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「かあしゃま。おみじゅのみたい」


 母の腕の中は花の様な良い香りがしていて、そして温かい。

 不安だった気持ちが小さくなり、ああ俺は愛されているのだと実感する。


「お水ね。マルニ」

「はい。奥様、こちらに」


 優秀な子守のマルニはすぐに水が入ったカップを用意し母に手渡してくれる。


「少しずつお飲みなさい。沢山泣いたから喉が渇いたのね。おめめが赤くなっているわ、可哀想に」


 抱き締められている体勢から横向きだっこに変更され、母に片手で背中を支えられながらカップの水を二口ほど飲んだ。

 温いけれど美味しい。カルキ臭さもない。イシュル様の言葉を信じるならここは異世界の筈だけれど、これは井戸水かなにかだろうか。


「申し訳ありません奥様。水を冷たい物に替えようと部屋を離れた時に坊ちゃまが目を覚まされた為に、あの」


 マルニは言いにくそうに母に報告している。

 それは仕方ない事だ。俺は眠っていたのだし、少し部屋を離れる事など想定の範囲内だろう。


「そう、それでフクは寂しくて泣いてしまったのね。一人で怖かったの?」

「まりゅ、すぐきたよ。かあしゃま、まりゅの事怒らにゃいで」


 滑舌の悪さが気になって、ちょっとだけ意識したらちょっとマシになった。思考は大人なのに言動は二歳児の今の状況はある意味カオスだ。

 記憶を取り戻したというよりも元々フクという人間がいて、俺がそこに入り込んでしまったのだろうと不不安になる。そうだとしたら、俺はフクに取って招かれざる客ということになる。


「フクは優しいわね。マルニは仕事を怠けていたわけではないのだから勿論叱ったりしないわ。さ、お水を飲んで」

「おみじゅもういらにゃい」


 カップを母に押し付ける。

 喉は渇いているけれど、胃の辺りが重くてこれ以上は飲むことが出来そうになかった。


「では後で飲みましょうね」


 無理強いすることもなく、母は俺からカップを受けとりマルニへ渡す。


「目が腫れているわね。マルニ」

「はい、奥様」


 マルニは良く気がつく優秀な子守りなのだろう。母に名前を呼ばれすぐに行動し始める。


「こちらを」


 俺の額を冷やしていたであろう布を洗面器の水に浸してぎゅっと絞ると、マルニは恭しく頭を下げ布を母に手渡す。少し怯えている様にも見える。俺を泣かせてしまった事で叱責されるのを恐れているのかもしれない。

 母は俺の前で使用人を怒ったりした事は無いし理不尽な行ないをした事もない。いつだって優しく穏やかな笑みを浮かべている人だけれど、俺のいないところでは違うのだろうか。それとも厳しいのは父親の方なのだろうか。


「目を閉じて、少しこれで冷やしておきましょうね」


 優しく言われて目を閉じると、すぐに濡れた感触が目の辺りにやってきた。


「フクが目を覚まして本当に良かったわ。高い熱を出して倒れたと聞いて心配したのよ」


 心配する母の声を聞いて、倒れた時に側にいたのもマルニだったと思いついた。

 倒れる程の高熱を出しているのを見落としていたのは、子守として問題なのかもしれない。


「目を覚まして本当に良かった」


 目を閉じて母の声を聞いていると、本当に心配していたのだと分かる。

 背中に感じる手の温度、目を冷やす布を押さえる優しい手の感触は前世で体験した事のないものだった。


「坊っちゃま、マルニがお側にいながら申し訳ありません」

「マリュごめんしないで。わりゅくないよ。かあしゃま、まりゅを叱らないで」


 意識してもマルニの名前は言えない。るの音が幼児の舌では言いにくいのかもしれない。

 俺の気持ち通りの言葉は出てこないのは、二歳児のフクの語彙がそれほど多くないせいなのかもしれないが、これは俺とフクが別の人間って事なんだろうか。フクの意識が見つけられないのだけれど、俺がこの体を奪ってしまったのだろうか。

 どうしてもそれが気になってしまう。


「マルニ今回の事はお前が悪いわけでは無いわ。薬師も突発的な発熱だと言っていたのだし、今後この様な事が起きない様十分に注意してくれるならそれでいいわ」

「奥様、申し訳ありません。今まで以上に誠心誠意お仕え致します」


 マルニは母にそう言った後「ぼっちゃま本当に申し訳ありませんでした」と再度俺に謝罪の言葉を口にした。

 マルニの謝罪はこれ以上、俺が口を出すことじゃないだろう、幼児の俺が何度も庇うのは変に思われそうだ。

 それにしても体が怠い。母に背中を支えられているけれど、気を抜くとずるずると体が沈みこみそうだ。


「かあしゃま」

「なあに? おめめは冷えたかしら」


 布を取り俺の顔を覗き込み様子を窺う。母の顔は真剣そのもので、なんだか少し怖い気がする。

 美人が真剣な顔すると怖いんだなと思った。


「眠い」

「そうね、お父様がお戻りになるまで少し休みましょうね」


 そう言うと母は俺をベッドに寝かせ毛布を掛けてくれる。毛布を掛け俺の胸の辺りをポンポンと優しく叩く。フクとしては何度も経験している優しさだけれど、福一としては一度も受けた事のない優しさに俺はなんとも言えない気持ちになっていた。

 悲しいとも苦しいとも違う。鼻の奥がツンと痛くなる様な、甘く切ない気持ち。

 母の優しい手に安心して、でも離れていくのではと不安になる。


「ここにいて」

「勿論側にいますよ。さあ、母様が手を握っていますからね。こうしていれば寂しくないわね」

「ん」

「マルニ、私が付いているからお前はフクの食事の用意を手伝っておいで。消化の良いスープが良いわ」

「畏まりました。果物のジュースは如何いたしますか」

「そうね、ピア-チのジュースを少し。フクはピア-チが好物ですからね」

「ではそのように料理長に伝えます」


 ピア-チのジュースは大好きな飲み物だ。本物は見たことが無いけれど、味は桃に似ている。

 母に甘えながら好物のジュースを飲めるなら嬉しいと思う。

 この感情はフクの物だけれど、違和感なく俺もそう思う。


「かあしゃま、とうしゃまは」

「フクが良い子に眠っていたらすぐに戻られるわ。起きたらピア-チのジュースとスープを飲みましょうね」

「うん。ピア-チしゅき」


 瞼を開いているのも億劫になり目を閉じかけながら返事をすると、母は優しく俺の指先を握りながら「さあお眠りなさい」と囁いた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「目を覚まして、福一。フク」


 声が聞こえる、優しい声だ。聞いたことがある、この声は……。


「イシュル様」

「そうだよ。久しぶりだね福一。暮らしはどうかな」


 声の主に思い当たり慌てて瞼を開くと、あの白い空間だった。

 転生前に見た白い白い場所。ということは、俺はまた死んだのか。もう、家族に会えないのか。


「悲しい?」

「はい。」


 以前この空間に来たときとは明らかに違う感情だった。今の俺はもうフクとして生きられない事に絶望していた。母の優しい手、俺を心配する兄妹の声。子守のマルニの働く姿。もう会えないのかと思うと涙が出そうになってきてしまう。


「良かった。君は幸せに暮らしていたんだね」

「はい。俺の記憶が戻ったのはほんの数時間前ですが、福一の記憶が無くてもいいえ無かったからこそフクは幸せに暮らしていました。優しい家族に見守られて、俺はとても幸せでした」


 悲しい。でも、ほんの僅かでも幸せだったと思える時間を過ごせたのだからそれで満足するしかない。

 もうあの空間に戻る事は出来ないのかと思うだけで涙が出そうになるけれど、母の腕にもう一度だけ抱かれたかったと悲しくなるけれど、諦めるしかない。


「こらこら、諦めるの早すぎるよ。福一」

「でも俺は死んでしまったのではありませんか。ここはフクに転生する前に来た場所ですよね、ということはフクは死んだと言うことなのではありませんか」

「まあ、基本生きている人間はこの場所には来られないけれど。今日は特別だよ」

「特別ですか」


 ということはフクはまだ生きているのか。なんだ、良かった。

 死んでいないと理解してほっと胸を撫で下ろしていると、イシュル様は笑いながら俺を見つめている事に気がついた。


「何か俺の行動はおかしいでしょうか」

「うん。変わったなあと思ってね。福一はあんなに自分の死を喜んでいたのに、今の君は別人の様だね。まあ、フクとして生まれ変わったのだから本当に別人なのだけど」

「別人。あの、イシュル様。一つ伺ってもいいでしょうか」


 不安に感じていた事を思い切って聞いてみる事にした。

 だってこの答えはイシュル様しか知らない。


「なんだい」

「俺とフクは別の人格でしょうか。あの、つまり」

「君がフクの中に入り込んでしまった。そう考えている?」

「はい。福一としての記憶が無くてもフクは不自由なく二年間過ごしていました。俺はさっき記憶を取り戻したばかりです。福一の感情でフクは動いていますが、言葉が思った様に出てこないし行動もどこか幼いきがします。感情も、福一の感情と一緒に違う何かがあるようで、それが」

「フクの感情だと思うって事かな」

「はい」


 不安だった。フクという人間の体に俺が無理矢理入り込んでしまったのか。俺の記憶が戻る事でフクの人格を消してしまったのでは無いか。不安で不安で仕方なかった。


「フクはそのまま君だよ。フクという人間が元々いて、そこに福一という人間が入り込んでしまったわけではない。日本に生きていた福一という人間の魂を僕の世界に引き寄せて、福一の記憶を持った新しい魂にした。そしてフクとして生まれさせただけ。福一がフクなんだよ」

「でも」

「違和感がある? でも君はフクの記憶があるでしょ。それは別の人の物だと思うかな」

「いいえ。記憶はあくまで俺自身の物だと感じます。ただ時々ばらばらな意識を感じる事があって、母に優しくされてフクは当然だと感じ、俺は福一の時はこんな優しさを感じた事がなかったと戸惑うのです。まるで二人の人間が一つの器にいる様で、それに俺が思う様に言葉を話す事が出来ません、使っている言葉も幼いものでした」


 だから不安だったのだ。フクの体を俺が奪ってしまったのでは無いかと。


「そうだね。今は少し違和感があるかもしれないけれど。すぐに慣れるよ。フクは元々福一の魂から出来ている。フクは君、福一そのものだ。ただ大人だった君に赤ちゃんからやり直させるのは少し気の毒だったから、福一としての感情を今まで封印していただけなんだよ」

「封印ですか」

「そう。君の赤ちゃんの時の状態を再現したといった方がいいかな。君は記憶をすべて無くしてやりなおしたいと願っていたよね。子供の頃をやり直したかったんだよね」


 イシュル様に言われて、俺は小さく頷いた。

 大人が子供に戻る事は出来ない。だから俺は、福一の記憶を、過去を失いたかった。そうすれば歪んだ自分の性格が少しはマシになるのではないかと思っていたからだ。でも、フクの人生を生きて自分の記憶を取り戻して、その願いが実は違っていたと分った。

 俺は記憶を失って、過去を無かった事にしたかったわけじゃない。俺は、福一は子供の頃からやり直したかったんだ。


「君は元の記憶を消して、子供の頃からやり直したいと願っていた。駆け引きも何も無い、無条件の愛情を沢山受けて過ごしてみたい。それが君本人ですら気がついていない願いだった。だから福一の記憶を封印して幼い時期を過ごさせてあげようと思っていたんだけれど。予定よりだいぶ早く記憶が戻ってしまったんだ。だから体が拒絶して高熱を出したというわけ」


 イシュル様の説明で納得出来た。そうだ俺は願っていた。

 福一が一度も受けた事がない家族からの愛情。家族が自分を害する等想像もしない、家族からの愛情を疑う事の無い、世の中の人が普通だと言う様な幸せな暮らしをしてみたい。それが俺の願いだった。


「君は余程恐怖だったのだろうね。僕が掛けた封印を自ら解いてしまう程、君は学ぶ事に恐怖を持っている」

「学ぶ、そうではありません。学ぶ事は俺にとって息をするよりも簡単にできる事です。どうしてでしょうね。覚えなければいけない事もそうで無い事も、俺の頭の中にはすぐに記憶されてしまうんです。そして忘れない。苦痛でもなんでも無く記憶するんです」


 頭が良いわけじゃ無い。ただ記憶する力があるだけなのだと思う。

 勉強をするだけなら簡単に出来る。でも、出来るだけだ。頭が良いというのとはきっと違う。

 人の心を理解するのは苦手だ、他人との距離感もよく分らない。自分が何を言ったら人を喜ばせ、また怒らせたり不快にさせるのか理解出来ない。勉強したことをどうやったら活用出来るのかもよく分らない。

 数学の公式は、ただの公式で。英語を理解し文章を書いたり話をしたりは簡単に出来る。他の言語も勉強すればしただけいくらでも覚えられる。学校で学ぶすべての事、教科には無くても法医学、政治、経済、なんでも簡単に記憶できた。勉強以外でも何でも記憶する。でもそれだけなんだ。それだけなのに、俺は家族から嫌悪の対象となったのだ。

  

「そのようだね。それは今のフクも同じだよ。記憶が戻っていなくてもフクは実に物覚えよく成長していた。子守が苦労する、赤ん坊から幼児に掛けての躾。スプーンやフォークの持ち方、手づかみで物を食べない、おむつでは無くトイレを使う事。洋服を脱ぎ着すること。フクはそれはすぐに覚えてしまった。他の兄弟についている子守がした苦労を、君の子守は体験しなくてすんだのだから君は優しい主人だという事になるのかもね」


 他の兄弟との違いをイシュル様に教えられ、俺は絶望を感じ始めた。

 すでに俺は、フクとして生き始めた俺は、幼児としてしてはいけない事をしていたのか。

 寝込んでいた俺を兄弟達は心配してくれていたけれど、あれはもしかしたら演技だったのだろうか。


「こらこら、悲観的にならないの」

「イシュル様」

「そんなに不安そうな顔しなくても大丈夫。君は、フクは兄弟にも家族にも使用人達にも愛されているよ。福一が前世で望んでいた通り、君は愛情に包まれて暮らしていた。それは覚えているだろう?」


 怯える俺に向かって、イシュル様はそう言うとポンポンと頭を撫でてくれるのだった。

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