<影>
危機感からの焦燥と、社の者以外が結界の中へと入ってきた高揚感。ざわつく自身の心の内を表すかのように、黒雲の垂れこめる天空が荒れている。
いつまでも荒れる外には居られないと、世良は居室に琅を通した。
「人の形に戻れますか」
世良の言葉に琅は目を閉じる。そしてゆっくりと瞼を開けて首を振った。
「そう。でも良かったわ、狼のままでも結界内なら言葉が通じるのね」
微笑んだ世良の頬に、一粒の涙が零れる。
「天も、結界を張った父様もあなたが内側に入った事を知った。こうやって、互いの瞳に姿を映すのは、これが最後となるかもしれないわね」
言葉にしてしまうと、涙は止めどなく溢れてしまった。
彼の声を聞いたのは、たった数日前。あの叱られた夜だけ。人の姿で抱きしめられたのも、あの夜だけ。
琅にとっては幼い子を抱きしめ慰めたくらいにしか思っていないだろう。それでも、世良はこんなにも想いを膨らませてしまった。
『あなたは本当に彼女によく似ているわぁ。相手を想えば想うほど――どうなるかは、分かるわよねぇ』
どこからか黒飛天の声がする。
会うことは出来ないと分かっていて、毎晩、清水湖を挟み向かい合った時間。
琅は何を思い、会いに来てくれたのだろう。幼い姿のままの世良へ、耳と尻尾の制御方法を教えてくれた彼の優しさに、力強い感触に、触れたいと想う。
こんなに泣く自分じゃないはずだ。世良はそう強く思うけれど、流れ落ちる滴は止まらない。
いつかの様にポロポロと涙を零す世良の頬を、狼姿の琅が控えめに、それこそいつかの優しい指の様に、少し躊躇いながらテロリと舐め拭った。
そんな二人の姿を、社の者達が遠巻きに見守っている。そんな皆の前で、世良の涙はびっくりした表情とともに止まる。
そうして、そっと、三角に立っている耳を甘噛みされた。今度も驚いて、世良は無意識に耳を押さえると、琅は促す様に鼻先を二回縦に振り上げた。
「もう一回、ってコト?」
琅は深く頷いて、大きなふわふわの尻尾を銀色に光らせながら揺らす。
「はい」
先に立つ者に導かれる者として、世良は真っ直ぐに返事をすると、再び意識を自分の芯へと集中させる。先ほどと同じ様に、熱を帯びた粘度質なものがドロリと体内を動き始め、世良は思わずその場に蹲った。
「――あっ」
ともすれば集中を解き、逃げ出してしまいそうな不快感に必死で耐えながら、知らず小さな叫びを零してしまった瞬間、柔らかく温かい毛並みが、蹲り震える体を包んだ。
「琅……」
ゆっくり顔を上げると、琅が大きな全身と尻尾を使って世良を包み込んでくれていた。
太く長い尻尾は思いの外ふかふかと柔らかで。その優しい感触の尻尾で頬を撫でられ、誘われる様に、こちらを覗き込んでいる彼を見返すと、澄んだ紫色の瞳が微かに揺れた。その中に、小さく、小さく、彼の紫色に染まった自分が映る。
「琅、あなたの瞳に私が映っているわ」
不快感にジワリと滲む冷汗もそのままに、世良は微笑んだ。
そうして気づく。彼の瞳に映る自分の形に。
驚きに目を見開き固まる世良の様子に琅が気付き、頷く様にゆっくりと瞼を閉じると、世良を映す瞳を隠した。
緩む琅の抱擁の中、世良は自身の頭に手をやる。そこにいつも在ったモノがない。そのまま額からこめかみへ、そしてその下へと恐る恐る自身の手を滑らせていく。
その様子を、再び世良を映した琅の瞳が見守っていた。
そうして、いつもと違う形の耳を頬の横に確認すると、慌てて腰から下へと手を滑らせた。そこにも、いつもはパタパタと揺れるシッポは無くて。
「すごい! 無くなっているわっ」
嬉しさのあまり琅に思わず抱き着いた瞬間、ドクリ。と、体が揺れ、閉じ込めたはずの力が外へ向け一気に流れ放たれた。
「姫様……」
何とも言えない女官たちの声に、確信に近い思いで、世良は自身の顔を先ほどとは逆に撫でていく。
頬の横にあった人型の耳は消え、白銀の髪の間から、ピョコリと三角のいつもの耳が生えていた。そうして、背後でもポサポサと畳を叩くシッポの音がする。
「あはは、出ちゃった。まだまだね」
世良はようやく、自分の中を蠢くドロリとした感覚が、今まで意識した事もない“大守の力”だという事に気が付いた。
「でも頑張るわ。どんな時でも自在に制御できるようにならなきゃ」
一人ではどうにもならなかった事を、琅が教えてくれた。現長の良宇羅に知られる事も厭わず、結界を通り抜け、世良を守り導いてくれた。
「ただでさえ、こんなモノを背負っているんだもの」
世良は琅の温もりから少し離れると、自分の体には見合わないほど大きな翼を、バサリと広げた。その瞬間に大量のエネルギーが放たれるのが分かったのか、琅がにわかに大きく目を見開いた。
「翼の、天の力だけが、どんどん大きくなっていくの。天狼なんて言われていても、どんな力なのかも分からない。耳や尻尾でさえ制御も出来ず、父様の張ったこの結界から、仕えてくれる彼女達を出してやることも出来やしない」
世良は翼を納めると琅の前に膝をついた。そうすると、小さな世良と大きな銀狼の琅、二人の目線は同じ位置になる。
「私はどんな姿であっても“地の大守”だもの。力の納め方が分かれば増幅の方法も分かる。あの不快感は慣れるまでに時間がかかりそうだけれど、どうとでもなるわ」
イタズラっぽく微笑んでから、世良はすっと頭を下げる。
「ありがとう。琅」
次があるなんて分からない。
大きくて、優しい人。
ずっと傍に居て欲しい。けれど、それは望んではいけない事だから。せめて子供の稚気に混ぜ、想いを吐露する。
「好きよ、琅」
ふかふかの首筋に抱き付くと、狼の肢体がピクリと跳ねた。毛皮の下の筋肉質な感触が、あの時の腕を思い出させる。
ほのかに体温の上がった銀狼の柔らかな毛並みに蹲りながら、世良は微笑む。
「紅い首輪をしているのね」
その言葉に一瞬、ロウが息を詰め、瞬く間に緊張の気をその身に纏う。
それに気づいた世良は、琅の首元から顔を上げ、避ける様に体を捩るロウへと手を伸ばし、そっと彼の首輪に触れた。
その指先からジリジリとした、少し荒い気の流れを感じる。
それは首輪に掛けられた術の力だった。その術の波動があまり良いものには感じられない。雑多な感情や、術式が複数込められているのだ。
術とは本来、掛ける対象者や目的がハッキリしているものなのだが、それすらも絞り込めない。目の前の狼を通して、世良に向けられたものなのか。この銀狼に対してのものなのか。混雑する術のエネルギーに判断がつきにくい。
「琅。あなたは、私の敵?」
ポツリと零れ落ちた世良の言葉に、今度こそハッキリと、ヒュッと呼吸が止まる音が聞こえた。
目の前で琅が驚きに目を開き、動きを止めている。
「違うの。ごめんなさい。疑ったのはあなた自身じゃなくて」
そう言い繕う世良の声も聞こえていないのか、琅は必死で首を振っていた。その顔は明らかに、もどかしそうで。
彼はここを出れば言葉が使える。ここに居るからこそ、態度でしか表わせられないのだ。
それはいつかの自分自身の様で、気付いた世良の表情が途端に曇る。
「そうね。違うわね。琅は、違う。そんな事分かっているのに、上手く言えなかった」
あの夜、世良の身を差し出さず、守ってくれたのは他でもない琅だ。こうして導いてくれるのも。
世良はそっと首を振り続ける狼に、再び抱き付いた。
「こんな血にも似た色、琅には似合わないわ」
首輪を撫でながらキスを一つ落とす。少しでも、彼にとって良い気になります様にと、願いを込めて。
悪い気は悪いものを呼ぶ。良い気は良いものを呼ぶ。
外では守る事が出来ないから。せめて。
「少し待っていて、琅」
夜の帳が明けかけている。そろそろ彼が、本来の場所に戻る時刻が近づいてきていた。
世良は急いで、七色の絹糸で編んだ組紐を、自身の宝物を入れている小さな引き出しから取り出した。
「この紐はね。時々抜け出した時に、この山の草木や花で染めて、清水湖でさらしたものよ。とても綺麗に染まったから、組紐にしておいたの」
そうして世良は器用に、紐を小さな花の形に結ぶ。
「琅、この首輪には術が掛かっている」
真っ直ぐに見つめた先で、彼は静かに見返し、深く頷いた。
「知っているわね、あなたなら。それがあまり良くない類のものだと言う事も」
再び頷くのを見て、世良は知る。それでも抗えない相手に掛けられた術なのだと。
銀狼の上位には天狼しか居ない。そんな力を持つ銀狼が抗えないのは、自分が守るべき大切な者にだけ。
「そう。琅には、大切な守るべき人がいるのね」
世良が微笑むと、僅かに彼は口を開けたが、やはり何の音も発せられなかった。
「その人はこの首輪に今も触る?」
それでも何度か口を開けていた彼は、諦めたように、ゆっくりと首を振った。
「良かったわ。だったらコレを付けても、暫くは気付かれないでしょう」
そう言って世良は紅い首輪に、小さな七色の結花を付けた。
「七色は厄除けの色よ。そうして、後はこれね。あなたの名前が分かっていて良かった。少しは力を強められるもの」
微笑みながら背負う純白の翼を広げ、自らの手で柔らかい羽毛を三枚抜き取り、フゥっと息を吹きかける。
「一枚は琅の体を。一枚は琅の心を。一枚は琅の命を」
結花の根元に三枚の羽を差し込んだ。
「お守りよ。役目を終えるまでその子達は決して落ちない」
どこまでも澄んだ光が、社の中にまで差し込んで来る。琅が結界を越えた時に荒れた空は、いつしか穏やかになっていた。
「琅、また来てね」
清水湖の上を走り飛び渡って行く姿を、世良は静かに見送った。
対岸の畔で彼が一度こちらを振り返り、一声、吠えた。
強くて、どこまでも温かい声だった。
どこか、予感があったのかもしれない。それは天狼としての力なのか、禁忌の子の力なのか。
朝日の中で見送ってから、彼は姿を見せなくなった。
一晩が過ぎ。二晩が過ぎ。幾日もの夜が過ぎても、彼は姿を現してはくれなかった。
彼の身に何か起きてやしないかと、あの邪念が彼の身を蝕んではいないかと、気が気ではない。
そうして日中、森の向こう。大守たちの里がある方角から流れてくる空気が、肌を刺すようになっていた。
それはあたかも、あの日、彼の首輪から感じた波長に似ていて。
「姫様」
縁側からずっと森の向こうを見遣る様になった世良に、何も感じられない女官や、少しは感じてしまう巫女達は、心配そうに声を掛けてくる。
「大丈夫よ。何があっても、私があなた達に手出しなんてさせないのだから」
守られているだけでは駄目なのだ。守れるぐらい強くならなければ。
日も落ちれば、闇は一層濃くなる。そんな夜の深さだけではない闇に、ピリピリとした緊張感が混じる。
ザワザワと森の木々が固い音で騒いでいた。
世良は寝所を抜け出し畔の見える縁に出る。
詩が聴こえた。あの愛の詩が。
――愛しき人。愛しき人。
この詩が届いたならば、傍に来て。
夜だけで良い。どんな姿でも良い。
ただ傍に来て。ただ傍に居て。
愛しき人――
清水湖の畔に一人、男性が立って詩っている。力も弱そうな彼は、完全な人型の大守だろう。
「ミヤ、お前には見えているか。傍に居てくれているか。お前だけは、俺の側に居てくれているか」
それは、聞いているだけで苦しくなるような孤独な声色で。
「ミヤ、どんな姿でも良いから、姿を見せてくれ。愛しい人」
それに応える様に森の中から人影が現れた。
闇色よりも深い漆黒の翼を持ったその影は。
「黒飛天」
そう。ことあるごとに世良の前に現れる、黒飛天だった。
黒飛天は畔に佇む男性を、その黒い翼で抱きしめるように包む。そして、愛おしそうに頬を撫でると、そっと彼の唇に口づけた。
そのどれにも彼は気づいていない。
「見えていない」
なんて悲しい距離。触れているのに、感じない。目の前に居るのに、映らない。
いつかの黒飛天の声が聴こえる。
『見ているだけは、辛いでしょう?』
あれは自身の事だったのかもしれない。
天の力と地の力が交じり合うとされる清水湖の畔では、ごく稀に幼い大守が、天の者、特に自由に飛来する飛天達と出会う事があるという。
世良が社に幽閉されて五十余年。時々、こうやって、過去に出会った天の者に会いに来る大守がいる。
友人として。恋をした者として。
探し彷徨っては、力なく肩を落とし里へと帰っていく。そんな者達に応える天の者は、今までいなかった。幼い時間のひと時を、刹那的に過ごし、その瞳に映らなくなった時点で諦め、天へと戻ってしまうからだ。
そうして長い時間、畔に佇んでいた彼も里へと戻って行く。その側を離れず、寄り添っている黒飛天にも気づかずに。
ふと、黒飛天がこちらを向いた。その口元が笑み、不吉に歪んでいた。
「姫様! 大変です!」
一人の巫女が慌てて世良の部屋へと駆け込んできた。ようやくコントロール出来てきた力の制御を誤り、せっかく消えていた耳とシッポがポンっと姿を現す。
「なに、どうしたの」
滅多なことではないその様子に、世良は嫌な予感がする。
「良宇羅様のお屋敷の上部にだけ黒い雲が」
その言葉を最後まで聞かずに世良は部屋を飛び出し、里がある方角が見える縁に出る。
巫女の言葉通り、里の上部に黒い雲が集まり続け、その中心部では雷が発光している。
天の一部から筋の様に降りて来た闇色の気が、里の上空で渦を巻いていた。決して自然にできた雲でないことは、不自然な気の流れからも分かる。
「どうして、天が厄災を起こしているの」
世良は呆然と呟く。
元々、天も地も、互いに不干渉だ。それが、世良と琅の関係を引き離すような動きをし、大守の長が住まう里に厄災を降らせようとしている。
里には、屋敷には、銀狼としての強い力を持った父も、琅も居る。何が起こっているのか、ここからではまったく分からない。
「行くわ」
世良は一言の元に結界を抜ける覚悟をした。
「いけませんっ! 姫様!」
引き留める女官たちに、世良は静かに首を振った。
「もう、何も知らないままなのは嫌なの」
世良は自分の事を何ひとつ知らない。天狼の本当の力も、翼を持つ理由も。
「琅は言ったわ。全てには理由があると。だったら、知りたい。自分の事だもの。自分の大切な人の事だもの」
いつかの様に手には羽織を持ち、世良はそう言うと大きく翼を広げ、縁から飛び上る。
そうやって天の力を使っても、耳とシッポは隠して見せる。
「うん、これなら大丈夫ね」
「姫様……」
不安そうに見上げる社の者達を少し上から見下ろして微笑んだ。
「大丈夫よ。上手くいけばここから、あなた達を解放してあげられるかもしれない」
そう言ってもう一度羽ばたくと、結界を押し通る。その手応えが、以前の比ではないくらい弱い。良宇羅の力が弱まっている証だった。
このままでは社に何事かがあった時に、彼女達を守ることも出来ない。世良は良宇羅の屋敷へと急いだ。




