて、すまなかった」


父が目を伏せた。


「社交界でお前を守るには、普通の令嬢として振る舞わせるしかなかった。お前の力を表に出せば、どんな厄介事に巻き込まれるか分からなかったから」


「……お父様」


「だが」父が顔を上げた。「もう隠す必要はなくなった」


銀灰色の瞳が、決意を秘めて光った。


「婚約破棄で社交界から追放され、失うものはない。ならば——お前の本当の力を、世に示す時だ」


私の唇が、ゆっくりと微笑みの形を描いた。


「お父様。一つだけ、確認させてください」


「何だ」


「この『月の呪い』——十年前に消えた第一王子殿下と、関係がありますか?」


父の目が、一瞬見開かれた。


「……知っていたのか」


「ずっと、調べていました」


私は窓の外を見た。夕暮れの空に、淡い月が昇り始めている。


「アルテミス殿下は、呪いで『月に囚われた』。満月の夜だけ現世に姿を現せる、幽霊のような存在になって。そして——」


私は振り返った。


「私だけが、彼を見つけることができた」



◇ ◇ ◇



同時刻、王宮。


クロード第二王子の私室では、緊迫した空気が漂っていた。


「国境の異常だと……?」


「はい、殿下」


宮廷魔術師長オスカー・レイヴン——灰色の髪をオールバックに撫でつけ、狡猾な印象の茶色い瞳を持つ男——が恭しく頭を下げた。


「魔力障壁の一部が不安定になっております。原因は……『月縛りの呪い』の反動かと」


「なぜ今になって……!」


「お分かりでしょう、殿下」オスカーが含み笑いを浮かべる。「呪いは完璧ではなかったのです。十年という歳月で、綻びが生じ始めている」


「つまり——」


「第一王子殿下が、目覚めようとしているのかもしれません」


クロードの顔から、血の気が引いた。


「そんなことは、許さない……!」


「ご安心を」オスカーが低く笑う。「解呪の方法は、私が古文書に封印してあります。それを知る者がいない限り——」


「クロード」


冷たい声が響いた。


扉の向こうから現れたのは、イザベラ王妃。


「母上」


「聞いたわ。国境の異常」


王妃の唇が、歪んだ。


「まったく、十年経っても面倒をかけてくれる」


「申し訳ありません、王妃様」オスカーが頭を下げる。「しかし解呪さえされなければ——」


「問題はそこではないわ」


王妃が、冷たく言い放った。


「古文書には、こうも記されているはず。『月の呪いを解けるのは、月視の巫女の血を引く者のみ』と」


「それは……はい、確かに」


「そしてクロード」王妃が息子を見た。「お前が婚約破棄した令嬢——ルナ・クレセンティアの母親は何だった?」


クロードの声が震えた。


「……月視の巫女の血筋」


「まさか、あの女が……?」


「分かっていたはずよ」


王妃の声が、氷のように冷たい。


「あの家との婚約は、監視のためだった。なのにお前は、あろうことか公の場で断罪した。セレナなどという小娘に唆されて」


「し、しかし——」


「愚か者」


王妃の一言が、室内の空気を凍らせた。


「今すぐ、ルナ・クレセンティアを監視下に置きなさい。彼女が解呪の方法に辿り着く前に」


「……はい、母上」


王妃は踵を返した。


「あの子が戻ってくることは、決して許さない。十年前に消したはずなのだから」


扉が閉まる音が、冷たく響いた。



◇ ◇ ◇



数日後、王立図書館。


私は埃をかぶった古文書と格闘していた。書庫の奥深く、一般の者が立ち入れない区画。ステラの導きがなければ、決して見つけられなかった場所。


「『月縛りの呪い』……確かにここに記載があります、お嬢様」


ステラが分厚い書物を広げた。黄ばんだページには、古い言語で呪いの詳細が記されている。


「解呪には『月視の巫女の血』と『純粋な愛』が必要……」


「純粋な愛?」


「呪いにかけられた者を、十年以上信じ続けた者の想い。それが解呪の鍵になると」


私は思わず笑みをこぼした。


(十年間、毎月欠かさず彼に会いに行った。それが、こういう形で意味を持つなんて)


「お嬢様」ステラが顔を上げた。「しかしこの古文書、本来あるべき場所にありませんでした。誰かが意図的に隠していたようです」


「隠していた……?」


「はい。書庫の最奥、一般の者が立ち入れない区画に封印されていました。私の一族——月守の一族に伝わる手順がなければ、見つけることは不可能だったでしょう」


私は眉をひそめた。


(古文書を隠した人間がいる。つまり、呪いの解呪を妨害しようとしている者がいるということ)


「ルナ嬢」


低い声が響いた。


振り返ると、漆黒の髪と鋭い金色の瞳を持つ男性が立っていた。長身で威圧的な雰囲気——黒を基調とした服装。無愛想な表情。


『氷の公爵』ヴィクトル・シュヴァルツ。王国最高位の貴族。


「公爵閣下」私は軽く頭を下げた。「このような場所でお会いするとは」


「偶然ではない」彼は無愛想に言った。「君を探していた」


「私を?」


「ああ」


ヴィクトル公爵が私を見据えた。金色の瞳が、鋭く光る。


「婚約破棄された令嬢が、王立図書館で『月の呪い』について調べている。その噂を聞いてな」


(この人、情報が早すぎる。やはりただ者じゃないわね)


「何か御用でしょうか」


「単刀直入に聞こう」


公爵の金色の瞳が、私を射抜いた。


「君は第一王子殿下を知っているな?」


私の心臓が、一瞬止まった。


「……何故、そう思われるのですか」


「君の瞳だ」公爵が言った。「月視の巫女の血筋を示す銀灰色。そして——『満月の夜だけ現れる存在しない恋人』という噂」


公爵が一歩近づいた。


「私は十年前からずっと、アルテミス殿下の行方を追っている。もし君が彼を見ることができるなら——」


「待ってください」


私は公爵の言葉を遮った。


「公爵閣下は、第一王子殿下が生きていると信じているのですか」


「信じているのではない」


公爵の声が、低く震えた。


「知っている」


「アルテミスは私の親友だった。十年前、彼が消えた時——私だけが違和感を覚えた」


金色の瞳に、深い感情が浮かんだ。


「『事故死』などではない。誰かが彼を陥れたのだと」


「……」


「十年間、証拠を集め続けた。そしてようやく確信した」


公爵が、私に一歩近づいた。


「彼を呪いにかけたのは、イザベラ王妃。そして——第二王子クロードは、その真実を知りながら隠蔽に加担している」


私は息を飲んだ。


「……やはり、そうでしたか」


「知っていたのか?」


「確信はありませんでした。でも——」


私は窓の外を見た。曇り空の向こうに、淡い月が隠れている。


「アルテミスは、呪いについて多くを語りませんでした。ただ、『王宮の中に敵がいる』とだけ」


「アルテミス……」公爵の声が震えた。「やはり、君は彼と会っているのだな」


「ええ。十年間、毎月欠かさず」


私は公爵を見た。


「公爵閣下。私に協力していただけますか」


「協力?」


「呪いを解くための儀式には、多くの障害があるはずです。王妃と第二王子が妨害に動くでしょう。私一人では——」


「当然だ」


公爵が、初めて微かに笑った。


「十年待った。親友を取り戻すためなら、何でもする」



◇ ◇ ◇



その頃、王宮では。


「セレナ様、お加減はいかがですか」


純白のドレスに身を包んだセレナは、侍女の問いかけに力なく頷いた。


「ええ……少し、体調が優れなくて……」


(また、この胸騒ぎ。月が満ちてくると、いつもこうなる)


セレナは窓の外を見た。空には半月が浮かんでいる。


(あと数日で満月。嫌な感じ……)


「セレナ」


クロード殿下が私室に入ってきた。その顔には、焦燥の色が浮かんでいる。


「殿下、どうされました?」


「ルナ・クレセンティアが動いている」


クロードが苛立たしげに言った。


「王立図書館で古文書を調べているらしい」


「古文書……?」


「『月の呪い』に関するものだ」


セレナの心臓が跳ねた。


(月の呪い? まさか、あの令嬢——)


「心配はいらない」クロードがセレナの肩を抱いた。「既に手は打った。古文書は隠してある。あの女が何を調べようと——」


「殿下」


扉が開き、侍従が血相を変えて飛び込んできた。


「申し上げます! 王立図書館の封印区画が——」


「何?」


「何者かに破られ、古文書が持ち出されました!」


クロードの顔から、血の気が引いた。


「馬鹿な……あの封印は、宮廷魔術師長でなければ解けないはずだ……!」


「それが、殿下」侍従が震える声で言った。「『月守の一族』の者が関与した形跡がありまして……」


「月守の一族……?」


クロードの目が見開かれた。


「ルナ・クレセンティアの侍女だ……!」



◇ ◇ ◇



一方、クレセンティア伯爵邸。


「リリアーナ、本当にいいの?」


私は目の前に座る幼馴染に問いかけた。彼女は決意を秘めた顔で頷く。


「もちろんよ。セレナ様の悪行の証拠を集めるなら、私も手伝いたいの」


「危険かもしれないわ」


「知ってる。でも——」リリアーナが私の手を握った。「私、ずっと後悔してたの。ルナを一人にしたこと。もう逃げたくない」


「……ありがとう、リリアーナ」


「それにね」彼女は少しいたずらっぽく笑った。「私、昔からセレナ様が苦手だったの」


「え?」


「だって、おかしいでしょ? 『聖女様』なのに、満月の夜はいつもお腹が痛いって嘘ついてサボってたのよ。聖女の祈りの儀式を」


私は目を見開いた。


「満月の夜に、体調不良……?」


「ええ。毎月よ。私、侍女頭の娘と仲良くて、よく聞いてたの。『セレナ様はまた月を見て具合が悪くなった』って」


(偽物の聖女は、月の力に拒絶される——古文書に書いてあった)


「リリアーナ」私は立ち上がった。「それ、とても重要な証言よ」


「本当?」


「ええ。セレナが偽物だという証拠になる」


私は窓の外を見た。月が少しずつ満ちていく。


「あと数日で満月。その夜に——全てが動き出すわ」



◇ ◇ ◇



満月の夜。


王宮では『月光の大祭典』が開催されていた。貴族たちが集い、月を讃える年に一度の祭典。


「お嬢様」ステラが私の髪を整えながら言った。「準備は整いました」


「ありがとう、ステラ」


私は鏡を見た。


銀糸の刺繍が施された白いドレス。腰まで流れる淡い金髪。そして——月光を映したような銀灰色の瞳が、決意を秘めて輝いている。


「お父様は?」


「既に王宮へ。ヴィクトル公爵と共に、貴族院への根回しを」


「そう」


私は深呼吸をした。


今夜、全てが決まる。


「ステラ。長年、ありがとう。私を信じてくれて」


「……お嬢様」


ステラが、珍しく目を潤ませた。


「私は最初から分かっておりました。お嬢様の目に映るものは、全て真実だと。そして今夜——その真実が、世界に示される」


「ええ」


私は窓の外を見た。満月が、煌々と輝いている。


『待っていて、アルテミス。今夜——あなたを、この月の牢獄から解き放つから』



◇ ◇ ◇



王宮の大広間は、煌びやかな光に満ちていた。


シャンデリアの灯り、貴婦人たちの宝石、そして窓から差し込む月光。全てが眩しく、華やかで——私を断罪したあの夜と、何も変わらない。


「あら、あれは……」

「ルナ・クレセンティア嬢じゃないの?」

「社交界追放されたはずなのに、なぜ……」


囁き声が広がる。私は気にせず、真っ直ぐに歩いた。


「ルナ・クレセンティア嬢」


冷たい声が響いた。


クロード殿下が、怒りを隠しきれない表情で立ちはだかる。傍らにはセレナがいて、作り物の心配顔を浮かべている。


「追放されたはずの貴女が、なぜここにいる」


「王からの召喚状を頂きましたので」


私は懐から書状を取り出した。王家の紋章が押された、正式な召喚状。


クロードの顔が歪んだ。


「父上が、貴女を……?」


「ええ。『月の呪い』を解ける者を探しているとのことでしたので。私が参上いたしました」


「貴女が? 馬鹿な」


セレナが嘲笑った。翡翠の瞳に、侮蔑の色が浮かぶ。


「そのような大役、聖女である私が務めます。狂人の出る幕では——」


「セレナ様」


私は静かに言った。


「満月の夜に体調を崩されるそうですね。毎月、欠かさず」


セレナの顔から、血の気が引いた。


「な、何のことかしら」


「古文書にはこう記されています」


私は一歩前に出た。銀灰色の瞳で、真っ直ぐにセレナを見つめる。


「『偽りの聖女は、月の力に拒絶される』と」


ざわめきが広間に広がった。


「何を馬鹿な——」クロードが叫ぶ。「セレナは正真正銘の聖女だ!」


「では、証明していただきましょう」


私は窓を指差した。満月の光が、燦々と降り注いでいる。


「あの月光の下で、聖女の祈りを捧げてください。本物の聖女なら、月の祝福を受けられるはず」


セレナの顔が、青ざめた。


「わ、私は今日は体調が……」


「また、ですか?」


私は冷たく微笑んだ。


「満月の夜に体調を崩す聖女。おかしな話ですね。聖女とは、月の加護を最も強く受ける存在のはずなのに」


「黙れ!」


クロードが怒鳴った。


「この狂人の戯言に耳を貸すな! こいつは『存在しない恋人』を信じる異常者だ!」


「存在しない、ですか」


私は目を閉じた。


心の中で、彼の名を呼ぶ。十年間、毎月欠かさず呼び続けた名前を。


(アルテミス。今よ——)


私の瞳が、銀色に輝いた。


「月視の巫女の名において、解き放つ」


私の声が、広間に響き渡る。


「——『月に囚われし者』を、この世界へ」


光が、広間を包んだ。



◇ ◇ ◇



「——何だ、この光は……!?」


悲鳴と驚愕の声が響く中、月光が一点に集まっていく。


窓から差し込む銀色の光が、渦を巻いて人の形を作り出す。


そして——その光の中から、一人の青年が姿を現した。


銀色の髪。紫水晶の瞳。透けるように白い肌。


十年前と変わらぬ、神々しいほどの美貌。


けれど今は——もう透けていない。完全にこの世界に存在する、生身の姿で。


「……久しぶりだな、弟よ」


アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア——十年前に『消えた』第一王子が、そこに立っていた。


「あ、兄上……!?」


クロードが後ずさった。その顔は恐怖で歪んでいる。


「馬鹿な、ありえない……! 貴方は死んだはずだ……!」


「死んだ?」


アルテミスの紫水晶の瞳が、冷たく光った。


「いいや、殺されそうになっただけだ。お前と、母親によってな」


広間が、静まり返った。


「十年間、月の牢獄に囚われていた」


アルテミスが一歩踏み出す。月光を纏ったその姿は、まるで神話から抜け出してきたかのように美しい。


「満月の夜しか現世に姿を現せない、幽霊のような存在として。誰にも見えず、誰にも触れられず——ただ一人を除いて」


彼の視線が、私に向けられた。


紫水晶の瞳が、優しく揺れる。


「ルナ・クレセンティア」


アルテミスが、私の手を取った。温かい。もう冷たくない。


「この方だけが、十年間僕を見つけ続けてくれた。月に一度しか逢えないのに、一度も疑わず、一度も諦めず」


私の目から、涙がこぼれ落ちた。


「アルテミス……」


「ありがとう、ルナ」


彼が微笑んだ。十年間見続けてきた、あの優しい笑顔。けれど今は——悲しみの影がない。


「君が僕を救ってくれた」


「嘘だ……!」


セレナが叫んだ。翡翠の瞳が、恐怖と混乱で揺れている。


「こんなの嘘よ! この女は狂人なのよ! 存在しない恋人を信じる異常者——」


「セレナ・ミラベル」


アルテミスの声が、冷たく響いた。


「偽りの聖女。君がどれほどルナを傷つけてきたか、僕は全て見ていた」


「な……」


「満月の夜だけ現れる僕には、何も出来なかった。ただ、ルナが傷つくのを見ていることしか」


アルテミスの瞳が、氷のように冷たく光った。


「だから——これから、全てを清算する」


「ヴィクトル公爵」


アルテミスが呼びかけると、漆黒の髪の公爵が進み出た。金色の瞳が、冷たく光っている。


「殿下。お帰りなさいませ」


「ああ。頼んでおいた件は」


「全て整っております」


公爵が、懐から書類の束を取り出した。


「第二王子クロード並びにイザベラ王妃の罪状——第一王子暗殺未遂、呪術による害意、王位継承の不正操作。全ての証拠が揃いました」


「な……!」クロードが叫ぶ。「そんな証拠があるはずない——」


「オスカー・レイヴン宮廷魔術師長が、全て自白しました」


公爵が冷たく言い放った。


「『王妃様の命令で第一王子に呪いをかけた』と」


クロードの顔から、完全に血の気が引いた。


「母上……!」


「お黙りなさい、クロード」


氷のような声が響いた。


イザベラ王妃が、蒼白な顔で立っていた。退色した金髪が、月光の中で揺れている。


「もう終わりよ」アルテミスが言った。「十年間の嘘が、全て」


「……あの子」


王妃が呟いた。疲れた青い瞳が、虚ろに揺れる。


「あの先王妃の子供さえいなければ、私の子が王になれたのに……」


「それが、貴女の罪だ」


アルテミスが、冷たく宣告した。


「父上の前で、全てを裁いてもらおう」


王が、玉座から立ち上がった。


その顔には、深い悲しみと怒りが浮かんでいた。


「イザベラ。クロード」


王の声が、広間に響き渡る。


「——お前たちを、許すことは出来ない」



◇ ◇ ◇



王の裁きが下された。


イザベラ王妃は離宮への永久幽閉。クロード第二王子は王位継承権剥奪と辺境領への追放。宮廷魔術師長オスカー・レイヴンは魔術師資格を剥奪され、牢獄へ。


そして偽聖女セレナ・ミラベルは——詐欺罪により、平民へ落とされた。


「あ、あの令嬢が王太子妃に……」

「私たちは何ということを……」

「存在しない恋人なんて嘲笑していたのに、本物の王子だったなんて……」


広間に集まった貴族たちの顔は、恐怖と後悔で歪んでいた。


あの夜、私を『狂人』と嘲笑った者たち。『変わり者の令嬢』と避けてきた者たち。今、彼らは次期王太子妃となる私に、頭を下げることになった。


(……本当に、手のひら返しが凄いわね)


私は内心で苦笑しながら、完璧な微笑みを浮かべた。


「身に余る光栄でございます、皆様」


「ルナ・クレセンティア嬢」


アルテミスが、私の手を取った。満月の光の中、彼の姿はもう透けていない。完全にこの世界に戻ってきた、生身の存在として。


「この方こそが、十年間私を救い続けた真実の聖女であり——」


彼の紫水晶の瞳が、優しく輝いた。


「私の唯一の婚約者だ」


広間が、静まり返った。


そして——嵐のような歓声と祝福の声が沸き起こった。


「アルテミス殿下、万歳!」

「ルナ・クレセンティア様、万歳!」

「真実の王子と聖女に祝福を!」



◇ ◇ ◇



祝宴の喧騒から離れ、私とアルテミスは庭園を歩いていた。


月明かりが銀木犀を照らしている。十年前、初めて出会った場所と同じ香りがした。


「ルナ」


アルテミスが立ち止まり、私の両手を握った。


「十年間、本当にありがとう」


「やめてよ、そんな改まって」私は笑った。「私は好きでやってたんだから。毎月、貴方に会いに行くのが楽しみで」


「僕もだ」


彼が微笑む。月光の下で見るその笑顔は、十年前から変わらない。けれど今は——悲しみの影がない。


「君が来ない月は、永遠のようだった」彼が囁いた。「でも、君が来る夜だけは生きていると感じられた」


「……アルテミス」


「もう、満月だけじゃない」


彼が、私の額に唇を落とした。


「これからは毎日、君と一緒にいられる」


涙が、止まらなかった。


十年間、待ち続けた。月に一度しか会えない彼を、世界中が否定しても信じ続けた。


そして今——ようやく、永遠に一緒にいられる。


「ねえ、アルテミス」


「何?」


「これからは、毎日会えるのね」


「ああ」


「毎日、一緒にいられるのね」


「もちろん」


「私の隣で、朝起きて、昼を過ごして、夜眠るのね」


「……当然だろう?」


彼が少し困惑した顔をする。私は泣き笑いの顔で彼を見上げた。


「すごいわ。すごいことよ。だって今まで、月に一度しか会えなかったのに」


「ルナ……」


「嬉しい」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「こんなに嬉しいのは、生まれて初めて」


彼の腕が、私を包み込んだ。今度は冷たくない。温かくて、確かな体温。


「僕もだ」


彼の声が震えていた。


「君がいてくれて、本当によかった」



◇ ◇ ◇



「お嬢様」


ステラの声が響いた。振り返ると、琥珀色の瞳の侍女が立っている。


「殿下、お嬢様。そろそろ広間にお戻りください。ヴィクトル公爵閣下がお待ちです」


「分かったわ」


私はアルテミスと手を繋いで歩き出した。


「ステラ」


「はい、お嬢様」


「ありがとう。十年間、私を信じてくれて」


ステラが、珍しく微笑んだ。


「私の役目ですから。……それと、お嬢様」


「何?」


「またそのドレスですか。殿下がお嘆きになりますよ。もっと華やかなものを——」


「ステラ」アルテミスが苦笑した。「僕はルナが着ているものなら何でも好きだよ」


「殿下、甘すぎます」


「いいじゃないか。十年分の甘さを取り戻さないと」


私は思わず笑い出した。


「アルテミス、それ、ステラに言っても無駄よ。この人、容赦ないから」


「お嬢様。私は事実を申し上げているだけです」


「ほら」


三人で笑いながら、広間へと戻っていく。



◇ ◇ ◇



広間では、ヴィクトル公爵が待っていた。


「アルテミス」


「ヴィクトル」


二人の男が、固く抱擁を交わした。


「十年ぶりだな」公爵が言った。「ずいぶん待たせてくれた」


「すまなかった。でも——」アルテミスが私を見た。「この十年があったから、彼女に出会えた」


「そうだな」


公爵が私を見た。金色の瞳が、珍しく穏やかに揺れている。


「ルナ嬢。アルテミスを救ってくれて、感謝する」


「いいえ。私は、好きな人に会いに行っていただけです」


「それが、一番難しいことだ」


公爵が、珍しく穏やかに笑った。


「十年間、誰も信じてくれない存在を信じ続ける。並大抵のことじゃない」


「……ありがとうございます」


「お前の花嫁は見事だな、アルテミス」公爵がアルテミスに言った。「私も見習いたいものだ」


「何だ、ヴィクトル。恋愛でもする気か?」


「さあな。お前たちを見ていると、少しはそういう気分にもなる」


二人が軽口を叩き合うのを見て、私は微笑んだ。


(アルテミスには、信頼できる友人がいる。よかった)



◇ ◇ ◇



その時、一人の令嬢が駆け寄ってきた。


「ルナ!」


リリアーナだ。空色の瞳に涙を浮かべて、私に抱きついてきた。


「よかった、本当によかった……! 貴女が幸せそうで、私嬉しい……!」


「リリアーナ……」


私は幼馴染を抱きしめた。


「ありがとう。貴女の証言のおかげで、セレナの嘘を暴けたのよ」


「私なんて、何もしてないわ」


「そんなことない」私は彼女の顔を見た。「貴女は、私を信じてくれた。それが、何より嬉しかったの」


「ルナ……」


リリアーナが泣き笑いの顔で頷いた。


「これからは、堂々と貴女の味方でいるわ。絶対に」


「ええ。よろしくね、リリアーナ」



◇ ◇ ◇



宴が終わり、夜が更けていく。


私は父と二人、静かな部屋で向き合っていた。


「ルナ」


父が、穏やかに私の名を呼んだ。


「お前を守りきれなくて、すまなかった」


「お父様……」


「お前の力を隠させ、普通の令嬢として振る舞わせた。結果的に、お前を孤立させてしまった」


「違うわ、お父様」私は首を振った。「お父様のおかげで、私は生き延びられた。月視の力が露見していたら、もっと危険だったはず」


「……そうか」


父が、微笑んだ。銀灰色の瞳が、優しく光っている。


「お前の母に、似てきたな」


「お母様?」


「ああ。彼女も、一度信じたものは決して曲げない人だった。『見えないものが見える』と言われても、決して否定しなかった」


「そう、だったの」


「お前が第一王子殿下を十年間信じ続けたのも、彼女の血だろう」


私は目を閉じた。


会ったことのない母。けれど、彼女の血が私に流れている。


「ありがとう、お父様」


「何を」


「私を、信じてくれて」


父が、私を抱きしめた。


「当然だ。お前は、私の誇りだ」



◇ ◇ ◇



数週間後。


王宮では、正式な婚約発表の儀式が行われていた。


「アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア王太子と、ルナ・クレセンティア嬢の婚約を、ここに宣言する」


王の声が、大広間に響き渡る。


貴族たちが一斉に頭を下げる中、私はアルテミスの隣に立っていた。


「緊張しているか?」


彼が小声で囁く。


「まさか」


私は微笑んだ。


「十年間、貴方を待ち続けた私が、この程度のことで緊張すると思う?」


「……君は本当に強いな」


「強くなんかないわ」


私は彼の手を握った。


「ただ、貴方がいてくれるから」


「ルナ……」


「もう、一人じゃないでしょう?」


彼の紫水晶の瞳が、優しく揺れた。


「ああ。もう、一人じゃない」



◇ ◇ ◇



その夜。


私は城の塔から、満月を見上げていた。


銀色の光が降り注ぐ。十年間、この光の下でだけ彼に会えた。


「ルナ」


アルテミスが、後ろから私を抱きしめた。温かい体温。生きている証。


「何を見ている?」


「月よ」


「……そうか」


「十年間、月だけが私たちを繋いでいた」私は彼を見上げた。「だから、月を見ると安心するの」


「僕もだ」


彼が、私の髪に唇を落とした。


「でも、これからは違う」


「うん」


「毎日、君のそばにいる」


「うん」


「一生、離れない」


「……うん」


涙が、また溢れてきた。


「泣いているのか?」


「嬉しいのよ。嬉しすぎて」


「そうか」


彼が、優しく私を抱きしめ直した。


「僕も、嬉しい。嬉しすぎて、怖いくらいだ」


「怖い?」


「この幸せが、夢じゃないかって」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「夢じゃないわ。私がいる限り」


「ああ」


「私は、絶対に貴方を離さないから」


「知ってる」


彼が笑った。穏やかで、幸せそうな笑顔。


「君は、一度信じたものは決して離さない人だから」


「頑固なのよ」


「それが、僕を救ってくれた」



月が、二人を照らしている。


十年前と同じ、銀色の光。


けれど今は、もう悲しみはない。



「ねえ、アルテミス」


「何?」


「来月も、満月を一緒に見ましょう」


「ああ。再来月も、その次も」


「そして——」


私は彼を見上げた。銀灰色の瞳と紫水晶の瞳が、月明かりの中で交わる。


「永遠に」


「永遠に」


彼が、私の唇にキスを落とした。



月が満ちて、永遠になる。



——これは、『存在しない恋人』を十年間信じ続けた令嬢と、月に囚われた王子の物語。



断罪の夜から始まった物語は、二人の永遠の愛で幕を閉じる。



【完】

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