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ハヌマフクって変な名前。
目が覚めた瞬間、転生時の事を思い出した俺が次に思った事は自分の名前についてだった。
微妙というか変な名前というかだけれど、この家の伝統だから仕方ない。
ハヌマフク・アディサールというのが俺の名前だ、ちなみにアディサール辺境伯家の末っ子で上には兄が四人、姉が一人いる。
通常ハヌマフクという名前で呼ばれる事は無く、愛称はフクだ。
前世の俺は福一という名前だったけれ、ど愛称で呼ばれた事は一度も無かったから、フクという呼び名はなんだか違和感があるけれど、これには理由がある。
このアディサール家では、生まれた男子にはハヌマと名前の最初に必ず付けるのだ。
だから、父親の名前はハヌマイアだし、兄は上からハヌマカトル、ハヌマテミス、ハヌマピア、ハヌマシュタルとなり、呼び方はそれぞれイア、カトル、テミス、ピア、シュタルとしている。
だったらそれが名前でいいじゃないかと思うのだが、ハヌマという言葉には「神の愛し子」という意味があるそうで、この名前のハヌマはアディサール家の祖先が元々神官だった事に由来するらしく、神官だった祖先に敬意を表する為にこの名前を付ける事にしているらしい。
そんな祖先を持つこの家は、皆信仰心が篤く屋敷の敷地内には小さな神殿もある。その神殿に毎朝皆でお参りをしているくらいだ。日本人だった時、神社への初詣はおろか盆や彼岸に墓参りすらしていなかった俺にとっては貴重な体験だと思う。
前世信仰心が全く無かった俺に、イシュル様は徳を積んでいたといっていたのは信じられない話だ。
『それにしてもイシュル様の話と違うよな』
ハヌマフクとしてこの世界に生を受けてから今まで、今二歳だからごくわずかといえばそうだけど、ハヌマフクが見慣れたこの部屋は、幼児の部屋としては豪華すぎる位に豪華だ。
イシュル様の示した家族は、優しく愛のある貧乏家族と冷たい関係の金持ち家族で、俺は迷いなく愛のある貧乏家族を選んだ。
だけど二歳までの記憶に貧乏だと感じるエピソードは皆無だ、それどころかこの部屋同様、この屋敷はどこも金が掛かった作りだ。
豪華だと一言で片づける事は出来ない、成金ぽさは皆無だし、むしろ歴史を感じる、ハヌルの名前同様、先祖が残した物を大切に継承してきたのだとわかる物だった。
『愛情かけて育てられてきたよな』
不安になって言葉にして確認する。
俺はちゃんと選んで、イシュル様はそれを認めてくれた。家族に愛して欲しい、新しい人生を歩むことになるならそれだけが俺の願いだった。
『大丈夫だ、俺は愛されていた』
二歳児の俺でもはっきりと判断がつけられる程、俺の両親も兄弟達も俺を愛して大切にしてくれた。
それはうっとうしいと感じる程の愛情で、いつもどんな時も俺は幸せに暮らしていたのだ。
でも、なぜ今は一人なんだろう。
幼児といえ貴族だから、基本は一人の部屋で子守りが見守る中眠る。
なのに、今俺はたった一人でこの部屋にいるのだ。こんな事今まで無かった。
今までの記憶も感情も全部ある。二歳児の俺は、二歳児らしい行動をしていた。
今前世の記憶が戻ってもその感情は残っている。これも俺だったとわかる、前世の記憶が戻っていなかっただけで俺は俺らしく行動していた。まだ勉強なんかはしていなかったけど、多分意識は元々の俺で記憶力どころか知識もあったんだろう。教えられた事は一度で全部覚えて出来た。傍から見たら賢い子供だったかもしれない。
まさか、それで怪しいと思われていたのか。変だと、この子供は異質だと思われていたのか。
俺が気が付かないところで、元の記憶から変な行動を起こして徐々に嫌わていたのか。そして、記憶が戻った事が決定打となって。それで。
『違う。違う』
記憶はどうして戻った? 俺はこの部屋でずっと眠っていたのか? でもどうして。
カーテンを閉め切っていても隙間から差し込む光で外はまだ明るいのだと分かる。それなのにどうして眠っていた?
昼寝をさせられていたのか、それなら眠る前に記憶は戻っていたのか。
俺は何をして、何をきっかけに記憶を取り戻してしまったんだ。
「シュタル兄しゃま」
なぜか兄の名前を思い出し、口に出した途端滑舌が悪くなった。
『あれ? あ、違う。これ日本語だ』
日本語はなぜか普通に話す事が出来る。でも、この世界の言葉を話そうとすると滑舌が悪くなるようだ。
これはうっかり日本語を話す事が無いように気を付けなければいけない。
「気をちゅけなきゃ」
この世界の言葉を意識すると、言葉は自然と拙いものになっていることに気が付いた。
意識とのギャップはあるけれど、これが俺の二歳児としての言葉なんだと分かって安心した。
これなら子供として不自然じゃない。怪しまれたり気持ち悪がられたりはしない筈だ。そこまで考えたらやっと少し気持ちが落ち着いてきて、そして記憶を取り戻したきっかけを思い出した。
あれは、すぐ上の兄シュタルが文字の勉強をしている時だった。
俺は子守のマルニと一緒に、部屋の隅にあるソファーに座ってその様子を眺めていた。
「シュタル坊ちゃま、これが家という単語です。発音して文字を書いてみましょうね」
先生が家の絵が描かれた紙を兄の前に見せる。それは俺が座っていた場所からも見え、瞬時に俺は家の綴りを覚えてしまった。でもそれが怖くて口には出せなかった。
「そうそう。ああ、一つ文字が違っていますね、正しくはこうですよ」
兄が書きそこなったであろう文字を、家庭教師の若い男は丁寧に直し再度同じ単語を兄に書かせている。俺は頭の中で家という綴りを思い浮かべて恐怖に震え始める。
「はいそうです。大変お上手ですね。では次の単語です。今度は椅子ですよ」
椅子の絵が描かれた紙、椅子の絵の下には単語の綴り。俺はそれもすぐに覚えてしまう。
そして。
「あ」
突然色んな記憶が俺の中に流れ込んで来るのを感じた俺は、小さな声をあげた。せき止めていた川の流れを一気に流した様に記憶が、知識が、俺の中に入ってきて俺は息をすることも出来なくなった。
「坊ちゃま。どうなされました。大変っお顔が真っ赤に。薬師を、ああっ。それよりも先に奥様にお伝えしなければ」
マルニの慌てた声が聞こえるけど、返事が出来ない。ただ息が苦しくて、体が熱くて。
「かあしゃま、とおしゃ……」
両親を呼ぼうとしたところで、俺の記憶は途絶えてしまったのだ。
『大丈夫だ、何もへまはしていない』
その時の様子を思い出し胸が少し苦しくなったけれど、今はそれだけだ。
すぐに気を失ったのが幸いして、変な行動はとっていなかった。
兄はびっくりした顔のまま固まって動けずにいただけで、俺に対し嫌悪感は示していない。
マルニも家庭教師も心配そうにしていただけだ。だから、大丈夫。
大丈夫だと自分に言い聞かせる、何度も何度も大丈夫だと呟き続ける、けれど不安が消えない。
「なんで」
二歳児の気持ちは不安定なのだろうか、中身の俺は三十五歳でも感情は二歳の体に引きずられてしまうのだろうか。
不安がどんどん募り、一人でいることが苦しくなる。
一人の部屋が怖い、寂しい。どうして誰もいないのか。
「かあしゃま、かあしゃま」
涙が零れ落ちて、そこからはもう感情のコントロールが出来なくなった。
「うわあああん。うわあああん」
涙が後から後から溢れてくる。涙と鼻水で呼吸が苦しくなっても涙は止まらない。
不安で不安で、苦しすぎておかしくなりそうだった。
「ぼ、坊ちゃま。誰か奥様達にお知らせして、坊ちゃまが目を覚まされたわ」
洗面器の様な物を乗せたトレイを持ったマルニが部屋に入るなり、廊下に向かって叫び声をあげるのが見えた。
子守としてその大声は褒められたものじゃないけれど、その慌てる姿にホッとした。
「まりゅに、まりゅ」
元々拙かった言葉は、鳴き声が加わり更に拙い物になる。人間の幼児の言葉というよりは、もはや猫の鳴き声に近かった。
「坊ちゃまお目覚めの時におひとりだったので、心細くおなりだったのですね。申し訳ありません」
サイドテーブルにトレイを置くと、マルニは俺の傍に駆け寄り優しく声を掛けながら、柔らかな布で涙を拭ってくれた。
マルニは明るい茶髪に緑の瞳の可愛い女性だ。二十代前半なのだろうか、もう一人の子守のラナと一緒にいつも俺の面倒を優しく面倒見てくれている人だ。
「まりゅ」
「はいはい。マルニですよ。坊ちゃま、おひとりにして申し訳ありませんでした。こんなに泣かせてしまいマルニはいけない子守ですね」
「わりゅくないよ。まりゅ、すき」
「坊ちゃま。マルニも坊ちゃまの事が大好きですわ」
俺は何を言ってるんだと焦ったけれど、どうやらこれはいつもの俺だったらしい。マルニはなんの疑いも持たずに返事をすると頭を撫でてくれた。
「おひとりにして申し訳ありません。マルニは坊ちゃまの額を冷やす為に冷たい水を取りに行っていたのです。おひとりでお寂しかったでしょう」
「まりゅがいるから、まりゅ」
不安が解消された安堵感から上手く感情がコントロール出来なくなった俺は、涙を止める事が出来ずマルニのエプロンに顔を押し付けひっくひっくとしゃっくりをしながら泣き続けた。
「マルニがお傍におりますよ。坊ちゃまお熱が下がった様ですね、安心しました。今すぐ奥様達もいらっしゃいますよ」
泣きじゃくる俺を厭う事無く、マルニは俺の背中を撫でながら優しく言葉を掛けている。
熱、俺は熱を出していたのか? 記憶が一気に戻った後遺症で熱を出したのだろうか。疑問に思いながら泣き続け、そうしているうちにまた疑問が沸いてきた。
母親はどこにいたんだろう。子供が熱を出したのに傍にいないのか、それほど心配されていなかった? 不安に思うのは幼児だからなのか、それとも元々の俺の性格が影響しているからなのだろうか。
考えているうちに答えは騒々しい声と共にやってきたのだった。
「フク!! 目が覚めたのね、良かった良かったわ」
「奥様大声を出されてはフク様が驚かれます。まだ目が覚めたばかりですぞ」
「フクは大丈夫なの。僕の前で倒れたんだよ。大丈夫なのっ」
「フク、お姉様が付いていてよ。私も中に入れてお母さま。フクのお顔が見たいの」
「フク! 俺もいるぞ。安心しろっ」
お母様とピア兄様シュタル兄様とウィシュリーネ姉様の声が一斉に聞こえ、俺はビクリと体を震わせた。
騒々しいというかなんというか、キンキンとした子供の大声は熱を出したばかりの頭には騒音でしかない。
「坊ちゃま、奥様達がいらっしゃいましたよ。皆さまとても心配されていたのですよ」
「かあしゃま。かあしゃ」
心配していたのか、そうか。その言葉だけで俺の心は軽くなり不安がやっと消えてくれた。
「フク。良かった、あなた達は入ってきては駄目よ。フクは目を覚ましたばかりなのよ、皆で騒いだらフクの体に良くないわ」
「でもお母様。わかりました、皆お部屋に戻りましょう。そろそろお父様がお帰りになる筈よ、お父様にフクが目を覚ました事をお伝えしなくてはいけないわ」
「お母様、フクの顔を一度見るだけ、見たら出ていくからお願いします」
「僕も僕もフクのお顔見たいよ。心配なのっ」
ウィシュリーネ姉様、愛称はリーネと言う。彼女は十歳だけあって聞き分け良く返事をしたけれど、他の二人は駄々を捏ね始めた。
兄様達の年齢はカトル十五歳、テミス十三歳、ピア八歳、シュタル四歳、最後に俺が二歳だ。両親の年齢は分からないけれど、カトル兄様の年を考えると二人は三十代後半位だろう。
「駄目よ。そろそろお父様が戻られるわ。部屋に戻りなさい」
心配だと騒ぐ兄二人、姉は無言のままだけど内心は同じなのかもしれない。
ここに来ていない二人の兄は学校に通っていて寮に住んでいるせいだけど、いたらピア兄様達と同じ様に騒いでいただろう。末っ子の俺を皆可愛がってくれているから。
父親はこれから戻るらしい。泣きすぎてぼんやりしている頭でそれだけを理解して、俺はベッドに近づいてきた母親に手を伸ばした。
「かあしゃま」
「フク。良かったわ」
兄達が去ってやっと静かになった部屋で俺は甘えた声で母を呼ぶ。
こんな事、前世でしたことないから内心では焦っている。でも、二歳の俺の体は母親の手を求めていた。
「突然倒れたから心配したのよ。ああ、良かった。イシュル神様に感謝致します」
ぎゅっと俺の体を抱きしめ、母はイシュル様の名を呼びながら祈りの言葉を呟いた。
俺は本当にイシュル様の世界に転生したのだと、そう思った。