外伝10 偽物と魔法
翌日、この町での最後の公演の前にケイスは座長の控えたテントを訪れる。
派手な燕尾服に胡散臭い髭を蓄えた彼は、相変わらずの鋭い目つきでケイスを一瞥した。
「ああ、話なら分かっている。辞めるのだろう?」
「まだ何も、言ってないんですけどね」
座長は鼻を鳴らした。
「元々この町での公演限りのつもりだったろう。その場しのぎで口走ったことくらいばればれだ。メリーは心配いらない。あやつは結局、人に甘い」
「別に、サァラの秘密が消されて困るような記憶でもないのはわかってんですけど。なんとなく嫌ってだけです。魔術をかけられるのは、苦手なもので」
「誰しもそんなものだ。分かっていて魔法にかけられにくるのだから、我らの客は酔狂だろうよ」
今夜は最後の公演。評判もチケットの売れ行きも上々と聞く。『魔術なんて』と口ではいいながら、どいつもこいつもいい気なものだ。
さて、座長の察しが良すぎるお陰で要件は手短に済んでしまったが。
ケイスは座長の軽口混じりの返答を思い出す。
機嫌がいいのだろうか。
今なら聞けるかもしれない。
「そういえば記憶を消す魔法って、どこまで消せるんです?」
何気ないように聞いたが内容が内容だ。座長は警戒を露わにするように眉をひそめた。
「……何が目的だ? 記憶を消してほしい人間でも……いや、消してほしい記憶でもあるのか?」
「まさか。純然たる好奇心ですよ。平凡に暮らしてちゃ、そういうことを知る機会なんてないもんですから」
「思っているようなものではないぞ。どうでもいいことを少し思い出しにくくするだけだ。気休めのまじないみたいなものでしかない。人を害するような魔術なんて、ほとんど滅んでいるんだ」
「悪い魔法使いなんて現実にはほとんどいやしない、か」
「魔術師嫌いには信じられんだろうがな」
ケイスは押し黙る。
「隠せていないぞ」
「すみません」
「正直すぎると言われないか?」
「昔はよく。今は賭け事で困らない程度にのはずなんですけどね」
「かまわん。心の内で何を考えていようが、ここでひと月築き上げた関係は嘘ではない。隠せてはいないが、私以外の誰にも悟られていない。大したものだ」
きつい皮肉だ。先程正直だと言った口でよく言ってくれる。
頬を引き攣らせるケイスに、座長は強面を緩めた。
「なに、嘘や隠し事を嫌っては魔術師なんぞとうにやめている。私は君を気に入っているのだ」
ケイスは困惑する。
理由がこれっぽっちもわからない。
ケイスは換えがきく凡庸な音楽家にすぎない。
やむにやまれぬ事情で、サァラだけではなく一座のあらゆる人間と友好的な関係を築こうとしてきたが。座長とはそんな機会もなく、おまけに本性も見透かされているときた。一体どこに気に入る理由があるというのだ。
ケイスの怪訝な顔を見ても、座長は満足げに頷くだけだった。
こっちは筒抜けなのに相手は何を考えているのかちっともわからないとは。
魔術師はこれだから、なんて悪態もつきたくなる。
「君の嫌悪はもっともなことだと、魔術師としても思うのだよ。私は邪法、呪法まがいのものを人よりもよく知っている。それを使わないとは決して言い切れぬ。それがどんなに悪しき魔法であろうとも、それが幸福を導くのならば、私は躊躇いなく使うだろう。君の記憶がもしもメリーを脅かすと判断していれば……」
自らの正しさを信じて疑わない。危うい光が座長の目に満ちる。
「傲慢だと思うだろう?」
「はい」
「正直者だな、本当に」
◇
「ケイス!」
座長のテントから出てきたところで、通りがかったサァラが駆けてくる。
いや、通りがかりではない。どうやら自分を探していたようだ。
「どうかしたのかい?」
「ううん。ただ顔を見たくて、言いたいことがあって。その……昨日はありがとう」
サァラには珍しい、素直な物言いだ。
「今日が最後の『メリー』なの。大したものじゃないけれど。それでも私、精一杯やるからさ。ケイスに見ていてほしいな」
舞台衣装を纏い、人形であることを強調した化粧を施した身で、少女のように屈託なく笑う。
「あー、ええと……」
ケイスは言い淀む。
随分と懐かれたものだ、と自嘲すらしたくなる。
サァラは何か、ケイスを勘違いしていないだろうか。
ケイスの心に影が落ちる。
だって何を言えばいい?
昔のことを思い出したとき、サァラに抱いた感情の正体にも気付いてしまった。
ケイスは哀れんだのだ。
この人形を。最初から偽物にしかなれない少女を。
サァラの行いはすべてが真似事にしかならない。
だから好ましいと思った。
それは自分よりも弱いものを好いてしまう、人間の醜い性だ。
だが、そんなこと。
今この少女には関係がない。
ケイスはできうる限りに軽々しく頷いた。
「ああ、わかった。最初から最後まで見れるかどうかは怪しいが。そういうことなら楽しみにしておこう」
ただ送り出す。背中を押す。正解はそれだけだ。
最後だ。
最後なのだから、最後まで、演じきれ。
悟られるな。
「ほんと? 忘れちゃ嫌だからね」
返答は上機嫌。
何も伝わらずに済んだらしい。
サァラは早足で去っていこうとし、何かを思い出したように振り返る。
照れくさそうにはにかんで、少女は言う。
「あのね、ケイス。私……わかったような気がするんだ」
「……何を?」
「何って、決まってるじゃない。君が言っていたことだよ」
自分が言っていたこと。
鈍い頭で答えを出す前に、サァラはドレスの裾を翻す。
「もう行かなきゃ。また、後でね!」
手を振り返す。
その時には、彼女が何を言わんとしていたのか、ケイスはもう考えていなかった。
◇
ゴンドラの斜陽座、最後の公演は日没と共に始まる。
初雪が降りそうな夜だ。潮風には冷たい結晶の気配が滲む。
そんな外の事情はいざ知らず、テントの中では歓声と高揚が熱を放っている。
ケイスはいつもどおりの持ち場でいつもどおりの仕事をこなしながら、その進行を見守っていた。
前座のサァラは約束通り見届けた。
見飽きるほどに見た彼女の演技が、昨日の今日で変わるはずもない。しかし最後に相応しく、サァラは自分にできることをきっちりとこなしていた。堂々としたものだ、とケイスは今更ながらに関心する。
客席に視線を向けても隣人の姿は見つからなかった。チケットを渡したのはケイスだから、ある程度場所は把握しているはずなのだが。
ケイスにとってミランダは見つけることが容易い相手だ。派手な装いではないがその色合いはインクの染みのようだし、何より見慣れている。存在感ばかりは何故か幽霊のように希薄だが。
「来てないか……」
人にチケットをせびっておいて、とは思うがどうせ余り物だ。来ていなかったことに安堵すらする。
彼女がこの場所を気に入ったりはしないだろうから。
万事はつつがなく進行していく。
このひと月ですっかりと親睦を深めてしまった面々が、代わる代わるに舞台へと上がる。
楽隊も、ケイスを含めもう慣れたものだ。
演目も終盤、一度楽隊ごとテントから引き払う。
残る出番は最後の演目だけだ。
控えのテントに各々の楽器を置き、余った人手は用意のために駆り出される。雑務も込みでの契約だ。
この流れも、いつも通り。
いつも通りに客席の熱は最高潮に向かい、最後の幕間を迎え──
──事件は起こった。
「大変だ、ケイス!!」
楽器を置いたテントへと向かう途中。
楽隊の中でも、初めからサーカスに参加している古株の男が慌てたようにケイスの元へと駆けてくる。
「楽器が、消えた……?」
「消失というより盗難だな。さっきまでみんなの楽器を置いていたテントが空っぽになっているんだ。……明日には返す、なんて書き置きがあったそうなんだが」
「なんですそれ。意味がわからない」
「珍しい話じゃない。『妨害』だよ。こんな形では初めてだけど」
古株の彼は魔術師でもないのにサーカスに所属する変わり者だが、世間の評価を理解しきっていた。
憤るでもなく首を竦めるだけで、事件そのものを思案し始めていた。
「ひとつ残らず、この短時間でどうやって盗み出したのか……」
十数人分。中にはひとつ持ち運ぶのがようやっとなほどの大きさのものもある。
気弱なそばかすの彼が、隣でか細い声を出す。
「し、知ってるぞ。魔術師ばかりが狙われた、事件が続いたじゃないか。きっと今回もそれなんだ。けど、けど、俺たちはただの雇われの音楽家だっていうのに……手を貸すなら同類だって言うつもりか、明日本当に返してくれるのかわかったもんじゃないっ。ああ、本当に、ついてない……」
楽隊はこの町限りの雇わればかりだ。
相手にするには見当違いにもほどがあるが、魔術師を相手取らずにサーカスを台無しにしたかったのだろうか。
例の、魔術師ばかりを狙う盗人が犯人だというのなら『明日には返す』なんて妄言もあり得るのかもしれないが。
「なあ、 ケイス、どうして他人事のような顔してるんだよ……」
確かにケイスは周りと比べて平静だった。
何せケイスの楽器には盗難防止の魔法がかかっており、盗むことができな──
「──いや、ひとつ残らず?」
「ああそうだ。君のもなんだ」
そんなはずはない。
リミニス社の魔術品は一級品だ。
盗難防止の魔法、その仕組みは持ち主への帰省本能を擬似的に植え付けるとかいったオカルトだが、残念ながら効果は思い知っている。
どこへやっても返ってきてしまうため、捨てることも質に入れることもできなかったくらいだ。
穴を突く方法なんてあるわけが、
そこまで考えて、ケイスは思い出す。
持ち主以外にも、持ち主に近しい人間ならば楽器を持ち運ぶことは可能だった。実用に耐えるよう、盗難の基準は比較的ゆるく設定されている。
魔術のかかった楽器が信用してしまうほどの相手ならば。一日くらいはおとなしく運ばれてしまうだろう。
だがそんな人間は、この町にはひとりしかいない。
かつての恋人であった、彼女しか。
──ひどく、嫌な予感がした。
そばかすの彼の肩を掴む。
「なあ、おまえ、少し前、幽霊を見たと言っていたよな。それは女の幽霊だったか? いや、幽霊みたいな女じゃなかったか!?」
「な、なんだよ急に。そう言われると、わからないけど。見た目は喪服みたいな真っ黒な服を着た女だった。透けてはいなかった、気がする……人間だったの、かも? でもあんなやつ、座にはいないぞ」
返ってきたのは曖昧な答えだが、確信を固めるだけだった。
「ミランダ………… 」
『私は、この世全ての魔法を憎んでいる。君に寄り添う理由はそれだけだよ。残念ながら私に君は癒せない。私もまた、呪われた人間だから』
遠い夜、ミランダがケイスの部屋で零した言葉を思い出す。
彼女は、ケイスよりも深く、魔術師を……魔法そのものを、憎んでいた。
かつて、二人で寄り添うようにして過ごした月日がある。
始まりからして正しくないその関係は当然のように破綻し、今はただの隣人だ。
それでもずっと隣にいたのだ。
分かっている。知っている。
彼女がケイスのことを知っているのと同じくらいに、彼もまたミランダのことを知っている。
悪しき魔術とその理不尽に対し、ケイスは諦観を抱き、彼女は憎悪を抱いた。
経緯こそ知らないが、彼女もまた魔術によって人生を狂わされた人間だった。
きっと昔は、あんな、生き霊のような女ではなかったのだろう。
あの女は、笑うのだけは上手かった。
「ばかやろう……こんな八つ当たりに、なんの意味がある」
意味はない。だが、わかってしまう。
彼女の内にわだかまった呪いを、鏡の中を覗き込むように理解してしまう。
ミランダはケイスの成り得た可能性だ。
だから。
崩壊していく舞台を前に、ケイスはただ眺めることしかできない。
テントの外にはいつの間にか随分と人が集まっていた。
議論しているのはこの後のことだ。
幕間が終わったあと、どうするのか。
裏方の裁量を握る座員が、座長に申し立てる。
「予定していたものは中止にしましょう。事情を話せばわかってもらえるはずです。音楽なしでできる何か別のものを今から……」
「ならん」
「なぜ!」
「事情を話すと言ったが……一体なんて言うつもりだ? 現実をありのままに伝えるつもりか? なるほどそうだな。我らに非はない。舞台を降りれば嫌われ者。ただそれだけが此度の悶着の理由で、現実だ」
「虚構の中に現実を見てしまうことほど、興醒めなことはないだろう」
今宵のテントの中は楽しいだけの魔法で作られた虚構の世界だ。
事情なんて伝えたところで、思い出すのは魔術師がこの国では忌み嫌われる存在であるという現実。
虚構でなければ魔法はもはや、愛されない。
「彼らは魔法にかけられにきた。ならば解いてはならない。夢を、魅せなければならない」
それは一座の総意であり、存在意義だ。少なくとも、そうやって生きることを選んだ彼らにとっては。
そのようにしか生きられない魔術師の彼らにとっては。
「私がなんとかする。おまえたちは間を持たせろ」
その命令に各々が頷くのを、遠巻きにケイスは見ているだけだった。
物陰にサァラが立っているのをケイスは見つける。
沈黙するサァラは平静のように見えた。
が、それも一瞬。
サァラはそのまま無言で裏の方へと駆けだしていく。
「あっ、おいケイス。どこに行くんだ」
そばかすの彼に引き止められ、サァラを追おうとしていたことに気付く。
何故追うのだろう。わからない。
でも、
「ここにいたってどうしようもないだろ」
少女の後を追わねばならないと思った。
追った、といってもそばかすの彼と話している間にサァラを見失っていた。
向かった方向だけを追い、裏のテント群の合間を縫う。
ほどなくして、サァラがテントのひとつから飛び出してくる。
「きゃ」
「おっと」
いつかのようにぶつかったが、今度はサァラを受け止める形で収めることができた。
「ごめん、ありがと」
サァラは、隠れて練習をするときに使っていた、あの大きなオルゴールを両手に抱えていた。
そういえばこのテントは昨日サァラが秘密の練習に使っていた場所だった。
「オルゴールか。いい考えだな。ないよりはましだ。音を増幅するぐらいは……誰か出来るだろ」
そう言って違和感に気付く。
サァラはいつのまにか見覚えのない衣装に着替えていた。
古典的で大人びた、白いドレスだ。
それはずっと前に座を去った踊り子の、サァラの原風景の少女のものだと察してしまった。
「サァラ。君、まさか」
踊るつもりなのか。
「そうだよ」
問いを言い切るよりも早く、サァラは真っ直ぐに見つめ返した。
あまりにも不合理だ。
サァラの目はそんなこともわからないのか澄み切っている。
まるで作り物のように……ああ、ガラス細工だ。作り物だった。
そんなことも忘れて一体、自分はどうしたっていうんだ。
苛立ちすら、ふつふつと湧き上がる。
「あのなぁ。トリの間際だぞ。とっくに芸は出尽くしている。構成上省いたものを持ち出すにしろ、長くは持たない。君が行ったって、引き伸ばせるのは前後の間を合わせてもせいぜい五分程度だろ。君じゃなくても誰かができるし誰かがやる」
紛い物では賞賛は得られない。
惨めを晒すだけで何かが変わるはずもない。
「……そんなことに、何の意味があるんだ」
サァラを止めるための言葉はケイス自身に突き刺さる。
けれど人形は揺るがなかった。
「ないよ。意味なんて、いる?」
ケイスは言葉に詰まる。
だって昨日のサァラはあれほどに、自分の辿ってきた道に、これから進む道に、迷いを抱いていたじゃないか。
「……私、自分にとっての『本物』が何か。決めたんだ」
理由は簡単 。
もう、昨日の彼女とは違っていた。
「私はね、私にとっての『本物』の定義は『誰かに魔法をかけるもの』だと思う。本物の魔法とは限らない。目を釘付けにして耳を奪って、現実を忘れさせるもの。どこか遠くへと心を連れ去ってしまうもの」
それはケイスの定義とは違う、甘ったるくて夢見がちな、それでいて確固たる答えだ。
「このサーカスは、私にとって『本物』だった。そんな価値ないってみんなが言ったって、私はそう思ってる。台無しにしようとしてるのかどこの誰かは知らないけれど、黙って見てるなんてできないよ。私自身が、反論しなくちゃ気が済まない!」
だから。
「私は踊るよ。……あの子には届かなくても。
── 私の愛したものを、偽物だなんて言わせないために」
そう言って、サァラは背を向ける。
ケイスを置いて去っていく。
小さな足音が遠ざかっていく。
その小さな背に、心臓が、いやに鳴った。
彼女は、わかっているのだ。
自分が決して、なりたいものにはなれないことを。
なれないと、知った上で、それでも愛すると決めたのだ。
自分の歩んだ道を、自分を形作ったものを。
その姿は決してケイスとは相入れない。
サァラの『本物』とケイスの『本物』は噛み合わない。
だというのに、その姿をどうしようもなく、
好ましいと、そう思えた。
ケイスの中で何かが氷解する。
ああ、彼女にならば。
──この腕を捧げたって構わない。
気が付けば手の中に懐かしい感触があった。
「帰って、きたのか。馬鹿だなおまえも……」
いつだって、こればかりはケイスを置いて行ってはくれない。
やることもできることも、自分にはひとつしかないのだから。
「メリー!」
ケイスの右手が、少女の手を掴む。
「君の無謀に乗ってやる」
左手には、忌まわしい愛器の収められた鞄がある。
サァラの目が期待に満ちた。
ケイスの口角が上がる。
彼女のお望みのまま。
期待通りの言葉を、口にしよう。
「──俺たちなら『魔法』を使えるかもしれない、そうだろ?」




