傷
パウラは、この村の長の孫娘だ。
使用人たちからは、お嬢様、などと呼ばれてはいるが、何もせずにふんぞり返っていられるほど豊かな家ではなかった。
朝の忙しいひと時を使用人とともに働き、ようやく時間ができると、パウラは昨日の少年の様子を見に、物置を覗いた。
昨日、初めて目にしたときから、少年の不思議なたたずまいに興味を覚えていた。
だが、物置部屋には少年の長剣が置かれているだけで、本人の姿はなかった。
長剣がここにある以上、まだ家にいるはずだ。
そう考えて物置を離れ、ふと中庭を見たパウラは、きれいに割られたたくさんの薪の傍らで所在なさげに座るアルマークを見付けた。
「アルマーク」
そう呼びかけると、アルマークが顔を上げた。
「パウラか」
「あら」
不愛想なアルマークが自分の名前を覚えていたことが嬉しくて、パウラは中庭に出ると彼の横に座った。
「あなた、薪割りをしていたの」
「ああ」
アルマークは頷く。
「もうほかに薪はないのかな」
「ほかにって」
パウラは薪置き場を見て、そこにあったはずの薪が全てもう割られていることに気付いた。
「まさか、これ全部あなたが一人で?」
アルマークの脇に積み上げられた薪の数に、パウラが目を丸くすると、アルマークは肩をすくめる。
「そうだよ」
そうだよ、などと簡単に言うが、とても子供一人でできるような量ではなかった。
普通は大人が二、三日かけて終わらせる仕事なのだ。
「だいぶ前に終わったんだけど」
事も無げにそう言って、アルマークは足元に置かれた斧に目を落とす。
「ここから動くなって言われているから」
「誰に?」
「エブロ」
「ああ」
パウラは頷く。
「それなら大丈夫。私からエブロに言っておくから」
「そうか、うん」
アルマークは生返事をした後で、ちらりとパウラを見た。
「昨日の夜に来ていた傭兵って」
「ああ、リネガたちのこと?」
リネガ。
アルマークは目を細める。
やはりどこかで聞いた名前だった。
「十五人くらいの小さな傭兵団みたい。冬になったら、急に林の向こうの廃村にやって来たの。そこで冬を越すんだって言って」
パウラは微かに顔をしかめる。
「その間、他の野盗や流れの傭兵から守ってやるから、食糧をよこせって」
アルマークが想像した通りだった。
「そうか」
「それで、たまに食糧を取りに来るの。昨日もリネガの手下みたいなやつが来てたわね。人相も柄も悪いけど、今のところ食糧さえ渡していれば大人しくしてるから、おじい様もとりあえずそれでいいと思っているみたい」
「おじい様というのが、この村の長か」
「ええ」
「この村に傭兵が来るのは、珍しいのか」
「私は初めて見たわ」
パウラは答える。
「どこか、この先で戦があったんですって。そこで負けた方の傭兵がこんなところまで流れてきたみたい」
「ああ」
パウラの言葉で、アルマークはようやくぴんときた。
彼女の言う戦というのは、アルマークが“双剣”のアーウィンに背中を斬られた先日の戦を含む一連の戦いのことだろう。
相手方にアーウィンがいるという情報はなかったが、味方側の傭兵の中に、確かリネガという名があった。
アルマークが加わっていた裂陣傭兵団の団長のグレッサーが、夜の指示のときに低いだみ声で言っていた。
「一応今回の戦で味方になる傭兵団で名前の通ったやつを挙げておくぞ」
そう言いながら、グレッサーはずらずらと七、八人の傭兵の名を挙げたのだ。
その中で二つ名持ちは二人くらいだった。後は、なんとか傭兵団のなんとか、と所属する団と本人の名前だけが挙げられていた。
リネガには二つ名があった。有名な傭兵ならアルマークが知らないはずはなかったが、そのとき初めて聞いた名前だった。
確か、二つ名は。
“自在斧”のリネガ。
得物は斧なんだろう。
所属していた傭兵団の名前までは覚えていなかった。
そうか。やっぱりあの戦は負けたのか。
アルマークは、怒号の飛び交う戦場で、焦げ臭い鉄と血の匂いを放ちながら殺到してくる“双剣”のアーウィンとその配下の集団の姿を思い出す。
アルマークは、アーウィンと数合打ち合うので精いっぱいだった。アーウィンは一人で戦況を一変させるくらいの力を持っていた。
それでも、アルマークは生き残ることができた。
切られた背中がまた、じん、と鈍い痛みを発する。
味方側についていたというリネガとは、実際に顔を合わせることはなかったが、彼を含めてアーウィンを止められるほどの傭兵がこの辺りにいるとは思えなかった。
アルマークは、いつも追いかけていた大きな背中を思い出す。
でも、きっと父さんなら。
「ねえ」
不意にパウラに声を掛けられて、アルマークは我に返った。
「あなた、背中」
「ああ」
アルマークは顎だけで小さく頷く。
薪を割るうちに暑くなってきて、ずっと着込んでいた外套を脱いだのだ。
そのせいで、アーウィンに切られた肌着が露わになっていた。
パウラはそれを険しい目で見つめていた。
「怪我してるじゃない」
「薬を塗っている」
アルマークは傍らの丸めた外套をまさぐって、小さな容器を取り出す。
「切り傷によく効くんだ」
「なら、塗ってあげるわ」
まだアルマークの背中から目を離さず、パウラが言った。
「だって、また血が滲んでるもの」
アルマークも最初は背中の傷を気にしながら薪を割っていたが、じきにそれが面倒になった。
周囲のあらゆる事象に警戒しながら旅を続けていたアルマークにとって、無心に斧を振ることのできる薪割りという作業は楽しかった。
気付くと、夢中になっていた。
そのせいで、塞がりかけていた傷口がまた開いたのだろう。
「貸して」
パウラがアルマークの持つ壜に手を伸ばした。
「塗ってあげる」
「いいよ」
アルマークは壜を彼女から遠ざける。
「自分で塗れる」
「背中だもの。塗りづらいでしょ」
「感覚で分かる」
「いいから」
パウラがやや強引に手を伸ばすと、アルマークは諦めたように彼女に壜を渡した。
パウラが蓋を開けると、薬草特有のかびたような匂いがこぼれる。
「脱いで」
パウラは言った。
「服を着たままじゃ、塗りづらいわ」
アルマークは一瞬躊躇したが、結局言われるままに肌着まで脱いだ。
冬の弱い日差しの下に、傷だらけの上半身が晒される。
たくさんの傷の中にある、ひときわ大きな胸の古傷がまだ痛々しかった。
パウラは息を呑む。
「あなた、本当に傭兵なのね」
パウラは言った。
「子どもなのに、こんな傷だらけで。たくさん戦ったのね」
「いや、今はもう」
そう言いかけて、アルマークは小さく首を振った。
「汗が冷えて、寒くなってきたよ」
代わりにそう言うと、アルマークはパウラに背中を向けた。
「塗るなら、早く塗ってくれ」
「あ、うん」
パウラは、人差し指に薬を取る。
「服も切れちゃってたわね」
背中の傷に沿って優しく薬を塗りながら、パウラは言った。
「あとで縫ってあげるわ」
「糸と針さえあれば、自分で縫える」
アルマークは言った。
「裁縫道具を、なくしてしまったんだ」
「じゃあ後で持ってきてあげる」
パウラが言うと、アルマークは肩越しに彼女を振り返った。
「ありがとう」
アルマークは言った。
「金は払う」
「要らないって言わなかったっけ」
「でも」
アルマークは困った顔をした。
「ただでもらう謂れがない」
そう言って、居心地悪そうに背中を揺する。
大人びた態度の少年の、意外な幼さが微かに覗いた。
「これだけ薪を割ってもらったんだもの。それくらいはしてあげるわ」
パウラはそう言って、薬を丁寧に塗り込んだ。