死地
すり鉢の底のような地形。
アルマークとバルテは、そこに誘い込まれてしまっていた。
上から二人を見下ろす男たちの構える弓が、夕暮れの薄暗がりに鈍く光る。
「なぜだ」
バルテが叫んだ。
「なぜ我々を殺そうとする」
答えの代わりに飛来した矢を、バルテは剣の一閃で叩き落す。
「答えろ!」
だが、返事はない。
そんなことを言っていたって、らちが明かないだろう。
アルマークはじわりとバルテに近付いた。
一本や二本の矢なら対処できる。だが、あらゆる方向から飛んでくる無数の矢には、さすがのアルマークでも対応はできない。
とにかくこの死地から脱しなければ。
「バルテ」
アルマークは男たちから目を離さずに囁いた。
「まず、ここから抜け出すぞ」
バルテからの答えはなかったが、アルマークは気にしなかった。バルテだって、それに異論があるはずはないからだ。
ここまで降りてきた道。
抜けるなら、雪が踏み固められているあそこを駆け上がるしかない。
ほかはだめだ。雪に足を取られて速度が出ない。格好の的になる。
首を動かすことなく、アルマークは目だけでそれらの状況を確認する。
ばらばらの方向から、同時に五本の矢が飛んできた。
一本は外れ。二本はバルテ、あと二本が自分だ。
瞬時の判断。
アルマークは元来た道へと駆け出した。
自分を狙った二本の矢が、雪の上に突き立つ。
走り出すのを見越していたかのように、アルマークに向けてさらに何本もの矢が放たれたが、アルマークにもそんなことは予想済みだった。
いちいち見るまでもなかった。戦場と同じだ。空気を震わせる音だけで、矢の飛んでくる方角と速度を判断する。
アルマークの長剣が凄まじい速さで二度、三度と閃き、矢は虚しく白い地面に散らばった。
身を屈めて走りながら、次の矢に備える。
だが、追撃の矢は飛んでこなかった。
おかしい。そう思って振り返ったアルマークは、信じられないものを見た。
男たちに向かって一直線に雪の斜面を駆け上がっていくバルテ。
バルテが返事しなかったわけを、ようやくアルマークは理解する。
どうりでアルマークにそれ以上の矢が射かけられないわけだ。
敵の矢は、バルテに集中していた。
背後からの矢が、バルテの肩をかすめる。
なんて無茶を。
いくらバルテの剣技が卓絶していると言っても、背後や側面から矢を射られればかわし続けることなどできない。一本でも急所にもらえば、それで終わりだ。
アルマークは舌打ちと同時に身を翻した。
「らああっ!!」
周囲一帯を震わせるほどの、少年離れした怒声。
男たちの視線が自分に向けられるのを感じる。
戦場で鍛えた鬨の声。父レイズに教えてもらった、生と死とを分かつ叫び。
アルマークはバルテとは反対の斜面を斜めに駆け上がった。
「射て、射て!」
その速さに、初めて男たちの間から慌てた声が上がる。
「相手は二人だ、慌てるな」
そんなことを言うやつが、一番慌ててるんだ。
アルマークは身体の向きを変え、雪の上を今度は滑るように駆け下りた。
背後に突き立つ矢を尻目に、再び別の場所から駆け上がる。
慌てた声が、そこかしこで上がった。
統制の乱れた弓兵など、戦場であればものの数ではない。
だがここは雪に埋もれかけた斜面だ。
思うような速度で走れないからこそ、こちらに敵の注意を引き付けてバルテを援護する。
それがアルマークの意図だった。
それでも地の利は、周囲を固めるこの男たちにあった。もしも彼らが冷静に自分に背を向けている相手だけを集中して狙えば、アルマークもバルテも生き残ることはできなかっただろう。
しかし、怒声を上げながら剣を振りかざして自分に迫る相手を真っ先に狙いたくなるのは、人としての本能のようなものだ。
ろくに引き絞ることもなく慌てて放った矢は力を失い、二人のまとう防寒マントの厚手の生地を貫けずに止まった。
先に斜面の上に飛び出したのはバルテだった。
目にも止まらぬ剣さばきで直近の男の弓を真っ二つに斬ると、その腕を捻り上げて、悲鳴を上げる男の背中に回る。
バルテを射とうとしていた男たちがためらったように手を止める。
「動くな、お前たち」
暗い森の冷えた空気の中に、バルテの声が響き渡った。
「もう射つな、さもないとこの男は死ぬぞ」
男たちが動きを止めた中で、一人だけ動きを止めない者がいた。
アルマークだ。
雪を跳ね上げて、バルテのいる方とは反対の斜面を一息に駆け上がったアルマークは、そのまま目の前の男の首筋に剣を叩き込む。
「待て、アルマーク!」
バルテの鋭い制止に、アルマークの剣は男の首の皮に微かな赤い筋を残してぴたりと止まった。
魂が抜けたように、その男が地面にへたり込む。
「殺すな」
バルテの言葉にアルマークは不満も露わに睨み返したが、それでも男の胸ぐらを掴んで乱暴に引き起こすと腕をねじり上げ、その身体を盾代わりにして周囲を油断なく睥睨した。
男は全部で八人。
この場所に誘い込んでからのためらいのなさから見て、こうやってアルマークたちのような旅人を殺したことも一度や二度ではないだろう。
「お前たち、何が目的だ」
バルテは言った。
答える者はいない。バルテは自分の押さえつけた男の腕を容赦なく捻り上げた。
男の悲鳴が森にこだまする。
「答えろ、何が目的だ」
それでも他の者は答えなかったが、腕を捻られた当の本人が痛みに耐えかねて叫ぶように言った。
「リョウゼンアマシの花だ。花を咲かせたかったんだ」
「なに?」
バルテは眉をひそめる。
「どういうことだ」
「おい、やめろ」
他の男からそう声が飛ぶ。
だが、アルマークはそれだけで大体の事情を察した。
リョウゼンアマシの花は、様々な薬の材料として重宝される。
黒狼騎兵団の幹部で兵站を一手に担うモルガルドが、商人から高い金を払ってその花を仕入れているのを、アルマークも見たことがあった。
リョウゼンアマシは、滅多に花を咲かせない。だからこそ高値で取引されるのだ。
現に、この場に生えているたくさんのリョウゼンアマシにも、一輪の花も咲いていなかった。
「新鮮な血が要るんだ」
震える声で、バルテの押さえる男は言った。
「リョウゼンアマシが花を咲かせるには、この場で流れる新鮮な血を吸わなきゃならないんだ」
「迷信だ」
バルテは自身の剣技と同じくらいにきっぱりと、男の言葉を一刀両断した。
「血を吸って開く花など、見たことも聞いたこともない」
「そ、それでもここの草はそうして花を咲かせてきたんだ」
男は叫んだ。
「さあ、聞かれたことは話したぞ。その手を放せ」
「放すなよ、バルテ」
まさかとは思ったが、底抜けにお人よしのバルテが素直に手を放すのではないかと危惧したアルマークはとっさに口を挟んだ。
「その瞬間に射たれるぞ」
「分かってる」
さすがのバルテもそこまで鈍感ではなかった。
「じっくりと話そうじゃないか。迷信から来るこんな殺生は、やめてもらわなければならないからな」
「まだそんなことを」
アルマークは顔をしかめた。
現に殺されそうになったというのに、全く懲りていない。こんな連中まで改心させようとしているのか。
「もういい」
男たちのリーダー格らしき男が、叫んだ。
バルテに向かって弓を構える。
「どのみち、こんなところでやられるわけにはいかん。こいつらごと殺してしまえ」
その言葉に突き動かされたように、他の男たちもバルテとアルマークに向けて弓を構える。
「おい、嘘だろ」
バルテが盾にする男が悲鳴を上げる。
「俺まで射つ気か。助けてくれ」
アルマークも舌打ちして、自分が盾代わりにした男の腕をさらにきつくねじり上げる。
いつの間にか、周囲はすっかり暗くなっていた。
睨み合いの中で、一瞬の静寂が訪れた。
ああ、もう夜か。こんなところでもたもたしているから。
アルマークがそう思った時だった。
ぴー……
妙に間の抜けた、笛のような音が森に響いた。
早い。
アルマークの背筋を冷たいものが流れる。
魔笛。日暮れすぐに、だって?




