1−6 不在のこれから
キフェは爪を噛む。噛みちぎる。
散乱した机の上を片付けようともせず、更に乱雑に思考を展開する。
いつからオギはあんな風になってしまったのだろう。結局はそればかりを考えて、あんな風でないオギをそもそも知らないことに打ちのめされる。
すべて、『あいつ』のせいだ。
──あいつは人の弟に、どれだけ干渉すれば気がすむんだ。
真夜中、脳裏に浮かぶひとりの少女の姿を振り払うように、キフェはベッドに沈み込んだ。
◇
記憶を掘り返せば、彼女のことばかりが出てくる。
初恋の人の記憶。
まるでそれ以外の物が風化して消えてしまったかのように、そればかり。
オギは考えるのをやめた。
夢はあまり覚えていられない人種だけど、きっと今日も夢に見たのだろう。目覚めの悪さでそう判断する。
あまり笑わない人だった。けれどもよく喋る人だった。
色素の乏しいぼさぼさの髪、落ち窪んだ深い緑色の瞳。細く骨張った指の感触はなかなか忘れられはしない。
血色はいつも良くなかった。口だって悪かったし、たまに見せる笑顔には無邪気さなんてなかった。
軽く、白く、暗い。
彼女の名はアルミラ。
互いに唯の友人のまま終わった、今は亡き人。
「おはようございます、オギ」
目の色髪の色。あどけなく、されど鋭利な顔立ちも。
リネンは少し、アルミラに似ていた。
「うん、おはよう」
鏡に映ったオギは、色褪せていた。
◇
「あれ、リネン……戻った?」
顔を拭いて、眼鏡をかけ直して、リネンの仏頂面に気付く。明るさや華やかさ、演劇的な動作は全て剥がれていた。
「お気に召さないようでしたので」
「そっか」
すました調子でリネンは言う。結局のところリネンの優先順位はキフェよりも先にオギにあるのだ。
キフェはまだ起きてこなかった。そのことに少し安堵する。
どんな顔で話せばいいのか分からなかったし、いくら慣れているとはいえ、仕方がないと諦めているとはいえ、不快な思いをしたことには変わりなかった。
休日であるから顔を合わせてしまうまでに猶予はあまりないのだが。
久々に立った台所は、並んだ調味料の種類が少し変わっていた。
フライパンを火にかけて、乗せるのは厚切りのベーコン。少し迷った末に卵を二つ落とす。
リネンがお皿を既に用意していた。二枚。
「……」
「どうかされましたか」
「いや、ありがとう」
二枚であった。オギは諦めた。
フライ返しが焼きあがった白身をざくざくと裂いていく。皿に盛る時点でひっくり返った方のベーコンエッグをオギは自分の方に寄せた。
リネンは余った方の目玉焼きに荒い目のかごを被せ、何も言わずちょこんと腰掛ける。
いつも食べているのとは硬さが違うベーコンエッグを黙々と頬張り、呟いた。
「出かけてしまおうか」
「どこへですか」
「適当に」
「決まっていないのですね」
「リネンもどうかな、一緒に」
「良いのですか」
「朝食、食べ終わってからだけどね」
追加のバターロールに手を伸ばす。
アルミラがいない今、行くところなんて無くなってしまったけれど、たまには当てもなくふらつくのも悪くない。
リネンを誘ったのは、未練だった。
あの高揚感を覚えている。初めてリネンを見た、あの時だ。後ろ姿はアルミラに酷似していた。
キフェの言ったことは決して間違ってなどいなかった。
オギは期待したのだ。
アルミラに、アルミラに似たリネンに。
アルミラが、オギに何かを託してくれたのではないかと。
そんなことはなかったと、知っていた。気付きかけていた。
そんなものだろうな、と納得しかけていた。
だけどそれを言語化したくはなかった。認めたくはなかった。まして、キフェの口からだなんて聞きたくなかった。
「らしくないよ、本当に」
せめてリネンが『オギへの贈り物』の体裁をとっていたならば、どんなによかっただろう。
「オギ、私は外出時にどのような格好をするべきですか」
リネンの待機室に連れ込まれ、広げた箪笥の中身を見せられる。もっとも、数着しかないのだが。
「僕が決めるのか?」
「はい」
「どれでもいいんじゃないの」
「それでは困ります」
「じゃあこれかな」
ふと目に付いた、暗い緑色のワンピースを指差す。特に理由はなかった。
「他に必要な物は」
「ない、けど」
もしかして、と思い当たりリネンに問う。
「外出って、初めて?」
「はい。姉様から『人形とばれたら面倒だから』と言われました」
つまりリネンの知っている外は、移動時のものだけになる。
リネンは一目、人間と見分けがつかない。それなりの間凝視していても、作り物じみた整い方が少々気になるだけで──事実作り物なのだが──言われるまでは人形と気付かない。言われても信じてもらえるかどうかといったところだろう。神経質気味なオギですらそうなのだから。
「けど、キフェの言うことにも一理あるな」
リネンが着替えている間に、玄関口へとオギは向かう。そしてキフェのキャスケットを手に取った。
「お待たせしました」
「早かったね」
戻る必要は無かったらしい。既にリネンは玄関に来ていた。
支度を終えたリネンの頭に、キャスケットを被せる。サイズが合わなかったようで、つばの重みで前に傾きリネンの顔を隠した。
「これでよし。行こうか」
「はい」
扉の向こうには、白く明るい曇り空が広がっていた。
まずは大通りへと向かう。人通りはそこそこに、ちらほらと車も走っていた。都会というわけではないが田舎というわけでもない。活気はささやかだがあった。
「行きたいところとかある?」
「特にありませんが」
まあ予想通りだ。望ましくない答えではあるが、オギはそれに安堵していた。
ならばと、使い慣れている道を行く。途中で目的地ぐらいは思い付くだろう。
リネンはオギの歩幅に、少々慌しくついて行く。薄いミルクティー色の髪が背で跳ねる。オギは速度を落とした。
悲しいほどに会話がない。会話はないけれど、居心地は悪くない。
リネンは無表情のまま、その透き通った眼球はきょろきょろと辺りを忙しなく見回していた。
ぼんやりと半分意識を飛ばして歩き続ければ、道を刻み込まれた脚はオギを職場の方へと運ぶ。気付いたのは看板を見た後だ。
「どうしよう……」
引き返すにはどこか勿体無いし、今日は非番であるとはいえここまで来たならば顔を出さないのもなんだ。
ちらりとリネンを見る。リネンもオギを見た。
「どうしよう。行くか行かないか」
「お好きなように」
「そうだね」
自分で決めるべきだった。
受付の方にいるのがベネットだったら、軽く挨拶をしてリネンに会わせればいい。彼以外だったら、そのときに考えればいい。
店は人通りの然程多くない脇道にあった。所狭しと年季の入った建物が周りに並んでいる。
かく言うこの店も、大分古くこじんまりとしていた。まるでオカルトそのもののように。
唐突に、がさりと植え込みから音がした。振り向けばそこにいたのは灰色の猫。ベネットが可愛がっている猫だ。青色の目を潤ませて、一鳴き。
「あれが猫ですか……」
「気になる?」
リネンは頷いた。
「行って来たらいいよ。人に慣れてるから、触らせてくれると思う」
「いえ、いいです」
人に慣れてるとはいえ、人形に慣れているとは限らなかった。というより、人形の方が猫に慣れていなかった。
猫はオギを認識する。どうやら覚えていたようだ。
オギは名前も知らないほどに、この猫と関わったことは数える程しかない。とはいうものの確かに餌付けした覚えはある。ベネットに頼まれてのことだが。
かまえ、とでも言うようにとてとてと猫はオギへと近寄った。それを避けるように、じりじりとリネンは後ろへ下がる。
猫が濁った鳴き声を上げた。リネンはオギの背中へと隠れる。無言のまま、澄ました顔で逃げるものだから少し可笑しかった。
「怖くないよ、ほら」
しゃがみ込んで、くすぐるように猫を撫でる。猫は目を細めて、されるがままだ。おそるおそる、リネンも手を伸ばした。
しかし、触れる前にリネンの手は止まる。猫の方は大人しくその場に留まっている。そろりそろりと近づいては離れて、をリネンは繰り返した。
その様子を微笑ましく思いながら、オギは立ち上がる。
数歩進んで、店の中を窓から覗き込んだ。中にいたのはベネットではなかった。
何やら帳簿でも付けていたらしき女性が顔を上げる。
派手な色をした前髪の隙間から、退屈そうな右目が覗いていた。マトだ。
目が合った。会釈する。
マトはオギににっこりと笑い返して、ひらひらと手を振ったあとすぐに目を逸らした。
突然、尖った鳴き声が聞こえた。
「あっ」
リネンが小さく声を上げる。身体が跳ねて、サイズの合わないキャスケットが地に落ちた。
オギは振り返った。見えたのはするりと逃げるように走っていく猫の姿。
「あー……無理だったか」
「引っ掻かれました」
「え、どこ」
リネンは左手の甲をオギに見せる。リネンの手は白くほっそりとしていて綺麗過ぎることが気にかかるぐらいで、関節の継ぎ目は恐ろしいほどに目立たない。
ただ一際白い筋が三本、薄らと手の甲に増えていた。
「どうしよう、消えるのかこれ」
「おそらく無理だと」
「なんかごめん……」
「いえ、問題ありません」
問題がないわけがない。肌に傷、しかも消えないときた。人形としても女の子としてもまずいのではないか。
オギはうろたえる。
けれどリネンは素知らぬ顔で、
「オギ、どうかされましたか」
なんて問うものだから、困るのだ。
「帰ったらキフェに聞いてみるよ、直す方法」
「はい。私は別に構いませんが」
帽子を拾い、軽く埃を払って被り直す。
身体の表面が数ミリ削られたことを、リネンは"身の危険"として認識していないらしかった。
今度は店が建ち並ぶ方へと向かう。
丁度朝と昼の間の時間になって、騒がしさが出始めていた。
甘い香りがふわりと漂ってくる。砂糖とバターの香りだ。
昼までには帰るべきだろう。急に現実に振り戻されてオギは溜息を吐いた。
キフェにどう接したらいいのか分からない。一晩を経て沈静化しているといいのだけど。
足取りが少し重くなる。
リネンが食事を必要としないこともあって、特に気に掛けることも無く飲食店街を通り抜ける。やけくそ気味に朝食を多めに取ったのも原因の一つだった。
リネンはきょろきょろとあたりを見回していた。はぐれないように、ぶつからないようにオギにぴったりと寄り添いながら。
「何を見ているの?」
少し気になった。
「人と売り物です。全てに注目しては理解が追いつかないので」
オギの目を見て答えた。
「私は言葉は知っていますが、実物は知りませんから」
「言葉はどこで覚えたんだ?」
口元に手を当てて、考える素振りを見せる。今度はわざとらしさはあまり無くて、むしろただ硬直するよりはありがたい。歩みも止まってはいなかった。
「最初から分かっていました。ということ以外が分かりません」
答えにならない答えを受け取った。
「そっか」
時間がある時にでも制作者ぐらいは調べないといけないだろう。
リネンに傷が付いたことによって、オギはリネンが故障した時のことを考え始めた。我ながら嫌な想像である。だいたい、どのように壊れるのだろうか。想像される複雑さはオギの寒気を増長させた。
寒気の理由は修理費とリネンの消失の間を彷徨っている。オギの認識の中で、リネンは人形と女の子の間を行ったり来たりしていた。
キフェはリネンをどう捉えていたのだろうか。姉だからこそ分からない。
ガラス越しに洋品店のトルソーが目に付く。紺色の冬用のコートが飾られていた。
オギはジャケットを羽織っているが、リネンはワンピース一枚である。寒さは感じないとはいえ、見てくれの問題がそろそろ出てくるだろう。
近いうちに買いにこなければ。
オギにはよく分からないためまたしてもキフェ頼みになる。案外自分で出来ることというのは少ない。否、増やそうとしなかっただけだろうか。
「ねえリネン、」
コートに関して、一応彼女の希望だけでも聞いておこうと呼びかける。
「あれ」
しかし、隣にはいなかった。
先ほどまでしっかりと付いてきた筈なのだ。オギは慌てて振り返る。
たった数メートル先にリネンの姿を見つけて、オギは胸を撫で下ろした。今のリネンなら自力で帰って来れるような気もするが、ひやりとするものだ。
自発的にリネンが行動するなんて珍しい。いや、オギの知っている限りでは初めてではないだろうか。
それはきっといいことだ。そう思う。
オギが駆け寄る。リネンは直ぐさま気付いた。
「すみません離れて」
「いいよ。次からは一言僕に言ってくれれば」
リネンが立ち止まっていたのは、花屋の前だった。
「前の主様の部屋にあったものと同じ物が見えたので」
違和感を覚える。
リネンはそんなことを気にしていただろうか。
「アルの部屋、ね。花なんてあったかな」
「アル、というのですか?」
リネンの問いかけに驚いた。
「まさか名前も知らなかったのか」
「はい。教えてもらえませんでしたし私も聞きませんでした」
初期のリネンは情報を受動的に浴びることしかしなかった。
アルミラは、情報を浴びせることすらしなかったのだろうか。当たり前過ぎて教えそびれていたという可能性もあり得るが。
出来はいいくせに変なところで抜けている奴だったのだ。
「アルミラだよ。アルは略称だから。フルネームはアルミラ=コスタ」
リネンはその名を、小さく繰り返した。噛み締めるようにゆっくりと。
店頭に並んだ花は、鉢植えのものが多かった。
オギの中で花のイメージは春や夏に固定されていたが、意外に種類が多い。
リネンがアルミラの部屋にあった、と言うのは灯火のような花だった。明るい紅色の小さな花が、細い茎の上に並んでいる。シクラメン、だっただろうか。
「気に入ったのはあるかしら?」
丸い笑みを浮かべた女性が言った。年はオギの母親ぐらいだ。
あたりさわりない返事をして、リネンに聞く。
「どれか欲しいのとかある? 一つ買おうと思うんだ」
「特にありません」
「僕の代わりに選んでよ。なんでもいいから」
リネンはしばらく見回して、片隅においてある鉢植えを指差した。
「では、あれで」
それは花ですらなかった。色取り取りの小さな実が幾つかなっていた。遠目に見れば蕾のようでもある。先端が控えめに尖っていた。
「ちなみに理由を聞いても?」
「色が多かったからです」
身も蓋もなかった。
店員の女性はリネンの指差した鉢植えを見て、申し訳なさそうな顔をする。
「それ、もうすぐ枯れてしまうのよ。一年草だから」
言われてみれば葉が萎れている気がする。実も粗けていて見栄えはあまり良くなかった。
目立たないところに置いてあったのはそういうことなのだろう。
「構わないですよ」
「そう? じゃあ安くしとくわね」
提示されたのは、周りの値札に書かれているよりは確かに少ない金額だった。
財布の中身は正直あまり入っていなかった。何かを買う予定は元々無く、念のためポケットに突っ込んできた形に近い。これはきっと衝動買いというやつだ。おそらく初めてである。
紅色のシクラメンを一瞥する。流石にもう一つ何かを買う気はなかった。
「帰ろうか」
「はい」
まだ昼には早いけれど、植木鉢を持ったままふらつくのもなんだ。
流石に今ならキフェも起きているだろう。後回しにしても仕方が無かった。
「その実、食べられたりするのかな」
「おそらく美味しくないそうです」
「そうか、美味しくないのか」
観賞用だからそんなものだろう。
同じ道を行く。並んで歩きながら。
今度は話題があった。
◇
家に帰ると間もなくして不審な視線を感じるようになった。選択肢は一つしか無いので犯人は分かりきっている
振り返っては逃げられて、を何度か繰り返してようやくばっちりと目が合った。
キフェはおろおろと視線を迷わせて、おずおずと切り出す。
「その……昨日は、ごめんなさい。お姉ちゃん、沢山意味の分からないことを言った気がする。ううん、言った。言わなくていいこととか、言っちゃいけないこととか」
ばつの悪そうな顔で、しおらしい声で、オギに謝った。
「僕も、リネンの事でそんなに怒るべきじゃなかった」
キフェはオギと視線を合わせたり、外したりを繰り返す。
そして言いにくそうに言わなくていい事を、言わなければならないとでも言うように、キフェは言った。
「ごめんね、オギ。それでもぼくはアルミラが嫌いだ」
その目は、声は、絶対的に揺るぐことがなく。
「うん」
好き嫌いというものは、色んな物を鈍らせるのだなと他人事のように思う。
こればかりは仕方が無いのかもしれない。