<世良>
「もぅ! またダメっ! もう一回っ」
肩の上辺りで綺麗に切り揃えられた白銀に光る髪の間から、ピョコっと生えた狼の耳を押さえて、世良は悔しそうに俯き全身から力を抜いた。
体に見合わぬ大きさの、耳と同じ毛色のふわふわしたシッポを苛立たし気に揺らし、今度は大きく息を吸い込んで、日暮れ前の空を睨みあげる。
地の神が住む山の奥、更に進んだ森深く。
囁く様な森の葉擦れ。ひらひらと水面を撫でる優しい風。月光に淡く光る御社が浮かぶ静謐な清水湖。
どこまでも青く透明な清水から成る湖の上に、御社は建ち、世良を含み、世話役の女官や、元々社に居た巫女達の居住区となっていた。
大守の産土社は清水湖の畔に移され、世良の住む本社は、父の良宇羅に張られた特殊な結界により、外から中の様子は見えないようになっていて、外気が一切入り込まない社の各部屋は、襖や御簾で区切られている。
「姫様、今日のところはその辺りになさいませ」
優しい苦笑で部屋に入ってきた側仕えの女官に、世良は「もう一回」と首を振る。しかし、グッと何かを堪える様に眉を一瞬寄せると、諦める様に軽く息を吐きだした。
「情けないわね。いつまでも耳もシッポも出したままで」
言葉のままに、世良はポツリと呟いた。
「仕方ありませんよ。姫様と同じ程の力量を持った半人半狼はここにはおりませんもの」
本来、大守の子は人型か狼型かどちらかの姿で生まれた後、数年で成人の姿になり、その後は長い寿命に伴い、何百年との年月をかけて年を経る。その僅か数年の幼少期の間に自身と同じ力型の年長者から、変化する力のコントロールを教わり覚えるのだ。
生まれ落ちてすぐ、父からこの社に閉じ込められ、過ぎた時間は五十年あまり。
世良は五十年経った今でも変化のコントロールも出来ず、どういうわけか成長も止まり、とっくに成人の姿をしているはずの身形は、少女の姿のままだった。それは、伝説上の天狼として強い力を持ち、禁忌の血と力を秘める世良だからこその姿なのか、突然変異にも似た、身体に何事かが起こっているのか。誰にも、当の本人である世良にも分からない。
世良の焦りも当然と言えた。
「天狼の力までとは言わず、せめて半人半狼の形をとどめておける良宇羅様のような、銀狼ほどの力を持った者が社に居れば良かったのですが」
部屋仕えに気遣われ、世良は首を振った。
「それこそ仕方がないわ。銀狼ほど強い力を持った者は、近衛に雇われてしまうもの。だったら、自分でその方法を見つけるしかないのよね」
ないものねだりはしない。そんな事をしても自分に仕えて側に居てくれる、彼女達を困らせるだけだから。
世良は少し弱気になった自分を見詰めるべく、部屋の片隅に置いた姿見に自身を映した。
「この子の動かし方なら、習わなくても分かるのに」
そうして、閉じていても背丈ほどはある背の翼を、バサッっと羽音を立てて羽ばたかせる。
背に生える純白の翼は力の塊だ。力が強くなればなるほど。力が大きくなればなるほど。その翼も大きくなっていく。
「それとも、この翼でさえ私の知らない力があるのかしら」
「天の事は私たちには分かりませんが、姫様の翼はとてもお綺麗ですよ」
この翼を持って生まれ落ちた為に、世良のみならず彼女達も社に幽閉されたというのに、此処の者達は皆、この禁忌の翼をそう穏やかに認めてくれる。それが、せめてもの救いだった。
「そう言ってくれるからこそ、あなた達だけでもここから出してやりたいのだけれど」
何度か結界を抜け出そうとした事はある。それでも、自分一人抜けるのが精いっぱいで、力の弱い人型の彼女たちを全員出す力はなかった。
世良は“天狼”とは名ばかりの、落ちこぼれだと自身を嗤う。
「何もかも、私のものじゃないのよね」
鏡の前に立つ自分も、鏡の中の自分も、全て存在自体が虚構のようだ。“天狼”と言われていても、本当はどんな力が潜在しているのかも分からない。“姫”であっても幽閉され、表では存在すら消されている。此処に居ても、側に居てくれる彼女達に何一つ恩返しも出来ない。
自身の中で消えそうになる、自分の存在意義。
――やっぱり、もう一回。
世良は心で決心すると、静かに瞼を閉じた。
そうして夜になると、寝静まった気配を確認して、そっと一人、居室を抜け出した。
着物の懐に白い紙を差し込んで、手には厚手の羽織を持つと、簀子縁に立ち徐々に大きく翼を広げた。
翼は細心の注意を払い、ゆっくりと大きく羽ばたかせる。そうする事で、まだ小さな体の世良は最小限の羽音で飛べるのだ。
ふわりと浮いた体を結界に接触させ、柔らかい皮膜を押し破る様に抜けていく。完全に抜けてしまうと、後は音も気にせず、むしろ何人の目にも映らないように、素早く翼を動かし飛ばなければならない。
「よし、今日も成功ね」
世良は目的の場所へと急ぐ。
自分一人なら抜けられると気づいた日から、夜になると時々こうして一人抜け出し、直訴の為に父の屋敷へと忍び込んだ。
社の結界を張った父は、世良が抜け出している事など分かっているだろうに、一度として咎める動きも、屋敷内の警護を強める動きもなく、だからとて、自ら出て来て会うこともしてくれなかった。
未だ見ぬ父の意思など世良には分からない。ただ、亡き者としている存在に気がないのか、煩わされたくないのか。
飛行中に見る大守の村里は、農作物も月明りに浮かぶ景色も豊かで、それは統治する父の力の在り方が良くわかる、穏やかな空気に満ちている。
それを乱す事など世良は考えていない。ただ、この里に家族がいる彼女達を社から解放してほしいだけなのだ。
父の屋敷の前に降り立つと、急いで背の翼を隠す為に羽織を肩から掛け、逸る気持ちを抑える様に自身の懐に手をやり、そっと白い紙を撫でてから屋敷へと忍び込んだ。
白い紙には世良の願いが書いてある。たった一言、「結界を解いて」と乞う為だけの嘆願書。
父以外に、この奇異な姿を見つかってはいけない。それだけは分かっていた。
闇に紛れ、音もたてずに父の部屋を探す。匂いなんて知らない。屋敷の構造も分からない。だから探る為に、何度も、何度も忍び込んできた。しかし宮居の敷地は広く、そのどこにも手がかりは無かった。
「……あ」
一つの離れに近づいた時だった。
離れ屋敷の一番奥。角を右手に曲がった辺りから、懐かしい気配が漏れている。
「飛天」
父の匂いや気配は知らなくても、あの人が傍に居るなら分かる。――間違いない。
ようやく父の部屋の位置を把握でき、緊張に鼓動がドクンドクンと鈍い音で響く。
部屋へ。そう、ぎこちなく足を向けた時だった。
「誰だ」
夜中に忍び込んだ相手に発しているのに、決して大きくはない声。
ドクリ、と世良の心臓が音を立てて凍る。
「そこで何をしている」
静かではあるが、射貫かれるような低く鋭い声だった。
問われて動き出しバクバクと早鐘を打つ心臓が、全身を震えさせ、世良の躰はピクリとも動けない。
「子供がこんな夜中に何の用だ」
不信そうに言って正面に回り込まれた時、あまりの緊張にパタリと翼が羽ばたいてしまった。翼を隠すのに掛けていた羽織が、ヒラリと舞い上がる。
「世……良……様」




