意見
森を出ると、月明かりが男たちの姿を照らし出した。
ようやく開けた視界。
もはや異界と化した森を振り返ることなく、男たちは喘ぎながら腐臭から逃れるように走り続けた。
どれくらい走っただろうか。
月の光を照らし返す集落の屋根が見えた頃。
彼らの鼻を衝いていた腐臭はようやく消えた。
アルマークを担いでいた男も、そこまで来てようやく少年の身体を下ろしてへたり込んだ。
夜の冷気がすっかり周囲を覆っていたが、それでも男は全身に汗をびっしょりとかいていた。
闇の眷族に無差別かつ無意味に殺されるかもしれない恐怖の中、子供一人を抱えて長い距離を全力疾走したのだ。それも当然だろう。
一方、地面に乱暴に下ろされたアルマークは、鋭い足の痛みに顔をしかめた。
「くそっ」
地面に這いつくばるようにしてぜえぜえと喘いでいる男に構わず、アルマークは悪態をついた。
まだ子供のアルマークにとって、敏捷性は何よりの武器だった。
大人の膂力さえも上回る強烈な剣の一振りも、その敏捷性から生み出されるものだ。
足を痛めたことは、これから旅を続けるうえでは命取りにもなりかねない痛恨事といえた。
歩き出そうとして、やはりすぐにびっこを引いたアルマークは苛立たし気に舌打ちする。
「やれやれ、ずいぶん走ったな」
最後尾で森から出てきたバルテは呑気な口調でそう言うと、まるで木材でも投げ出すようにリーダー格の男の身体を投げ出した。
地面に身体を打ち付けた男が、ぐぎゅ、という奇妙な声を発する。
「ああ、重かった」
「だったら無理する必要はなかっただろう」
痛みをこらえて、アルマークは憎まれ口をたたいた。
「仲間まで殺そうとするようなやつだぞ、スナブジュレモに食われるのにちょうどいい。放っておけばよかったんだ」
仲間まで殺そうと、という言葉に男たちの顔が強ばる。
リーダー格の男は低く呻いて目を開けた。
「こ、ここは」
「おう。目が覚めたか」
バルテは口元に薄笑いを浮かべて、男の顔の前に屈みこんだ。
「俺が誰だか分かるか」
最初は呆然とした顔でバルテを見返していた男は、不意に顔を引きつらせて「ひっ」と悲鳴を上げた。
「待て、やめろ」
「何が待てだ」
バルテの背後で、アルマークが冷たい声を出す。
その顔を見て、男の身体が小刻みに震え始めた。
リョウゼンアマシの群生地でアルマークとバルテに殴り飛ばされたときの痛みと恐怖を身体が覚えているのだろう。
「は、は、話せば分かる」
無様なほどに震えた声で、男は言った。
「だから待て、早まるな」
アルマークは呆れた顔で肩をすくめ、バルテを見た。
バルテは立ち上がってにやりと笑う。
「話せば分かる、か。うむ、いい心掛けだ」
それを聞いたアルマークがこれ見よがしに舌打ちしたが、バルテは気にしなかった。
「目が覚めたなら、お前もそっちへ行け」
そう言って、リーダーの醜態を無言で見つめていた仲間たちの方を顎でしゃくる。
リーダーは慌てて彼らの方へと這っていったが、仲間たちは誰も声を上げなかった。
八人いた男たちのうち二人がスナブジュレモに殺され、残りは六人。
対するアルマークたちは二人。
だが精も根も尽き果てた様子の彼らに、もはやバルテとアルマークに敵する気力は残っていないように見えた。
「さて、首尾よく闇からも逃げ切れたところで」
バルテは袖で汗を拭うと、上機嫌な顔で男たちに向き直る。
「じっくりと話を聞かせてもらおうか」
まだやるのか。アルマークは心底呆れたが、もう口を挟まずバルテのやりたいようにやらせることにした。
そんなことよりも。
アルマークは静かに闇の中に屈みこんで、自分の足の状態を確かめる。
足首が熱を持っていた。
これは、良くないぞ。
「全員、ここに並んで座れ」
バルテの快活な声が夜の闇の中に響く。
男たちが行儀よく自分の前に並んで座るとバルテは、自分は立ったままで腰に手を当てた。
「よし。お前が話せ」
有無を言わさぬ口調で、一人を指名する。
「えっ、お、俺が?」
指名された男は目を白黒させた。それもそのはず、その男はリーダーでも何でもなかった。
「そうだ、お前だ」
バルテは一瞬の躊躇もなく頷く。
「喋らんのなら、首根っこを掴んでもう一度森の中に投げ込むぞ」
「そ、それはやめてくれ。話す、話す」
男は悲鳴のような声を上げた。
二人の桁外れの強さと闇の眷族の恐ろしさを目の当たりにしたばかりの男たちは皆、すっかり毒気を失ったようになっていた。
「何を話せばいいんだ」
「さっきのリョウゼンアマシの下りからだ。そいつが暴れたせいで詳しく聞けなかったからな」
バルテに顎で示されたリーダー格の男がうつむく。
よくやるよ。
アルマークは黙って屈み込んだまま、愛用の剣を握ってみる。
足が痛み、踏ん張ることができない。
「くそ」
おそらく、無理に踏ん張ろうとすれば怪我はますます悪化する。足に負担をかけるのはまずい。少年にもそれが感覚で理解できた。
バルテと男たちの話し合いは続いていた。
もう終わったことにアルマークは何の興味もなかったが、男たちの話によれば、高額で取引されるリョウゼンアマシの花を手に入れるために、ここを訪れる旅人を騙しては群生地に引きずり込み、そこで殺害していたのだという。必要なのは新鮮な血だけなので、遺体は別の場所に棄てていた、と。
「救いがたい真似を」
バルテは嘆息した。
「仕方なかったんだ」
リーダー格の男が叫ぶように言った。
「この集落の人間を養っていくためには、リョウゼンアマシの花がどうしても必要だったんだ」
「騙されて殺される方はたまったものじゃないがな」
バルテに冷たく言い返され、リーダーは言葉に詰まる。
「いいよ、こんな奴らみんな殺してしまえばいい」
暗闇の中から少年が発した言葉に、男たちはぎょっとしたように彼を振り返った。
「どうせもう二人死んでるんだ。あと六人死んだって同じだろ。こいつらだって殺されて当然のことをやってきてる」
自分が殺される覚悟もないくせに死を弄ぶ連中が、アルマークは大嫌いだった。
死をもたらす神フォルニアスは百の目を持っている。その目でこの世の生きとし生ける全てのものを見つめているのだ。
フォルニアスの目は老若男女貴賤を問わず、誰一人として見逃しはしない。そんなことも分かっていないのか。
「まさか自分たちは殺してもいいけど誰かに殺されるのは嫌だなんて、貴族みたいなことを言いはしないだろ」
闇の中から立ち上がった少年の怜悧な顔が月明かりに照らされる。
男たちの目には、少年がまるでフォルニアスの使いのように見えた。
「や、やめろ」
「助けてくれ」
口々に叫ぶ男たちを見ても少年は表情を変えなかった。
お互い様だ。
あの窪地でもしもアルマークとバルテが命乞いをしたとしても、彼らは決して助けてはくれなかっただろうから。
「……ああ、だけどお前」
アルマークは思い出したように一人を指差す。それは森の出口までアルマークを担いで走った男だった。
「お前は僕を助けてくれたから、僕は殺さない。北の傭兵は恩義を大事にするからな」
男が救われた顔をしたのは一瞬のことだった。アルマークがこう続けたからだ。
「だからバルテ。こいつだけはあんたが殺せ。ほかのやつは僕が殺す」
「そ、そんな!」
天国から一転地獄へ落とされたような顔で男が悲鳴を上げる。
「どっちも却下だ、アルマーク」
バルテは苦笑していた。
「俺はもう少し建設的な話をする」
穏やかな口調だった。
アルマークは不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
もう自分の意見は出した。後はバルテの決めることだ。




