第49話
八千代様は、伊那倭様を自分の兄とは認めていない。
それは態度から薄々感じられた。
そしてあの屋敷に私達と八千代様を除いて、代志子さん役の佐我屋さんしかいなかった理由。それは、八千代様の兄としての伊那倭様役の人が、八千代様の手で……。
「恐らく、これまでずっと、同じことを繰り返してきたのだろう」
そう言いながら、伊那倭様は深く溜め息をついた。
八千代様は、からくりの体を依り代にして心が変わってしまったように言っていた。しかしそれは強がりなのかもしれない。そっくりに複製した自分の兄を、頭では本当の兄の代わりと認識している筈なのに、心の奥底ではそれを受け入れられずにいる。だから、何度繰り返しても、本物との差に耐えられず、手に掛けてしまうのだろう。
「だと、すると、うっ。伊那倭様はあの屋敷にいてはなりませ、ん……」
もしその推測が正しければ、伊那倭様もいずれ八千代様によって亡き者にされてしまうだろう。そんなことはあってはならない。
私がそう言うと、伊那倭様はやや複雑な表情をして首を振った。
「はは、だから屋敷から出たんだ、と言いたいところだが、そうではない」
私が首を傾げていると、伊那倭様は苦笑いをしながら説明を始めた。
「多分、俺はこれまでで一番、近いんだ。八千代の、本当の、兄に」
一筋の風が木々の合間を塗って吹き込んできた。
涼しくて気持ちが良い。カンカンにほてった頭や足を冷やしてくれるようだった。
(あれ……?)
しかし、ふと気付いてみれば、しばらく休んでいるにも関わらず、口の中は粘り気を帯びたまま、腹部はグルグルと気持ち悪い感覚が残っていた。ここのところ体を動かす機会が乏しかっただろうか? そう思っては見たものの、どうもこの不調はそんな軽いものではないようだった。
「うっ……うう……!」
胃の内側から込み上げてくるものを感じ、思わず呻き声を上げてしまった。伊那倭様も私の異変に気付き、驚いた顔で私の背中をさすった。
「ううう、はぁ、はぁ……!」
得体の知れない悪寒はしばらく続き、私は全身に嫌な汗をかいてしまった。
「――気分はどうだ?」
私の様子が落ち着いてくると、伊那倭様は心配そうに私の顔を覗き込んだ。だいぶ余裕が出てきていた私は、伊那倭様の顔が不意に近付いてきたことに動揺し、
「だ、あの、はい! もう、だいぶ良くなりましたので!」
と上ずった返事をしてしまった。それを不調の印とみなしたのか、伊那倭様はなおも不安そうな面持ちで私の背中を撫でていた。
「やや早足で山道を歩いたせいもあるだろう。それに関してはすまない。しかし思い起こせば、この屋敷に来てから、その……代志子、は、たびたび体調を崩しているようだな」
私のことは代志子と呼んでも良い、と言ったものの、実際そう呼ばれると、何だか不思議な気分だ。もちろん、思い出の中では何度も呼ばれていることになっているが、体感としては今初めて、しかも自分ではないような名で呼ばれているのだから。
伊那倭様自身も、私を代志子と呼ぶことにやや不満があるようだが、この際また新しい呼び方を考えるのも不都合だと思って割り切っているようだった。
「ええ。……何故だか心当たりはありませんが、その、ちょっとした動きで悪寒がしたり、食事を見たり匂いを嗅いだりしただけで、ちょっとした拒絶感を覚えてしまうのです」
これまでもそうだったのか、何しろ思い出があやふやになっているため、確証を持つことができなかった。伊那倭様はそんな私を見て、少し考える仕草をした。
「うーむ。屋敷に戻って代志子だけを置いていくのはあまり気が進まない。俺の推測では、心や体の『塗り替え』を引き起こすからくりに近付けば近付くほど、その進みも早くなる。何故なら、からくりに入れられた本物の代志子は、それこそ苦痛を伴うほどすぐに心を抜き取られてしまったようだからだ。俺達の時々刻々とした変化は、それと比べて段階的なものに思える。だから、できるだけ代志子を屋敷に戻したくない」
私はまだ暑さでと気持ち悪さでボーッとする頭を風で冷やしながら、黙って伊那倭様の言葉に耳を傾けた。
(そもそも、伊那倭様はどこへ向かっているのだろう?)
そんな疑問が浮かんできたが、私は全身を包み込むような気だるさから、あまり口を動かそうという気にもならなかった。
「かと言ってここに置いていくわけにもいかない。……よし!」
すると、何やら1人で納得した様子の伊那倭様がにわかに立ち上がった。並んで座っていた倒木がきしみを上げ、私は少し体が傾いた。体勢を直そうと片手に力を入れようとすると、その手が伊那倭様に引かれ、体ごと引き寄せられてしまった。
「え? 伊那……」
私が驚いて抗議の声を上げようとするも、私の体はフッと地を離れ、
「え? え?」
瞬く間に伊那倭様の背中へとかぶさっていた。
「このまま山を降りる」
そう言って、伊那倭様はゆっくり歩み出してしまった。




