5.微笑みの裏で
リズの母親はスラムで花売りをしながらリズを育てているそうだ。父親はいない。母親は父親のことを頑なに語ろうとはしないそうだ。
おそらくだが、リズの父親が貴族出身なんだろう。
侍女か、平民か、とにかく自分よりも下の女に手を出して、何か問題があればスラム街に捨てるのはこの国ではよくあることだ。
私はその日から時々、リズに会いに行くようになった。
リズはいつも一人だった。一人なのに楽しそうに遊ぶ。その姿を見ると嬉しくなる。私を見つけるとまるで花が咲いたような顔をしてトコトコと駆け寄ってくる姿は更に可愛い。
荒みそうな心を、それでも踏みとどまれたのはリズの存在が大きかった。
だけど時折、自分のような汚れた存在がリズに触れても良いのかと、自分が触れてしうことで彼女も汚れてしまうのではないかと不安になることがあった。
でも会わないという選択肢は私にはなかった。
◆◆◆
時は流れて私は十六歳となった。
その時には父の関心はもうイライザから離れていた。
歳をとれば美貌は衰えるものだ。癇癪持ちで、美貌を失いつつあるイライザに父が嫌気をさすのは当然のことだった。
そうなればそうなるほど、イライザは私に依存していった。
更に追い討ちをかけるように彼女の息子と娘、つまりはローラントとアナベルだけど二人は邸から出ていった。
二人は血の繋がった兄妹だけど、愛し合っていたのだ。それを知っているのは私と一部の使用人だけ。
私はイライザが気づくように少し誘導した。
するとイライザは「兄妹同士で穢らわしい」だの「跡取りのローラントをアナベルが誘惑した」だの騒ぎ、アナベルを責め立てた。当然、アナベルだけを責めるイライザをローラントが許すわけもなく、場は混乱を極めた。
父は娼館に行っていたため、その場におらず、仕方がなく私がその場を収めた。
イライザを慰め、彼女に自室で休むように言う。自室に戻る彼女に付き添って彼女の横に座る。落ち着かせるように触りたくもない彼女の手に触れる。
気持ちが悪い。
イライザは私の肩にもたれる。
「エーベルハルト、傍にいてちょうだい」と、女を滲ませてくるイライザには正直、吐き気しかしない。
「もちろん、あなたが望むのなら。でもその前に、イライザ。あの二人はどうしますか?」
「ローラントは私の大事な息子よ。この家の正統な後継なのに、もしこのことが旦那様に知られたら」
長兄は私だから家を継ぐのは私なんだけど、イライザの中ではその可能性は排除されているようだ。分かっていたけど、よく私の前で言える。
自分以外の人間にも心があるということを彼女は理解していないのだ。だから私が心の中で何かを思っていると、考えていると思いもしないのだろう。
「そうですね、もし今父が付き合っている女性が妊娠して、それが男の子だったら」
自分も私の母にしたのだ。その先は言わなくても分かるだろう。
ちらりとイライザを見ると青ざめ、震えている。いい気味だと心の中で笑いながら私は彼女の肩を抱く。
「大丈夫ですよ、イライザ。あなたには私がいます」
「エーベルハルト」
縋るように見つめてくるイライザに私は安心させるように微笑む。
「アナベルを嫁に出しましょう。まだ年齢的に早いですが、前例がないわけではありません。父は家に興味のない人ですからどうとでも言い訳ができます」
「それで解決できるかしら」
「ええ。使用人には口止めをすればいい。そうすれば今日の出来事は無かったことにできます。大丈夫ですよ、イライザ。年頃の男女が身近な異性に惹かれるのはよくあることですし、一過性のものです。離れれば正気を取り戻します。大丈夫ですよ、イライザ」
「ええ、そうね。大丈夫だわ」
私は暫くイライザの相手をした後、部屋から出た。
「ああ、穢らわしい」
すぐにでもシャワーを浴びて、洗い流したけどまだやることがある。
私は次にローラントの元へ向かった。
「イライザがアナベルを結婚させるそうです」
「そんなのはダメだっ!あれは俺のだ。誰にも渡さない」
父親からも母親からも愛してもらえなかった兄妹。愛に飢えた子供たちはお互いを愛することで寂しさを埋めていったのだろう。そしてそれが本物の愛だと錯覚してしまった。
錯覚だと気づかなけれなそれは確かに本物なのかもしれない。それに気づいて破局するか、気付きながらも気づかないふりをして歪な関係を続けるか、最後まで気づかないか。二人の行く末に興味はない。
「イライザにとって大事なのはあなたです。アナベルがあなたを誘惑した。だからアナベルを離せばあなたは正気に戻るとイライザは考えています」
「はっ。大事なのは伯爵家だろ。今の生活を続けるために俺が必要なだけだ。イライザはお前に依存しているようだが、心のどこかでは分かっているんだ。お前が信用ならない奴だと」
私は笑みを深める。
そう、ローラント。あなたは正しい。私は信用すべきではない。でも、そう分かっていてもあなたは私の手を取るしかないんですよ。
「イライザの考えを変えることはできませんよ。アナベルの結婚は決定事項です」
「アナベルを連れてここを出る。俺はあの女と違って、貴族だとか伯爵家の暮らしとかに興味はない。アナベルさえいればいい」
少し羨ましいと思う。
そんなふうに執着できる存在がいることに。
でも、所詮は世間を知らない貴族のお坊ちゃんだ。
「私の母は使用人の男と一緒に邸を出ました。その結末をあなたも覚えているはずです。同じことをアナベルでしますか?それとも自分達は違うと言える何かがあるんですか?」
「っ」
餓死か、過労か、病死なのかは分からない。
愛した男と一緒に出ていった母は遺体となって帰ってきた。どんな生活をしていたのかは分からない。一緒に逃げた男がどうなったのかも知らない。
ただあの母の姿を見るに、決して幸せな生活ではなかったことだけは分かる。
それだけ貴族の人間が平民として暮らすのは無理があるのだ。価値観から何から何まで違うのだから当然のことだ。ましてやアナベルとローラントは子供。行き着く先はスラム街だろうことは想像は容易い。
興味がなかったとしても衝撃は強かったはずだ。彼の目にも母の死体は目に焼き付いているのだろう。その姿を思い出し、ローラントは言葉を詰まらせる。
「助けてあげます」
にっこりと笑う私をローラントは睨みつける。
「住む場所も、そこへ行く為の安全な手配も、一生食うに困らないだけのお金も差し上げます」
金は幾らでもある。
子供でも金を稼ぐ方法はイライザが教えてくれた。
「その代わり、一生私の前に姿を見せないでください。もちろん、あなたとアナベルに子供ができたとしても伯爵家の後継として認知することもありませんし、あなたとアナベルにはそのことを含めて、継承権放棄の書類にもサインしてもらいます」
「・・・・・・・」
ローラントは私を信じてその話に乗ってもいいのか迷っているようだった。馬鹿だなぁ。迷うための選択肢なんて私が残しているわけがないのに。
「場所はどこになる?」
「詳しくは言えません。ただこの国ではありません」
「他国か」
「はい。治安の良さは保証します。護衛もつけます。もちろん、あなた方が死ぬまで一生」
「護衛?監視の間違いだろ」
「余計なことをしなければ気が良く、頼りになるただの護衛です」
それは裏を返せば、余計なことをすればすぐに殺すということだ。
「迷う余地があるんですか?アナベルに苦労をかけたくないのなら私の手を取るべきです。私はただこの家が欲しいだけです。その為に邪魔なあなた方を排除したいだけです」
「今まで、興味すら持たなかったくせに」
「事情が変わったんです。欲しいものができたんです」
「欲しいもの?」
「あなたには関係のないことです。ローラント、私の手を取りなさい」
「っ。分かった」
ローラントとアナベルは書類にサインをし、必要最低限の物を持って邸を出た。