第17話
私は、しばらく子供のように泣きじゃくっていた。怖くて、恐ろしくて、悲しくて、どうしようもなかった。ずっと、あいつと変わらず一緒にいるつもりだった。それなのに、私は、もう、覚えていなかった。私の名前も、あいつの名前も。
「悪い、もっと早くに気付くべきだった」
あいつがそう弁解したけど、別にあいつが悪いわけじゃないことくらい、私にだって分かっていた。ただ、あいつが私を慰めようと、私を落ち着かせようと、必死になってくれていることだけは分かった。
「落ち着いたか?」
しばらくして、私は泣き止んだ。黙って、コクンと頷き、先程取り出したハンカチで涙と鼻水を拭った。そして黙々と、持ち物の整理を再開した。すると、ポッケの中から更に、身に覚えのないものが取り出された。それを見て、あいつが私の代わりにそれを言った。
「マッチ?」
普段はマッチをポッケに入れて持ち歩く習慣なんてなかったので、これは、明らかに今日のために特別に持ってきたものだ、と思った。そして、あいつもそれを感じ取ったのか、1つの可能性を導き出した。
「そうか。『桐の祠』に書いてあった、火の道ってやつ。おまじないでもそれを開くために、マッチを持っていくことにしたのかもな」
とはいえ、マッチは未開封だったので、結局は使わなかったようだけど。でもこれで、私達のおまじないが「桐の祠」に書かれていた内容と関係しているという線が、一段と濃くなった。一通り持ち物が出揃ったところで、あいつは神妙な顔をして私を見た。その顔は、いつものぶっきらぼうなあいつと違って、どこか力強く感じた。いや、私はこの顔を知っていた。小さい時、私が泣いていると、いつも、私を元気付けるために、勇気付けるために、何か言おうとしてくれている時の顔だった。
「俺達は、全ての原因を突き止めて、亥馬野に帰る」
今回の怪奇現象の原因解明なんて出来るのかどうかは別として、私は絶対に二人で亥馬野に帰りたい、と心から思い、力強く「うん」と返事をした。原因なんて分からないかもしれないけど、亥馬野からここに来ることが出来たんだから、きっと逆にここから亥馬野に行く方法はある。そう信じていた。
「だけど、新しいことを発見するたびに、それを忘れちゃったら、元も子もない。だから、お前のメモを使って、分かったことをどんどん記録していくべきだと思うんだ」
確かにそうだ。仮に真相まで辿り着いたとして、私達の記憶がそれを保持できるとは限らなかった。だけど、私達はもはや字が読めない。それどころか、字を思い出そうとしても、何一つ思い当たらない。ということは、字を書くことすら出来ないのではないか?
「で、俺達が今読めるのは、古い字。そこで確認したいのが、俺達に古い字が書けるのかどうか、だ」
というわけで、私はメモとペンを取り出し、早速字を書こうとした。しかし、いくら「桐の祠」を真似ても、字がへろへろと脇にそれてしまい、結局読めるような字は書けなかった。そもそも、ペンの握り方がよく分からないのだ。それに対して、あいつは、決してうまくはないものの、ちゃんと読める字を書き上げた。
「読める! 読めるよ!」
あいつは、ふう、と息をついた。私には、こんな小さな一歩でさえ嬉しかった。私一人だったら、途方に暮れていたと思う。私の代わりにあいつがどんどん答えを見付けて行くのを見て、私は、あいつが心から頼もしく思えた。
「代志子さーん、どちらですかー?」
私達は、ひとまず代志子さんを探すことにした。代志子さんなら、私達の名前を覚えているかもしれない。だから名前を確認して、ちゃんとメモに残す。そういうあいつの意見に私も賛同して、文の間を後にした。
「騒がしいわねえ」
そこに現れたのは、八千代ちゃんだった。眠たそうな顔で、じっと私達を眺めていた。
「……こんにちわ、八千代ちゃん」
私がおずおずと八千代ちゃんに挨拶をすると、八千代ちゃんはまた口元をにんまりと持ち上げ、両目をバッチリと開けて私の目を見つめてきた。私は思わず「ひっ」と声を出しそうになったけど、あいつが私の前に出てくれて、何とか平静を保つことが出来た。あいつは八千代ちゃんをじっと睨んでいたけど、八千代ちゃんは嬉しそうな顔で、ケラケラと笑った。
「やだやだ、お邪魔よねえ、私は、いつだって」
皮肉のようにトゲのある言い方をして、八千代ちゃんは体を少し傾けた。あいつの背中から顔を覗かせている私を、上から下まで舐め回すように見つめていた。
「今は八千代に用はない」
あいつは八千代ちゃんにピシャリと言い放つと、そのままスタスタと八千代ちゃんの横を通り過ぎた。私も慌ててあいつの後にピッタリ付いて行くと、八千代ちゃんが蛇のようにねっぷりとした目線で私達を追っていた。そして、高らかな笑い声を響かせた。
「あはは! あははは! あはあは! 頑張ってね」
「あの子、何か怖いね……」
本当は、名前を聞くだけなら八千代ちゃんでも良かったのだけど、私は八千代ちゃんを避けていた。何となく、不気味だから。今はそんなことを言っている場合ではないのだけど、本能的に、八千代ちゃんを頼っちゃいけないような気がした。それはあいつも同じみたいで、文の間で話し合った際に「八千代は信用出来ないと思う」と言っていて、代志子さんのみに聞くことにしたのだ。
「代志子さーん、いらっしゃいませんかー?」
私は、気を取り直して順に部屋を回っていった。純和風の部屋が多いけど、中には今のように、洋風だったり中華風だったりが折衷された部屋が散見した。まだ先程の八千代ちゃんの気味悪さが頭に残っていて、思い出すと首筋がゾクゾクするのを感じた。さっきのことは忘れて、代志子さんの顔を思い浮かべた。優しい、包容力のある物腰。大和撫子を思わせる、つややかな黒髪。上品な笑いと、口元にポツンと見えるほくろ。代志子さんならこんな想いをせずに話を聞けると思って、私は少しだけ心を落ち着かせていた。
「あらあら」
すると、和室の1室で代志子さんは見付かった。何やら洗濯物を畳んでいるようだった。しかし、代志子さんは私を見つめ、相変わらずの笑顔ながらも、怪訝そうな面持ちで首を傾げた。そして、代志子さんは、片手を口元に添え、ふふふと笑いながら、あいつに向かって、こう問い質した。
「まあ、伊那倭様。そちらのお嬢さんはどちら様でしょう?」