第19話
結局、私が八千代ちゃんに何を聞いても柳に風だった。ただ、1つだけ忠告を残して去っていった。
「その扉は、開けられなくていいのよ。開いてしまったら、あれが、来るから」
八千代ちゃんを前に戦々恐々と問い質す私を他所に、あいつは口を開かず、ただ俯いてその場に佇んでいた。だけど、私はあいつを咎めるつもりはなかった。あいつの抱いている恐怖を、全く同じ恐怖を、私も知っているからだ。
――自分を失い、全く別の誰かに変えられてしまう。
私はそれが、怖くてならなかった。
八千代ちゃんの言葉をそのまま真に受けるわけではないけど、無理やり扉をこじ開けるという気分ではなかった。あいつは、私を連れてスタスタと歩き、文の間へと戻った。私も、とりあえず文の間で頭を落ち着けたいと思っていた。他の部屋も自由に使ってよいと言われているとはいえ、あまり人様の家を我が物顔で勝手に使えるものではなかったし、何より、代志子さんは自分がそう発言したことすら、覚えていないだろう。
しばらくの沈黙の後、あいつは現状を確認するかのように、ゆっくりと話し始めた。
「お前が字を書けなくなったことや、代志子と同じほくろが出てきたことは、多分代志子に近付いていっているんだと思う。ただ疑問点があるのは、代志子は字が読めない筈なのに、お前はちゃんと古い字が読めたということだ」
私は、改めて自分の体に置きている変化を意識して、力強く「うん」と返事した。もう、自分だけめそめそするのはやめようと思った。さっきの、あいつの顔を見て。私と同じく、自分も変わっていくことに、本当の絶望を知ったあいつの顔。驚きや、怒りではない、悲しみの顔。私は、あいつのあんな顔を見たくはなかった。私自身も、自分だけではなくあいつも同じ十字架を背負っていると思えたおかげで、どこか力が湧いてきている気がした。あいつと2人なら、頑張れる。頑張らなくちゃいけない。
「それに対して、俺は古い字の読み書きができ、代志子に伊那倭と呼ばれた。それだけじゃない。幼い頃の八千代との思い出が、少しずつだけど俺の胸の中に現れている。お前も、これまでの俺の変化に、思い当たるところがないか?」
そう問い掛けるあいつの目を見て、私は正直に答えた。
今までずっと名前で呼ばれていたのに、ある時からずっと「お前」と呼ばれ出したこと。自分もその辺りのタイミングから、あいつの名前を意識しなくなっていたこと。
あいつが、代志子さんと八千代ちゃんを呼び捨てにしていたこと。元々ぶっきらぼうな性格だったけど、初対面の女性相手に呼び捨てをするようなタイプではなかった。
そして、何より、あいつが饒舌になったこと。この家に来てから、色んなことにあいつが気付いて、私に次々と説明してくれた。正直に言うと、あいつは元々そんなに積極的に物事が解決できるタイプとは思っていなかった。この家に来てからの、あいつの頭の回転速度は、明らかにこれまでと似て非なるものだった。
「……そうだな。俺も同じ感想だ。特に最後の。俺は、自分がこういう非常事態に、ここまで順応できる人間だとは思っていない。ましてや、推理なんて以ての外だ。もちろん、プライドは人並みにあるからな、自分からそういうことを認めたりはしなかっただろうが」
そして、あいつはさっき出しっぱなしにしていた「桐の祠」をしまい、代わりに「伊那倭の伝」を本棚から取り出した。
「あの八千代という名前。あれは嘘じゃなかった。俺に植え付けられた、断片的な記憶がそれを保証する。俺の思い出の中にいるあいつは、俺から、八千代と呼ばれていた――」
『八千代。本当にやるのか?』
『そうだよ。ちゃんと歌の意味、覚えた?』
『ああ。桐という娘がいて、だろ? しくじりはしないよ』
『なら良かった。後は、うまく、捕まるようにね。私のところまで戻ってきて、粟と麦を渡す。それまでに、巳回たちに見失ってもらってはいけないよ』
あいつの中にある思い出。それはまさに、「伊那倭の伝」で描かれていたエピソードだった。もしそれが偽りの記憶でないとしたら、色々な繋がりが見えてくる。
あいつが変わっていく先にある「伊那倭さん」という人物は、「伊那倭の伝」に登場する男の子。どういう理由かは分からないけど引っ掛け問題をクリアしてまんまと巳回という人の家にもらわれ、その後は占い師として名を上げる。恐らく賢い人間だったのだろう。これは、あいつが以前より積極的に謎解きができるようになったこととも合致している。
八千代ちゃんは、「伊那倭の伝」に登場する八千代という女の子と同一人物。そして八千代ちゃんのお兄さんである「伊那倭さん」と、代志子さんの記憶にある「伊那倭さん」は同一人物。何故ならあいつが「伊那倭さん」の記憶を与えられ、かつ代志子さんはあいつを「伊那倭さん」と呼んでいたからだ。そして代志子さんの記憶が正しいのであれば、その「伊那倭さん」は代志子さんの夫。
分からないことも増えた。「伊那倭さん」から見て八千代ちゃんが妹で、代志子さんが妻である。2人共、大昔に存在する筈の人だ。これはこの2人が「桐の祠」に書かれている儀式で大昔からこの世界に飛んできたということなのだろうか。だとすると、「桐の祠」に登場する2人と、「伊那倭さん」、八千代ちゃん、代志子さんの3人は無関係なのだろうか?
また、「桐の祠」に登場する「伊那倭という亀の化物」と「伊那倭さん」は何か関係があるのだろうか?
「よし、こんな感じで読めるか?」
2人で考えをまとめた後に、あいつが自分のノートにペンで内容を整理した。私達は、徐々に記憶を失っていく。だからこそ、こうして分かったことはどんどん紙にまとめていく必要がある。
「伊那倭様、本当にお1人でよろしいのですか……?」
夜になり、私達は泊めてもらうことにした。既に一度代志子さんに許可は得ているのだけれど、それは私を忘れてしまう前の話なので、再度あいつがお願いしたのだ。すると代志子さんは私に和室を1つ貸して下さった。
あいつはというと、当然のように代志子さんが一緒の部屋で寝ようとしていたので、慌ててそれを拒んでいた。代志子さんが怪訝そうな顔をするので、あいつは「どうも咳が出るようで、大したことはないのだけれど、万が一でも代志子にうつすわけにはいかない」と説明した。顔を赤くして言い訳をするあいつが、何だかかわいいと思った。
そして、私の1人の夜が始まった。