婚約者に『幻覚を見る異常者』と断罪されましたが、満月の夜だけ現れる彼こそが本物の王子でした
「ルナ・クレセンティア嬢。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」
王宮大広間に、第二王子クロード殿下の冷たい声が響き渡った。
シャンデリアの光が煌めく中、私は数百もの視線に晒されていた。嘲笑、憐憫、そして——期待に満ちた残酷な眼差し。社交界の華と名高い夜会は、いつの間にか公開処刑の舞台へと様変わりしていたらしい。
(ああ、ついに来たのね、この瞬間が)
私の心臓は、驚くほど穏やかに脈打っていた。
「殿下、一体どのような理由で……」
震える声を装って問いかける。けれど内心では、笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。
「理由?」クロード殿下は嘲るように唇の端を吊り上げた。艶のある黒髪と冷たい青灰色の瞳——端正な顔立ちに浮かぶのは、明らかな侮蔑の色。「貴女には分かっているはずだ。存在しない恋人がいると嘘をつき、私との婚約を蔑ろにした罪——虚言癖の令嬢に、未来の王妃たる資格などない」
ざわり、と広間が揺れる。
「まあ、なんてこと……」
「やはり本当だったのね、あの噂」
「可哀想に、殿下も大変でしたわね」
囁き声が波のように押し寄せてくる。その中心で、純白のドレスに身を包んだ女性が涙ぐんでいた。
蜂蜜色の巻き毛と澄んだ翡翠の瞳。桃色の唇を震わせ、『可憐な聖女様』の顔で私を見つめる——男爵令嬢セレナ・ミラベル。
「ルナ様……私、信じたかったのです」
セレナは目尻に涙を浮かべながら、か細い声で言った。
「でも、存在しないお方を恋人だなんて……ご病気なのではないかと心配で……」
(この女、本当に大した女優ね。涙を流しながら私を狂人扱いするその技術、舞台にでも立てばいいのに)
「セレナ、もう泣くな」
クロード殿下がセレナの肩を抱き寄せた。まるで宝物でも守るかのように。
「今日からは私が君を守る。この欺瞞に満ちた婚約者ではなく、真の聖女である君を」
私は静かに広間を見渡した。
華やかなドレスを纏った貴婦人たち。勲章を煌めかせた貴族の紳士たち。誰もが私を——『狂った令嬢』を見る目で、嘲笑と憐憫を浮かべている。
誰も、私の言葉を信じなかった。
満月の夜だけ現れる、銀色の髪をした青年のことを。
幼い頃から十年間、毎月欠かさず逢瀬を重ねてきた、私の——本当の想い人のことを。
『君だけが僕を見つけてくれた』
彼の声が、記憶の中で優しく響く。
「ルナ・クレセンティア嬢には、社交界からの追放を命じる」
クロード殿下の宣告が、広間に響き渡った。
「二度と王宮に足を踏み入れることは許さない」
歓声とも嘲笑ともつかない声が沸き起こる。
「ああ、お可哀想に」
「でも自業自得ですわよね」
「変わり者の令嬢の末路ね……」
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
胸の奥で、何かが——ふっ、と解けた気がした。
そして私は、微笑んだ。
「……かしこまりました、殿下」
広間が、一瞬静まり返る。
「殿下との婚約を解消できること、光栄に存じます」
泣き喚くと思ったのだろうか。許しを請うと思ったのだろうか。
クロード殿下の顔が、驚愕に歪んだ。
「な……何だと?」
「長らくお時間を頂戴いたしました」
私は完璧な角度で礼をした。社交界で培った所作は、こういう時にこそ役に立つ。
「どうぞセレナ様とお幸せに」
(ああ、やっと解放される。これで堂々と『彼』だけを想える)
背を向けた私に、怒声が飛んできた。
「待て! 逃げるな、ルナ・クレセンティア!」
私は肩越しに振り返った。銀灰色の瞳で、真っ直ぐにクロード殿下を見つめる。
「逃げる? 殿下、追放を命じたのは貴方様ですわ。私はただ従っているだけ」
一拍、間を置いて。
「それとも——私がいなくなると、何かお困りのことでも?」
一瞬、クロード殿下の目に動揺が走った。
(やっぱり。この婚約、クレセンティア家の財力目当てだったのね。分かりやすい人)
「ふ、ふざけるな……!」
「ルナ様は病気なのですわ!」
セレナが叫んだ。翡翠の瞳に、一瞬だけ剥き出しの敵意が光る。
「存在しない恋人を信じて、現実が見えていないのです! お可哀想に……きっと頭が……」
「ご心配には及びません、セレナ様」
私は穏やかに微笑んだ。
「私には、ちゃんと見えておりますから」
一歩、セレナに近づく。
「——貴女には見えないものが」
セレナの顔から、作り物の憐憫が消えた。代わりに浮かんだのは、恐怖にも似た動揺。
けれどそれも瞬きの間に消え、再び『可哀想な病人を憐れむ聖女』の仮面が被せられる。
「……行きましょう、ステラ」
控えていた侍女に声をかけると、濃紺の髪をした女性が静かに歩み寄ってきた。夜空を思わせる髪を一つに結い、落ち着いた琥珀色の瞳を持つ——私の侍女、ステラ・ノクターン。
「お嬢様。お車の準備は整っております」
「ありがとう」
嘲笑の視線を背に受けながら、私は広間を後にした。
足取りは、驚くほど軽かった。
◇ ◇ ◇
馬車の中、ステラが淡々と問いかけた。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
その琥珀色の瞳には、いつもと変わらぬ静かな光。心配でも同情でもない——ただ、私を見守る光。
「最高よ」
私は窓の外を見上げた。雲間から、丸い月が顔を覗かせている。煌々と輝く、満月。
「今夜は満月だわ」
「ええ。月齢十五日、満月です」
ステラが静かに頷いた。そして、珍しく言葉を続けた。
「……お嬢様。私は最初から、お嬢様の目に映るものは全て真実だと申し上げてきました」
「知ってる」
私は微笑んだ。
十年間、私を『変わり者』と呼ぶ者たちの中で、ステラだけは一度も私を疑わなかった。『見えない人と話している』と周囲に馬鹿にされた時も、決して否定せず黙って傍にいてくれた。
「あの方は、今夜も来られますか」
「来てくれるわ」
私は月を見上げた。銀色の光が、夜空を照らしている。
「……いつだって、来てくれた」
馬車が伯爵邸に着く頃には、月は完全に雲から解き放たれていた。
銀色の光が、庭園を照らしている。銀木犀の香りが、夜風に乗って漂ってきた。
「ステラ、今夜は一人にして」
「かしこまりました」
ステラが一礼する。そして——
「……お嬢様」
「何?」
「あの方に、よろしくお伝えください」
ステラが、初めて穏やかな微笑みを浮かべた。
「『月守の一族』は、今もお待ち申し上げていると」
私は驚いてステラを見た。月守の一族——それは、クレセンティア伯爵家に代々仕える者たちの名。そして、月の巫女を守護する一族の名。
「……ええ、伝えるわ」
◇ ◇ ◇
庭園の奥、月光が最も美しく降り注ぐ場所。
銀木犀に囲まれた小さな泉のほとりで、私は彼を待った。
風が吹く。花の香りが漂う。月明かりが水面に揺れる。
そして——
「待たせたね、ルナ」
振り返ると、そこに彼がいた。
月光を紡いだような銀髪が、風に揺れている。深い紫水晶の瞳が、優しく私を見つめている。透けるように白い肌は淡く光を帯びていて、この世のものとは思えないほど美しい。
「アルテミス……」
私は駆け寄った。
彼の姿は儚げで、触れれば消えてしまいそうなほど。けれど確かにここにいる。十年間、ずっと——満月の夜だけ、私の前に現れてくれた人。
「今夜は、少し早いね」
彼が穏やかに微笑んだ。十七歳で止まった時間。呪いによって閉じ込められた、永遠の若さ。
「何かあった?」
「……婚約破棄されたの」
私は彼を見上げた。
「今夜、舞踏会で」
「そうか」
彼の紫水晶の瞳が、静かに細められた。そこに浮かぶのは——怒り。普段は穏やかな彼が見せる、珍しい感情。
「弟が、君を傷つけたのか」
「ううん」
私は首を振った。
「傷ついてなんかいない。だって——」
私は彼を見上げた。月明かりに照らされた彼の顔は、十年前に出会った時から少しも変わっていない。
「やっと、貴方だけを想えるようになったの」
「ルナ……」
彼の手が、私の頬に触れた。ひんやりとした、けれど確かな感触。十年間、この温度を知っている。
「十年だ」
彼が囁いた。
「十年、君だけが僕を見つけ続けてくれた。月に一度しか逢えないのに、一度も疑わず、一度も諦めず」
「当たり前でしょう?」
私は彼の手に自分の手を重ねた。
「だって貴方は——」
「ルナ」
彼の声が、少し震えた。
「僕は、この呪いが解ける日を待っている。君と永遠に一緒にいられる日を」
紫水晶の瞳が、月光を映して揺れた。
「けれど同時に、恐れてもいる」
「恐れる?」
「僕が完全にこの世界に戻った時——君は、僕のせいで多くのものを背負うことになる」
彼の声が、苦しげに歪んだ。
「王宮の闘争に、陰謀に、巻き込まれる」
「知ってるわ」
私は彼の手を、ぎゅっと握り返した。
「貴方が第一王子アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア殿下だということも」
彼の目が、驚きに見開かれた。
「十年前に呪いで消されたことも。全部、知ってる」
「……いつから」
「最初からよ」
私は微笑んだ。
「八歳の私は馬鹿じゃなかったもの。消えた第一王子殿下と同じ名前、同じ銀髪、同じ紫水晶の瞳。月に囚われた王子様——気づかないわけがないでしょう?」
彼は目を見開いたまま、しばらく私を見つめていた。
そして——声を上げて笑った。
「君は本当に……本当に、強い人だ」
「強くなんかないわ。ただ頑固なだけ」
「それが強さだよ、ルナ」
彼が私を抱きしめた。月光の中、彼の体温を感じる。冷たくて、けれど温かい。生きている証のような、不思議な温度。
「必ず戻る」
彼が誓った。
「この呪いを解いて、君の隣に立つ。そして——」
彼の紫水晶の瞳が、冷たく光った。
「僕を消そうとした者たちに、相応の報いを与える」
「……楽しみにしてるわ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
月が、静かに二人を照らしていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王宮では、一つの報告が波紋を呼んでいた。
「申し上げます。国境の魔力障壁に異常が発生しております」
「なんだと?」
クロード殿下の声が、玉座の間に響いた。
「原因は不明ですが……『月に関わる呪い』が関係しているのではないかと」
傍らに立つイザベラ王妃——退色した金髪と疲れた青い瞳を持つ女性——の目が、冷たく光った。
「……まさか、ね」
誰にも聞こえないほど小さく、王妃は呟いた。
「あの子が、目覚めようとしているとでも言うの——?」
月は沈み、夜が明ける。
けれど物語は、ここから始まるのだ。
◇ ◇ ◇
婚約破棄から三日が経った。
社交界では私の話題で持ちきりらしい。『狂った伯爵令嬢』『虚言癖の変わり者』『哀れな断罪令嬢』——ステラが淡々と報告してくれる噂話は、どれも聞くに堪えないものばかりだった。
「——そして『聖女セレナ様が第二王子殿下の傷ついた心を癒された』という美談が広まっているそうです」
「あら、随分とお早いことね」
私は紅茶のカップを置いた。
(傷ついた心、ねえ。あの人に心なんてあったかしら。あるのは打算と欲だけでしょうに)
「お嬢様。お客様がいらしております」
「客?」
私は眉を上げた。この状況で訪ねてくる人間がいるとは思えなかったのだが。
「子爵令嬢リリアーナ・ベルモント様です」
「リリアーナ……?」
私は驚いて立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「ルナ!」
応接間に入るなり、桜色の髪をした少女が駆け寄ってきた。空色の瞳に涙を浮かべて、私の手を両手で包み込む。
「ごめんなさい、ごめんなさいルナ……! 私、ずっと貴女の味方でいたかったのに、怖くて、自分のことしか考えられなくて……!」
「リリアーナ……」
幼馴染の彼女は、社交界では私と距離を置いていた。当然だ。『変わり者』と呼ばれる私と親しくすれば、彼女まで同じ目で見られる。それは分かっていた。
「謝らないで」
私は彼女の手を握り返した。
「貴女を責めてなんかいないわ。社交界で生き残るためには、仕方のないことよ」
「でも……!」
「それに」私は微笑んだ。「こうして来てくれたでしょう? 婚約破棄されて社交界から追放された私のところに。それだけで十分よ」
リリアーナの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「ルナは変わらないのね……昔から、そう。誰に何を言われても、自分の信じるものを曲げない」
「頑固なだけよ」
「それが貴女の強さでしょう?」
リリアーナは涙を拭いて、真剣な顔になった。
「ねえ、ルナ。一つ聞いてもいい?」
「何?」
「……あの、満月の夜に会うっていう人。本当にいるの?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「信じないわよね」私は苦笑する。「誰も信じてくれなかったもの」
「違う!」リリアーナが首を振った。「私は信じたいの。だって——」
彼女は私の手をぎゅっと握った。空色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「私、覚えてるもの。小さい頃、ルナが嬉しそうに話してくれたこと」
リリアーナが、懐かしそうに微笑んだ。
「『銀色の髪の人がいるの。満月の夜だけ会えるの。とっても綺麗で、優しい人なの』って」
「……覚えてたの」
「当たり前でしょ? 幼馴染なんだから」
リリアーナは微笑んだ。あの頃と変わらない、屈託のない笑顔。
「ねえ、その人ってどんな人? 素敵な人?」
——八歳の頃と、同じ言葉だった。
「……ええ」
私は窓の外を見た。今は昼間だから、月は見えない。けれど。
「とても素敵な人よ。優しくて、穏やかで、時々悲しそうに笑うの」
「悲しそうに?」
「ずっと、一人ぼっちだったから」
私は目を閉じた。
十年前の、あの夜を思い出す。
◇ ◇ ◇
——十年前。
八歳の私は、満月の夜に森へ迷い込んだ。
社交パーティーの喧騒から逃げ出したのだ。『変わり者』『夢見がちな令嬢』『また訳の分からないことを言っている』——そんな言葉が飛び交う場所にいたくなくて、一人で屋敷を抜け出した。
月明かりだけを頼りに歩いていると、不思議な場所に辿り着いた。
銀木犀が咲き乱れる、小さな泉のほとり。
そこに——彼がいた。
「……誰?」
銀色の髪が、月光を受けて輝いている。白い肌は透けるように淡く、紫水晶の瞳は驚きで見開かれていた。
「僕が……見えるの?」
「え? 見えるって、だって、そこにいるもの」
少年は呆然と私を見つめた。そして——
「そうか……」
彼の声が、震えた。
「三年、三年経って初めてだ。僕を見てくれる人がいるなんて」
「三年?」
「僕は呪いをかけられたんだ」
少年は悲しげに微笑んだ。月明かりの中、その笑顔はあまりにも儚かった。
「満月の夜だけ、こうしてこの世界に姿を現せる。でも誰にも見えない。誰にも触れられない。僕はただの——幻なんだ」
「幻?」
私は彼に近づいた。恐くなかった。彼の瞳があまりにも悲しそうだったから。
「私には見えるわ」
「……え?」
「私、昔からそうなの。他の人に見えないものが見える。月の精霊とか、不思議な光とか」
私は彼の前に立った。小さな手を差し出して。
「だから、貴方が見えても不思議じゃないわ」
少年は目を瞬かせた。
そして——泣いた。
「ありがとう……ありがとう……」
銀色の涙が、月明かりの中できらきら光っていた。
「ねえ、名前は?」
「……アルテミス」
「私はルナ。ルナ・クレセンティアよ」
私は笑った。
「ねえ、アルテミス。また会える?」
「……来月の満月に、ここに来てくれるなら」
「約束ね」
私は小指を差し出した。彼は戸惑いながら、そっと小指を絡めてきた。ひんやりとした感触。けれど、確かに触れた。
「約束だ」
彼は、初めて笑った。
◇ ◇ ◇
「——それから、毎月逢い続けた」
私は遠い目をして呟いた。
「最初は子供同士の約束。でも、続けていくうちに……」
「好きになったのね」リリアーナが静かに言った。
「ええ」
私は頷いた。
「彼のことを、たくさん知っていった。優しいところ、時々意地悪なところ、悲しい時に無理に笑うところ。呪いの孤独に耐えながら、それでも私との逢瀬を楽しみに待っていてくれること」
「……それって」
リリアーナが何か言いかけた時、扉が開いた。
「お嬢様」ステラが静かに現れる。「旦那様がお呼びです。王宮から、密命が届いたと」
「密命?」
私は眉をひそめた。
社交界から追放された令嬢に、王宮から密命?
「……何かが、動き始めているわね」
私は立ち上がった。
◇ ◇ ◇
父の執務室。
フェリクス・クレセンティア伯爵——私の父は、穏やかな顔に似合わぬ鋭い目で一通の書状を見つめていた。淡い金髪と銀灰色の瞳。私と同じ色だ。
「来たか、ルナ」
「お父様。王宮からの密命とは」
「これを見なさい」
差し出された書状には、こう記されていた。
『月の呪いを解ける者を探している』
私の心臓が、大きく跳ねた。
「これは……」
「どうやら、国境の魔力障壁に異常が起きているらしい」
父が腕を組んだ。
「原因は『月に関わる呪い』。それを解呪できる者を探しているそうだ」
「なぜ、それがうちに?」
「……ルナ」
父が、私を真っ直ぐに見た。銀灰色の瞳に、複雑な感情が浮かんでいる。
「お前の母のことは、話したことがあったな?」
「……月視の巫女の血筋だと」
「ああ」父は頷いた。「そしてお前も、その力を受け継いでいる。お前が幼い頃から『見えないものが見える』のは、そのせいだ」
私は息を飲んだ。
知ってはいた。けれど、父の口から直接聞くのは初めてだった。
「ずっと隠していて、すまなかった」
父が目を伏せた。
「社交界でお前を守るには、普通の令嬢として振る舞わせるしかなかった。お前の力を表に出せば、どんな厄介事に巻き込まれるか分からなかったから」
「……お父様」
「だが」父が顔を上げた。「もう隠す必要はなくなった」
銀灰色の瞳が、決意を秘めて光った。
「婚約破棄で社交界から追放され、失うものはない。ならば——お前の本当の力を、世に示す時だ」
私の唇が、ゆっくりと微笑みの形を描いた。
「お父様。一つだけ、確認させてください」
「何だ」
「この『月の呪い』——十年前に消えた第一王子殿下と、関係がありますか?」
父の目が、一瞬見開かれた。
「……知っていたのか」
「ずっと、調べていました」
私は窓の外を見た。夕暮れの空に、淡い月が昇り始めている。
「アルテミス殿下は、呪いで『月に囚われた』。満月の夜だけ現世に姿を現せる、幽霊のような存在になって。そして——」
私は振り返った。
「私だけが、彼を見つけることができた」
◇ ◇ ◇
同時刻、王宮。
クロード第二王子の私室では、緊迫した空気が漂っていた。
「国境の異常だと……?」
「はい、殿下」
宮廷魔術師長オスカー・レイヴン——灰色の髪をオールバックに撫でつけ、狡猾な印象の茶色い瞳を持つ男——が恭しく頭を下げた。
「魔力障壁の一部が不安定になっております。原因は……『月縛りの呪い』の反動かと」
「なぜ今になって……!」
「お分かりでしょう、殿下」オスカーが含み笑いを浮かべる。「呪いは完璧ではなかったのです。十年という歳月で、綻びが生じ始めている」
「つまり——」
「第一王子殿下が、目覚めようとしているのかもしれません」
クロードの顔から、血の気が引いた。
「そんなことは、許さない……!」
「ご安心を」オスカーが低く笑う。「解呪の方法は、私が古文書に封印してあります。それを知る者がいない限り——」
「クロード」
冷たい声が響いた。
扉の向こうから現れたのは、イザベラ王妃。
「母上」
「聞いたわ。国境の異常」
王妃の唇が、歪んだ。
「まったく、十年経っても面倒をかけてくれる」
「申し訳ありません、王妃様」オスカーが頭を下げる。「しかし解呪さえされなければ——」
「問題はそこではないわ」
王妃が、冷たく言い放った。
「古文書には、こうも記されているはず。『月の呪いを解けるのは、月視の巫女の血を引く者のみ』と」
「それは……はい、確かに」
「そしてクロード」王妃が息子を見た。「お前が婚約破棄した令嬢——ルナ・クレセンティアの母親は何だった?」
クロードの声が震えた。
「……月視の巫女の血筋」
「まさか、あの女が……?」
「分かっていたはずよ」
王妃の声が、氷のように冷たい。
「あの家との婚約は、監視のためだった。なのにお前は、あろうことか公の場で断罪した。セレナなどという小娘に唆されて」
「し、しかし——」
「愚か者」
王妃の一言が、室内の空気を凍らせた。
「今すぐ、ルナ・クレセンティアを監視下に置きなさい。彼女が解呪の方法に辿り着く前に」
「……はい、母上」
王妃は踵を返した。
「あの子が戻ってくることは、決して許さない。十年前に消したはずなのだから」
扉が閉まる音が、冷たく響いた。
◇ ◇ ◇
数日後、王立図書館。
私は埃をかぶった古文書と格闘していた。書庫の奥深く、一般の者が立ち入れない区画。ステラの導きがなければ、決して見つけられなかった場所。
「『月縛りの呪い』……確かにここに記載があります、お嬢様」
ステラが分厚い書物を広げた。黄ばんだページには、古い言語で呪いの詳細が記されている。
「解呪には『月視の巫女の血』と『純粋な愛』が必要……」
「純粋な愛?」
「呪いにかけられた者を、十年以上信じ続けた者の想い。それが解呪の鍵になると」
私は思わず笑みをこぼした。
(十年間、毎月欠かさず彼に会いに行った。それが、こういう形で意味を持つなんて)
「お嬢様」ステラが顔を上げた。「しかしこの古文書、本来あるべき場所にありませんでした。誰かが意図的に隠していたようです」
「隠していた……?」
「はい。書庫の最奥、一般の者が立ち入れない区画に封印されていました。私の一族——月守の一族に伝わる手順がなければ、見つけることは不可能だったでしょう」
私は眉をひそめた。
(古文書を隠した人間がいる。つまり、呪いの解呪を妨害しようとしている者がいるということ)
「ルナ嬢」
低い声が響いた。
振り返ると、漆黒の髪と鋭い金色の瞳を持つ男性が立っていた。長身で威圧的な雰囲気——黒を基調とした服装。無愛想な表情。
『氷の公爵』ヴィクトル・シュヴァルツ。王国最高位の貴族。
「公爵閣下」私は軽く頭を下げた。「このような場所でお会いするとは」
「偶然ではない」彼は無愛想に言った。「君を探していた」
「私を?」
「ああ」
ヴィクトル公爵が私を見据えた。金色の瞳が、鋭く光る。
「婚約破棄された令嬢が、王立図書館で『月の呪い』について調べている。その噂を聞いてな」
(この人、情報が早すぎる。やはりただ者じゃないわね)
「何か御用でしょうか」
「単刀直入に聞こう」
公爵の金色の瞳が、私を射抜いた。
「君は第一王子殿下を知っているな?」
私の心臓が、一瞬止まった。
「……何故、そう思われるのですか」
「君の瞳だ」公爵が言った。「月視の巫女の血筋を示す銀灰色。そして——『満月の夜だけ現れる存在しない恋人』という噂」
公爵が一歩近づいた。
「私は十年前からずっと、アルテミス殿下の行方を追っている。もし君が彼を見ることができるなら——」
「待ってください」
私は公爵の言葉を遮った。
「公爵閣下は、第一王子殿下が生きていると信じているのですか」
「信じているのではない」
公爵の声が、低く震えた。
「知っている」
「アルテミスは私の親友だった。十年前、彼が消えた時——私だけが違和感を覚えた」
金色の瞳に、深い感情が浮かんだ。
「『事故死』などではない。誰かが彼を陥れたのだと」
「……」
「十年間、証拠を集め続けた。そしてようやく確信した」
公爵が、私に一歩近づいた。
「彼を呪いにかけたのは、イザベラ王妃。そして——第二王子クロードは、その真実を知りながら隠蔽に加担している」
私は息を飲んだ。
「……やはり、そうでしたか」
「知っていたのか?」
「確信はありませんでした。でも——」
私は窓の外を見た。曇り空の向こうに、淡い月が隠れている。
「アルテミスは、呪いについて多くを語りませんでした。ただ、『王宮の中に敵がいる』とだけ」
「アルテミス……」公爵の声が震えた。「やはり、君は彼と会っているのだな」
「ええ。十年間、毎月欠かさず」
私は公爵を見た。
「公爵閣下。私に協力していただけますか」
「協力?」
「呪いを解くための儀式には、多くの障害があるはずです。王妃と第二王子が妨害に動くでしょう。私一人では——」
「当然だ」
公爵が、初めて微かに笑った。
「十年待った。親友を取り戻すためなら、何でもする」
◇ ◇ ◇
その頃、王宮では。
「セレナ様、お加減はいかがですか」
純白のドレスに身を包んだセレナは、侍女の問いかけに力なく頷いた。
「ええ……少し、体調が優れなくて……」
(また、この胸騒ぎ。月が満ちてくると、いつもこうなる)
セレナは窓の外を見た。空には半月が浮かんでいる。
(あと数日で満月。嫌な感じ……)
「セレナ」
クロード殿下が私室に入ってきた。その顔には、焦燥の色が浮かんでいる。
「殿下、どうされました?」
「ルナ・クレセンティアが動いている」
クロードが苛立たしげに言った。
「王立図書館で古文書を調べているらしい」
「古文書……?」
「『月の呪い』に関するものだ」
セレナの心臓が跳ねた。
(月の呪い? まさか、あの令嬢——)
「心配はいらない」クロードがセレナの肩を抱いた。「既に手は打った。古文書は隠してある。あの女が何を調べようと——」
「殿下」
扉が開き、侍従が血相を変えて飛び込んできた。
「申し上げます! 王立図書館の封印区画が——」
「何?」
「何者かに破られ、古文書が持ち出されました!」
クロードの顔から、血の気が引いた。
「馬鹿な……あの封印は、宮廷魔術師長でなければ解けないはずだ……!」
「それが、殿下」侍従が震える声で言った。「『月守の一族』の者が関与した形跡がありまして……」
「月守の一族……?」
クロードの目が見開かれた。
「ルナ・クレセンティアの侍女だ……!」
◇ ◇ ◇
一方、クレセンティア伯爵邸。
「リリアーナ、本当にいいの?」
私は目の前に座る幼馴染に問いかけた。彼女は決意を秘めた顔で頷く。
「もちろんよ。セレナ様の悪行の証拠を集めるなら、私も手伝いたいの」
「危険かもしれないわ」
「知ってる。でも——」リリアーナが私の手を握った。「私、ずっと後悔してたの。ルナを一人にしたこと。もう逃げたくない」
「……ありがとう、リリアーナ」
「それにね」彼女は少しいたずらっぽく笑った。「私、昔からセレナ様が苦手だったの」
「え?」
「だって、おかしいでしょ? 『聖女様』なのに、満月の夜はいつもお腹が痛いって嘘ついてサボってたのよ。聖女の祈りの儀式を」
私は目を見開いた。
「満月の夜に、体調不良……?」
「ええ。毎月よ。私、侍女頭の娘と仲良くて、よく聞いてたの。『セレナ様はまた月を見て具合が悪くなった』って」
(偽物の聖女は、月の力に拒絶される——古文書に書いてあった)
「リリアーナ」私は立ち上がった。「それ、とても重要な証言よ」
「本当?」
「ええ。セレナが偽物だという証拠になる」
私は窓の外を見た。月が少しずつ満ちていく。
「あと数日で満月。その夜に——全てが動き出すわ」
◇ ◇ ◇
満月の夜。
王宮では『月光の大祭典』が開催されていた。貴族たちが集い、月を讃える年に一度の祭典。
「お嬢様」ステラが私の髪を整えながら言った。「準備は整いました」
「ありがとう、ステラ」
私は鏡を見た。
銀糸の刺繍が施された白いドレス。腰まで流れる淡い金髪。そして——月光を映したような銀灰色の瞳が、決意を秘めて輝いている。
「お父様は?」
「既に王宮へ。ヴィクトル公爵と共に、貴族院への根回しを」
「そう」
私は深呼吸をした。
今夜、全てが決まる。
「ステラ。長年、ありがとう。私を信じてくれて」
「……お嬢様」
ステラが、珍しく目を潤ませた。
「私は最初から分かっておりました。お嬢様の目に映るものは、全て真実だと。そして今夜——その真実が、世界に示される」
「ええ」
私は窓の外を見た。満月が、煌々と輝いている。
『待っていて、アルテミス。今夜——あなたを、この月の牢獄から解き放つから』
◇ ◇ ◇
王宮の大広間は、煌びやかな光に満ちていた。
シャンデリアの灯り、貴婦人たちの宝石、そして窓から差し込む月光。全てが眩しく、華やかで——私を断罪したあの夜と、何も変わらない。
「あら、あれは……」
「ルナ・クレセンティア嬢じゃないの?」
「社交界追放されたはずなのに、なぜ……」
囁き声が広がる。私は気にせず、真っ直ぐに歩いた。
「ルナ・クレセンティア嬢」
冷たい声が響いた。
クロード殿下が、怒りを隠しきれない表情で立ちはだかる。傍らにはセレナがいて、作り物の心配顔を浮かべている。
「追放されたはずの貴女が、なぜここにいる」
「王からの召喚状を頂きましたので」
私は懐から書状を取り出した。王家の紋章が押された、正式な召喚状。
クロードの顔が歪んだ。
「父上が、貴女を……?」
「ええ。『月の呪い』を解ける者を探しているとのことでしたので。私が参上いたしました」
「貴女が? 馬鹿な」
セレナが嘲笑った。翡翠の瞳に、侮蔑の色が浮かぶ。
「そのような大役、聖女である私が務めます。狂人の出る幕では——」
「セレナ様」
私は静かに言った。
「満月の夜に体調を崩されるそうですね。毎月、欠かさず」
セレナの顔から、血の気が引いた。
「な、何のことかしら」
「古文書にはこう記されています」
私は一歩前に出た。銀灰色の瞳で、真っ直ぐにセレナを見つめる。
「『偽りの聖女は、月の力に拒絶される』と」
ざわめきが広間に広がった。
「何を馬鹿な——」クロードが叫ぶ。「セレナは正真正銘の聖女だ!」
「では、証明していただきましょう」
私は窓を指差した。満月の光が、燦々と降り注いでいる。
「あの月光の下で、聖女の祈りを捧げてください。本物の聖女なら、月の祝福を受けられるはず」
セレナの顔が、青ざめた。
「わ、私は今日は体調が……」
「また、ですか?」
私は冷たく微笑んだ。
「満月の夜に体調を崩す聖女。おかしな話ですね。聖女とは、月の加護を最も強く受ける存在のはずなのに」
「黙れ!」
クロードが怒鳴った。
「この狂人の戯言に耳を貸すな! こいつは『存在しない恋人』を信じる異常者だ!」
「存在しない、ですか」
私は目を閉じた。
心の中で、彼の名を呼ぶ。十年間、毎月欠かさず呼び続けた名前を。
(アルテミス。今よ——)
私の瞳が、銀色に輝いた。
「月視の巫女の名において、解き放つ」
私の声が、広間に響き渡る。
「——『月に囚われし者』を、この世界へ」
光が、広間を包んだ。
◇ ◇ ◇
「——何だ、この光は……!?」
悲鳴と驚愕の声が響く中、月光が一点に集まっていく。
窓から差し込む銀色の光が、渦を巻いて人の形を作り出す。
そして——その光の中から、一人の青年が姿を現した。
銀色の髪。紫水晶の瞳。透けるように白い肌。
十年前と変わらぬ、神々しいほどの美貌。
けれど今は——もう透けていない。完全にこの世界に存在する、生身の姿で。
「……久しぶりだな、弟よ」
アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア——十年前に『消えた』第一王子が、そこに立っていた。
「あ、兄上……!?」
クロードが後ずさった。その顔は恐怖で歪んでいる。
「馬鹿な、ありえない……! 貴方は死んだはずだ……!」
「死んだ?」
アルテミスの紫水晶の瞳が、冷たく光った。
「いいや、殺されそうになっただけだ。お前と、母親によってな」
広間が、静まり返った。
「十年間、月の牢獄に囚われていた」
アルテミスが一歩踏み出す。月光を纏ったその姿は、まるで神話から抜け出してきたかのように美しい。
「満月の夜しか現世に姿を現せない、幽霊のような存在として。誰にも見えず、誰にも触れられず——ただ一人を除いて」
彼の視線が、私に向けられた。
紫水晶の瞳が、優しく揺れる。
「ルナ・クレセンティア」
アルテミスが、私の手を取った。温かい。もう冷たくない。
「この方だけが、十年間僕を見つけ続けてくれた。月に一度しか逢えないのに、一度も疑わず、一度も諦めず」
私の目から、涙がこぼれ落ちた。
「アルテミス……」
「ありがとう、ルナ」
彼が微笑んだ。十年間見続けてきた、あの優しい笑顔。けれど今は——悲しみの影がない。
「君が僕を救ってくれた」
「嘘だ……!」
セレナが叫んだ。翡翠の瞳が、恐怖と混乱で揺れている。
「こんなの嘘よ! この女は狂人なのよ! 存在しない恋人を信じる異常者——」
「セレナ・ミラベル」
アルテミスの声が、冷たく響いた。
「偽りの聖女。君がどれほどルナを傷つけてきたか、僕は全て見ていた」
「な……」
「満月の夜だけ現れる僕には、何も出来なかった。ただ、ルナが傷つくのを見ていることしか」
アルテミスの瞳が、氷のように冷たく光った。
「だから——これから、全てを清算する」
「ヴィクトル公爵」
アルテミスが呼びかけると、漆黒の髪の公爵が進み出た。金色の瞳が、冷たく光っている。
「殿下。お帰りなさいませ」
「ああ。頼んでおいた件は」
「全て整っております」
公爵が、懐から書類の束を取り出した。
「第二王子クロード並びにイザベラ王妃の罪状——第一王子暗殺未遂、呪術による害意、王位継承の不正操作。全ての証拠が揃いました」
「な……!」クロードが叫ぶ。「そんな証拠があるはずない——」
「オスカー・レイヴン宮廷魔術師長が、全て自白しました」
公爵が冷たく言い放った。
「『王妃様の命令で第一王子に呪いをかけた』と」
クロードの顔から、完全に血の気が引いた。
「母上……!」
「お黙りなさい、クロード」
氷のような声が響いた。
イザベラ王妃が、蒼白な顔で立っていた。退色した金髪が、月光の中で揺れている。
「もう終わりよ」アルテミスが言った。「十年間の嘘が、全て」
「……あの子」
王妃が呟いた。疲れた青い瞳が、虚ろに揺れる。
「あの先王妃の子供さえいなければ、私の子が王になれたのに……」
「それが、貴女の罪だ」
アルテミスが、冷たく宣告した。
「父上の前で、全てを裁いてもらおう」
王が、玉座から立ち上がった。
その顔には、深い悲しみと怒りが浮かんでいた。
「イザベラ。クロード」
王の声が、広間に響き渡る。
「——お前たちを、許すことは出来ない」
◇ ◇ ◇
王の裁きが下された。
イザベラ王妃は離宮への永久幽閉。クロード第二王子は王位継承権剥奪と辺境領への追放。宮廷魔術師長オスカー・レイヴンは魔術師資格を剥奪され、牢獄へ。
そして偽聖女セレナ・ミラベルは——詐欺罪により、平民へ落とされた。
「あ、あの令嬢が王太子妃に……」
「私たちは何ということを……」
「存在しない恋人なんて嘲笑していたのに、本物の王子だったなんて……」
広間に集まった貴族たちの顔は、恐怖と後悔で歪んでいた。
あの夜、私を『狂人』と嘲笑った者たち。『変わり者の令嬢』と避けてきた者たち。今、彼らは次期王太子妃となる私に、頭を下げることになった。
(……本当に、手のひら返しが凄いわね)
私は内心で苦笑しながら、完璧な微笑みを浮かべた。
「身に余る光栄でございます、皆様」
「ルナ・クレセンティア嬢」
アルテミスが、私の手を取った。満月の光の中、彼の姿はもう透けていない。完全にこの世界に戻ってきた、生身の存在として。
「この方こそが、十年間私を救い続けた真実の聖女であり——」
彼の紫水晶の瞳が、優しく輝いた。
「私の唯一の婚約者だ」
広間が、静まり返った。
そして——嵐のような歓声と祝福の声が沸き起こった。
「アルテミス殿下、万歳!」
「ルナ・クレセンティア様、万歳!」
「真実の王子と聖女に祝福を!」
◇ ◇ ◇
祝宴の喧騒から離れ、私とアルテミスは庭園を歩いていた。
月明かりが銀木犀を照らしている。十年前、初めて出会った場所と同じ香りがした。
「ルナ」
アルテミスが立ち止まり、私の両手を握った。
「十年間、本当にありがとう」
「やめてよ、そんな改まって」私は笑った。「私は好きでやってたんだから。毎月、貴方に会いに行くのが楽しみで」
「僕もだ」
彼が微笑む。月光の下で見るその笑顔は、十年前から変わらない。けれど今は——悲しみの影がない。
「君が来ない月は、永遠のようだった」彼が囁いた。「でも、君が来る夜だけは生きていると感じられた」
「……アルテミス」
「もう、満月だけじゃない」
彼が、私の額に唇を落とした。
「これからは毎日、君と一緒にいられる」
涙が、止まらなかった。
十年間、待ち続けた。月に一度しか会えない彼を、世界中が否定しても信じ続けた。
そして今——ようやく、永遠に一緒にいられる。
「ねえ、アルテミス」
「何?」
「これからは、毎日会えるのね」
「ああ」
「毎日、一緒にいられるのね」
「もちろん」
「私の隣で、朝起きて、昼を過ごして、夜眠るのね」
「……当然だろう?」
彼が少し困惑した顔をする。私は泣き笑いの顔で彼を見上げた。
「すごいわ。すごいことよ。だって今まで、月に一度しか会えなかったのに」
「ルナ……」
「嬉しい」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「こんなに嬉しいのは、生まれて初めて」
彼の腕が、私を包み込んだ。今度は冷たくない。温かくて、確かな体温。
「僕もだ」
彼の声が震えていた。
「君がいてくれて、本当によかった」
◇ ◇ ◇
「お嬢様」
ステラの声が響いた。振り返ると、琥珀色の瞳の侍女が立っている。
「殿下、お嬢様。そろそろ広間にお戻りください。ヴィクトル公爵閣下がお待ちです」
「分かったわ」
私はアルテミスと手を繋いで歩き出した。
「ステラ」
「はい、お嬢様」
「ありがとう。十年間、私を信じてくれて」
ステラが、珍しく微笑んだ。
「私の役目ですから。……それと、お嬢様」
「何?」
「またそのドレスですか。殿下がお嘆きになりますよ。もっと華やかなものを——」
「ステラ」アルテミスが苦笑した。「僕はルナが着ているものなら何でも好きだよ」
「殿下、甘すぎます」
「いいじゃないか。十年分の甘さを取り戻さないと」
私は思わず笑い出した。
「アルテミス、それ、ステラに言っても無駄よ。この人、容赦ないから」
「お嬢様。私は事実を申し上げているだけです」
「ほら」
三人で笑いながら、広間へと戻っていく。
◇ ◇ ◇
広間では、ヴィクトル公爵が待っていた。
「アルテミス」
「ヴィクトル」
二人の男が、固く抱擁を交わした。
「十年ぶりだな」公爵が言った。「ずいぶん待たせてくれた」
「すまなかった。でも——」アルテミスが私を見た。「この十年があったから、彼女に出会えた」
「そうだな」
公爵が私を見た。金色の瞳が、珍しく穏やかに揺れている。
「ルナ嬢。アルテミスを救ってくれて、感謝する」
「いいえ。私は、好きな人に会いに行っていただけです」
「それが、一番難しいことだ」
公爵が、珍しく穏やかに笑った。
「十年間、誰も信じてくれない存在を信じ続ける。並大抵のことじゃない」
「……ありがとうございます」
「お前の花嫁は見事だな、アルテミス」公爵がアルテミスに言った。「私も見習いたいものだ」
「何だ、ヴィクトル。恋愛でもする気か?」
「さあな。お前たちを見ていると、少しはそういう気分にもなる」
二人が軽口を叩き合うのを見て、私は微笑んだ。
(アルテミスには、信頼できる友人がいる。よかった)
◇ ◇ ◇
その時、一人の令嬢が駆け寄ってきた。
「ルナ!」
リリアーナだ。空色の瞳に涙を浮かべて、私に抱きついてきた。
「よかった、本当によかった……! 貴女が幸せそうで、私嬉しい……!」
「リリアーナ……」
私は幼馴染を抱きしめた。
「ありがとう。貴女の証言のおかげで、セレナの嘘を暴けたのよ」
「私なんて、何もしてないわ」
「そんなことない」私は彼女の顔を見た。「貴女は、私を信じてくれた。それが、何より嬉しかったの」
「ルナ……」
リリアーナが泣き笑いの顔で頷いた。
「これからは、堂々と貴女の味方でいるわ。絶対に」
「ええ。よろしくね、リリアーナ」
◇ ◇ ◇
宴が終わり、夜が更けていく。
私は父と二人、静かな部屋で向き合っていた。
「ルナ」
父が、穏やかに私の名を呼んだ。
「お前を守りきれなくて、すまなかった」
「お父様……」
「お前の力を隠させ、普通の令嬢として振る舞わせた。結果的に、お前を孤立させてしまった」
「違うわ、お父様」私は首を振った。「お父様のおかげで、私は生き延びられた。月視の力が露見していたら、もっと危険だったはず」
「……そうか」
父が、微笑んだ。銀灰色の瞳が、優しく光っている。
「お前の母に、似てきたな」
「お母様?」
「ああ。彼女も、一度信じたものは決して曲げない人だった。『見えないものが見える』と言われても、決して否定しなかった」
「そう、だったの」
「お前が第一王子殿下を十年間信じ続けたのも、彼女の血だろう」
私は目を閉じた。
会ったことのない母。けれど、彼女の血が私に流れている。
「ありがとう、お父様」
「何を」
「私を、信じてくれて」
父が、私を抱きしめた。
「当然だ。お前は、私の誇りだ」
◇ ◇ ◇
数週間後。
王宮では、正式な婚約発表の儀式が行われていた。
「アルテミス・ルナリア・ヴァン・セレスティア王太子と、ルナ・クレセンティア嬢の婚約を、ここに宣言する」
王の声が、大広間に響き渡る。
貴族たちが一斉に頭を下げる中、私はアルテミスの隣に立っていた。
「緊張しているか?」
彼が小声で囁く。
「まさか」
私は微笑んだ。
「十年間、貴方を待ち続けた私が、この程度のことで緊張すると思う?」
「……君は本当に強いな」
「強くなんかないわ」
私は彼の手を握った。
「ただ、貴方がいてくれるから」
「ルナ……」
「もう、一人じゃないでしょう?」
彼の紫水晶の瞳が、優しく揺れた。
「ああ。もう、一人じゃない」
◇ ◇ ◇
その夜。
私は城の塔から、満月を見上げていた。
銀色の光が降り注ぐ。十年間、この光の下でだけ彼に会えた。
「ルナ」
アルテミスが、後ろから私を抱きしめた。温かい体温。生きている証。
「何を見ている?」
「月よ」
「……そうか」
「十年間、月だけが私たちを繋いでいた」私は彼を見上げた。「だから、月を見ると安心するの」
「僕もだ」
彼が、私の髪に唇を落とした。
「でも、これからは違う」
「うん」
「毎日、君のそばにいる」
「うん」
「一生、離れない」
「……うん」
涙が、また溢れてきた。
「泣いているのか?」
「嬉しいのよ。嬉しすぎて」
「そうか」
彼が、優しく私を抱きしめ直した。
「僕も、嬉しい。嬉しすぎて、怖いくらいだ」
「怖い?」
「この幸せが、夢じゃないかって」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「夢じゃないわ。私がいる限り」
「ああ」
「私は、絶対に貴方を離さないから」
「知ってる」
彼が笑った。穏やかで、幸せそうな笑顔。
「君は、一度信じたものは決して離さない人だから」
「頑固なのよ」
「それが、僕を救ってくれた」
月が、二人を照らしている。
十年前と同じ、銀色の光。
けれど今は、もう悲しみはない。
「ねえ、アルテミス」
「何?」
「来月も、満月を一緒に見ましょう」
「ああ。再来月も、その次も」
「そして——」
私は彼を見上げた。銀灰色の瞳と紫水晶の瞳が、月明かりの中で交わる。
「永遠に」
「永遠に」
彼が、私の唇にキスを落とした。
月が満ちて、永遠になる。
——これは、『存在しない恋人』を十年間信じ続けた令嬢と、月に囚われた王子の物語。
断罪の夜から始まった物語は、二人の永遠の愛で幕を閉じる。
【完】




