<愛しき人>
「良いでしょう。それほど私を滅したいのなら、撃ちなさい!」
引き千切った首輪を打ち捨てながら、放った声はしっかりと言葉の形となっていた。
それにすら気づかず、世良は琅の前に立ちはだかる。
「撃て」
冷たいキイラの号令と共に、豪雨の様な銃弾が二人に降って来た。
「させない!」
そのどこまでも響き渡る、狼の咆哮は一体誰のものだろう。
襲い掛かるはずの更なる痛みも感じない。銃弾が弾ける、激しい熱も感じない。
ただ分かるのは、耳元で「グルルル」と深く唸る、怒りだけ。
「世、良……様……、ご無事……ですか」
途切れ途切れに聞こえる声は直接、包まれる腕や胸から聞こえた。
その腕に隠してくれた時と同じ、あの夜に聞いた優しい声なのに、すぐにでも消えてしまいそうな儚い響きに、世良の心臓が不吉な音を立てる。
そうして、ポタリと、熱い粘度を持った何かが上から降ってきて、世良の頬を伝った。
世良は呆然と、頬に伝うソレを指で拭い、降ってきたその先を探す様に視線を上げた。
「ろ――う――……?」
世良の視線の先で、額から顎先にまで血を滴り流す琅が、こちらを覗き込んで微笑んでいた。
「琅ッ」
「……はい……世良、様」
世良を庇うように守ってくれた事が、自身を包んでくれる腕や、全身からポタポタと降る流血で知れる。
「“はい”じゃないわ! 血を止めないとっっ!」
世良は自分の羽を引き抜くと、ドクドクと止めどなく紅い筋を作り出す無数の傷口を撫でていく。しかし琅の血に染まる純白の羽は、血に染まったそばから力を失い、ただの赤黒い羽と化してゆく。
「どうしてっ」
世良の中に、もどかしさばかりがつのる。
『血に染まる。それこそが力』
闇に沈んだような暗い波長の声。黒飛天が薄っすらと笑んで、じっと世良と琅を見ていた。
『すぐにでも清水湖に浸けて、お嬢チャンの翼で包みでもしたら、治癒できるかもしれないけれど。ねぇ』
したり顔だった黒飛天は、一瞬でその表情を変えた。
『でも、ダメ。連れてなんて行かせない』
「連れて行くわ」
世良はもう躊躇わなかった。
戻らなければ。
全身が蠢いた。いつしか世良は狼の姿に変化していた。
世良は安定して背に乗せられる狼の姿のまま、翼を使いその間に琅を乗せる。飛んだ方が断然速い。その姿のまま翼を羽ばたかせてみた。
ふわりと浮いた。これなら大丈夫。
「必ず助けるから」
背に乗せた琅は、もうほとんど意識がない。
『行かせないと言ったでしょう。彼を一人置いて行くなんて許さない。私じゃない。アンタしか彼の側に居てあげられないのにっ』
初めて、黒飛天の本音を聞いた気がした。
ここに居るのに。
愛する人が。
そばに居るのに。
愛した人が。
愛する人の瞳に映らない。それでも良いと覚悟して飛天になった母。
そんなのは嫌だと抗う様に、キイラの側に居続ける黒飛天。
白と黒。二人の飛天が世良を見ている。
『世良、行きなさい』
静かな声で飛天が、母が言った。
『この人は馬鹿な嫉妬をしているだけ。そして、私も愚かだっただけ。私たちを気にする必要なんて、僅かもありません』
毅然と顔を上げ、仕方なさそうに微笑んですら見せる。
世良はこんな時にと悩んだが、良宇羅を振り向いた。
「父様、ここに母様が居るの」
世良は鼻先で飛天の居る場所を指した。そこは大守にとっては無の空間。
驚きに目を眇める良宇羅に、世良はこくりと頷いた。
「母様は飛天になりました」
「な……」
愕然とする父に世良は背を向けた。
「でも、それは間違ってないのかもと、今なら思います。ただ、守りたかったのだろう……と」
世良には、琅が居るから。守りたい人が出来たから。
世良の言葉に、母は慈しんでくれる様な顔で微笑み、父は察した顔で頷く。
『大切な人を助けるのでしょう?』
「琅を助けるのだろう? 世良」
母の言葉に、良宇羅の声が重なった。
それぞれの声に反応し、キイラの手が、黒飛天の手が、世良を捕らえようと伸びてくる。
「行かせないっ」
「行きなさい!」
キイラと黒飛天。父と母。
「母様、父様をお願い」
琅を背負い飛び立つ世良の背後で、母は黒飛天の手を振り払うと、白い翼で黒飛天を払い飛ばしていた。父は躊躇っていたキイラの近衛を咆哮で吹き飛ばし、キイラを引き倒して素早く狼に変化すると、その首元に太く鋭い犬歯を当てているのが見えた。
――愛を、ありがとう――
大切な人を守る為、飛び去る今、二人の愛の大きさを世良は知った。
清水湖の畔に降り立つと、世良は変化を解き、琅を背から降ろす。意識をなくした彼は狼の姿に変化してしまっていた。
人型よりは幾分小さな体。この体型の方が消耗も少しは抑えられる。本能が働いたのだろう。
世良は彼を腕に抱き、清水湖へと入って行く。
流れ出る赤は命の色。
世良は祈る様に琅の体を抱きしめる。そうして自分の体ごと、背負う翼で包み込んだ。
「……琅」
そっと呼びかけた。
開かない瞼を、震える指先で恐る恐る撫でる。
「目を覚まして」
世良の囁きが彼の睫毛に踊る。
あの澄んだ紫色の瞳が見たい。
「小さく、あなた色に染まった私を映してほしい」
指先からトクトクと鳴る心臓が伝わりそうで、世良は撫でていた手をそっと引いた。
その瞬間、ギュッと強い力で握り込まれてしまう。
それだけで、トクトクからぎゅっと鼓動が特別な音を立てた。
「世良……様?」
低く優しい声が名前を呼ぶ。
その声に驚き、世良がビクリと固まっていると、見守っていた睫がゆっくりと開き、紫の瞳が現れた。
「ご無事ですか、世良様――俺の主」
遠い昔に聞いたような覚えがある。
優しい囁きと、柔らかい声。
そしてようやく見られた、彼の笑顔。
「琅」
ぽろりと彼を呼んだ。
「はい」
返事が返ってきた。
「そうだわ、琅が半人半狼の姿」
たった今まで、狼の姿だったのに。
「そうですね」
「言葉も、通じてる」
「はい」
しっかりとした返事に、体が震える。
怖いからじゃない。悲しいからじゃない。嬉しくて、歓喜に体が満ちていく。
「――琅」
「はい……」
「琅」
「はい」
何度呼び掛けても返ってくる声が嬉しくて、確かめる様に手を伸ばす。
世良を守ってくれた時にできた、頬や額の銃創。血は止まっても、まだ傷跡があちらこちらに残っている。破れてしまった着物。そうして首筋に残る、世良が引き千切った首輪の痕。
あの時既に、付けた羽は全て落ちていた。
血に染められた首輪で繋がれ、ここまで精神を保つ事がどれほどのことか。世良は父の弱り切った姿を思い出す。たった一本の鎖さえ断ち切れず、抗う力さえ封じられていた。
琅がその力に飲み込まれなかった事は奇跡に近い。今、思い返すだけで怖気に震えが走る。
失っていたかもしれないのだ。この人を。そう思うだけで、今更ながらに恐怖心が抑えられない。
「世良様」
小さく震える世良を、どうすれば良いのか分からない琅の、狼狽えた声が聞こえるが、自分ではこの震えを止める事が出来なかった。
「世良様……」
優しい琅の声が降ってくる。
包んでくれる体温と同じ、温かい声。
「良かった……琅が、生きていてくれて」
声になったのは最初だけで、後は吐息にも近かった。
せっかく会話ができるようになったのに。
「良かった」
たったそれだけ伝える事が困難で。
「琅が……琅でいてくれて……」
今、傍に居る。
今、触れることができる。
今、言葉を交わし、その目に互いを映すことができる。
守られるだけではなく、自分も守りたかった。それが出来たのならば、これほど嬉しい事は無かった。
「私も守れたのかしら」
世良が伸ばす手に彼は少し躊躇った後、それでも以前の様に、しっかりとその腕の中へと抱き込んでくれた。
「世良様が守って下さったのです。いつも私を守り、導いて下さるのは世良様なのです」
「大好きよ、琅」
「――世良様」
息が出来ないほど抱き締めてくれる腕は、いつかの様に震えていて。
「どこかまだ痛むの」
心配になり腕の中から顔を上げると、透明な光を放つ紫の瞳にぶつかる。
「姫様っ?」
社の縁から女官たちが、清水湖に浸かる二人を驚いた様に見下ろしていた。
ふわりと二人の間に吹いた風が、社へと届き、さらに彼女達を撫でる。
吹き込んだ風に、女官たちが互いの顔を見合わせた。隣の琅を見遣ると、彼が社を見上げ、世良へ頷いて見せる。
「そう。結界が無くなったのね」
父の力を越えた証。
「行きましょう。泳ぎは得意?」
「泳げはしますよ」
「得意ではないですが」と付け加える琅の手を取ると、微笑んだ世良は泳いで社へと向かう。
「はしたないって、怒られちゃうわね」
世良は不思議なものにくるまれている感覚で、社の建つ中央の砂浜へと上がる。
「あ」
慣れない体の重みや、長い髪に絡みつかれ、途端に躓く世良を、先に上がった琅が手を伸ばし、そっと助けてくれた。
「お気を付けを」
「ごめんなさい。ありがとう」
助け起こされ、そのまま琅の腕からは解放してもらえず、世良の鼓動はいたずらに早鐘を打ち始める。
「姫様っ、ご無事で」
泣きつかんばかりに社の者達に囲まれた。その彼女達と同じ高さに自分の目線がある。
自身の視界にちらちらと入ってくる、見慣れないものや、感触が、世良の感覚を惑わせる。自身の姿が未だに信じられなかった。
「急に成長しちゃうと、ちょっと恥ずかしいわ」
指の長さも、爪先までの距離も違う。膨らんだ胸元も、体中に纏わりつく白銀の長い髪も。
「結ってくれる」
「はい」
先に着替えをと勧められ、社の大門を潜った世良の後に、琅は付いて来なかった。
「どうしたの」
「私はここで野営いたします」
「何言ってるの。まだ傷も完全ではないというのに」
「これ以上は男子禁制では」
振り返る世良に、琅は戸惑いを隠せない顔で、躊躇いがちに言う。
「でも、琅は一度、結界を押し通って入ってきたわよね」
「あ、あの時は狼の姿でしたし。世良様の一大事で」
「今も一大事よ。急に成長しちゃうし、大好きな人は死にかけるし。せっかく傷が癒えかけているというのに、外で寝るとか言い始めちゃうし」
にわかに始まった若い二人の言い合いに、世話係の女官達が一つ笑んで、そっとその場を去った。
世良は一つ息を吐きだすと、正面から琅の手を取り向き合う。
「守らなければいけないルールは確かにある。けれど、そればっかりじゃ、守りたい者が守れないって分かったの」
世良は琅を真っ直ぐに見上げた。
「産土社は確かに神聖な場所よ。新たな命が生まれ落ちる場所。けれど、この移された本社は、私を守る為に造られた社。私が守りたい者を招き入れて、誰が罰を与えるというの」
それはこの地に幽閉され、耐え抜いた世良の矜持だ。
一歩も譲らないとする世良と、その強い意志に目を見開く琅は、じっと見つめ合う。
そんな、ジリジリとした沈黙を切ったのは琅の方だった。フッと口元を緩めた彼は、懐かしそうに目を細める。
「お前が決めた者を守れ」
「え?」
ポツリと零された言葉に、毒気を抜かれた世良は、キョトンと彼を見遣る。
「あなたが生まれ落ちた日に、良宇羅様から言われたのです」
あの日、良宇羅は分かっていたのだろう。キイラがいずれ何事かを起こすと。だからこそ、琅をキイラに仕えさせ、そこから世良を守らせようとしていたのだと、良宇羅の屋敷に入り、ようやく分かったのだと琅は言う。
「世良様と良宇羅様は、本当によく似ていらっしゃる」
微笑んだ琅に見惚れた世良の肩が僅かに震えた。
「社へ。私もご一緒します」
そっと押された震える世良の肩はあまりにも華奢だった。
「あなた達……完全に面白がっているわね」
されるがままになっていた世良は、廂を区切り急遽用意した琅の仮部屋に入り、彼女達の過ぎた遊びに気がついた。
「姫様の美しい白銀の髪に合わせたのですよ」と真っ白な着物と羽織を着せられ、長く伸びた髪を美しく結い上げてもらったまでは良かったが、そこに居る琅までもが真っ白な着物を着せられているのはどういう事だ。
これではまるで祝言か、神聖な儀式のようだ。
「男性物の着物など、いずれ訪れる姫様の祝言用のものしかございませんもの。仕方ございませんね」
たった今、自身で思い当たったことを言いながら、にこにこと微笑む側仕えの女官に、世良は呆れた様に溜息を吐いた。
「冗談が過ぎるわ」
諦めの言葉に少し怒気を混ぜておく。
「次のお着替えまでには、琅様の着物を仕立ておきますよ」
「忙しくなります」そう言って、女官たちは御簾を潜り出て行った。
「ずいぶんと、何というか。和やかな社ですね」
世良と女官たちの遣り取りを見守っていた琅が、呆然としている。
屋敷でキイラに仕え、近衛としての厳しい職務に就いていた彼の生活からは、到底、想像もつかない事だろう。
「巻き込んでしまってごめんなさい。でも、少しの間は諦めて。成長した私の姿に浮かれているのよ」
呆れながらも微笑む世良は決して、怒ってはいなかった。
「私にとって、彼女達は血のつながらない家族なの。互いに砕けた物言いもするし、叱られもする。こうやって、他愛無いイタズラも仕掛けられる。おそらく、私が退屈しないようにしてくれているのでしょうけれど……」
「――諫められては?」
その言葉に世良は笑って首を振り、琅の正面に膝を折る。
「これできっと良いの。傅かれて、距離を取られ、ご機嫌を取られ。そんな寂しい関係の上に立つなんて、私には合わない。苦しくなるだけだわ」
長い幽閉をともに過ごす内に築き上げた関係だ。社に穏やかな空気が流れていたのは、彼女達の努力の賜物だと世良は思っている。
「そういえば、良宇羅様の側近方も彼女達の雰囲気に似てらした」
「今、彼らは?」
過去形の言葉に問う世良へ、琅は静かに首を振った。
「キイラ様に追われました」
琅は一度コクっと喉を鳴らすと、「少し前の話しになります」と前置きする。
「世良様がお生まれになり数年後の事でした。ある日、とても取り乱した様子で、世良様は本当に死んでしまったのかと、どこかに生きているのだろうと、屋敷の者達を、取り分け良宇羅様の側近方を問い詰め、当たり散らし、騒動になりました。表向きは騒動を抑えられなかった引責でしたが、良宇羅様が彼らを逃されたのです」
いつかキイラは世良に対し事を起こす。その騒動は、良宇羅に確信を抱かせるには十分だった。
来るその時までに世良が成長すれば良い。しかし、伝説になりかけていた天狼の力や成長は未知であった。その上、世良は禁忌の子。上手く成長するのか、生きていけるのかさえも、良宇羅にすら分からなかったのだろう。
現に世良の成長は、つい先ほどまで止まったままだったのだ。
「良宇羅様の本心を知り、キイラ様の傍に居続けたにも関わらず、今の状態を止められなかった責任は、多大に私にあります」
琅から真っ直ぐな瞳で、止められなかったのは自分の責任だと告げられて、世良は首を振って否定した。
「琅も兄様に捕らえられていた。あの状態で何ができるというの」
「結界を超えたあの日、戻ってすぐに、良宇羅様に呼ばれていると、側仕えの者が伝えに来ました」
琅は良宇羅の部屋へと向かう途中、キイラに呼び止められた。
「そこからの記憶はありません。暗い闇の中に繋がれていた気がするだけで、何も覚えていない。ただ、世良様の声が聞こえたのです。私を呼んでいる気がした。遠い微かな光を纏い、私を呼ぶ声が」
いつしか目の前の琅は微笑んでいた。
「世良様の声に導かれ、光の元へ出られた瞬間、あなたが本当に私を導く強い光となり、その背中で私を守ろうとしていた。その光を、背中を、決して失えないと思った」
「琅」
気がついた時には、自分の腕に抱えていたのだという。
「世良様が生まれる前より、あなたは私の主。それは誰にも、良宇羅様にも決められない。……何より」
「何より?」
琅の言葉尻を取って繰り返す世良に、彼は緊張気味にフッと吐息を吐くと、その紫色の瞳を真っ直ぐに世良へと向けた。
「主と決めたあなたを――世良様を愛おしく思った」
「……琅……」
どこまでも透き通る宝石のような、澄んだ瞳の中で、彼の紫色に染まった小さな自分が驚いた顔でこちらを見ていた。




