闇の眷族
ぴー……
まるで笛のような、小鳥のさえずりのようなその音は、生ぬるい風とともに、窪地を囲む男たちの間を吹き抜けた。
「バルテ」
アルマークの判断は早かった。
「撤収だ。今すぐ森を出ないと間に合わないぞ」
「そうだな」
バルテもそこはさすがに北の剣士。即断を躊躇わなかった。
「お前らとの話は、森を出た後だ」
そう言って、腕を捻っていた男を解放する。
まだそんな吞気なことを。
アルマークは内心舌打ちしたが、そんなことを言っている時間さえ惜しかった。
自らも捕えていた男を突き飛ばすようにして解放すると、アルマークは身を翻した。
「アルマーク!」
バルテの声。
次の瞬間、右のふくらはぎに鋭い痛みが走った。
まさか。
アルマークは振り返った。リーダー格の男が、血走った眼で弓を構えていた。防寒用のマントを貫き、矢はアルマークの足を傷つけていた。
「お前らは、ここで死ぬんだ」
男が叫ぶ。
まさか、森の魔笛を聞いても人間同士の戦いをやめないほどに愚かな人間がいるとは思わなかった。
アルマークは己の未熟を悔やむ。
完全に、僕の油断だ。
「逃げられると思うなよ」
男が次の矢をつがえる。それを見ながら、アルマークは冷静に自分の状態を確かめた。
分厚いマントのおかげで、傷は浅い。十分に走れる。
アルマークは矢を引き抜きざま、男に向かって投げた。
矢は途中で雪の中に落ちたが、男が一瞬怯み、弓の狙いが逸れる。
それと同時に、アルマークは体勢を低くして走った。弾かれた石礫のような疾走。
「このっ」
男がアルマークに狙いを定める。だがアルマークは速度を緩めなかった。
男の放った矢がアルマークの肩をかすめる。
男の仲間たちが唖然として見守る中、男は前後から同時に殴りつけられて、折れた枯れ枝のようになって昏倒した。
「まだ動けるみたいだな、アルマーク」
男を後ろから殴り飛ばしたバルテが言った。
「ふん」
前から男の顔面を殴りつけたアルマークは、バルテを睨みつけた。
「ここまでされても殺すなって言うんだろ、あんたは」
「その通りだ」
バルテはにやりと笑った。
「だんだんと分かってきたな」
それから、呆然と突っ立っている男たちに向かって声を張り上げた。
「お前らの仲間は自分たちで担げ。急がんと闇が来るぞ」
我に返ったように、ようやく男たちの動きが慌ただしくなった。
真っ先に逃げようとした二人の足を、バルテが引っ掛けて雪の上に転がす。
「仲間を担げと言ってるだろう」
胸ぐらを掴んで引き起こすと、バルテは乱暴に二人の頬を張った。
怯えた目の男たちはようやく仲間たちのところへ戻っていくが、そこでも言い争いが始まっていた。
「俺は嫌だ。担がない」
そう叫んでいるのは、先ほどまでバルテに捕まっていた男だ。
「お前ら、俺ごとあいつらを殺そうとしただろう。お前らなんかもう仲間じゃねえ」
先ほど自分もろとも射殺されそうになったことを根に持っているようだった。
「なんてバカな連中だ」
アルマークは吐き捨てた。
「そんなこと、森を出てからやればいいのに」
「仕方ないな」
バルテが駆け出すのを見て、アルマークは己の目を疑う。
「嘘だろ、バルテ」
「どけっ」
バルテは男たちの中に割って入ると、昏倒したリーダー格の男を一人で担ぎ上げる。
「ほら、行くぞ」
そう叫んで走り出す。さすがは歴戦の剣士だけあって、大の大人一人抱きかかえてもその動きは機敏だった。
男たちもバルテに気圧されるように走り出す。
ざわざわざわ、と風もないのに激しい葉擦れの音が森のあちらこちらから聞こえてくる。
それとともに漂ってくる、鼻を衝く臭い。
腐臭。
ああ、くそ。間に合わないじゃないか。
足の痛みをこらえて走りながら、アルマークは思った。
腐臭が濃くなってくる。
アルマークを追い越すようにして、男の一人が先頭に立った。
仲間を担ぐバルテを気にする素振りも見せず、一目散に駆けていく。
邪悪で薄情な連中だ。こんな奴らを助けて、どうしようっていうんだ。
苛立ったアルマークがその背中を睨みつけた時だった。
「ぎゃああっ」
その男が突如悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「止まれ!」
アルマークは叫んで自らも足を止めた。
「くそっ」
男の身体に黒い泡のようなものがまとわりついていた。泡はぼこぼこと這いまわりながら男の身体を溶かしていく。
「スナブジュレモ」
アルマークはその闇の眷族の名を呟く。それに反応したかのように、泡が立ち上がった。
人の形をとる、黒い泡の怪人。
闇の眷族、スナブジュレモ。
襲われた男はすでに骨を剥き出しにして絶命していた。
厄介なやつだ。
アルマークは剣を構え、後ずさる。
泡だけの身体は、戦士の天敵とも言えた。
こいつは剣で斬れないぞ。
「アルマーク」
担いでいた男を他の男に任せてバルテが駆け寄ってきた。
「こんなところで立ち止まっていられない。囲まれるぞ」
その言葉通り、スナブジュレモは闇の眷族の中では比較的小さいものの、同時に現れる数の多いことで知られていた。
目の前にこいつが一体現れたということは、この周りにも何体もいるということだ。
ざわざわ、という葉擦れのような音が前からも後ろからも横からも聞こえてくる。
「だけど、剣じゃ斬れない」
アルマークが言ったときには、もうその横で立ち止まることなくバルテが前に出ていた。
突っ込んでくる剣士の姿に、スナブジュレモが泡立つ腕を振り上げる。
バルテの剣が一閃した。
ぶしゅ、という音とともに泡が飛び散る。
だが、斬ったと思った腕はすぐに無数の湧き立つ泡で繋がってしまう。
ほら、やっぱりだ。剣じゃだめなんだ。確かあいつには、火を。
アルマークがそう考えたとき、バルテがさらに剣を振るった。
一度ではない。目にもとまらぬ速度で何度も何度も。連続で剣を振るい、スナブジュレモの身体を切り刻んでいく。
まるで巨大なつむじ風にでも巻き込まれたようになす術なく、スナブジュレモの身体は崩れていった。
バルテの斬撃のあまりの速さに、泡の湧き立つ速度が追い付かないのだ。
すごい。
アルマークは目を見張った。
先ほどのような多対多の状況ではバルテはしばしば間違いを犯したが、一対一のときのその強さはさすがに歴戦の剣士だけあった。バルテの剣には、戦場を駆ける傭兵にはない別種の研ぎ澄まされた凄みがあった。
スナブジュレモをもう当分復元できないところまで寸断すると、バルテはほとんど息も切らすことなくアルマークたちを振り返る。
「よし、行くぞ」
バルテを先頭に、アルマークたちはスナブジュレモと男の死体の脇を駆け抜けた。




