ある街で
その日も目覚めると「僕」は、手早く支度を済ませ街で最近行きつけのバーガーショップを目指した。
何しろ仕事場へ向かうバスに乗り遅れるわけにはいかない訳だし。
早足で歩道を歩いている間、何台かのバスや自動運転車が「僕」を追い越してゆく。
皆、それぞれに忙しい朝。「僕」だって焦ってはいるけれど、そんな中だからこそひと時の憩いの時間って大事だ。
ほとんど息を切らせるようにして「僕」はいつもの店に駆け込み、そして目の前の注文パネルで時間を確認する。
網膜内蔵のウェアラブル端末にアクセスせず、あえてアナログな方法を選ぶ朝の出勤前のちょっとしたこだわりだ。
時刻はAM8:20。よし。いいぞ。
「僕」は口元に微笑みを浮かべる。まだ、この時間なら充分にゆっくりと朝食を楽しむことができるからだ。
「僕」はわくわくしながら列の最後に並び、すぐにやってきた自分の番に、AIのパネルに語りかけた。
「おはよう。今日も来れたよ」
「本日も当店をお選びいただきありがとうございます。本日、新鮮チーズのダブルバーガーとラズベリージュースのセットが大変お得でございます」
この店のAIのパネルには美しく、柔らかそうなブロンドの髪を肩まで垂らした薄いグリーンのカーディガンを羽織った人物のアニメーションが表示されている。
瞳の色も緑で、そしてとても愛想がいい。
「おっ、いいね。うまそうだな。じゃぁ、それにするよ」
そう、応じながら、「僕」は内心の勘繰りが自分の表情に表れてしまっているのを感じていた。
「か」
(…やっぱり、今日もだ)
「僕」は思わず身を乗り出す。
AIはそのまま数秒、いや、もっと短い時間かもしれないが声を発しないままアニメーションもストップさせている。
AIが「僕」との会話を再開する、わずかに0コンマ01秒程度だろうが、だが確かにそれに先立って、注文カウンターの奥にある自動調理システムの小さなランプがちらちらと輝いたかと思えば、「僕」の為の新鮮チーズのダブルバーガの材料がベルトコンベアに落下するのが見えた。
「…しこまりました。あ、今日はホットコーヒーはよろしいですか?」
「僕」は冷たい飲み物の他にホットコーヒーを注文することがよくあり、それを覚えている様子でAIはアニメーションの微笑みを僕に向けて言ってきた。
「うん。今日はセットだけにするよ。時間もないしね?」
AIのアニメーションは頷きながらにっこりと微笑む。もし、これが人間ならさっきのちょっとした「失態」への「僕」からの嫌味とも受け取られかねない会話なのだが、もちろんAIはそんな穿った受け取り方なんかはしない。
「僕」は結果首尾よく、本日のご機嫌な朝食を手にいれ、通り沿いの景色の良い席を確保して時計を気にしながらも、ゆっくりと口に運び始めた。
柔らかなパンは外側がパリッと音がなるほど香ばしく適度に焼き上げられており、包まれているチーズには充分な厚みがあってみずみずしく、
なるほど名前の通り新鮮チーズだと僕をうならせる。
眼前の景色の右上には見えている風景を邪魔しない穏やかな輝きで時刻の数字が刻まれて見えており、「僕」が意識で指示すればバスの時間まであと何分なのか、本日の「外」の天気、また、例えば家の消耗品の在庫などその他様々な情報を表示することができるようになっている。
少々うんざりしながらではあるが、仕方がない、「僕」はバス到着までの残り時間を確認する。あと23分。バス停までの道のりを考えれば、ここでこうしていられるのはあと10分弱というところか。
できるだけ仕事のことは気にしないようにしながら、「僕」は朝食の美味をじっくり楽しんだ。
バスはいつも通りにやってきて、八人ほどの「僕ら」を乗せると自動運転で「外」の世界へのゲートをくぐり抜け走り出す。
「外」の世界は天気予報によると本日は快晴だが、いずれにしたって靄がひどくて景色なんて見えないのだ。
まあ、一年に何度かある豪雨の日の悲惨さに比べればもちろんましだが、退屈な風景が30分ほど続く。すると、いつもの「僕」の仕事場のビルが靄の向こうに灯す明かりが見えてくる。
いつもと同じ形に揺れて、近づいてくる明かり、こいつが窓の外に見えはじめるとあぁ、今日も仕事が始まるんだという気分にさせられる。皆同じ気持ちなのだろう、気を引き締めるように袖をまくる者、リュックを背負い直す者。それぞれに、バスを降りる支度を始めるのがわかる。
職場に到着してからは、作業の連続だ。覚えるまでには時間はかかったが、今では素早く片付けることができる。とはいえ作業量自体がとんでもなく多いので、本当に息つく暇もないというのが実情だ。
まずは着替え、それから消毒。「僕ら」の住む町のホコリが、作業場に入らないようにする為の作業だ。小走りでロッカールームへと進み、用意された衣服に下着から全てを取り替えなくてはならない。そのあと、一人一人がその日に指示された別の通路へと進み、部屋に入室する前には日によって違う、複雑な手順での消毒をこなさなくてはならない。足の裏にスプレーや、時にはうがいまで。何を指示されるかはその時にならないとわからないのだから、誰もが注意深く鼓膜に直接届くボイスメールに常に耳をそばだてている。
作業が遅くなったからと言って、別に厳しい罰があるわけではない。
ただ、原則的にその日の作業が終わるまでは帰ることができないので、遅くなればなるほど自分の時間が削られてしまうことになるから皆真剣だ。さぼるものは誰もいない。
「僕」も本日の作業場がわかった時点で、慌ただしく通路を移動し始めた。と、この職場の共有部分にいる時にだけ繋がる回線から、最近知り合った5号棟方面に住むという「男」からのメッセージが届いた。昼飯を一緒に食わないかというのだ。「僕」だってもちろんそうしたいが、時間が合うかどうかわからない。食堂だっていくつかあって、意外と待ち合わせするにも一苦労なのだ。だが、こいつと話すのはいつでも楽しいものだから、断ったりはしないで「僕」は努力するよと返事しておく。
あ、「男」と言ったって、「僕たち」には、いわゆる性別はない。
過去にそういうものが存在したことは教育によって知ってはいるし、アーカイブ映像で過去の時代の人間たちの姿を詳細な立体映像で観察することだってできるので、性別がどういうものなのか一通り知ってはいるつもりだ。だけれど、所詮すべては「僕たち」世代が生まれるはるか昔に終わってしまったこと。
性別に関してさしたる興味関心も、正直なところ湧きはしないというのが本音の処なのだ。
聞くところによれば、昔はDNAの交配を性別を利用した生殖によって行なっていたらしい、のだ。が、まあ、想像するだけでもわかるが何かとトラブルの種にもなっていたものだという。
たかだか病気にかかりにくい個体をつくるためや、環境に適応するため程度のことで、そこまで社会に混乱をきたし易いシステムを取り入れ続ける必要性はどこにも無い、という理屈は「僕」にだって理解できる。というようなわけで、現代社会にはすでに性別なんてものはなくなってしまっている。
「僕たち」はこの世界のどこかにある工場で胚となり、7歳ごろまで睡眠教育を受けて育つ。その後バスに乗りそれぞれの街を訪れて、住みかを得ることになっている。それからはずっと同じ街で80歳くらいまでを、仕事をしながら毎日忙しく過ごしてゆくのだ。
そのあとのことは、それほど詳しくは知らされていない。ただ、「僕たち」にはそのことについての強い恐怖や不満はないのだ。だってそうだろう、周りの誰もが全く経験したことが一度もない苦痛や恐怖について、どうやって不満を持てばいいというんだ。
「僕」は今日の午前中分の作業を汗だくになってうまくこなし、なんとか定時の昼食の時刻に通路に出ることができた。
仕事中は繋がらない回線がつながり、5号棟の男からほどなくして連絡が入る。どうやら、「僕」がいる方に近い食堂へわざわざ来てくれるようだ。
食堂はいつも大混雑で、空いている席二つをやっと確保して、「僕」は冷めてゆく昼食を眼前に眺めながら15分ほど彼を待つ。
仕事に追われる慌ただしい毎日の中で、大きな楽しみの一つである食事。できたら温かなままで食べたいところだが、今日は新しくできかけている友人との繋がりを大事にしたい。「僕」は彼が昼食を持って隣に座るまで待ち、それから一緒に食事を始めた。
「なるほど、そっちの街にはバーガーショップが無いんだな?へぇ~それは知らなかった」
今日の「僕」の昼食は魚のスープに、ママレードの添えられたパンが二つ。彼が選んだものはそれとは違い、鮮やかな朱色をした珍しい麺類だ。
「僕」は彼が啜り込む目新しいメニューにも少々気を引かれながら、彼との会話での情報交換も楽しむ。
「そうなんだよ、だからここでハンバーガーが出た時は絶対食べるねえ。おいしいよな、あれ」
「僕」にいわせれば昼食で出されるハンバーガーはハンバーガーじゃない。ハンバーガーショップの美味しさを一度味わえば、ここのハンバーガーはいかにも貧相だ。と思わざるを得ないのだが、そのことを説明するのは難しいし、第一僕らにはいつもそれほど込み入った話をする時間がないのだ。
会ってまだ15分も経ってはいないのに、「僕」が職場へ戻る定時の時間が来てしまった。
「待たせて悪かったなあ」
頭を掻く奴の肩をポンポンと叩き、「僕」は親しみを込めて再会の約束をする。
なにしろ、連絡できるメールが可能なのはこの職場に着いてからの通路の回線だけなので、お互いの街に戻ってしまってからの通信手段はない。だがそんな儚いとも呼べる繋がりだからこそ、「僕たち」のこうした親しい時間はとても貴重なものに感じられる。
その日の仕事は、「僕」のいくつかのミスによって定時を少しずれ込んで終わった。靄の濃くかかる外の世界の中をバスは走り、来た道を戻ってゆく。
がたがたと揺れるバスの中で思い返すのは、「僕」が話すバーガーショップの様子を珍しそうに聞いてくれた友達のリアクションや、そこから派生して、最近少し様子がおかしいバーガーショップのAIのことについて。あいつは、このところ毎日注文の時に数秒止まってしまうのだ。
故障だろうか?
だが、この世界のAIが故障するなんて、そんなことがあり得るのだろうか。AIは自己整備システムを持っておりそれはいつでも完璧なはずだった。「僕たち」が食べている食品、バスの燃料、そしてこのバス本体だって、どこかの工場でAIが「僕たち」の誰かへと指示を出して、人工的に製造し続けているものだ。「僕たち」は毎日仕事に出かけるが、作業によって何が作り出されているかの詳細を知ることはない。それらの情報はこの社会の安全を保つため、機密事項として厳重に管理されているからだ。
「僕たち」の生活の全ては完璧に作動し、決して故障することがない永久装置のAIによって管理され、そしてそれが破綻することはありえないと教わってきたし、実際僕の周りで生活に混乱をきたしている様子を「僕」自身も一度だって見たことはない。もちろん、何かの噂でそんなことを聞いたこともない。
もし、現代社会のこのシステムがどこか一部でも破綻した時には…いやそもそも、何かが破綻するとすれば、一体何が、どのように…?
ふと、僕の考えがそこまで至ったちょうどその時。
バスが街に到着しゲートをくぐって大きく揺れた。風景の右上に時刻が表示される。うん、明日の仕事のバスまであと10時間と少し、だ。全く時間がないわけではない。ただ、「僕」には帰宅してからも、何かと済ませなければならない用件が残されている。まずは通勤着の洗濯、そして部屋の掃除もすこしはしなくては。もちろん夕食の準備も自分でし、それも頂かなくてはならない。
足早に部屋までの道を歩くうちに、「僕」の脳裏からは先ほど浮かんだふとした疑問が完全に消え去ろうとしていた。そのことすら「僕」にはわからなくなるほど、山積した用事に追い立てられかけていたのだ、が。思い出させてくれたのは目に入った件のバーガーショップの看板だった。「僕」の帰宅が遅れたせいで、今日は多くの店はすでに閉まってしまっていて夜食を買って帰ることはできない。バーガーショップも、すでにシャッターを閉めている。
明日も早く支度を済ませて、絶対にこの店で朝食をとろう。
徒歩での道のりが終わりに近づき、そろそろ家に着くという頃、僕は忘れないように網膜のモニターのメモ機能を開き、「バーガーショップに間に合わせる」と記入すると、一番目立つ場所へとそれを貼り付けた。