6.デブ、冷や汗
二日後、葦乃浜は祥太郎の頭に包帯を巻いて登校した。
ボランティア当日に意識を失ったのは出血の為ではなく、どうやら脳震盪だったらしい。
自分では然程の衝撃を受けたつもりはなかったのだが、矢張りこの肉体は完璧な力士ではなく、ベースが高校生である為か、大関としての思考そのままで行動すると非常に危ないということを改めて思い知った。
(ちょっと今後は、考え直さんとなぁ……あんまり調子乗らんとこ)
そんなことを考えながら二年A組の教室に足を踏み入れた葦乃浜。
すると、それまでひとり大人しく自席に座っていた優梨愛が突然笑顔を浮かべて、物凄い勢いで駆け寄ってきた。
「駒崎くん! もう、大丈夫なの?」
「うん? あー、まぁ、退院出来たんで」
実は葦乃浜、意識を失った後に救急車で運ばれ、近隣の総合病院に検査入院する破目となった。
頭からの出血だけなら縫えば済む話だったが、意識障害の原因が脳震盪以外に何かがあった場合には拙いということで、念の為に入院して経過を見ていたのである。
しかし結局は特に大きな問題も見当たらず、幾つかの検査を経て昨晩のうちに退院し、自宅に引き返した。
そしてまだ包帯は取れないものの、医師からは登校の許可が下りた為、この日から早速春所高校に顔を出した次第である。
ここまでの一連の説明を聞いて、優梨愛は心底ほっとした様子で胸を撫で下ろす仕草を見せていた。
そして彼女は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「改めて駒崎くん。先日は本当にありがとうございました。あの時、駒崎くんが居なかったら、わたしも雪坂さんも、どうなっていたか分かりません。あなたは命の恩人です……ホントに、ありがとね」
そういって再び面を上げた優梨愛の面は、若干上気して興奮している様にも見えた。
更に彼女は、後日改めて家族と一緒に、駒崎家に御礼伺いをさせて欲しいと申し入れてきた。
恐らく優梨愛の両親も自分の娘の命を救ってくれた恩人に対し、感謝の意を表したいのだろう。それはそれで社会人としてのあるべき姿だから、受け入れるのが礼というものだ。
「あぁ、ほんならまた日時のご都合とかご連絡下さい。うちの親にもいうとくんで……」
この時、周囲のクラスメイト達が物凄く驚いた様子で葦乃浜ならぬ祥太郎のデカい顔を凝視していた。
「うわ……駒崎の奴、結構常識人ってか、普通に大人の対応してるよ……」
「あいつ、頭打ってイイ奴になったのかな……?」
結構ないわれようだが、今までが今までだけに、これはもう仕方が無いと割り切るしか無いだろうか。
ともあれ、後は優梨愛の家族からの連絡待ちという段になる訳だから、葦乃浜の方から特に何かをしなければならないということは無さそうだった。
ところがここで優梨愛が妙にもじもじして、何かをいいたげな様子でちらちらと上目遣いで見つめてくる。
葦乃浜は一体何事かと小首を傾げた。
すると優梨愛はしばし逡巡した後に、思い切った様子で一気に迫ってきた。
「あの……その……もし良かったら、ね……ラインのID交換とか、してくれないかな、って……」
「ん? あ、ライン?」
幾分驚いて自身のスマートフォンを取り出した葦乃浜。ここはゲームの世界が現実になった様な空間だが、ここでもラインはちゃんと機能しているのかと、変なところで感心してしまった。
しかしいわれてみれば、連絡手段が無ければ御礼訪問の段取りなども中々つけづらいのは確かだ。
葦乃浜は優梨愛の先見の明に感心しながら、自身のスマートフォン上でラインを起動した。
「まぁ確かに、これから色々連絡取るのにID交換してへんかったら不便やしな……はい、どうぞ」
ひとりでぶつぶついいながらスマートフォンを差し出した葦乃浜。
すると優梨愛は心底嬉しそうな明るい笑みを浮かべて、同じ様にスマートフォンを取り出した。そうしてID交換を済ませると、今度はやけに幸せそうな笑みを湛えた優梨愛。
この時、葦乃浜は頭の中で幾つもの疑問符を並べた。
(あれ、ちょっと待てよ……確か、ゲーム本編始まってちょっとした辺りで、こんなイベント無かったか?)
そうだ、あれは確か主人公の英輔が少し強くなって、蓮十郎配下の初期の敵を倒した辺りで発生するイベントのひとつだった筈だ。
このイベントで何人かのヒロインから同時並行的にラインのID交換を申し入れられ、そこで選んだヒロインが攻略対象として確定するという流れだった筈だ。
(いや、でもちょっと待って……何でこの子が、わしにID交換を頼んでくんの? 相手違うやろに)
葦乃浜は何となく嫌な予感がして、一瞬だけ英輔の席をちらりと盗み見た。
英輔は――居た。それもひとりで。
幼馴染みの瑠兎は友人らと談笑しているのか、彼の近くには居ない。果たしてどこへ行ったのかと面を巡らせていると、不意に背後からその当人の声が飛んできた。
「あ、あの! 駒崎くん! 怪我は、もう大丈夫なの?」
瑠兎もまた優梨愛と同じ様に、若干頬を上気させて抱き着いてくる様な勢いを見せながら迫ってきた。
そういえばあの時は、この瑠兎も同時に救出したのだ。彼女が優梨愛同様、葦乃浜に感謝の念を抱いていたとしても、それは別段おかしな話ではないだろう。
尤も、英輔がひとりで放置されている光景が少し気になるといえば気になるのだが。
そして瑠兎も矢張り、家族で御礼伺いの為にお邪魔したい旨を申し入れてきた。これについても葦乃浜はいつでもお待ちしていますと礼儀正しく応対してみせた。
「それじゃあさ、その、アタシともラインのID交換、してくれないかな?」
ここで葦乃浜は内心で、おやっと小首を捻った。
あのゲームと同じ展開をなぞるのであれば、ID交換はひとりだけに限られる筈なのだが、この世界では違うのだろうか。
しかし瑠兎の場合も、矢張り御礼訪問の際には事前連絡が必要だろうから、ID交換はやっておいて損は無いだろう。
そんな訳で葦乃浜は瑠兎に対してもスマートフォンを差し出した。
「えへっ……ありがと! 何だか駒崎くんとは、ずっ友になれそうな気がするね!」
ずっ友とは何ぞやと、思わず眉間に皺を寄せてしまった葦乃浜。JK用語は、どうにも彼の頭では理解出来ないものが多い。
後で調べておくことにしよう。
「ねぇところでさ……その包帯は、いつ頃取れるの?」
「確か、一週間ぐらいとかいうてたかなぁ……これの所為で頭洗われへんから、痒うてしゃあないわ」
すると優梨愛と瑠兎が同時に手を伸ばして、祥太郎の包帯ヘッドに触れようとした。しかし葦乃浜は慌てて、やめとけとふたりを制した。
「脂だらけで臭いし汚いから、下手に触らん方がエエって。臭いとか、うつってまうで」
「そんなの、全然気にしないよ……わたし達を助けてくれた怪我なんだもの」
優梨愛が愛おしそうに、包帯を巻いた頭に優しく触れてきた。
この展開は一体何なのか――葦乃浜は変な汗が浮かんでくるのを感じた。
これではまるで、エロゲの主人公の様な扱いではないか。
祥太郎の如き序盤で消え去るモブには、過分な褒美ではないだろうか。