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空白のリネン  作者: さちはら一紗
外伝『暗幕のメリー』
32/44

外伝11 暗幕のメリーと壊れたバイオリン弾き

 

 それは今となってはもう、随分と昔の話だ。

 失意から始まったサァラの旅は早々に破綻した。

 共に旅をするはずだった(リネン)は隣におらず、協力者であった人間(サイモン)の庇護もない。

 ひとりきりでは、この身が人形だということを長くは隠し通せなかった。


 うまくできると思ったのだ。うまくできると。だって自分は、人間よりもよっぽど優秀なのだから。

 だからこそサァラは人の中に紛れ込めなかった。

 サァラの立ち居振る舞いは人目をどうしようもなく引いて。人の目は異質をすぐに暴き立てる。

 あっという間にサァラは追われ、何もかもを失った。


 そのうちにいつしか人間から逃げ、路地裏で膝を抱えることがサァラの日常になっていた。

 食べるものがなくても寒さと雨風を凌ぐ屋根がなくても、人形は死なない。

 けれどサァラは死んでいた。この身は死を知らずとも、心は折れることを知っていた。


 夢見た物語のような冒険なんてどこにもなかった。

 行くあてもなく、望むものもない。未来もない。

 このまま待ち受けるのは最悪の結末だけだ。


 いずれ悪しき人間の手に落ちて、自動人形(オートマタ)の最高傑作たるこの身は、ただのモノに貶められるだろう。

 そんな悪夢を夜毎に見る。

 無防備な眠りから目覚める度にまだ自分が自分として存在していることに安堵し、いずれ(きた)る終わりに恐怖する。

 サァラは弱く、自由の味はあまりに苦かった。


「──であるならば。選ぶがいい、そこで人のように野垂れ死ぬか人形として私に使われるか」


 膝を抱えるサァラに、手を差し伸べた人間がいた。とあるサーカスの座長であると彼は名乗った。


「……あなたを、持ち主として、主人(マスター)として認めろと?」


 思い出すのはかつて売り物として陳列された日々。

『人形』であることを否定して飛び出したのに、『人形』にならなければ今度は生きられないというのか。

 サァラの罅割れた心に冷たいものが満ちる。

 だが彼は。


「そんなものに興味はない。ただの雇い主としてだ。少なくとも私はおまえを座の一員として扱おう。悪い話ではないと思うがね」


 派手な燕尾服に不機嫌そうな悪人面でそう言った。

 男には胡散臭さしかなく、行き先は見世物小屋だ。

 どこが悪い話ではない、だ。よくそんなことが言える。

 でも。


「……うん、そうだね。最悪より少しだけ、悪くはなさそう」


 それ以外にもう、選択肢なんてなかったから。あったとしてももう、探す力すら残っていなかったから。

 差し伸べられた手を取って、サァラは『ゴンドラの斜陽座』の見習いになった。



 それは今となってもまだ、色褪せない昔の話だ。

 サァラは座の見習いとして下働きと芸の仕込みに明け暮れ、忙しさに身も心も委ねていた。

 思考を回しては、生まれたての肥大した自尊心が現状に耐えられない。

 価値があるのは終わりに怯えず穏やかに眠れる場所を手に入れたことだけ。


 座長はサァラを人形として使ったが、待遇は他の座員とまったく変わらなかった。

 あの胡散臭い魔術師が善人の類であったらしいことに驚きながらも、サァラは期待も感謝もしなかった。

 まだ舞台には立てない身の上でもいずれ見世物になることは決まっている。それが屈辱であることに変わりない。

 こんなところにいるべきではない、早く逃げ出したいと思いながらもサァラは止まり続けた。

 己の有用性を示し続ける限り、居場所だけは手に入る。

 一度見失った未来は相変わらず真っ暗で、どこに行けばいいのかわからなかった。


 単調な日々を貪っていたそんな時、一人の踊り子が一座に加わった。

 魔術師でもない。サーカスの中でなければ生きられない身の上でもない。何の変哲もない、歌い踊って旅を続けるだけの少女だった。

 ただ己の芸を極めること。それだけが少女の道導。


「私は、踊らなければ生きられないの」


 大輪の花のように晴れやかな笑みで、壮絶に踊る少女だった。

 古典的なバレエに異国の舞踊、彼女はありとあらゆる型を知り、まだ足りないと踊りですらない曲芸までもを欲しがって、こんなところにやってきた。彼女の演技に、確固たる名前はなく、彼女だけのものだった。

 少女は優雅な白鳥であり、愛らしい鳩であり、力強く飛ぶ燕。

 迷わず、揺るがず、進み続ける。


 ――サァラは。

 その姿を綺麗だと思った。

 ――あんなふうになれたら、どれほど素敵だろうと。

 空っぽになった心に熱いものが込み上げた。

 真っ暗だった未来に淡い光が差し込んだ。

 その時サァラは初めて、見飽きたはずの舞台の輝きに気が付いた。


 輝きを振りまきたいだけ振りまいて少女は一座から去る。


「止まらないわ。留まらないわ。私が『本物』に至るその日まで!」


 言葉を交わしたこともろくにないままに。

 決して振り返らない少女の背に憧れて、サァラはメリーになった。




 そして二年の月日が経つ。

 憧れた少女の背を追って二年。己の限界と身の程を知ったサァラは、けれど満ち足りていた。

 いつのまにかここは随分と居心地のいい場所になっていた。

 だからこそここらが潮時だと思う。

 この場所で得るものはもうない。今の自分ならば、かつて望んだ物語のような冒険をひとりでもできるだろう。

 かつての夢に未練があるわけではないけれど、これ以上留まっては離れがたくなってしまうような気がして。


「私も前に進まなくちゃ、ね」


 前の景色は相変わらずよく見えないけれど。真っ暗ではなくなった。

 憧れをただの思い出にして、きっと生きていける。

 そう決意して。


 旅立ちを前にした最後の町。そこで彼に出会った。

 金に困ってサーカスなんかに取り入った、しがない音楽家だ。

 多少見目が良いぐらいが取り柄で、それもだらしなく伸びた茶髪とくたびれた服装と軽薄そうな言動が台無しにしている。

 第一印象はせいぜいそんなものだ。

 だがサァラは随分と早く彼に気を許してしまっていた。

 浮かべている余裕ありげな笑みとは裏腹に、青色の瞳に湛えられた薄暗い光が気になって仕方がなかった。

 だが今の彼には、そんな光はない。湛えるのは青白い月明かりではなく、か細くも熱い火だ。


「──俺たちなら『魔法』を使えるかもしれない、そうだろ?」


 ケイス=フラット。

 彼の過去など知らない。

 彼が何を思ってあの海辺でサァラの迷いを溶かしたのかも、穏やかに己を否定したのかも知らない。

 彼が今、言った言葉の意味だけははっきりと理解した。

 だから。

 メリー(・・・)はとびっきりの笑顔で応えよう。


「君って、卑屈なくせに自信家で……ほんっとうに、嫌なやつ!」

「君の頑固さには敵わないさ」


 サァラの毒入りの返答をケイスは飄々と受け流す。

 交わした視線が何故だか可笑しくて。訳もなく笑い出してしまいそうになる。

 人間も人形も馬鹿さ加減はさして変わらないのかも、なんてサァラはおかしなことを考える。なんて屈辱だろう、そう思うけれど。

 不思議と、悪い気はしなかった。


 ケイスが手を差し出す。


「さあ」


 たとえこの行いが無意味だとしても、


「行きましょうか!」


 今から二人で、細やかな意地を張るために。



 ◇



 テントの中は不穏な享楽感に満ちていた。

 丸い舞台の真下にはぽっかりと空いたスペースがあり、この場所に戻るべき楽隊の面々はひとりもいない。

 観客は引き延ばしに気付きつつある。

 これでいいのか、このまま身を委ねていいのかと迷っている。そんなざわめき。

 予定時刻を過ぎたことを示す時計の針が疑いを煽る。

 時間稼ぎとその場しのぎは、ひそひそ声の不安を確信に変えてしまったその時に破綻するだろう。

 飽きと失望は、魔法をあっけなく解いてしまう。

 けれどまだその時は来ていなかった。人々は小さな舞台から発せられる道化の明るい声にまだ、耳を傾けていた。


 それからしばらくして、道化は暗幕の中へと引っ込んでいく。

「あとは頼んだ」と、お調子者で酒癖の悪い古株の青年は、道化の顔のままケイスの肩を叩いた。この先の数分を任せるに足ると、白い化粧の下の表情が言っていた。

 たったひと月の付き合いでよくもそんな顔ができるものだとケイスは思う。たったひと月の付き合いで、よくも化粧の下の表情なんてわかるようになったものだ、と。

「頼まれた」なんて軽口を薄っぺらくならないように言って、ケイスとサァラは舞台へと踏み出す。


 歩みを進めたのはほんの数歩。

 夕焼けに似た黄色い光が、目を焼いた。

 暗がりに慣れた目には照明は随分と眩しい。

 数瞬後、細めた目をようやくしっかりと開くと、たくさんの顔がケイスたちを囲んでいる光景が焼きついた。

 先ほどまですぐそこの舞台下で演奏をしていたのに、見える景色なんてそう変わるはずもないのに。

 でも今度は、楽隊のひとりとして存在しているのではない。見られているのはケイス自身だ。


 じっとりと手に汗が滲む。

 街角でも酒場でも、どこでだってケイスは弾ける。弾けるようになった。

 場所を選ばず客を選ばず仕事を選ばない。それが彼の信条だ。

 なのに、舞台の真ん中に帰ってくることだけは想像もしなかった。


 ここは遠い昔、ケイスがいた『天上に最も近い舞台』とは比べものにならないくらいにお粗末なテントだ。

 ここにいるのは騙されにきた人たちだ。

 ここにあるのは本物の奇跡なんかじゃないと、それをわかっていて魔法に掛けられにきた者たちだ。

 そしてここに立つのは、人を騙すことしかできない愚か者だ。

 失望されたくなかった師はここにはおらず、自分への失望なんてとっくに済んでいる。


 だから、今更臆すことなど何ひとつありはしない。


「…………っ」


 静寂に響かぬよう、悪態を噛み殺す。

 心中で切った啖呵に嘘はなく、止まらない震えは怯えではなく、治りきらない傷口から苦い記憶が染み出しているだけのこと。

 惑う視線は客席から逃げ出して、行き着く先を探す。


 視線は数歩の先。サァラの背で止まった。

 この町では滅多に降らない雪のように白い衣装。剥き出しになった背中には白粉が叩かれて、人肌と相違ない柔らかさを錯覚させる。亜麻糸のように細い髪は僅かな時間で複雑に編まれ、いつものように揺れることはない。

 その立ち姿は証明の光にかき消されてしまいそうなほどに透明で、別人のようで。

 でも、そんな筈はないのだ。

 人は、いや、たとえ人でなくても。自分ではない誰かになんてなれはしないのだから。


 ケイスの視線を感じたのだろうか。サァラがわずかに振り返る。

 横顔の、硝子の瞳はケイスを映さぬまま。

 唇が、動いた。


 ──信じてる。


 その動きに、ケイスは目を瞬いた。

 視界は一瞬の暗転。

 再度映した景色は何も変わらず、ただ身を焼くほどの光の痛みだけが嘘みたいに消えた。

 震えもだ。

 見えないように小さく苦笑う。


 ――そういえば。

 今の自分は昔とは比べものにならないほど単純で馬鹿なんだった。


 サァラは再び背を向ける。

 その姿に微塵も迷いはない。

 あったとしても、彼女は隠し通す。

 それを選択した少女が目の前にいる。


 返答はもう必要なかった。



 ◇



 止まった舞台は二人の一礼をもって動き出す。

 俗なこの場にはまるで似つかわしくない、優雅すぎる一礼。

 先程とは変わった様相に、観客の目が変わる。


 舞台に立つのは、片や古典的過ぎる白い衣装の踊り子で、片や安っぽく地味な衣装に身を包んだバイオリン弾き。

 この場所がどこであるかを忘れるほどに、それは何の変哲もない二人組だ。

 観客(かれら)は思う。

 ――だからこそ、何の変哲も、ないはずがない。

 だってここはサーカスなのだから。珍妙であることこそが本懐なのだから。

 ありふれすぎている。普通すぎる。

 ということが返って異常と写り、期待が客席を伝染する。


 観客の目が叫ぶ。 

 もう待たされるのも限界だった。

 ――何かが、ようやく始まった、と。



 サァラはその熱を、冷めた目で見つめていた。

 身体反応として引き起こされる緊張の証、早打つ心臓や震え、胃の痛みに息苦しさ。それらを味わうことないサァラはいくらでも冷たくなれる。『緊張』なんて錯覚だと定義した途端にそう処理される。

 だから後は、そうはなれない人間(ケイス)をそれでも信じるだけ。


 今夜サァラが舞台に立つのは二度目だ。前座だったといえど、よく気付かせずに済んだものだと思う。

 どうかこのまま、別人であると信じてくれればいい。

 取るに足らない前座の人形と同一人物だと気付いてしまったら、その途端に魔法は解けてしまう。

 これがまた、冗長な引き延ばしに過ぎないと気付かせてしまえば終わりだ。


 否。例え最後まで隠し通したとしても。

 どれほど上手く踊っても。どれほど上手く弾いても。

 ここに勝ちはない。


 だって劇的なことは何も起こらない。

 観客が求めた奇想天外なんて何もない。

 そしてそれをねじ伏せられる、圧倒的な『本物』には至れない。

 期待は絶対に越えることは不可能で、ただ実直に、できることをするだけの時間稼ぎだ。

 結末は拍子抜けと失望決まっている。万雷の拍手など欲することこそ愚か。

 だが、このまま場が冷めていくのは。魔法が解けきるのを見過ごすわけにはいかないから。

 サァラの信じた『本物』のため。愛した愚かな魔術師たちのため。

 敗北に至る退屈を、全身全霊で奪いにいく。



 背後から微かな息遣いと布擦れ、動き出した彼の気配を感じる。

 始まる。

 幾度も聞いた曲の聞き慣れない旋律が、静寂を(はじ)く。

 提琴が歌い上げるのは、しめやかに暗い、夜風の響き。

 ケイスと合わせたのは海辺での一曲だけ。必然、この場で見せるに足る演目はその一曲。


 舞台とは計算尽くの産物だ。サーカスに於いてもそれは変わらない。

 今の二人が、これから見せるものが、果たしてこの場に適切であるのか――考えて、やめた。

 それはケイスの領分だ。


 サァラもまた、踊り出す。

 定義はバレエ、その末席にも加えられるかどうかも怪しいもの。

 曲も物語も振りも、冒涜的に原典より切り取って継ぎ接いだ。きっと、見る人が見れば許さない紛い物だ。

 照らす光が、向けられる無数の目が、踊り出すサァラを値踏みする。

 かつてこの小さな舞台で、同じ衣装を纏い人を魅了したかの少女をこの町の人々は知らない。

 資格を問われている。そう感じるのは、それを問うているのはサァラ自身だ。


 ――私にできるのは所詮、真似事だけ。


 自信、自負、サァラが当たり前のように持って目覚めたそれらを二年の月日が「分を弁えろ」と否定した。

 積み重ねた二年の月日がサァラの自信と自負の残り滓を肯定し、保証する。

 所詮の真似事を。その出来を。


 何ひとつ誤まらぬように、記憶の中の、オリジナルたる『彼女(踊り子)』から貰ったものをサァラはここに顕す。

 使えるのは古い古い型だけだ。彼女の踊りは彼女だけのもので、奪ってはならないものだから。

 それでも彼女なら、ありふれた型を演じるだけで人の心を容易く奪った。サァラはそれを何度も見た。


 舞台の状況、身体の配置、証明の角度、自分が今、どう見えているのか。どう見られているのか。想像を及ぶ限りに回す。 

 なぞる先、『彼女』の天性の感覚で為された演技は論理で解体した。

 指先ひとつ、瞬きの秒数、不必要な呼吸すらも偽装して。


 しかしその論理が間違っているのか、何かが足りないのか。やはり理想には遠く及ばない。

 不一致条件はおそらくひとつだけ、どれほど真似てもここにいるのは『彼女』ではない。サァラはサァラでしかない。その齟齬が、『完璧』に罅を入れる。

 それが、魂の不在を詰られた理由だと今なら分かる。

 それを理解しても、今のサァラにはどうすることもできない。


 ――旋律が転調する。

 示し合うまでもない。ケイスは機械のような精確さで予定通りを為す。

 律動は踊るサァラと僅かなずれもなく、しかしそこには確かな、熱と呼ぶべき何かがある。


 そうだ。忘れたりなんかしない。

 ここに立つことを決めたのは一人ではない。

 足りない魂は、ケイスが補ってくれる。

 今はまだ届かない場所まで連れて行ってくれると、信じて。

 永い永いこの一瞬一秒を、サァラは愛そうと決めたのだ。



 サァラの後ろで、ケイスは細い細い糸を手繰るように音を奏でる。

 サァラのために何が必要で自分には何ができるのか。

 今ここで退屈と飽きを押さえ込んで待つ観客達(かれら)へどう報いればいいのか。

 それを確かに言語化する前に、指先が応える。

 かつて自分のものではなかった腕だ。それを忘れかけるほどの年月を経て、これが自分の腕だとようやく(あきら)めた。

 輝かしいのは過去ばかり。

 この町で、きっとこの腕は更に劣化した。

 でもこの町で、誰かのために弾くことを知った。

 どうしようもなく色褪せているとしても今の自分を否定することはできない。

 ケイスの音楽はもうケイス自身のものではない。


 抱いた論理とは裏腹に、無意識下に認めてしまう足りなさ、至らなさが脳裏で悲鳴を上げる。だがそんなことはとうに思い知っている。

 ほんの一瞬、サァラと目線が交錯する。瞬きだけで頷いた。今更迷うことなどない。


 演目はほんの数分。 

 この節が終われば最後の一節が始まる。

 焼き切れてしまいそうだった。技量の足りない分は頭を回して、たった一手を間違えぬようにほんの少しでも良く聞こえるように。

 だが一瞬一秒を掌握することなど不可能に等しい。凡人でしかない、今のケイスには。

 ここまでして得られるのはたった数分の猶予にどうしようもない劣等感。

 ああ、まったく割に合わない。

 ぼやきを胸の内に仕舞うケイスの口元はしかし、緩んでいた。


 今夜の音楽はサァラのために、一座のために、観客のために、そしてもうひとり、

 ――彼女のために。


 視線を空っぽの席に向けた。

 ケイスが渡したチケットの席。そこにあの隣人はいない。 だがミランダは、きっとこの場所にいる。 

 見ているだろうか。聞いているだろうか。


 何度も繰り返したメロディが一際に天井へと響く。

 これが最後の一節だ。


 そしてこれはケイスの問いかけであり、答えだった。

 宛先は夜毎の聴衆。かつては唯一の観客だった、大切な友人へ。


 関係の名がまだ友人ではなかった頃。もっと深く、薄汚れていた名を関した頃。隣同士に身を寄せ合って彼らは生きて、それは敢えなく破綻した。

 彼女の別れの言葉を、まだ覚えている。


『――私はね、悪人だよ。私が君に優しくするのは、君が呪われているからだ。奇跡がないことを、願いが叶わないことを、君自身が思い出させてくれるからだ。

 二度と奇跡なんて信じない。二度と願いなんて抱かない。 私はね、ケイス。……君と一緒には生きられないんだ。君への愛よりもずっと深く――すべての魔法を憎んでいるのだから』


 愛と呼ぶには不確かすぎる、所詮は傷の舐め合い。確かな憎悪を前にはあまりに脆い。

 ケイスもまた、ミランダの言葉を否定することができない。

 かつては、そうだった。


 かつてケイスの師は言った。

 ――夢を見せろ、心を奪え。と。

 奇蹟にも迫る天上の音楽を前にして、完璧な演奏などただの前提。その先に進むために、それが欠けてはならないのだと。

 かつて理解できなかった言葉の意味を、今のケイスは知っている。


 ――天上への憧れは自分のためだった。

 見えかけたものが、あと少しで手が届きそうだったものがただ欲しかった。純粋で子供じみた、それだけの理由だ。

 それが間違いだったとは思わない。

 自分のためだけに高みを望んで、迷いなく歩んだ自分を誇りにすら思う。

 でもそれだけでは、奇蹟にはきっと届かなかった。


 あの日の自分はまだ知らなかった。

 奇蹟を願うのは、求めるのはそれを、誰かに届けるためだということを。


 標を失ったケイスはもう自分のためには弾くことはできず、誰かの望みに寄生して、音楽に縋り付いて生きてきた。

 享楽。歓楽。悦楽。溺れることはコツを掴めば簡単で、それは悪ではなかった。

 欲しいものは二度と手に入らないとしても、満ち足りていると誤魔化すことはいくらでもできた。 


 だから気付かなかったのだ。随分と長い間、素知らぬふりをしていた。

 そんな生活を続けるうちに、己でも気が付かない些細な願いが胸の内に生まれていたことを。


 ――夢を見せたい。心が欲しい。


 自分のためには弾けない。誰かのためにしか弾けない。

 しかしケイスという人間の性根は欲深く、無望の境地を知らない。

 だから、自らの音楽を捧げる『誰か』に望みを託してしまった。

 かつてものにできなかったことを、今のケイスはただの我欲で望んでしまった。


 低俗だと、かつての少年(ケイス)は嗤うだろうか。

 そんな音楽は媚びへつらいだと顔をしかめるだろうか。

 だが今のケイスは、そんな音楽を愛している。

 愛されることがケイスを生かしている。


 音楽(きせき)は誰かのため。

 差し出すのは一夜の夢で、お代に望むはその心。

 心からの喝采。心からの笑顔、心からの感動。

 ――それは、魔法を夢を見せるために使うサーカスの魔術師(かれら)と、何が違ったのだろう。


 かつて世界では、神の奇蹟と俗世の魔法は未分化だった。

 今の世でも、大きな違いなど本当はないのかもしれない。

 魔法(きせき)はけして魔法使いのものだけではない。

 夢を売り、心を奪う。


 ――ああまったく、ならば俺たちだって悪い魔法使いに違いない。


 そう思えてしまうから。自分はきっと、もう憎むことができないのだ。

 魔術師も魔法も。忘れてもいない。許してもいない。だがそれそのものは、恨めない。

 それどころか、きっと自分は――


 ケイスがここに立つことが言葉に出来なかった彼女への答えだ。

 言葉にならなかった思いに価値はなく、言葉にせずに伝えようとするのは傲慢だ。

 だが、彼女に届く言葉はなく、ケイスには音楽しかないから。

 伝わるはずない思いを、それでも込める。


 ──君の憎悪を知りながら、結局何もできないまま甘え続けた。君の傷を、痛みを、嘆きを、肯定できないことを許してほしい。

 そしてどうか、伝わりますよう。


 奇跡は決して与えられない。願いは叶わない。

 彼女はそう言った。それは正しく、何よりもケイス自身が理解している。

 

 それでもだ。


 ありえない奇跡を信じている。

 叶わない願いを愛している。


 そういう風に生きていくのだと決めたから。

 偽物だっていいのなら誰にだって小さな奇跡を作ることはきっとできると。

 そんな甘い希望を、抱いて。



 そして。

 永い永いほんの数分は底を尽きる。

 ケイスは、サァラは、ゆっくりと動きを止める。

 演奏も演舞も終わり。

 熱は冷め、足元の床は照明の鋭い光に無機質に照らされる。


 残響の消え去った場は、しんと静まりかえっている。

 サァラは息を切らさず真っ直ぐに背を伸ばしているにも関わらず、どこか頼りない。

 きっと自分も情けない顔をしているのだろう、とケイスは考える。

 静まり返っているのは暗幕の向こうも同じだった。まるで誰もいないみたいに。

 ──間に合わなかったのだ。

 そして、二人の次も控えてはいない。


 これは失敗かどうかなんて、聞くまでもない。


 そうだ、観客(かれら)は最大限に期待した。

 たかが二人に出せる最高では期待には応えられない。

 わかっていた。成功など最初からここにはない。


 失望の毒が回りきるまであと数秒。

 止めることはできない。

 膜を張ったように認識が遠退くまま、首を垂れる。

 始まりと同じ一礼。そして魔法が、解け──



 ──ファンファーレが、鳴り響く。


 紛れもないトランペットの音色はけたたましく、驚いた人々の目が向けたのが舞台ではなく後方。

 左右の入り口から、見慣れた顔が溢れ出す。

  必要な楽器も演奏者も誰一人として欠けることなく、後へと続く。


 一際華々しく奏でられる音楽が、今度こそ本番だと告げる。

 言葉よりもずっと音楽に馴染んで生きてきたこの町の人々は肌で感じ取り、歓声を上げた。

 顔を上げた壇上の二人に、おざなりな拍手を送るのも忘れて。


 パレードが終わりの始まりを嵐のように告げる。

 花形たちの顔ぶれが増える度に、演奏は勢いを増し、ひとつまたひとつと仕掛けられた魔術が起動する。

 ほんのささやかな魔術は幾重にも重なり、テントの中の景色を様変わりさせていく。演奏こそが呪文の代わり、歌に音律に呼応して景色は青い海へ、銀景色へ、煌びやかな星空へと塗り替わる。


 魔術師たちの声が響き渡る。


「ありがとう僕たちを信じてくれて!」

「ありがとう僕たちを愛してくれて!」


 サーカスの旅路を描き出し、時も場所も超えて連れ出すゴンドラの魔法だ。

 そんな名を冠する、実態はタネと仕掛とハッタリだらけの、ほんの些細な幻影魔術でしかないけれど。


 ──魔法は解ける前に、正しく引き継がれた。




 ◇




 遅れに遅れた主役たちの登場に、二人の役目は終わる。

 脇役は誰にも気付かれないように、そっと幕の内側へ。

 刺す照明(ひかり)に別れを告げて、優しい暗闇の中へ。


 ふっと、ケイスの張り詰めていた糸がほつれる。

 震えは利息付きで取り立てにやってきて、呼吸すらも覚束ない。

 さっきまで、どうやってあの場所に立っていたのか不思議なくらいだった。

 気がつけばサァラがケイスの腕を取っていた。

 どうりで崩れ落ちはしないわけだ。


 表情なんてろくに見えない暗がりで、サァラが囁いた。


「ねえ、今……どんな気分?」


 軽やかな声だった。


 きっとみんな、帰る頃には綺麗さっぱり忘れているだろう。

 踊り子とバイオリン弾きの二人組のことなんて。


「──ああ、最高だ」


 震えるほど。笑えてくるほどに。

 見えなくたって見えなくたってわかる。

 きっと今、自分たちは薄気味悪い笑みを浮かべているに違いない。



 焦がれた『本物』に至ることはできず。

 喝采を向けられた記憶などなく。

 所詮はかすみゆく一瞬にしかなれない。


 けれど、あの一瞬。

 壇上のメリーは、ケイス=フラットは、

 確かに愛された。



 ──ような、気がした。


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