ある元選手の話
俺は未熟だった。
国によっては成人したかどうかの年齢だったとはいえ、eスポーツ選手としても、ゲーマーとしても、人間としてもあまりにも未熟だった。
俺がいた高校は進学校だった。
台北市の中では上位10%に入るかどうかの高校で、頑張れば一流の大学に手が届くかもしれない生徒たちを、志望校に送り込むのに必死な、そんな学校だった。
二年生になってからは、毎日朝7時から午後5時、受験勉強と模擬試験でいっぱいな日々だった。
勉強自体は嫌いではない。むしろ疑問に思ったことを調べて、はっきりさせるのが好きな方だ。
だが、入りたい大学も、興味がある学科も、大学を出た後にやりいたいことも、何一つイメージが浮かび上がらなかった俺にとっては、大学に入るための勉強は、苦痛でしかなかった。
だから、俺は逃げた。
最初は只々、逃げたいだけだった。
たまたま、俺の逃げた先がゲームだった、それだけの話だ。
だが、上手くはいかなかった。
家族と口喧嘩するのはもちろん、ゲームの中でも上手くいかなかった。
何せ、俺はeスポーツ種目になるようなゲームに、悲しいほど向いていなかった。
eスポーツは、動体視力、反射神経、そして手の器用さからくるゲームスキルが問われるゲームが殆どだ。
だが、俺は動体視力も反射神経も人並みで、手に至っては壊滅的なほど不器用だった。
eスポーツが出来るような人ではなかったんだ。
はっきり言って、ゲームスキル全般は間違いなく下手な方だ。
昔から、正面切って戦える方じゃなかった。
RTSではすべきことを分かっていても、操作がついていけず、同数だと正面で打ち負かされるのが普通だ。内政や後方かく乱で経済的有利を手にしてから、物量で敵を押しつぶす、そんな上位ランクに殆ど通用しないか、ものに出来る前にやられるような、そんなやり方しか出来なかった。
FPSではエイムもリコイル制御もいまいち、撃ち合いで負ける方が普通で、頭をひねって、敵が予想だにしないルート、方法で勝ちに行く以外優位など何一つ取れず、K/Dが0.7を切るような歩くスコアだった。
格ゲーに至ってはコンボを知っていても出せるものが何一つありやしない、いつまでやっても初心者同然の腕にしかならなかった。
そんな滓のような俺は、最初はMOBAに逃げようとした。
MOBAで最も問われているものこそが手先のゲームスキルだった。
ビルドの仕方で勝っていても僅差で、経済が優位でもアイテム一つぐらいゲームスキルで簡単に巻き返せるんだ。
そんなゲームで一対一でほぼ確実に負けるようでは、もはやスプリットプッシュやチームファイトの仕方で勝ちにいくしかなかった。
そんな俺は、いくら頑張っても、上位と言えるランクに手が届く日は終ぞなかった。
MOBAに俺の未来など何一つありやしないのに、バカな青二才だった。
そんな先の見えない日々の中で逃げ続けた俺に、いくつもの偶然が織り交ぜて、奇跡が起きた。
最初は、あるシューティングゲームとの出会いだった。
さほど深い関わりがあるわけでもなく、ただある同人格闘ゲームの対戦サイトで知り合った、週に何回かネット対戦をするだけの知り合いに、とあるゲームを勧められた。
そのゲームはオンラインゲームの中でもかなり変わったものだった。
殆どのゲームがハイペースになっていき、スピーディーで爽快感を競う中、小回りが効かない戦車に乗って、砲を撃つ前に秒単位の照準が必要で、砲を撃てば数秒以上の装填時間を要したその変り種のゲームは、まさに俺にピッタリなゲームだった。
照準と装填に時間がかかることは、時間をかけてエイムすることが可能で、動体視力と反射神経はそこまで求められなくなり、手が器用じゃなくても、時間をかけてカバーすることが可能だ。
照準と装填に時間がかかることは、撃ち合いの勝敗が分けるまでに時間的余裕があることを意味し、正面の味方が負けようとも、主戦場から抜けて、機動と策で勝つことが可能だ。
照準と装填に時間がかかることは、敵の弾を無駄に出来れば、暫くはこっちが一方的に撃てる上に、敵に時間のロストが生み、それが他の味方の有利になる。
無論、逆も然りで、敵も同じ利を持ち、機動と策で勝ちに来るし、こっちがその読みを間違えれば不利に陥り、砲を上手く撃たなければ、同じロストで不利になる。
それでもこのゲームは、動体視力でも反射神経でも手の器用さでも戦えない俺にとって、都合のいいゲームだった。
何もかも、俺に都合がよかった。
だが最初からそこでeスポーツを目指さなかった。
なぜなら、そのゲーム自体が無名だった。そして何より、映えないゲームだった。
Eスポーツがあったことを知った時には驚くほど、映えないゲームだった。
だが、偶然の連鎖はまだ続いていく。
Eスポーツ向きで競技性の強いオンラインゲームはクランシステムを取る所は少ない。
何せ、少人数で行われるゲームでクランシステムを導入してもメリットはそこまであるわけでもないし、コミュニティーマーケティングの資源がeスポーツとクランの両方に分散されて、非効率的になる。
だが、そのゲームは両方やっていた。
そして、eスポーツチームはクランのエリートメンバーで構成されるという珍しい構図が出来上がっていた。
そんな珍事例を知りもしない俺は、適当な中小クランに入り、三ヶ月ぐらい適当にゲームをやっていたら、身を置いていたクランが当時アジアサーバーの中国語圏のトップクランに併合された。
そしてある日、クランの中でも結構強い人たちが集まってるのを見かけて、入ってみたらeスポーツチームの練習で、その練習の参加に名乗り出してみたら、驚くことに空いている枠に入れられ、参加できた。
今振り返ってみれば、あまりにも偶然が重なりすぎて、笑いたくなるような出来事だった。
たまたま、同人ゲームの対戦サイトに入って、そこで別のゲームの話題が上がった。
たまたま、そのゲームを知って、なんとなくやり始めた。
たまたま、そのゲームの会社はeスポーツ企画を進めていた。
たまたま、適当に入ったクランが併合された。
たまたま、併合先のクランが強いeスポーツチームの母体だった。
たまたま、見かけた集まりはeスポーツチームの練習だった。
たまたま、練習に参加してみたいと言ったら、枠が空いているから受け入れてもらった。
ただ、eスポーツの流儀を知らなかった奴が、最初からうまくやって行けるはずはなかった。
どのゲームでもそうだが、ランダムマッチングとeスポーツは、まるで別物だった。
練習に参加したての頃は、ダメージが向こうの半分にも届かずにやられることがしょっちゅうあったが、それでも、見込みありとされて、やられては学びの繰り返しを続けていた。
チームに入った頃、最初は練習をしながら、他の同期と入れ替わりで補欠として入れられ、出場するチャンスもない日々が続いた。
そして、翌年に、何人かの選手は引退を決めて、俺を含めた新人数人は固定メンバーに入れられることとなった。
あの時は、嬉しさよりも、緊張が勝っていた。
手が震えて、冷え込み、ただただ間違いを犯さまいと、震えていた。
今となっては、初試合の流れすらも忘れたのだが、ミスをして肝が冷える感覚と、感想戦で振り返る時に感じる悔恨と情けなさだけは、今も覚えている。
そのゲームは何もかも、俺に都合が良かった、そう言っていた。
だがそれでも、向き不向きというものはあった。
特に周りがトップクラスの強者で固めていると、尚のこと、それを強く思い知らされる。
俺は中戦車と軽戦車の扱いが下手だった。
敵の場所と視界を正確に理解し、素早く撃てるポジションに移動し、ダメージを稼ぐ、こういう役割を担えない程下手だった。
やっていくうちに、チームのみんなもそれを理解し、全員中戦車の編成でもない限り、俺は中戦車で出ることは無くなった。
だが代わりに、俺は重戦車と自走砲の扱いに長けていた。
地形と装甲を使って敵の砲弾を弾き、正面からの撃ち合いでコツコツと有利を手に入れることは出来た。
敵の攻勢に察知し、いち早く動き、自分が主戦場にいなくても駆け付けられることも多かった。
脅威的な敵を判断し、ある程度地形を無視して攻撃出来る自走砲で敵を排除することにも長けていた。
そして、俺が長所を生かしていくと、何度か数の絶対的不利の中でも、何回か敵弾を弾いて、数秒だけ長く生き延びたことで、俺は徐々に必ず死ぬような場所にも置かれるようになった。
「一枚で敵五枚に予想より数秒も多くの時間をロストさせられるだけでも十分だ」とのことらしい。
それはそうだ、こっちが一枚で時間を稼げることが出来ればその分、他の味方が「時間」というリソースを手に入れることにもなるのだ。
eスポーツのルール的に自走砲を出すのはなかなか厳しいものだが、稀に自走砲を使えば、俺たちはよく誰も火力を吐けない状況をわざと作り出し、自走砲で一方的に撃つ戦術を取り、その自走砲は4割ぐらい俺の出番になるだった。
ああ、今思えば、俺は「脅威」に敏感だった。
そして、「隙」を突くことには向いていなかった。
笑えることに、この具体的な向き不向きはこの話を書いていくうちに分かったことで、eスポーツ時代にそれを言語化出来る程、まとめ上げられることはなかった。
そして俺にとって、eスポーツだけでなく、クラン戦でも長所は長所だった。
前にも言ったように、その奇特なゲームはクランがeスポーツチームの母体だったので、スケジュール的に問題がないのであれば、eスポーツ選手たちもよく、クラン戦に駆り出されるのであった。
そして、eスポーツ選手たちはランク戦で猛威を振るう絵図は、よくあるクラン戦光景でもあった。
俺が入っていたようなトップクランでも、重戦車であれ中戦車であれ、eスポーツ選手たちが頭一つ抜ける戦績を残すことはもはや日常光景と言える状況だった。
かく言う俺も、その例に漏れることはなかった。
クラン戦で重戦車に乗れば二、三枚の味方と共に六枚ぐらいの敵を薙ぎ倒し、自走砲に乗ればクランの自走砲乗りの中でも、トップクラスのダメージを出すことが当然であった。
だがクラン戦の戦績はさほど誇れるものでもなく、eスポーツチームに入ってればそれぐらい当然だという認識でもあった。
何せeスポーツ選手たちが、一般プレイヤーが殆どのクラン戦に参加することは、チワワの群れにピットブルを放り込むことに他ならなかった。
話が逸れた。
クランと一般プレイヤーの話はまたの機会にしよう。
そんな何もかも、俺に都合が良かったゲームでeスポーツに参加しても、いくら練習を重ねても、頑張っても、どうしようもなかったことは二つあった。
より才能があって、努力していた選手。
そして、逃げても逃げ切れない、試合以外の問題。
そのゲームのeスポーツのルールは7人制で、補欠プレイヤーは2人まで登録できるルールだった。
俺は入れ替わりの補欠メンバー時代を含めると、eスポーツには4年ぐらい参加していた。
そのうち、アジア大会に参加できたのは二回で、一回目は台北で開催され、海外に行ったのは一回だけだった。
そして、アジアの一位と二位が世界大会進出なのに、俺たちは良くても、三位止まりだった。
相手は強かった、間違いなく強かった。
俺たちは中国と韓国の二チームと比べると、戦術も、反応の速さも、ほとんどのメンバーの個人技でも負けていた。
何回かまぐれ勝ちをしたところで、最後までは勝ちきれないだろうと、それほどの差だった。
だが、彼らの世界大会を見ると、ヨーロッパチームとの差もまた歴然だった。
ただの視聴者ではなく、選手の視点で試合を見れば、俺たちはあそこで戦えるレベルではないと、嫌でも認めざるを得なかった。
才能も、努力も、何もかもが足りなかった。
才能が及ばなければより努力しなければ追いつけない。
だがトレーニングの仕方が確立されていない、もしくはトレーニング方法を確立したぐらいで、努力で求められる能力のカバーをし切れない分野では、そもそも努力の効果が才能に左右されるという、どうしようもない問題があった。
俺には、俺たちが頑張ったところで、世界大会に行けるイメージなんぞ、最後までなかったんだ。
だが、才能と努力の話はまだいい。
最悪な言い方だが、才能がある人間が努力すれば終わる話だ。
この世には才能と努力があったところで、どうにもならないこと、試合以外の問題に潰されることは、場合によってはあるのだ。
試合以外の問題、俺の場合は大きく分けて二つあった。
一つ目は、家族との問題だった。
この前に言ったように、俺は高校を辞めて、ゲームに逃げて、eスポーツに入った。
だが、台湾において、勉強させ、大学に進学させることを最上とする子育ての考え方が深く根付いている。
そして、俺の逃げ先は普通の親から見たら、不真面目なゲームと、その更に先のeスポーツというものだった。
Eスポーツ参加について家族と相談し、許可を取っていた俺でも、週二回以上ある家族との口喧嘩は、eスポーツ時代の日常と化していた。
Eスポーツは続けられたとは言え、それが調子とパフォーマンスに影響がないと言ったら当然噓になる。
そして悲しいことに、eスポーツにおける全盛期は大体、十代後半から二十代前半、ちょうど高校と大学の時期と被っている。
Eスポーツに進もうとする者の中で、家族との不和が俺の以上に苛烈な者は、もっと存在しているだろう。
それで努力が実らなかった者も、きっと居ただろうし、今後も出続けるだろう。
家族との間の問題ならまぁ、家族で話し合えば何とかなるかもしれない。
だが、話し合いではどうにもならない事もある。
二つ目の、俺の場合のそれは、兵役だった。
韓国のeスポーツの話題では、ちょくちょく話題になる兵役の話。
それは台湾でも同じだった。
いや、違う国の軍隊の間じゃ受ける訓練も、その厳しさも、期間も違うから、厳密には同じではないのだが、eスポーツに打ち込んでいる選手たちの全盛期の真っ只中に、パソコンすら触れられない時期があった点だけは同じだった。
俺の場合は一回目のアジア大会に出場してすぐ、兵役に服することになった。
運よく、兵役は四ヶ月だけで済ませることが出来た。
だが、四ヶ月だけとは言え、その期間が全部オフシーズンなんて都合よくいかなかった。
俺は補欠に降ろされて、補欠だったメンバーは固定メンバーに入れられて、チームはレギュラーシーズンに臨み、俺が兵役が終えてからしばらくして、ようやく固定メンバーに戻してもらえた。
夏の炎天下で小銃を持って訓練する毎日。
パソコンとeスポーツはおろか、エアコンすらなく、五時半に汗だくで起き、体を鍛えて、銃を配られて訓練、道具を配られて雑用、二十二時に汗だくで就寝。
兵役の四ヶ月は、只々、そんな日々が続いていた。
四ヶ月は短いように思えるかもしれないが、スポーツでも、四ヶ月の間に訓練すら許されないと、それ自体がとんでもないロストになるのだ、eスポーツは選手の全盛期がスポーツよりも短い分、響く物だった。
俺の場合は、固定メンバーに戻れたが、調子を取り戻すのに二ヶ月ぐらいかかった。兵役期間と合わせて、俺に6ヶ月ほどのロストがあったと言っていいだろう。
それが韓国の場合だと、兵役は最短でも18ヶ月になるのだ。
これぐらいの期間となると、選手の道が断たれたも同然だと考える人も多いはずだ。
スポーツやeスポーツ選手が試合で負けて、兵役免除を勝ち取れなかった時に泣き崩れるのも、頷けるだろう。
俺が兵役を終えて翌年、俺たちは運よく、またアジア大会の出場権を手に入れた。
いや、拾ったと言うべきだったかもしれない。
何せ、他のチームが出場権を得て、そのチームがルール違反で失格となり、俺たちはその次の順位だったからと、回ってきただけの出場権だった。
俺たちは韓国に招待され、当時リーグオブレジェンドLCKが使っていたスタジオで試合をした。
あのスタジオはLCK観戦の印象に比べて、思いの外小さかった
結果は、前にも言ったように、ボロ負けした。
全力を尽くした。スーパープレイもあった。
だが、それぐらいでは覆すことのできない程の差は、確かにあった。
二回目のアジア大会、二回目のアジア止まり。
それをきっかけに、俺は行き先を考えた。
多分あの二チームには勝てないし、世界大会出場を果たすことはないだろうと、チームの誰もが理解しただろう。
そして、ここまで来たんだから、もう十分だろうと、俺は思った。
学校から逃げたその先に、eスポーツがあって、アジア三位を勝ち取った。
そして、この短い選手生命で恐らく、それ以上のものを手にすることはないだろう俺は、考え至った。
学校に戻ろうと。
ああ、笑えることに、逃げて、逃げて、逃げた果てに戻ろうとした矢先に、俺は高校から長く離れすぎて、もう高校には戻れないと知った。
そして高校を飛ばして大学入試に挑むも、まぁ受験に向けて猛勉強した浪人でもない俺が、高校三年生の受験生たちに敵うはずもなく、底辺国立大学にしか手が届かず、ド田舎に来ました。
俺は大学に入ってからもしばらくeスポーツを続けたが、明らかに限界が見えてきた。
俺たちの実力だけでなく、情熱も、ゲーム自身も、ゲーム会社も、そのeスポーツ自体の限界も目に見えてきた。
俺たちはアジアのトップリーグで戦い続けるも、上の二チームに勝てない中堅チームで、他のチームに安定して勝てるわけでもなかった。
三、四年eスポーツを続けて、アジアから出られず、情熱も燃え尽きかけた。
ゲームは訳の分からないアプデが続き、批判の声が徐々に上がり、コミュニティは混乱し、ゲーム会社は動じずに謎アプデを上げ続け、課金要素を強化し、競技性を削いだ。
ゲーム自体に改善が見られず、そのゲームのeスポーツも縮小の動きが見られ、引くべき時が来たんだなと、はっきりと分かった。
だから、俺は最後の情熱を振り絞って、もう一つの情熱と掛け合わせて、敢行した。
俺は、日本チームに移籍した。
未熟だった。
Eスポーツでは他国のプレイヤーを受け入れることは珍しいことではない。
だが、年齢的にピークを過ぎた俺は、お荷物にならないだけでも幸いだろう。
ましてや、人間としては未熟で、日本語もうまく扱えていなかった俺は、チームの中では、異物だったのだろう。
ああ、楽しかった、ゲームへの情熱と、日本語を勉強したい、使いたい、日本人と話してみたい情熱を燃やして、日本チームでプレイしていた。
だが、同時に申し訳なくも思う。
九年前、まだ日本語によるコミュニケーションもままならない俺はほぼ、eスポーツの経験で培ってきた個人技でやっていた。ピークを過ぎていた、元々個人技を得意としない俺なのにだ。
チームメイトが言っていた言葉の意味を、近年思い返してようやく、それを理解したことさえあった。
申し訳ないとは思う。
もっと上手い人を入れたら、もっといい成績を残していただろう。
もっとうまくコミュニケーションを取れる人を入れたら、もっといい成績を残していただろう。
あれはすべて、俺のわがままだった。
最後の1シーズンだけ、未熟な俺は、eスポーツでわがままを振り撒いた。
シーズンが終わり、ゲームへの最後の情熱も燃やし尽くした俺は、五年近く頑張った全てを捨てた。
全身全霊をかけて頑張って来たものを捨てる感覚を、初めて味わった。
苦く、辛く、だが解放感があった。
大学も忙しくなり、俺の生活からeスポーツを抜いた穴はすぐに埋まった。
俺は、あれから日本語能力試験N1を取って、大学を卒業して、そのまま大学があった田舎に残った。
大学生活中に住み慣れた田舎で、流れで日本語教師になって、今に至る。
こうして、田舎で非常勤日本語教師をやっている元eスポーツ選手が出来上がった。
これが一人の、元選手のおじさんの話だった。