<恋>
翼を隠すのに掛けていた羽織が、ヒラリと舞い上がる。
「世……良……様」
世良の目線に合わせるため、目の前に膝を折った彼の、紫色の瞳が煌めくのを確かに見た。その瞳の色に一瞬で惹かれる。
――この男を知ってる。
耳も尻尾も、完璧にコントロールされているが、体内に秘められた力が強い。
「こんな所で何を。お兄さ……誰かに見つかったら。耳と尻尾、隠せますか」
焦った様な注意を受けた世良は、情けなくもぎこちなく、首を横に振った。
彼は一瞬戸惑ったような顔をし、すぐさま世良の羽織を頭の先から掛け直す。
「おい、何をしている」
更に別の男に声を掛けられた。
「っつ」
闇の中で再び驚き戦慄いて、動く耳を慌てて押さえた。が、隠し切れなかったシッポと翼が、一瞬パタっと揺れてしまった。
――見つかる!
恐怖に体を縮めた瞬間、フワリと男の大きな羽織が更に頭の上から被せられ、ギュッと抱き込まれた。
初めて感じる、筋肉質な硬い腕。
「そのまま、動かないでください」
男は世良にしか聞こえない様に、そっと、直接耳元で囁いた。
優しく低い声にトクトクと逸る鼓動は、緊張や恐怖からきただけのものではない。
「家臣の子供が寝惚けたようです」
彼の穏やかな声が、抱き寄せられた胸から直接聞こえる。
「こんな時間に騒がせるなど、親共ども厳罰だ」
それに引き換え、相対する男の声はヒヤリと凍える。
「厳し過ぎです、キイラ様。親であろうと寝惚ける子は管理できません」
――キイラ……兄様……?
こんなにも冷めた声の持ち主が、聞き及んだ実の兄なのだろうかと、世良は驚きを隠せない。元々宮居仕えだった女官たちは、キイラを大人しい皇子だと世良に教えてくれていたのだ。
世良を腕に抱き、あえて言い含める様に諭す彼に向かって行儀悪く舌打ちをする姿とは、あまりにもかけ離れている。
「お前は甘すぎると言っているだろう。分かった。もういいから、早く連れて行け」
シッシッと追い払われ、彼の腕に抱かれたまま屋敷を出た。
彼は無言で、それでも苦しいくらいの力で、世良を抱き締めていた。
きっと自分で飛んだ方が速い。そうでなくても、自分のこの小さな体なら、彼の狼に完全変化した背に乗せてもらった方が速い。
そうは思うのに、何も言えなかった。
世良を抱きかかえたまま、彼は清水湖の畔に連れて来てくれる。そうして、ようやく腕から降ろされた時、初めて正面から抱き締められた。
「こんな危ない事、二度としないでくださいっ! 見つかったら、どうなるか」
強いはずのその腕が震えていた。
『ごめんなさい』
世良は素直に謝ったけれど、やはり言葉にはならず、ふわりと舞った声は小さな風になり、彼の銀色をした、短い前髪を揺らした。
「声が……。結界から出ているからですか」
驚いた様子でこちらを見ている彼に、胸元から一通の手紙を取り出して渡し、身振りで広げて読んでと伝えてみる。
「嘆願書ですね」
世良自身は此処に留まるから、彼女達を解放して欲しい。せめて、結界を解いて自由に行き来できるように計らって欲しい。
ただそれだけの事を伝えたいだけだったのだ。
「姫様は、お優しいですね。本当に」
そう言って彼はもう一度、その腕で、今度は温かく包み込んでくれた。
翼の事も驚かず、社の結界の事も知っている様子の彼はいったい。
『あなたは誰?』
小さな風を起こしながら、世良は首を傾げて見せる。
「この手紙は良宇羅様にお届けしましょう」
確実に伝わっていない返事が返ってくる。世良は仕方なく微笑んで、お願いしますと頷いた。
「この琅・メイヴィルが、必ず」
不意に欲しかった答えが返って来た。
――琅・メイヴィル。
それがこの、身を挺して守ってくれた彼の名前。
トクリ。
世良の中で、小さく何かが動いた。
『琅……、琅』
声に。言葉にしたいのに。
叫んではいけない。結界の外で世良が叫べば暴風が起きる。もどかしさだけが募り、世良は何度も口を開けては、小さな風を起こし、首を振った。
「無理はなさらないでください。おそらく、全てには理由があります。どんな姿でも世良様は今、ここに生きてくださっている。私はそれだけで良い。その事が何より幸せです」
無にされた存在の自分が今ここに居て、幸せだと言ってくれる。
社の者以外の誰かに認められる事。生きていて良いと言われる事。
『そう、言われたかったの』
幾度目かの小さな風に髪を揺らしながら微笑む琅の言葉に、世良は思わず涙を零す。
琅は、ポロポロと涙を伝い落す世良の白い頬へと躊躇いながらも手を伸ばし、そっと骨張った指先で拭ってくれた。
――愛しき人――
どこからか詩が聴こえる。憎くて、怖くて、懐かしい詩。
振り返ると社が清水湖の上で淡く光っていた。
こんなにも美しい場所だった。
天と地。
唯一、二つの空間が交わるといわれる場所。
彼の言う通り、もしも本当に全てに理由があるとするならば、自分はここで何をすれば良い。
世良は涙を止め、言葉の代わりに琅の胸元に飛び込んだ。
「世良様っ!」
驚く琅をよそに、世良は力の限りで抱き着くと、その胸元から琅を見上げる。
『ありがとう』
「温かく、優しい風ですね」
最初は慌てふためいていただけだった琅が、小さな風に再び微笑んだ。
一瞬、羽ばたいてもいないのに、体がふわりと浮いた気がした。鼓動がトクトクと逸る。温かい蜜の様な甘さが体中を巡る。
そんな初めての感覚に、戸惑いが隠せない。
そして伝わる互いの音。
誘われる様に、世良は彼の胸元に柔らかい三角の耳を寄せる。
――あぁ……鼓動は、みんな同じね。
聴こえる琅の音も、甘くトクトクとした温かい音だった。
「せ……世良、様……っ」
琅の焦った声に顔を上げると、彼は何故か顔を赤くしながら、世良に抱き着かれたまま固まっている。
それがなんだか嬉しくて、可愛くて。
もう少しこのままで居たかった。
風が吹いたわけでも、自分が起こしたわけでもないのに、僅かに森の中で小さな葉擦れの音が聞こえる。
微かな葉音に顔を上げれば、東の空が白んできていた。そろそろ夜が明ける。そう、森が知らせてくれたのかもしれない。
彼は彼の場所へ。自分は自分の場所へ。
放したくない。けれど、このままでもいられない。
世良はそっと琅から離れると、仕方なさそうに微笑んだ。そうして社へ戻るため、ゆっくりと背の翼を広げる。
昇りつつある陽の光が、純白の羽に透けて翼を輝かせた。
「……ばに」
世良が翼を羽ばたかせた音で、琅の言葉は聞き取れなかった。慌てて振り向いたけれど、穏やかな表情を見せるばかりで、言葉はない。
離れても、自分の中の甘い音が消えていない事を確かめながら、世良は社へと戻った。
そうして社に入り、清水湖の畔を見遣る。
未だ彼はそこに居た。
「……琅」
やっと声になったのに、あなたには届かない。
琅は朝日の中、銀色に光る狼に姿を変え、一度社を見上げると背を向けて走り出す。その去っていく姿を見送っただけなのに、ぎゅっと自分の中が苦しくなった。
「また、会いたい」
言葉は不思議。
紡げば紡ぐほど、自分と他を繋ぐ。
そうして、自分自身の心でさえ明確にする。
希うばかりの弱い自分は嫌だけれど。こんな姿のままの幼い自分は嫌だけれど。
震えながら抱きしめてくれた腕の優しさに、芽生えたものがある。
「あなたに、恋をしても良いですか?」
光輝く朝日の中。その問いかけが、世良の全てだった。
世良は詩う。
――愛しき人。愛しき人。
この詩が届いたならば、傍に来て。
夜だけで良い。どんな姿でも良い。
ただ傍に来て。ただ傍に居て。
愛しき人――
「愛しき人」
世良はこの詩が嫌いだった。
孤独を思い出させる、悲しい詩でしかないと思っていた。
しかし詩の本当の意味を、初めて知ろうとしている。
悲しいだけじゃない。孤独なだけでもない。大切な人を想う、切なくも優しい想い(あい)の詩。
「なんだか、森がざわついているわね」
「姫様が御社を抜け出すなんて危ない事をなさったので、木々達も怒っているのですわ」
朝、何食わぬ顔で自身の居室に居たにもかかわらず、何らかの鋭さを持つ巫女達だけでなく、側仕えの女官たちにまであっと言う間に、社を抜け出していたことがバレてしまった。
「頭の先から湯気が見えるほど怒っているのは貴女の方でしょう」
どうしてバレたのかと聞いても、彼女達は教えてくれない。怒りながらも喜ぶという、奇妙で、奇怪な表情を見せるだけだった。
「当然です! あんな危ない事! 二度となさらないでください」
昨晩の琅と同じ言葉で叱られ、世良は一瞬で頬を赤くする。
「まったく、なにがなんだか」
溜息交じりに清水湖の畔を見遣るその瞳の彩が、昨晩までと違う事に世良だけが気づいていない。瞳の色が本当に変化したわけではない。ただ、その目が無意識に求めているのだ。想う相手を。
そうして垣間見る世良の想いに、女たちは心の底から喜んだ。
ずっと世良が苦しんでいたことを知っているから。自分達では到底埋められない孤独を、心の奥底に抱えているのを分かっていたから。
そうしてその夜。
「あ……」
ひっそりと寝静まった社の中、月光だけを頼りに居室から出て、縁から眺めていた畔に、月の光を纏った銀色の狼が現れた。
その姿を見ただけで、夜明け前の、あの甘い鼓動が自身の中で響き始める。
「琅」
そう名前を呼ぶだけで、ドクリと粘度質の拍動が想いを全身へと送り出す。
彼は人に変化することもなく、ただ静かに社を見上げている。世良からは彼の姿が見えるのに、彼から世良の姿は見えていないのだ。
結界を隔てて一方的に視線を合わせ、見つめることの何と切ないことか。
「……琅」
小さな呟きは足元にコトリと落ちる。
たった一日で想いはこれほど大きくなる。そのことに世良は恐れ戦慄く。
「見ているだけは、辛いでしょう?」
闇に紛れて漆黒に染まった低い声がした。
ギクリと振り返れば、そこには本当に闇色に染まった翼を持つ飛天が立っていた。
「あなた――」
「お久しぶりねぇ、お嬢チャン」
ねっとりとした話し方。そして背に負う翼と同じ、暗黒色の長い髪と瞳をした黒飛天。
「体はオチビちゃんのまま、恋を知ってしまったのねぇ。楽しみだこと」
そう言って黒飛天は世良と並び、畔の狼を見つけると、苛立ったように漆黒の翼を羽ばたかせた。
「あなたは本当に彼女によく似ているわぁ。相手を想えば想うほど――どうなるかは、分かるわよねぇ」
黒飛天の言葉通りになど分かりたくはなかったが、世良には分かってしまった。
明日になれば、この想いはどれほど大きくなっているのだろう。明後日になれば。明々後日になれば。確実に育っていくであろう想いに、自分は耐えられるだろうか。
そうして世良の脳裏に母の姿が蘇る。黒飛天の言う「彼女」。その母の姿が。
今なら分かる気がする。飛天の……飛天になった、母の想いが。
もうここに母は居ない。こんな姿の自分をこの世に落としておきながら、自分の愛した人の元へと行ったのだ。
元は人狼で現長の妻だった世良を生んだ母は、今では耳も尻尾も無くなり、名を変え、世良と同じ、与えられた純白の翼を背負う飛天となり、天界の力を持つ天人の一人となっていた。
『良宇羅様のお傍に居たいのです。たとえこの世に存在する身でなくなったとしても。この姿をその目に映してもらえなくても』
大守の力を捨て、天の力を手にする事でこの結界から出る事を選んだ母。
母は夫である良宇羅を愛していた。心の底から。そして、愛し方を間違えた。
第一子キイラが普通の大守でも、父として慈しんでいる姿を見て、母もキイラを慈しんだ。心の底から、愛おしんでいた。ただ、もっと父の愛を求めた。
だからこそ第二子が銀狼であればと願い続けていた。願っただけで生まれるのではないと知りながら、願わずにはいられなかった。
世良は願われ生まれた子だと母に言われ続けた。ただ、どうしてこんな姿になったのかは、最後まで教えてくれなかった。
「愛し方を間違えたのです」
教えてくれたのはそれだけだった。
夫を愛し、夫から切り離された生活は、彼女には耐えられなかった。
嘆き続けた母の前に、ある日この黒飛天が姿を見せ、天界の人間になるかと誘いを掛けた。「黒い翼の自分ならこの結界を抜けられる。天の力を与える事も出来る」と。
ただし人狼の姿は消え、天界の人間の目にしか映らなくなる。良宇羅の傍に居ても、声も聴いてもらえず、姿も見てもらえない。それでも良いのかと。
それでも良いと、「ただ、傍に居たい」と大守の姿を失い、真っ白な羽を貰った母。
どうやって黒飛天が母に天の力を与えたのか世良は知らない。ただ、ある日の夜明け、純白の翼を背負った母が微笑んでいた。その笑顔は見事に美しく、とても幸せそうに見えたのと同時に、世良はとてつもない無力感に襲われたのだった。
愛した人の傍に居る為だけに、この世から姿を消すことを選んだ母。そのままの姿で結界から出してあげる事が出来なかった己の力の無さに、言いようのない焦燥と、虚脱が襲った。
だからこそあの詩が嫌いだった。
社に伝わる詩のままを生きる母の姿が浮かび、いつしか世良は責められているようにさえ感じた。
苦い思い出が蘇る。
「これからが楽しみねぇ」
そう言って黒飛天は、スゥっと姿を消した。
その日から銀色の狼の姿をした琅は、夜が更けると清水湖の畔へと姿を現した。
社を見上げては、夜明け前に帰っていく。
世良は何度となく畔まで、彼の前へと姿を出そうとしたが、その度に空が荒れた。
結界を抜けようとする度に、突然の豪雨が降り始め、稲光が空を駆けた。
父の力では天候までは操れない。それは明らかに天の力だった。
「どうして」
父だけでなく、天までもが自分をこの地に繋ごうとしていることに、世良は初めて気がついた。
世良の姿が見えていない琅も、どうやらその事に気が付いたらしく、空の雲行きが急に怪しくなると、世良を止める様に緩く首を振るようになった。
湖の畔と、結界の中。
理由も分からぬまま、すぐそこに居るのに、互いの目に映し合う事も叶わない。
そうして何度目かの夜。
琅は銀狼の姿から、月光を浴び淡く月色に光りながら人の姿へと変わっていく。その光景に、世良の鼓動は跳ね、小さな全身を揺らす。
そうして大きな耳と、太くずっしりとした尻尾だけを残して、世良と同じ半人半狼の姿となった。
何か言葉を伝えようとしてくれているのは分かるが、結界の中では当然、その声も聞こえない。
世良はゆっくりと諦めの首を振ると、その姿が見えているはずもないのに、彼は優しく目元を細め頷くと、自身の耳と尻尾を指さした。そのまま指した指を腹の中心まで這わせて撫でる。
今度は指先から腹へ。爪先から腹へ。最後は頭の天辺から顔の中心を通り、喉、胸、そして腹へと辿り終えた後、ぎゅっと全身の力を込めて、屈み込み丸くなる。
そうしてすぅっと、琅の耳と尻尾が体に吸収されるように消えていった。
「――え――?」
そして完全に制御している力で、もう一度、耳と尻尾を出すと同じ事を繰り返す。
それを何度も繰り返して見せる琅の姿に、その意味を世良はようやく理解した。
「力の流れに意識を強くするって事で良いのかな」
何回か繰り返した後、社を心配そうに見上げている琅へ、世良は頷くと、夜空に浮かぶ三日月を見上げ、そっと目を閉じイメージする。
全身の力を芯へと収める。
イメージは瞬く間に全身を満たし、瞬時にザワリと体内で這い動くモノを感じた世良は、驚きで目を開けてしまった。
それでもドロリと自身の中を流れ蠢く“何か”は止まらない。
初めての感覚に耐え切れない嫌悪が襲う。
「いやぁーっ!」
恐怖に全身を震わせる世良の叫びは、暴風となって結界を抜け、森の木々をも震わせた。その瞬間、琅は素早く狼の姿になり、そのまま、一度も渡って来ようとはしなかった清水湖を超え、社の門前へと来てしまった。
「姫様!」
世良の叫びに起き出してきてしまった女官たちを振り切り、世良は慌てて縁から門へと向かう。
対峙する距離は結界を挟んで数十センチ。普通なら、少し手を伸ばしただけで、互いに触れられる距離だ。その距離でようやく、琅は結界越しでも、霞の様な世良の姿を捉えられたらしい。
一瞬、目を眇め、こちらを獣の瞳で凝視する。そして何の躊躇いもなく結界に触れた。
案の定、天空は瞬く間に黒い雲が立ち込めて、美しい光を放っていた三日月はすでにない。
「ダメよ。そこからは父様の結界になってる。入れないわ」
姿は見えても声は聞こえていないのか、琅は「グルル」と低く喉を鳴らすと、触れたそこから、僅かずつ結界を押し開き中へと入ってきてしまう。
鼻先が抜け、額が抜け。首筋から、一番大きく逞しい胴体が時間を掛けて抜けた。
「あ……同じ銀狼だから」
“力”で出来た結界は、同等以上の力がないと通れない。ということは、琅は父の良宇羅と同じか、それ以上の力を持つ者と言う事になる。
そんな者に、世良は存在を知られ、想いを寄せてしまったのだ。
危機感から来る焦燥と、この社に自分達以外の者が来た高揚感。
うるさく高鳴る鼓動を持て余しながら、世良は先ほどの嫌悪感が消えている事に気がつた。




