2部:1−2 嵐の予兆
とある春の一日は、程よい陽気と日差し、小鳥の囀りという完璧な構成で始まった。
欠伸混じりに朝の支度を終えたオギは、外の郵便受けを覗きに行く。
「新聞と、手紙と……あと、絵葉書か」
綺麗な海辺の町が描かれた絵葉書だ。
切符は高額で、消印は外国のものだ。
絵葉書には几帳面な筆跡の宛先以外に何も書かれていない。
しかし無言は何より雄弁で、差出人を察したオギは「なるほど」と頷く。
さて、手紙の方はどうだ。
封筒の見慣れた筆跡を確認し、僅かに眉をひそめる。
「これはちょっと、嫌な予感がするな」
便りがないのがいい便りな性格の人間が送ってくる手紙というのは、なんとも不穏な気持ちになるものだ。
階段を上がって家に戻る。
居間の方から、エプロンをつけたリネンが顔を出す。
「おはようございます、オギ。今日のジャムは新しい瓶を開けました。なんとイチジクです」
「おはよう、リネン。なんだかご機嫌だね」
「ええ。ジャムのおかげです」
「それだけ?」
「それだけですよ。ジャムの瓶はどれもきらきらとしていて飽きません。食べられなくても、良いものです」
「なるほど。それは確かにいいことだね。新しい瓶を開けるのは、いい朝だ」
オギはリネンに絵葉書を手渡す。
「サァラからいつもの、来ていたよ」
リネンは両手で受け取った絵葉書を持って、窓の元へ持っていく。
絵葉書を朝日に照らし、目を細めた。
知らない町の知らない景色が小さな紙の上に広がっている。
そこに息づいているのは三年前に別れた妹の旅路だ。
嘆息するように、リネンは唇を緩める。
「冒険を、しているのですね」
言葉をつくす必要は人形姉妹の間にはない。
ベーコンエッグが綺麗に焼き上がる時間になって、ようやく朝に弱いキフェが起き出してくる。
目もろくに空いてないのに、長くなった髪を編みながら歩いている。
「おはよぉ……」
「うん、おはようキフェ。三つ編み、絡まってるよ」
「んー、あー、ほんとだ。オギ、直してー」
「僕がやったらもっと絡まる」
「えぇ、じゃあリネン」
「だめです。今年の方針は姉様を甘やかさないことだとオギと決めましたので」
「ちぇー」
なんてくだらない話をしているうちにキフェも目が覚めたようで、その指は手早く髪を編んでいく。
あっという間に一本の三つ編みが出来上がり、肩へと流された。
丁度トーストが焼き上がる。
あとはコーヒーを淹れるだけだ。
コーヒーを淹れるのはオギだ。
いつの間にか味覚が代わり苦いものが飲めるようになって、つい最近懲りだしたのだ。
品のいいサイフォンはアルミラの兄サイモンから譲ってもらった。
『どうせそういう趣味はすぐ飽きるんだ。無駄金を払うのを見ているのは忍びない』
とかなんとか。
サイモンはあの一件以来、なんだかんだとオギやキフェの店に顔を出していた。
暇なのだろうか。
成金っぽい上に堅物っぽいから友達は少なそうだと常々思う。
今度会ったら優しくしてあげよう。
「キフェ、砂糖とミルクは?」
「たっぷり!」
馴染みの配分で甘ったるいカフェオレを作る。
オギの分のコーヒーに入れるのは砂糖をひとつだけだ。
ささやかだが十分に豪華な、いつも通りの朝食が始まる。
小さな手で新聞を捲るリネン。
二人はトーストにたっぷりとジャムを塗る。
齧り付けばイチジクの仄かな甘みが口の中に広がる。
朝の始め方で成功した日は、いい一日になる。
そんなジンクスでも作り出したい気分だった。
甘いものでキフェの頭が冴えてくるのを見計らって、オギは切り出した。
「そういや手紙が届いてたよ。父さんと母さんから」
キフェはトーストを囓るのをやめる。
「あの人たちが連絡を寄越すとか……なんかヤな予感」
「やっぱり?」
リネンが新聞から顔を上げた。
どこらへんが「やな予感」や「やっぱり」なのかリネンにはわからない。
「ご両親、ですか。そういや私はまだお会いしたことがないです」
「三年帰ってきてないからねー」
「僕らから会いに行ったりはしてたけどね」
両親は揃って自由人だ。
父──ディシ・ミアノは魔術研究院に所属する研究者で。
母──ワイナ・ミアノは各地を飛び回る写真家で。
姉弟が十分に育つまでは辛抱強く親をやっていたのだが。
その反動か、子が親離れして以降は兎にも角にも家に帰ってこない。
「親子っていうよりはなんだか、師弟としての思い出ばかり残ってるよ」
「普通の家じゃなかったからね、うちは。ぼくは魔法を使えるだけで『魔術師』の道には進まなかったし、母さんも普通の家の出だから、そんなに厳しくはなかったけど」
「兄弟子やってたベネットに言わせれば、父さんも、僕が師事していた時期には丸くなってたらしいけどね……」
ひとところに留まることを苦とする性分は子供には引き継がれず、両親に足りない落ち着きを補うように姉弟は育った。
少なくともオギは。
落ち着きのない姉を見やる。
キフェはジャムトーストを食べ終えて、もう半分のトーストにベーコンエッグを乗せていた。
そのまま豪快に齧りつく。
案の定、目玉焼きの黄身が垂れる。
あわててキフェは口いっぱいに頬張って、目を白黒させていた。
何歳だよ。
ご飯を食べるだけで絵面がうるさかった。
朝食を無事に終えて、キフェはようやく手紙の封を切る。
枚数は非常に多い。前半は父で後半は母のものという構成だ。
筆まめではないくせに、一度書き始めると止まらないのだあの人たちは。
父の書いた部分は文体が論文めいていて頭が痛くなるので、キフェはオギに押し付けた。
オギは一瞥して、「字が汚い」と文句を言った。
「そっち、母さんはなんて書いてる?」
「長々と惚気。いい年してまぁー、おしどり夫婦だこと。うちは店で閑古鳥が鳴いてるっていうのに」
キフェはさらりと読み飛ばし、最後の部分を見る。
そしてあからさまに渋い顔をした。
「父さんと母さんが、帰ってくる」
オギは目を丸くした。
封筒の消印を見て、キフェは「げ」と声を上げる。
「……明日か、早ければもう今日にでも家に着くよ」
「それは、なんというか」
オギはコーヒーを飲み干して、キフェからもう半分の手紙を受け取る。
帰ってこない人間がわざわざ帰ってくるとき、それは帰らざるを得ない何かがある、ということだ。
なんのために帰ってくるのか、手紙からは読み取れないのがいただけない。
事態をよくわかっていないリネンが、「お会いするのがたのしみです」と言う。
嵐にならないといいな、と思った。




