1.デブ、お目覚め
瞼を開いた。
薄暗い視界の中で、白い天井とシーリングライトがぼんやりと見える。
妙に頭が痛い。
(あれ……ここ、どこやろ?)
はて、自分は何故こんなところで寝ているのか。
伊勢ヶ灘部屋の力士で来場所は綱取りを期待されている大関葦乃浜鉚太郎は、そんなことを考えながら次第にはっきりしてくる記憶を順に手繰り寄せていった。
確か――春場所の千秋楽、その結びの一番で横綱との対戦に臨んだ筈だった。
立ち合いで激しくぶつかった後、四つ相撲で組み合い、そして激しい攻防の末に下手投げを喰らって土俵外へ転落した。
そこまでは覚えている。
もしかしたら頭を打つかどうにかなって、病院に担ぎ込まれたのだろうか。
しかしどうにもおかしい。左右を見渡すと、誰かの私室と思しき調度品や家具などが幾つか並んでる。どう見ても病室ではない。かといって、相撲部屋という訳でもなかった。
間違い無く、誰か個人の私室だ。
一体何がどうなっているのだろうと思いながら、ぼんやりと上体を起こした。
と、その時だった。
いきなり訳の分からない無数の記憶が脳裏に流れ込んできた。全然見知らぬ、赤の他人の記憶の奔流が葦乃浜の意識に容赦無く襲い掛かってきた。
およそ十数分、ベッドの上で頭を抱えたまま宙空に視線を漂わせていた葦乃浜。
そしてやっと記憶の流入が止まった。
同時に彼は、今の自分が置かれた状況をはっきりと理解した。
(え……嘘やん。マジで?)
ここは、葦乃浜が生きてきた現実とは明らかに異なる平行世界の中だった。
(何でや……これって全部、あのエロゲ……デッドカミングアウトの設定そのまんまやんか!)
新たに植え付けられた記憶を全て繋ぎ合わせて、葦乃浜はその様に結論付けた。
以前、彼がまだ平幕だった頃にハマったR18のエロゲ『デッドカミングアウト』は、やたらとバイオレンスな設定が変にウケまくり、異質な世界観で一世を風靡したアダルトゲームである。
葦乃浜も結構やり込んだクチで、数多くのヒロインと最後にはベッドインを果たすのは当然として、更には裏ボスをも攻略してトゥルーエンディングを迎えるに至っていた。
今、葦乃浜が目覚めたこの世界は、まさにデッドカミングアウトそのまんまの領域だったのだ。
(いやいやいや、ちょっと待って待って……ほんならアレか。わしは今、ゲームの世界の中に居るってことなん?)
んなアホな――と思わず口に出しかかったが、しかし今、目の前にある光景、空気感、肌触り、どれをとっても余りにリアルで、とても夢を見ている様には思えなかった。
であれば、自分は今、どういう立ち位置のどういう役柄のキャラクターに入り込んでいるのか。
新たに得た記憶によれば、この肉体の本来の名は駒崎祥太郎ということになっているのだが、そんなキャラクターなんぞ居ただろうか。
(あ……居ったわ)
窓に映る今の自分の顔を見て、思い出した。
確か、ゲーム序盤早々に主人公の親友枠である善良なヤンキーにぶちのめされて退場し、それ以降は全く音沙汰も無いまま闇に葬られた、まさにモブ中のモブだった筈だ。
(嘘やん……え、ちょい待ってぇや。わし、そんな悲しい役回りに生まれ変わったってこと?)
深夜の自室でテンションだだ下がりな葦乃浜改め祥太郎。
尚、この駒崎祥太郎というキャラクターは主人公の敵側に属する三下のやられ役で、ゲーム本編では名前すら登場しなかった雑魚キャラだった。
それもオープニングムービーの中で一瞬登場するぐらいで、プレイが始まったらその存在ごと無かったことにされていた様に記憶している。
(いや……最悪やん、それ。わし、こっから先のこいつの展開なんて、何も知らんで)
せめて主人公かライバル、或いはネームドの登場人物であれば何かと情報が頭に残っているのだが、祥太郎なんてデブ巨漢のやられ役、しかも本編には一切関わってこなかった超ド級のモブに、一体何が出来るというのだろう。
祥太郎は、絶望した。
しかし不思議なもので、ゲーム世界であろうが何であろうが、腹は減るし尿意も催す。
死にそうな顔でベッドから下りた祥太郎だったが、この時彼は、ハーフパンツから伸びる自身の両脚が随分と太く逞しいことに気付いた。
更に己の太い腕や分厚い胸板をさすり、軽く力を込めてみたりした。
(お……これって、まさか……)
そして思い切って、股割りなんぞしてみた。彼の太い両脚はすっと左右に大きく開き、そのまま股間と床がぺたんと触れた。
(やった……マジか、おい。この体、大関葦乃浜の力も技も、そのまんま使えるんか)
ついでに柱を軽く掌底で突いてみた。稽古場での感触がすぐに蘇ってきた。
間違い無い。
この体は力士として鍛えてきた全ての技、力、柔らかさ、そしてタフさが全て具わっている。
これは不幸中の幸いといって良いかも知れない。
(確か……デッドカミングアウトの主要な登場キャラは学生ばっかりで、格闘技やってる奴もせいぜいアマチュアレベルって話やったな……)
ならば、ワンチャンあるかも知れない。
日本国内に於ける格闘技種としては最強の部類に入るであろう大相撲力士が、ろくに鍛えてもいない学生なんぞに負けて堪るか。
(エエで……生き残ったるで……わしは葦乃浜鉚太郎や。エロゲやろうがどこやろうが、そんな簡単に土俵割ったりせんからな)
祥太郎は一階リビングを通り抜け、玄関脇の姿見に己の体躯を映し出した。
駒崎祥太郎は身長192cm、体重154kg。力士に例えればソップ型、つまり脂肪は少なく、筋肉の鎧でその身を固めた強靭な体型だ。
(主人公も、ライバル連中も皆、片っ端から蹴散らしたるからな……大相撲、舐めんなよ)
こうして祥太郎こと大関葦乃浜の、孤独な戦いが始まった。
いや、本当に孤独かどうかはこの先の本人次第なのだろうが。