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「あぁ、やっと終わる」
脇腹に刺さったナイフ。
血液が流れ出ている傷口を、俺を刺してしまった男が泣きながら両手で押さえている。その原因となった男は、駆け付けた警察官にすでに射殺されていた。
こういう時救急の人の方が早く来るのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。
生まれ育った日本ではなく、海外で死ぬ事になるなんて想像もしたこと無かった。
たまたま入ったコーヒーショップに、ピストルを持った強盗がたまたまやって来るなんて予想できるわけがない。
ピストルを持った強盗じゃなく、そいつに抵抗しようとした若者が振り回したナイフで刺されるとか、一体なんの冗談だよと笑えてしまう。
ドラマの様な展開だと笑うのは少し不謹慎だろうか。自分の事だからいいかな。
「気にすんな、俺には未練なんてないから」
泣きながら俺を案じ、詫びている様子の若者に笑ってそう言いたいのに、顔の表情筋はヒクヒクと痙攣しただけでかすれ声も出やしない。
それでも、自分の状態は判断できるのが不思議だ。流れ出ている血液が、俺の体力を奪っているのも分かる。
俺はもう死ぬのだろう。
「あんたは子供を守ろうとしただけ、恨まないよ」
声に出したつもりでも、男には聞こえていないだろう。
彼は「ごめんなさい、死なないで。神様どうか助けて、彼を助けて」と繰り返しているだけだった。
人質にされそうになった子供を助けようと、若者は持っていたナイフを振り回した。
あんな立派なナイフを持ってるあたり、さすが日本とは違う。
変な感動をしながら俺は強盗がナイフに気をとられている隙に子供を助けようと、強盗が抱きかかえていた子供に走り寄りその小さな腕を引っ張った。
小さな子供は肩の間接が抜けやすいから腕を引っ張ってはいけない。なんて昔テレビか何かで言っていた記憶があるけれど緊急事態だから大目に見て欲しい。
子供を何とか引き寄せ背後に庇うと、威嚇する様に天井に向けてピストルが発砲された。
店内に悲鳴が響いた。若者は大声を上げナイフを振り回しながら強盗に突進した。
たった数十秒。それはたった一瞬にも永遠にも思えた時間。
激しいもみ合いになった二人を見つめながら、じりじりと後じさろうとしたその瞬間俺のわき腹が熱くなった。
始めに感じたのは痛みじゃなく、大きな熱。そして耳に届いた悲鳴。後から痛みがやってきて、その刹那俺は床に倒れた。
耳障りな悲鳴、子供の鳴き声、叫び声、混沌とする中で静かに傷口から流れる血液。
ああ、命が流れていく。そう思った。
「あんたは悪くないよ。だから気にするな」
言葉にならない声を若者に呟き、俺の意識はそこで落ちたのだった。
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「諦めが良すぎるね、そんなに生きることは辛かった?」
これで楽になれる、俺は誰も恨まずにすむ。
そう思っていたのに、俺は助かってしまったらしい。
優しいとも冷静とも取れる声が聞こえて俺は瞼を開いた。
「ここは」
白い天井。違う、天井じゃない。白い、空間?
「ここは僕の場所。福一が望んだ天国とは違うけど、それに近い場所だよ」
「天国に近い場所。じゃあ俺は死ねたのか」
天国に近い場所だと聞いて、俺は少しだけ安堵した。
せっかく終わる事が出来たと思ったのに、病院で元気に目覚めたのなら悲しすぎる。
「嬉しそうだなあ。死んだじゃなく、死ねたなのか。困ったねえ」
「嬉しいのとは違うけど、そうなのかもしれないな」
俺はずっと自分を無くしたかった。ゼロに、無に、したかった。
でも、自殺するのはプライドが許さなかったし、勇気も無かったのだ。
だから、不可抗力で命を失えたのなら嬉しい。ただあの若者の行く末が気になるけれど。
「彼は大丈夫。ナイフを出した事は犯人に対する正当防衛が認められたし、君の事は子供を守るための不幸な事故だったと、彼を擁護する流れになってきているから、大きな罪にはならないよ」
「そうか。良かった」
神様、なんだろうか。
神々しい気配とでも言えばいいのか分らないが、そういう何かを纏った金髪碧眼の若い男性がしてくれた話に安心して、俺は体を起こしきょろきょろと辺りを見渡した。
真っ白い空間、どこまでも白い。境目が無い、果ても見えないただ白いだけの場所に俺はいた。
「神様と呼べばいいのか」
「そうだねえ、神と認識されているよ。僕の名前はイシュル。君の生きていた場所とは違う世界の、神という立場の者だよ」
「イシュル。イシュル様」
呼び捨ては変かと様をつける。
寝起きのぼんやりとした状態の様でいて、十分に眠った様なすっきりとしている様な不思議な感覚がしていて、なんだか少し落ち着かない。
真っ白すぎるこの空間も落ち着かない要因なのかもしれない。
「君の今の状況を説明するよ」
「状況ですか、お願いします」
天国のような場所にいるのなら、次に行くのは死んだ人間の魂が集まる場所だろうか。それともこのまま消滅するんだろうか、まあどちらでもいい。そう考えてイシュル様に頭を下げた。
「君、石川福一。読み方はいしかわふくいちで合っているね。年は三十五歳。生まれ育った日本を離れて仕事でアメリカに移り住んでいた」
「はい、合っています」
「君はさっき、ナイフで刺され出血多量で亡くなった。ここまでは理解している様だね。君を殺したその若者が憎いかな」
「いいえ。憎んだり恨んだりという気持ちはありません。彼が罪の意識を感じ苦しんでいるというなら辛いです。恨むというよりも申し訳ないという気持ちが強いです。俺がもっと上手く立ち回っていたら彼は俺を殺さずに済んだのですから」
それは本心だから、俺はありのままの気持ちをイシュル様へ告げた。
恨む筈が無い。だって俺は感謝しているのだから。
「そうか。だけど君は本当ならまだ寿命があるんだよ。今なら君の魂を戻すことが出来る。だから……」
「そんな、嫌です。このまま死なせて下さい。どうか、お願いしますっ」
だからの、次の言葉を聞きたくなくて、俺は慌ててイシュル様の言葉を遮った。
折角死ねたのに、戻りたくない。
俺はずっと願っていたんだ。すべての記憶を無くして人生をやりなおすか、それが出来ないのなら死にたいと。
「君は大手商社に勤めていて、稼ぎも十二分にある。今後どんどん出世して今まで以上に裕福に暮らせるよ、それでも」
「それでも、です」
俺は必至に首を横に振り、戻す事を拒み続けた。
戻されるくらいなら地獄に今すぐ送られた方がいい。
「君が稼いだお金、相当あるよね。稼ぐだけ稼いで使ってもいない」
「使う必要が無かったから勝手に貯まっただけです」
「そのお金はどうする? 未練はないのかな。贅沢をしなければ働かなくても食べていける程貯めていたのに、使う事なく死んでしまってもいいのかな」
「未練はありません」
贅沢にも興味が無かったから金は貯まる一方だった。
一人で豪華な食事をしても虚しいだけ、仕事の関係で上手い物を食べる事はあってもプライベートで贅沢な食事をしたりすることも、流行りの店に出掛ける事も無かった。
大人として仕事に差し障りが出ない程度の物は身に付けていたけれど、腕時計など一つあれば良かったし、服や靴は季節毎に何点か購入すればそれで十分だった。
「君は料理と釣りは良くしていたようだね。そういうのも未練はない?」
「釣りは兎も角料理は必要だったからしていただけですから」
「そうなの? 料理を人に振る舞うのが好きだったわけじゃないんだね。君は他人にも自分にも興味が無かったのかな」
友達と呼べる人は無く、同僚とは仕事上の付き合いしか無かった。
家にもこだわりは無かった。勤め先近くにあるコンシェルジュ付のマンションは会社が用意してくれていた物だったし、ハウスキーパーもついていたから掃除や洗濯は任せっきりだった。
「料理を食べさせたかった相手などいませんが」
「でもエミリーは喜んで食べていたみたいだよ」
朝と晩は簡単な食事を作っていたけれど、それにもこだわりは無く昔からやっていた事を続けていただけだった。
うっかり多く作りすぎたビーフシチューや気まぐれに作ってしまったホールケーキを通いのハウスキーパーのエミリーが消費してくれると知ってからは、量も気にせず思うままに適当に作っていた。
「エミリーの負担になっていなかったのなら、良かったですが」
俺よりは少し年上の痩せた女性だった。
いつも疲れた様な顔をして、でも仕事は熱心にやってくれていたから彼女のお陰で家はいつも快適な空間を保っていた。
食材を余しても勿体ないから、好きに料理してもいいと言っても彼女が使うことは無かったけれど作りすぎた料理を無駄にしないように食べるのを手伝って欲しいとお願いしたら、仕事の合間に食べてくれる様になり、それでも消費出来ない物を持ち帰ってくれるようにもなった。でも、それだけだ。
「彼女は病気の家族を抱えていてね、食費にも困る生活だったんだよ。君の作った食事は彼女と彼女の家族を満たしていた。知っていたかな」
「知りませんでした。彼女の家族の話など聞いたこともありませんでしたから」
彼女の生活がどんな物だったのかなんて、知らない。
「本当に興味がないんだね。じゃあ、君が貯めたお金をどうしたい?」
「渡せるなら、俺の命を絶ってくれた彼と、俺と彼が助けた子供に」
「君の家族は」
「俺が家族と思っている人はいません。血の繋がりがあっただけで、俺はもう何年も彼らに会っていない」
家族だった人達の顔を思い出そうとしても、もう思い出せない。十二歳まで同じ家に暮らしていたけれど、会話らしい会話も無かったのだ。
家族は他人よりも遠い存在だった。
俺が稼いだ金は、あの人達には一円だって渡したくない。
「なんの繋がりも無かった相手にお金を渡すのが難しい事は、君なら理解しているよね」
イシュル様は幼子を見る様な、慈愛の満ちた瞳で俺を見ながら諭すように言った。それはそうだ、もし彼に俺の遺産が渡ったらそれを狙った殺人だと疑われてもおかしくはない。
「わかっています。それが駄目なら何かの団体に寄付でもいい。例えば交通事故や自然災害で遺児となった子供を支援する為に使って欲しい。その事は正式な遺言状として弁護士に渡してあります」
弁護士立ち合いで遺言状を作ったのは、俺のアメリカ赴任が決まってすぐだった。
こんな死に方は想像していなかったけれど、それでも何か予感があったのかもしれない。
家族には一円も渡したくない、その為の準備だった。
俺の両親は金には困っていない筈だし、兄弟もきっとそうだろう。それでも俺の遺産を欲しいというかもしれないし、言わないかもしれない。俺には常に無関心だった人達だ。
「君の気持はわかった。君の遺産は遺言通りになる様にしよう」
「あの。もし可能なら」
「ん?」
「目の前で人が死んで、あの子供に精神的な負担があるかもしれません。彼にも同じかそれ以上の物があるでしょう。俺の遺産か残りの寿命を対価に出来るなら、彼らのその辛さを補っていただく事は出来ませんか」
他の世界の神様でも可能なら、そうして欲しい。
俺なんかの死で、二人を苦しめるかもしれないのが嫌だった。辛かった。
「君は馬鹿だねえ」
「馬鹿ですか。それは言われた事がありませんね」
「頭が悪いという意味の馬鹿じゃないけれど、そうだね君は言われた事ないだろうねえ」
困ったもんだと苦笑いしながら、イシュル様は俺の頭を撫でた。表情だけ見れば否定だけど、行動は逆に見える。
「君に未練が無い事はよくわかった。二人が苦しむことが無いように僕が特別にケアしてあげるよ」
「ありがとうございます」
「話したこともない他人なのにね」
イシュル様はまた「馬鹿だねえ」と言いながら、俺の頭を何度も撫でてくれた。
親にもされたことの無い行為に、戸惑うしかない。
神様ってこんなに気安い存在なんだろうかと、不思議に思いながら整った顔を見ている事しか出来なかった。
「それじゃ、本題に入ろうか」
「本題ですか」
今のが本題では無かったのか、不思議に思いながら離れていった手を寂しい気持ちで見送った。
髪を撫でる感触が優しくて、神様という存在に体温は無さそうなのに、なぜかイシュル様の手は温かくて。その手が離れて、急に俺の体が冷えた気がした。
「君は僕の世界に送ります。これは決定事項です」
「イシュル様の世界ですか」
「そう。君を僕の世界の住人に生まれ変わらせる事にします」
「どうしてですか」
俺の寿命が仮に残っているからだとしても、理由がわからない。
残った命を使うなら別に今の世界でもいいはずだ。
「君の世界の神との契約でね、一つ僕の願いを叶えて貰ったら僕も一つ願いを叶えないといけないんだ」
「その願いが俺ですか」
「そう。君は本来なら死ななくていい命だった。あの怪我でも君は本当なら助かる筈だったけれど、君の死を願う気持ちが強すぎて魂が体から離れてしまったんだ。それは向こうの神の予定外の事だった」
「不慮の事故や病気、人災や自然災害で人は簡単に死にますが」
「それはそうだけどね。今回は特別なんだよ。君の死に方がね」
「俺の意思が強かった。運命を変えるほどに」
神様の予定を変えるほど俺は死にたかったのか、我ながら頑固だな。
「そういうケースが今まで無かったわけじゃないけど、神様もある意味意地があってね、そんなに死にたいならどうやっても生かしてやりたいそうだよ」
「なんですかそれ」
簡単には死なせてはくれないということか。
「だから、君を僕の世界で生かすことになったんだ。それが君の元いた世界の神のお願い」
「迷惑なお願いですね」
「まあまあ、そう言わず。それで君はこんな状態なので、君の今の能力はそのままです。頭脳も記憶も残っています。体は生まれ変わるから僕の世界仕様になるけれどね」
「え」
「君はお馬鹿さんで、自分を殺した相手にまで親切にしてしまったから、余計な徳を積んでしまいました。遺産の寄付も同じく徳になるからね」
なんだか嫌な予感がする。徳を積んだと聞かされてこんな嫌な気持ちになる人間もいないだろうけど。
「それはすべて能力に換算されます。なぜなら金銭に換算してもそれを持って生まれる事は出来ないからです」
「能力に換算」
「君は残念ながら相当に立派な頭脳を持っている、その記憶も残るから僕の世界ではとてつもなく優秀な人間になってしまうので、そこに上乗せは出来ません。なので、魔力とその他の能力に振り分ける事にします」
「魔力?」
今魔力って言った? 嘘だろ、なんだよ魔力って。
ぽかんとイシュル様を見つめる俺は相当面白かったのだろう、イシュル様はくすくすと笑いながら説明を続ける。
「魔力も何もかも最高というか、最高の上を行く力をあげる。君が望むなら何でもできる力だよ」
「そんなのいらない。生まれ変わるなら普通の平凡な人間に」
「それは出来ないんだよ。ごめんね。これは向こうの神様からの罰なんだ。君が積んだ徳を全部能力に変えて与える事」
「え」
「君は向こうの神様が与えた能力を持って、僕の世界で幸せになるために生きる事。それが寿命を無視して死んだ君への罰だよ」
それは罰なんだろうか。今の俺の気持ちでは罰だけど、普通の人ならご褒美なのかもしれない。
わからない、判断がつかない。
「君はさっきの事以外にもかなりの徳を積んでいる。君は生きている間誰の事も害さなかった。誰にも恨みを抱かず、誰を陥れることもなく誠実に、誠実過ぎる程に必死に生きた。それはすべての君の徳となる」
俺はそんな聖人君子じゃなかった。だけど、神様にはそう見えたんだろうか。
俺がそんな徳のある人間だったら、家族と仲良く暮らせていただろうに。
家族を苦しめた俺が生きている事こそが、悪行だっただろうに。
「君が生きる場所は僕の世界だから、僕からは君が望む家族を与えてあげる。二つから選んでいいよ。ひとつは、優しくて思いやりがあり、君を愛してくれる家族だけれど明日の食事にも困る貧困の家。もうひとつはお金には一生困る事はないけれど、君を愛することはない冷たい関係の家族。どちらがいい? お金のあるなしはかなり重要なポイントになるから良く考えてね」
お金のあるなしは重要、それは確かにそうだ。俺は家族の愛情なんか知らずに育った、だから家族の事は気にしなくたって生きていける。そうして今までだって生きてきた。だから寂しくてもそれは耐えていける。
でも、幸せになるために生まれ変わるのだとしたら?
「お金はなくてもいい。一つのパンを皆で分けて、それが無くなったら水を飲んで空腹をごまかす、そんな生活だってかまわない。俺は家族が欲しい。俺を愛してくれる家族が」
綺麗事だと笑われても、俺にはそれが重要なんだ。
「そうくるか。うん、そうだと思ったよ。後悔しないね、本当に大変だよ。生まれてもすぐに死んじゃうかもよ」
「ほんの一時、いいや生まれてすぐに死んだとしても、家族に愛してもらえるなら、それでいい。十分に幸せです」
躊躇いなく頷いたら、イシュル様は「なんで僕のところに来る子たちは皆馬鹿なんだろうねえ」と笑いながら、今度はぎゅうっと抱きしめてくれた。
「イシュル様」
「幸せになりなさい。自分が幸せになれる方法を探すんだ。逃げるんじゃなく、探すんだよ。その為の努力をするんだ」
「はい」
「じゃあ、送ってあげる。君の新しい人生だよ」
ふわりと光が俺を包んだ途端、意識が遠くなった。
生まれ変わるんだと、そう感じた。
幸せになろう、貧乏でも一生懸命に働いて家族と幸せに暮らそう。
そう考えたら楽しくなって、俺は自然と笑顔になった。
「僕が脅しても、それでも愛情を取るなんて、どれだけ今まで寂しかったんだろうね。今度は幸せにおなり。君に優しい家族と豊かな暮らしをあげる。お金にも愛情にも困らないスタートだよ。そこからどう幸せになるのかは君次第だよ」
くすくす笑うイシュル様の声が聞こえた様な気がして、あれ? と思ったけれどその時はもう瞼を開くことも出来なくなっていた。