5.デブ、出血大サービス
怒号と悲鳴が折り重なる様にして、その周辺で一気に鳴り響いた。
春所高校から程近い特別養護老人ホーム脇の、長い下り坂の終着点。そこに恐怖で顔が青ざめ、体が動けなくなっている様子の優梨愛と瑠兎の姿があった。
今、ふたりに絶望の危機が襲い掛かろうとしている。
一台の古びた年代ものの軽トラックが後ろ向きに、その下り坂を猛スピードで駆け下りてきているのだ。
運転席には、誰も居ない。
恐らくは、サイドブレーキを入れないままギアをニュートラルにしてしまっていたか。
坂の上の方からは運転者と思しき老人が、早く逃げろと大声で叫びながら軽トラックを追いかける様にして駆け下りてくる。
瑠兎は尻餅を付いたままの姿勢で、そして優梨愛はその瑠兎を何とか立たせようと中腰になっている姿勢で、それぞれ凍り付いてしまっていた。
身体能力に余程自信のある者か、或いは日頃から修羅場を潜り抜けてきている者ならば、どうということは無かったのだろう。
しかし優梨愛も瑠兎も容貌は際立って美しいが、人生の危機に瞬間的な決断を下すことが出来る程の経験を積んでいる訳ではなかったのだろう。
ふたりは、恐怖に竦んで身じろぎすら出来ない状態に陥っているのが目に見えて分かった。
「瑠兎! 何やってんだ! 早く! 早く逃げろ!」
英輔の絶望にまみれた叫びが鼓膜を叩いたが、しかしただ呼びかけるだけで、彼もまた同じ様に体が動かなくなっている様だ。
そんな中で、葦乃浜だけは猛然と走った。
ふたりとの距離は、僅か数メートル。だが少しでも躊躇して速度を落とせば、葦乃浜自身もあの軽トラックの餌食となる。
しかし、迷いは無かった。
力士の下半身から生み出される瞬発力は、200kg近い相手と真正面からぶつかっても弾き飛ばされることが無い様に、徹底的に鍛え抜かれている。
立ち合いの瞬間から相手とぶつかるまでの、コンマ何十ミリという世界の中で、全ての衝撃をひたすら前方に向けて撃ち出すパワーが力士の下半身には具わっているのだ。
(はっけよい!)
この時、葦乃浜は幻聴を聞いた様な気がした。土俵で聞き慣れた木村庄之助や式守伊之助といった大ベテランの行司らの声が、彼の背中を押してくれた様に思う。
そして軽トラックがふたりの美少女に達する寸前、葦乃浜は彼女らを同時に小脇に抱えてその場を一気に駆け抜けていった。
勢い余って頭から堅いアスファルトの地面に突っ込んだが、幸いにして優梨愛も瑠兎も、祥太郎の脂肪だらけの巨躯という絶妙な衝撃緩衝材の威力を得て、然程に大きな怪我を負うことも無かった。
その直後、軽トラックは下り坂終着点の先にある民家の塀にぶつかって停止した。
「駒崎! 大丈夫か!」
「白國さん! 雪坂さん! 怪我は無い?」
周辺から大勢のひとびとが慌てて駆け寄ってくる。
そんな中で葦乃浜は、奇跡的に命の危機から免れたふたりの美少女の泣き顔に迫られていた。
「あ……ありがと……ありがと……駒崎クン……ホントに、ありがと……」
瑠兎がぽろぽろと涙を流しながら、葦乃浜の太い腕の中でわなわなと小刻みに体を振動させている。今になって全身の震えが襲い掛かってきたのだろう。
一方の優梨愛は既に気力を復活させたらしい。
アスファルトの地面との衝突で頭皮の皮を剥がしてしまった祥太郎の流血姿に、何度も何度も大丈夫かと必死に呼びかけてきていた。
「駒崎くん! ねぇ、大丈夫? 血が、血が、凄いことに、なってるよ!」
しかし葦乃浜は、幸い意識ははっきりしていた。多少出血が酷いが、命に別状は無いだろう。
「こらぁ、アレやな……只今の決まり手は押し倒し、押し倒しで駒崎祥太郎の勝ち、ってなとこか」
余りにのんびりした葦乃浜の声に、優梨愛は一瞬驚いた様子で呆然とした色を浮かべたが、しかしすぐにその美貌は安堵の笑顔でくしゃくしゃになった。
そして漸く緊張の糸が途切れたのか、いきなり涙が溢れてきていた。
「んもぉ……駒崎くんったら……こんな時に、そんな冗談いってる場合じゃ……ない……でしょ……」
最後の方は涙声に濡れて、ほとんど聞き取れなかった。
そこへ、ボランティア引率担当の教師や、受け入れ側の老人ホーム職員などが慌てて駆け寄ってきた。
他にも、同じくボランティアに参加していた春所高校の生徒らが心配げな様子で足早に歩を寄せてきた。
そんな中で、英輔は今にも気が狂わんばかりの勢いで瑠兎に抱き着いてきた。
「瑠兎……良かった……良かった……!」
それ以降、英輔もまた声が出なかった。
一方葦乃浜は、止血の応急処置を受けながらぼんやりと周辺を眺めていた。
今回、彼は優梨愛や瑠兎、或いは英輔らと共に老人ホーム周辺の清掃作業ボランティアに従事していた。
予想ではここで蓮十郎らが優梨愛を拉致する為に現れる筈だったが、しかし遂に彼らは姿を見せることは無かった。その代わり、全く異なるイベントが発生した。
それが先程の無人軽トラック暴走事故だった。
きっと何かが起こるだろうと予感していた葦乃浜だったが、まさかこんな形でふたりの美少女に危難が襲い掛かることになろうとは、流石に思ってもみなかった。
が、ふたりを守る為にボランティアに参加したことは大正解だった。
あの状況でふたりを救うことが出来たのは、力士としての圧倒的な瞬発力と、ふたりの女子高生を同時に抱えて駆け抜ける膂力を具えた葦乃浜だけであったろう。
もしここに彼が居なければ、ふたりは揃って命を落としていたかも知れない。
額の皮を盛大に剥いて夥しい血流を溢れさせるという代償は払ったが、ふたりを救うことが出来たのなら、この程度の負傷は安いものである。
それにしても、遂にあの善良なるヤンキー君は姿を現さなかった。結局彼は、蓮十郎達が優梨愛を襲う時だけに現れる限定キャラだったという訳だろうか。
或いは、葦乃浜が優梨愛と瑠兎を救った為に、彼の出番を潰してしまったのだろうか。
(まぁ、どっちでもエエけど……)
ともあれ、駒崎祥太郎はこの世界で姿を消されることは無かった。
これはひとつの朗報といって良い。
(あー、でも何かヤバい。意識が朦朧と……)
その直後、目の前が急に暗くなってきて何も考えられなくなった。
もしかすると、少し血を流し過ぎたのかも知れない。