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空白のリネン  作者: さちはら一紗
第二部- redefinition - 1章「キフェ=ミアノの肖像」
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2部:1−11 キフェ=ミアノは取り残され続ける

 

「……ねえ……ま」




「……姉様!」




 意識が浮上する。

 キフェは、目蓋を開けた。

 視界には、こちらを心配そうに覗き込むリネンとそれからサイモンの顔。



 キフェは寝かされていたソファから起き上がる。


「ん……」


 古びたカーテンに曇ったガラス戸、手入れは多少されているが、如何せん少し埃っぽい。それは意識を失う前と同じ風景で、今度こそは現実──現在だと、確かめる。

 落とし物の写真は意識を失う直前に、スカートのポケットの中に仕舞い込んでいた。


「あー……トリップしてた、か……」


 古い建物とは昔から少し、相性が悪い。

 特に、今はもう誰も住んでいない、新しい人間で上書きされない場所とは。

 そういう場所は、過去と繋がりやすいから。


「うっげぇ……めちゃくちゃ気持ち悪い」


 魔法の反動で頭がずきずきする。

 ぼろぼろと、開けた目から涙が零れ落ちた。

 涙は生理現象のものだ。そこに感情は付随しない。


「大丈夫、ですか」

「ああ、うん。平気。薬持ってきてるし。倒れてから、何分たった?」

「……五分ほどです」


 リネンの無表情が無感情ではないことに気付く。


「えーと、そんなに心配そうな顔しなくて大丈夫だよ? リネン。ほら、ぴんしゃんしてるし。いきなりぶっ倒れるの、路上とかだとやばいんだけどさー。意識がちょっとバグっちゃうだけで、人体に問題は、あー、いや、元々ある分しか問題ないやつで。あれ? 言えば言うほど大丈夫じゃなさげになるな。困ったな」


 仏頂面で、心底不機嫌そうに、サイモンが言う。


「体調が悪いなら、無理はするな。早めに申告しろ」


 珍しく、キフェは申し訳ない気持ちになる。


「ごめん。心配をおかけしました」


 サイモンの、余計なトラウマを掘り返してしまったのは明白だったから。


「油断してた。発作起こしたの、5年振りくらいだから。最近は遺跡とかも平気で行けるようになってたんだけどな」


 キフェに固有の魔法、その本質は過去を追体験してしまうというものだ。

 他人の過去を見ることはできない。

 代わりに、自分の過去を引き摺り出してしまう。

 そうして追体験する過去の記憶は、夢のようで、けれど夢よりも生々しく質感を持って現れるのだ。


 まだ、口の中が苦い錯覚がする。

 もうとっくに昔になった、あの不味い果実の味を、キフェだけが確かに覚えている。


 この五年はせいぜい、眠る時によく、過去そのままの夢を見るくらいで、日中に前後不覚になることはなかったのに。


「あーチクショウ。変なものでも食ったかな」

「朝食は?」

「サイモンさんに頂いたお土産のチョコレートのみです。食欲がない、と」


 貧血の症状も混ざったか? とサイモンは渋面をする。


「一箱ぺろりと平らげていましたね」

「食欲がないとは」

「いやぁ甘いものはいくらでも食べれるよね。チョコレート、久しぶりだったから、つい」


 この大陸ではまだ、チョコレートはあまり流通していない。

 大昔に製法が失われて、近年ようやく原材料を育てられるようになり、製造が可能になった高級品だ。


「おかげで朝から鼻血を出しちゃってさー」

「子供か」

「……変なものを食べた、といえばそうかもしれませんね」


 サイモンはハァ、と溜息をついて。


「まあ、大事ないならよかったが」



 キフェが一人で遠出できないのは、この体質のせいだった。

 同じ魔女でも体質はそれぞれ違う。

 中等学校に入る頃には症状が落ち着いていたが。


 廃墟に限らず新しい場所に来ると知らない過去の気配に酔う。

 意識を失うまではいかずとも、魔術回路がざわめき、感覚にずれが生じる。

 結果としてひどい方向音痴というわけだった。


 国中を飛び回る母を師に持ったが、キフェは、町からひとりで出たことがない。

 この体質が治らない限り、恐らく、ずっとそうだろう。

 そして魔女というものが不治の病であることは、幼い頃より理解している。


 別に、思うところはない。

 魔女と生まれたことはとうに諦めているし、キフェはあの町をそれなりに愛していた。


 ただ、いつまでも生々しく追いかけてくるせいで、過去が過去ならないことだけが憂鬱の種だった。



 ──いつだって大事なのは、この手に触れる今なのに。

 ──過ぎたことに囚われるなんて、馬鹿みたいじゃないか。


 キフェはテーブルに置かれたカメラの目をやる。


「残るは庭だけだよね。少しだけ休んで、日が暮れる前に撮りに行こうか」


 依頼の続きを、しなければ。


 ──過去を写してくれ、なんて言われたってさ。困るよね。


 だって、誰も住まなくなったこんな場所。

 確かに誰かが幸福な時間を過ごしていたのに、今は埃と塵を除けに人が入るだけの場所。もうすぐ、取り壊しになる建物なんて。

 何を撮っても、喪失を際立たせるだけだ。



 ポケットの中の写真では、母が撮った学院時代の三人が、今でも笑っている。





 ◇




 庭は、その周りをぐるりと外壁で囲まれていた。

 壁には蔦が這っており、壁の向こうに見える木々は剪定されておらず、緑を溢れさせている。


「これは随分と、中も凄そうだね」

「埃や塵とはまた違って、植物は傍若無人だからな。おまえは……虫とか平気そうだが」

「超へいき。っていうか、否応なく平気になったんだけど」

「ほう?」

「本当に虫が平気なのは、君の妹とぼくの弟。あの二人、虫を捕まえて観察とか解剖とかしたがるたちだったから」



 庭に繋がる木の扉に小さな鍵を差し込み、開ける。

 中へと踏み入れると草木の匂い。

 初夏の気配が押し寄せる。


 草木生茂る、庭の風景を目の当たりにし、キフェは黙り込んだ。


 錆びたアーチ、汚れたガーデンテーブル、レンガの道の隙間から溢れる雑草、育ちすぎた木々が、日差しを遮り庭全体に影を落とす。


 けれどその庭には、花が咲いていた。

 歪な形の、細やかな薔薇が。



 元は園芸用のか弱いものだったろう。

 それは、種をつけて芽を出してを繰り返し、今に至るまで咲いていた。


「空っぽの庭ではありませんでしたね」


 リネンがほんのわずかに笑みを浮かべて、言う。

 キフェは、その表情と、崩れた薔薇を見比べて。


 自分が、感傷に引き摺られていたことに気付く。

 花に、残されていたものに目を向ける。


「寂しい写真になんてならないように、しなくちゃね」






 撮影終わり、日が暮れた。

 夕焼けのオレンジがかった光の中、ハンカチを敷いたガーデンチェアでひと息をつく。

 用は済んだ。あとは帰り支度を始めるだけだ。


 サイモンが、ふと。解体されようとしているキフェの写真機を見ながら言った。


「なあキフェ。おまえを撮ってもいいか」

「は?」


 視界の外で、キフェの事情を知っているリネンが硬直した。


「いや、おまえはいつも撮る側だろう? 写真が少ないんじゃないかと思ってな」

「ああ、そういう気遣い? びっくりした」


 最近わかってきたが、サイモンは意外と何も考えていない。

 いや、キフェの、自分が撮られるのは苦手だという事情を知らないから仕方ないのだが。


「それなのに『撮ってやろうか』じゃなくて『撮ってもいいか』なんだ?」

「ああ、言われてみれば」


 普段の言葉遣いなら前者が自然だ。

 サイモン自身、理由をよくわかっていないようで、ふむ。と考え込む。


「写真が少ないだろう、と思ったのも事実だが。どうやら、俺は写真を撮りたかったらしいな。夕焼けの庭のおまえが、絵になっている」


 生真面目な顔をして浮いたことを宣う。

 キフェは、うへぇ、と声を上げた。


「きみ、やっぱ喋るとき、なんも考えてないだろー」

「休日に回す頭はない」

「キリッとして言うな」


 別にいいのだ。写真を撮らせてくれ、などとよりにもよって、調子が狂っている時に言ったのは。

 複雑な感情になるのはキフェの一方的な都合で、それを悟らせたいとも思わない。


「で、いいのか、だめなのか?」


 いつものキフェなら、


『いいよ。リネンと一緒に写してよ』


 なんて笑顔で言って、リネンの肩を抱き寄せるだろう。

 だがその行いの意味をリネンがもう知っている以上、気乗りはしない。

 だから、返事の代わりに別の質問をすることにした。


「ねえ、サイモンはさ、妹の写真を見返すことがある?」

「は? 何を急に。当たり前だろう」

「どんな気持ちで?」


「俺の妹は最高にかわいい」


 臆面なく言い切るその返答に、キフェは小さく吹き出した。


 ──なんてことはない、この質問は、ただの確認だ。


 三年の月日が経てば、割り切れるものだということの。

 どれだけ引き摺ったとしても、立ち直るには十分な時間だということの。


 オギはアルミラの話をしなくなった

 いや、サイモンとはしているのだろう。

 けれどそれは、二人とも、過去だとわかりきって話している。

 アルミラの死を、きっと、完全に受け入れているのだ。


 キフェは立ち上がり、写真機をサイモンに渡す。


「君に撮れるのかい?」

「金持ちの道楽を舐めるなよ」


 サイモンは何も知らないまま、不適に笑ってみせる。

 その二人の表情が、何故か似ていることにリネンだけが気付く。


「ま、安心しなよ。ぼくは写真写りがいい女だからね。君がしくじっても、綺麗に写ってあげるさ」

「それはそれは楽しみだ」


 そしてキフェは、ひとりきりでレンズに収まり、シャッターの音を聞く。

 物心ついて以来初めて、撮られるひとりの写真。

 それは意外と呆気なく、魂なんて吸い込まれたりしなさそうな、軽々しい音だった。





 ◇




 夜。家の前でサイモンの車が去るのを見送った後。

 自宅の裏手、二階に続く階段の途中で、キフェは足を止めた。

 前を登っていたリネンが、振り返って、見つめられたキフェは、ぽつりと言った。


 いつかのリネンの質問の、答えを。


「昔はさ、写真に撮られるのが苦手だったんだよね」


 キフェは、写真を撮るのが好きだ。

 いっとうに好きなのが家族写真で、写真館の依頼のほとんどはそれだ。

 祝い事や記念、特別な日、そういうとびっきりを撮るのが好きだ。

 最高の時間を切り取ることは、素敵なことだと思う。


 でも、切り取った時間はいつか必ず過去になる。

 写真は、過去の記録に過ぎなくなる。

 幼い頃はそれが嫌で、写真に写りたくなかったけれど。

 それはもう、仕方ないことだと理解したけれど。


「それが遺影になるかもしれない、と思うと嫌で嫌で」


 ずっと昔の話だ。

 キフェが、自分の病を恐れていた頃。

 自分が大人になれずに死ぬと信じていた幼い頃。


 写真に撮られるのが怖かった。

 自分がいなくなった後、写真の中に、自分が留まり続けるのが怖かった。


 それは馬鹿げた恐怖だから、ねじ曲げて、誰かと一緒ならばカメラの前で笑えるようになった。

 けれど一人だと、幼い恐れが首をもたげる。


 自分のためだけに撮られる写真が怖い。

 切り取られた過去になってしまったら。

 もしも自分が死んだ後、残された者は、死んでしまった自分のことを思い出して泣いてしまうんじゃないか、と。

 取り残される弟を想像し、その想像に怯えた幼い姉がいた。


 呪いを残して死ぬことを恐れた、臆病で悲観的だったキフェ=ミアノの時代。

 まだアルミラ=コスタに出会う前の、話だ。



「ねえリネン。君には、わかる?」

「いいえ。わかりません」

「だよねぇ」


「わかりませんが、教えてくれて、ありがとうございます姉様」

「……ううん。聞こうとしてくれて、ありがとね」


 キフェは前のリネンを追い越して、振り向き恥ずかしそうに笑う。


「姉妹だけの、秘密だよ」



 サイモンと話して、確かめた。

 この三年、薄々と抱いていた自分と他者のずれの予感を。


 人は、ちゃんと死者を思い出にしていけるのだ。

 アルミラに何ひとつ残されず、未練を抱えていたサイモンでさえ、そうなのだから。


 まだアルミラの消失に囚われているのは、過去を指向する魔女として生まれた自分だけ。

 葬式の拒絶も墓参りの同行も意味をなさない。

 キフェの記憶はいつも、過去の夢に上書きされる。

 忘れられないのは、キフェだけだ。


 そのことを、よかったと、キフェは心底思う。




 そして残りの階段を駆け上がる。足音が家の中によく聞こえるように。

 内から鍵の開く音がした。

 いつもとは逆の方に、キフェは扉を開く。


「おかえり、キフェ」


 いつもとは逆に、出迎えるのはオギだった。

 穏やかなのに頑固で、黙って背負ってしまおうとする、困った性分の弟の顔を見て、姉の目尻が下がる。


 弟は、知らなくていい。

 姉が、危ういバランスで歩んでいることなんて。

 そんなことは背負わなくていいのだ。


 だから。

 愛する弟の出迎えに、姉は、憂いひとつない満面の笑みで飛び込んだ。



「──ただいま!」



 その後ろで、見守る妹は。

 彼女と彼の思うことなどわからぬまま。

 それでも姉弟の素顔を知っている。






 後日、キフェはワイナに見合い写真を撮ってもらった。


 オリバー夫人は屋敷の写真を受け取った。


 庭の薔薇は、屋敷が取り壊しになる前に、夫人に株を渡すことになった。



 写真は過去に戻りたいという思いを救わない。

 けれど、過去を愛することを助けてくれるのだと、キフェは思う。





 ◇




 この世には、すべてを過去にしてしまえる人間と、過去に囚われ続ける人間がいる。


 それは、取り戻せない『過去』になってから初めてわかるものだ。


 どちらの人間にも、等しく時間は過ぎ去る。



 廃れたはずの魔法の火が、灯り始めたこの大陸で、魔術師と人形と、『過去』を巡る事件が始まろうとしていた。



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