1ー5 忘形見ですらなく
甘ったるかった。
それは最初からこうなることを半ば義務付けられた、甘過ぎる傲慢だった。
『嫌い』の理由をキフェが見つけたのはいつだったのだろうか。
突き詰めることを端から放棄したその主義に、ああなりかねない自分の未来を感じとってしまったから。
それだけで骨の髄まで嫌悪するに値した。
◇
研修を終えたオギの足取りは重い。頭が煮詰まる一週間だった。
近頃、何もしていない間に時間が急激に過ぎ去っていく。
きっと何も考えていないなんてことはないから、何かは考えている筈なのだが、ふと我に返ったときそこには何も無いのだ。あるいは本当に何も考えていないだけなのかもしれない。
オギはそれを怖いことだとは思っていなかった。時間がもったいないと考えはしたが、たいした感慨は起こせない。どうでもいい、というのが正しい感想だ。
何よりこの一週間はまともにぼんやりするような時間なんて無かったからこの程度は許されるだろう。
何の疑問もなくそう心中で述べて数歩、道を進んだところでふと思い直す。
──僕は一体誰に、許されるつもりなのだろうか。
自問自答。意味も答えも在りはしない。
ああ、つまり。
からの時間は覚えている価値のない、意義の欠落した思考を垂れ流している時間なのだ。
それがどこかおかしくて、少しだけ眉を動かした。
新規の情報を詰め込みすぎた反動として、オギの頭の中はキフェの弁論並みにぐちゃぐちゃだった。妙なところで似るものである。
いちいち足を上げ、階段を一段一段上がることにすら辟易して、少し肌寒くなった晴天の空を恨めしげに見つめる。
帰ったら寝よう。それこそ泥のように。
どこか違和感のある宿舎のベッドも、すっかり慣れてしまった列車の座席も、それらで得た睡眠時間は勘定に入れられない。
ただでさえ回りの良くない脳味噌の停滞期に無理矢理稼働させ続ければ、空にだって腹を立てたくなる。
きっと今頃キフェは、オギの足音に気付いてあわてて玄関口へと向かっている。大げさな動作で出迎えるために。
オギはジャケットの内ポケットから鍵を取り出した。真昼だからキフェは仕事場にいる筈だ。彼女が間に合うことは無い。
明かりの付いていない玄関口のランプは、少しばかり錆び付いていた。
オギが鍵穴に差した途端に、扉は内側へと開けられた。
不意打ちに、前へつんのめる。
「わ」
すかさず腕に添えられた手の感触。
「お帰りなさい」
脚本通りのタイミングと場所で、明朗な声と華やかな笑顔。
いつもと何も変わりない条件の中でオギは顔を引きつらせた。
「大丈夫でしたか?」
すらすらと滑らかに、心配そうな声音で不安げな表情で、オギを気遣う。適切にして常識的な少女の形。
オギは自分の目がとうとういかれたのかと考えた。
「リネン……?」
「はい、リネンです。オギのお帰りをお待ちしておりました」
色素の薄い髪も、低い背も、柔らかいけれど人とはかけ離れている肌の感触も、何もかもがそこにいるのがリネンであると物語っている。けれどその顔に華やぐ笑みを浮かべ、朗々と話す少女をオギは知らない。
惚けている間に、リネンは一言断りを入れてオギの荷物を引き受ける。バランスを見失ってリネンは少しふらついて、何事も無かったかのように歩き出した。足運びだけは変わらずへたくそだ。
「ねえ、本当にリネン?」
「それはどういう意味ですか」
くるりと振り返って、リネンが問い返す。聞き慣れたその文句すら、確かに抑揚が付いている。
オギは唇を湿らした。
「いや中にキフェとかが入っていたりしないかな、って」
リネンはきょとんとして目をしばたき、くすりと笑った。何もかもが無駄で芝居かかった動作だ。
「それはもしかして冗談という物ですか? 面白いです」
一ミリも感情なんて込もっていない筈の言葉に、目一杯の表現を詰め込んでいた。それがリネンの小さな口から、まるで始めからそうであったかのように吐き出される。
初めて見る笑顔はオギに最悪の印象を植え付けた。理由なんて無い。違和感すらも無い。ただただ気分が悪い。
「ごめんちょっと先に行ってる」
早口でまくしたてて、リネンを追い越す。
「はい、分かりました。ゆっくりとお休みになってくださいね」
目眩がした。
◇
階段を駆け下りる。なるべく足音は立てないように。
ずかずかと廊下を突き進む。一歩一歩が大きかった。
申し訳ばかりのノックをして、扉を開けた。返事は無い。
キフェの仕事場には、引きっぱなしの椅子と、机の上には箱が置かれたままだった。
「……暗室、か」
他の部屋は既に覗いた。
流石に現像中に乗り込むほど、オギは無神経ではない。手の離せない状況なら後にしようとは考えていた。
それはそれとして小さく舌打ちをする。予想以上に空っぽの部屋に響いたのが嫌だった。
開けっ放しの窓から冷たい風が入ってきて、深緑のカーテンが膨らんだ。オギは少しの間、それに気を取られた。どこか生物めいた動きだった。
深く息を吐いて、窓を閉める。
そのあとに背後から物音。ドアノブを回す音だ。
「あれ? オギ、帰ってたんだ」
素知らぬ顔でキフェが言う。
「ついさっき」
「へえ、気付かなかった」
両手に持っていた荷物を置いて、キフェは大きめの椅子に腰掛ける。母親の代から既に使い込まれていた丈夫な椅子。
父の後を継いだのはオギで、母の後を継いだのはキフェだ。
オカルト職は基本的に世襲制だ。元々は一般家庭の出であるベネットのように例外はあるが。
「あわっ」
キフェが机の上に、ガラス乾板を取り落とす。幸い高さはそれほどでもなく、割れはしていないようだった。
オギはちらりと目を向ける。手のひらほどの大きさのガラス乾板に写っているのは、間違いなくリネン。
「キフェ、どういうことか説明してほしい」
切り出し方を迷っている場合じゃなかった。
「なんのことかな」
「とぼけないでくれ」
少しだけキフェは笑みを引っ込めた。
姉を相手にする時は、出遅れること自体が敗北を意味している。そしてオギは既に出遅れた。
「リネンだよ。何を、やったんだ」
「ぼくが仕込んだの」
「なぜ」
「何故……?」
訝しげに問い返される。
「何故ならリネンの性能は『それ』を可能とするレベルにあったからであり、それ以外に理由なんて必要かな」
オギは声に不満のすべてをのせて、意地の悪い今日のキフェから目を逸らす。
「……気持ち悪いんだよ。 なんでか、分からないけど」
「ふうん」
キフェが目を細めた。とろり、声が質量を帯びる。
「まあそうだよねぇ。だって親友の形見を、目を離した隙に好き勝手されたわけだ。不快なわけないよね」
「わかってるなら、なんで」
言葉に乗せる感情は抑えめに。おそらくオギは少し苛立っている。
キフェが椅子から立ち上がる。背はいつの間にか追い越してしまったというのに、いまだに彼女の方が大きく感じた。
「あいつが君に残したのはたった一体の人形ってわけだ。しかもそれすら、結果的に譲渡されたに過ぎない」
「だから、何が言いたいんだよ」
キフェが言っているのは事実だ。全くの無駄の確認だ。
とん、と爪先が床を踏み鳴らして彼女はオギに又一歩近づいた。
「リネンはすっごく優秀だったよ。たった数週間でああまでなった。ぼくにできるんだ、オギに出来ない筈がないよね? 君が、リネンに見切りをつけたのは何故」
オギは答えなかった。
だから一層キフェは近づいて、耳元で囁くのだ。
──君は一体、あいつに、リネンに、何を期待した?
顔を上げた。オギは真っ直ぐにキフェの目を見た。
「違う? 違わないよね。だってそうだろう?」
何処か楽しそうなまでに、返答を一切期待していない問い。
オギは言った。
「うん、その通りだ」
あっさりと。キフェとオギの間には、確かな温度差があった。
キフェは今、初めてそれに気付いたのだろう。鼻白む。そして苦虫を噛んだような、渋い顔をした。
「キフェ、逆に聞くけど。あいつは、人に何かを贈るようなやつだった?」
返すオギの声は、冷えきっていた。
オギの言葉に、キフェはさらに眉を顰める。
姉に向けるべき従順は、服従とは同義でないから。キフェとオギの議題が部分的にでも一致し、かつそれに出した答えが違うというのならば。
当然のように、否定を意味する質問返しだってためらわない。
「リネンはあいつの気まぐれの産物で、僕に対する選別代わりで、そこに意味なんて対して込められていないのが当然だ」
あいつは彼女は親友は、不遜で尊大で、何もかもわかりきったような口調で、何も知らないかのような目で、とびきりの駄々をこねるやつだった。
「だから、そんなものだったんだよ。僕たちの関係は、さ」
そんな少女の隣にいたのが、たまたまオギでありキフェだった。
ただ、それだけだ。
「キフェこそ、何を期待してたわけ?」
その言葉は呆れるような窘めるようなような、静かなものだった。
それが余計に癪に障ったのだろう。今や地雷原と成り果てたキフェは理不尽きわまりなく吐き捨てる。
「……つまらない。つまらないよオギ。昔から面白みなんて少なかったやつだけどさぁ……一体君は何になるつもり?」
「怒れよオギ。ぼくは、君を怒らせることを言ったのに」
それは、未だにあどけなさを色濃く残す彼女の顔立ちに似つかわしくない低温な声だった。
カタカタと窓ガラスが鳴る。波風立たないオギの心に変わるように。
キフェはオギに背を向ける。
もはや論点すら迷子になっていた。
オギはその背中を追うことも引き止めることもしない。
今日は珍しく機嫌が最底辺にあるのだな、なんてぼんやりと考えて、薄く心配するぐらいには余裕をかましていた。
今は亡き友人のこととなると、常に朗らかな筈の彼女は目に見えて不機嫌になる。まるでリネンに、浮いた気分を売り渡してしまったかのようだ。
用意されていたような問いかけもこの一週間のうちに考えていたような気がしてならない。
基本的に姉のことは好意的に捉えているが、この性分だけはどうにも好きになれなかった。
それでも。
「……苛立っているよ、ちゃんと」
ただキフェの意図が、分からない。
独特の足音を経てて部屋に入ってきたリネンが、オギを見て心配そうに声をかける。
「どうされましたか……?」
その声には確かに抑揚があって、僅かに下がった眉も、自然な角度で傾けられた首も、強烈な既視感を与えながらまるで最初からそうであったかのように在る。
「なんでもないよ」
「なら、良かったです」
微笑み方で既視感の招待を知る。
ああなるほど。リネンはキフェの真似をしているのだ。だからこんなにも、気味が悪い。
仕方ないのだろう。確かにオギは持ち主だが、リネンのことはキフェに任せたのだから。
「リネン、さ」
「はい」
せめて個人的な好みぐらい述べておこうと思った。
「やめろとは言わないけど、キフェをそのまま真似るのは勧めない」
「……はい」
少し、リネンの返事が遅れた。
「いや、そうじゃなくて……うん。リネンにできることが増えるのはすごくいいと思う、けど、キフェ自体がそう一般的とも言える性格じゃないから」
「そうなのですか?」
オギは苦笑して、まあね、と返す。
両極端だ。明るいと思いきやふとした瞬間に塞ぎ込むような顔をして、冷静に見えた次の瞬間にはヒステリックにもなる。
「後はほら、今までのリネンが頭の中に染み付いちゃってるから。急に変わられるときついかな」
「では、私はどうすべきなのでしょう」
先ほどよりも硬くなった表情で、疑問符を僅かに抑えてリネンが問う。
数週間前とは違い、答えに詰まって固まるのはオギの方だった。
キフェの真似が出来るというのならば。
ならば何故──
オギは言葉を飲み込んで、レンズの奥の瞳を細ませる。
「リネンの楽なようにしてくれたらいいよ」
七割は本心で、二割は嘘で、残り一割はオギにも分からない。
周期的の訪れる、キフェのぶれ。それは数時間で跡形も無くなってしまうもので。
疲れを少しの間忘れて胃のむかつきを抑えて、だいぶ真面目にキフェの心配をして、対処法なんて放っておくことしかないと再結論。
何よりも、そんなことは数ヶ月かけて自分が理解したことなのだから。
今更感慨など湧く筈が無いのだ。
だから、キフェの言葉がオギに伝わることはきっとない。
伝える能力も、キフェにはなかった。