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空白のリネン  作者: さちはら一紗
外伝『暗幕のメリー』
30/44

外伝9 砕け散ることすらできないで

 

 隣人と別れ、自室へと帰ったケイスは深く息を吐いた。そのまま壁にもたれかかり、ずり落ちるように座り込む。


 隣人は好ましい友人だ。

 彼女の存在は昔、どれほど支えだったろう。

 だが彼女の言葉は時々ひどく痛む。

 この友情は傷の舐め合いだ。癒えることはない。それを思い知らされる。


「忘れられるわけないだろ……」


 肩を抱き、手に折れそうなほど力を込める。

 忘れられたら、どれほどいいだろう。


 部屋はひどく寒々しい。

 既に家具もまともに残っていない。

 紅茶の熱が消えていく。

 空っぽの部屋、纏めきった小さな荷物が全てで、次、部屋を出て行けばもうここには戻らない。


「大丈夫だ。今度は失うわけじゃない。いつだって戻ってこられる。だから」


 だから、痛いのは気のせいだ。

 ケイスはそう自分に言い聞かせる。



 ◇



 ケイス=フラットは、平凡な音楽家だ。

 自負している。今はそれを誇りにすら感じている。

 ひとつ変わったことがあるとすれば、代々神殿音楽隊へ勤める家系に生まれたこと。

 それだけだ。


 神殿音楽とはそのまま、神殿にて神に捧げられる音楽だ。

 遠い異国では讃美歌というものがあるらしい。

 歌詞に重きは置かれないが神を讃える、という点では似ているだろう。


 昔々、神話の時代、あるいは魔法が当たり前であった時代、神がまだ地上にいた時代には、神殿音楽は儀式の一環であり、文字通りの奇蹟を現したというが。

 今はただの音楽。古典にすぎない。


 それでも若かりしケイスは魅入られた。

 神殿と劇場を兼ねてしまった高尚にも卑俗にもなりきれないあの空間に、嘘みたいな静寂が満ちていくのが好きだ。

 あやまちひとつ許さない張り詰めた空気が好きだ。

 呼吸ひとつに躊躇いを覚えるような緊張の中の、深呼吸の味は格別だ。

 舞台と客席が共有する高揚感と酩酊感。

 天井を割らんとする荘厳な響きが、二度と覚めない安らかな眠りへと誘うような微かな旋律が、胸を掴んで離さない。


 目指す理由があり、それが許される環境にあり、そして何より才能があった少年がその舞台に至るまで、然程時間はかからなかった。

 少年は夢見た舞台に立つことで満足はしなかった。

 焦がれた音楽のその先を、見果てぬ地平を追い求める。

 彼には見えていた。

 正しい答えが。

 理想の片鱗が。

 常人には決して区別のつかない隙間を埋めて、彼の演奏は完成に近付こうとする。 

 ありふれた一音節に魂を、微かな余韻にさえ寸分の狂いなく。

 そして、いつか、天上に指がかかる。


 師は言った。


「まだだ。まだ足りない。何が足りないかわかるか? 

 欠けたるところなどもってのほかだ。寸分の狂いでさえ、女神の微笑みは掻き消える。

 だが完璧なだけの、正しいだけの音に何の価値があろう。


 夢を見せろ。心を奪え。

 人の心すら奪えずして、どうして天上に届くという?」


 少年のいっそばかげたの理想を、情熱を肯定した唯一の人間だった。

 少年は問う。


「しからば奇蹟に至るのでしょうか」

「至ったと、全ての人が信じた時に」


 いずれケイス=フラットと名乗ることになる少年、彼の半生は全てそのために捧げられた。

 輝かしい日々だった。

 あの頃、賞賛には何の価値もなかった。

 思い描く理想へとひた走る。

 理由などいらない。

 そういうものとして生まれついた。


 自分はきっと、天上に至る。

 もっとも奇蹟に近い、音を、奏でることができるはずだ。

 そう無邪気にも無謀にも信じていて、ケイスは未だに、あの頃の自分ならばいつか手が届いたのだろうと、信じている。




 この大陸では魔術は決して異端ではなかった。

 魔法と奇蹟はかつて未分化で、奇蹟は時と共に薄まり、魔術は災害が残した呪いと病によって疎まれて、時代遅れになって廃された。


 神殿音楽の悲願は奇蹟の再現だ。

 そんなことは正直、どうだっていいとケイスは思う。

 だが、地上に神なき時代にまだ奇蹟を求める傲慢さもまた、愛するに足る。

 奇蹟の名残に触れるケイスにとって魔術はさして遠いものではない。だから魔術師を嫌う理由など、その頃はまだなかった。



 ある日彼は些細な事故に遭う。

 理由は妬み嫉みや恨みの類。よくある話でおもしろくもなんともない。

 我が事とはいえちっとも興味はわかなくて、経緯はろくに覚えていない。

 しばらく楽器を握れない。重大なのはそれだけだった。


 さいわい大した怪我ではない。

 ひどく退屈ではあったけれど、それだけだ。

 弾きたい曲がある。

 もうすぐあの頂に手がかかる。

 少し余計に時間がかかるかも知れない、だがそれがなんだ。

 悲観など野心の前では無意味だ。

 あの音に届くのならば、その程度の労苦は知ったことではない。


 長い退屈の終わり、包帯を取った後の手は随分と変わって見えたけれど、そんなことにすら気をとめない。

 愛器を手に取り、弓を引き、


 ――そして少年は、絶望を知る。


 腕がいうことをきかない。

 自分の手ではないかのように。

 何日経っても、何も変わらない。


 当たり前だったのだ。

 事実として。 

 その手は、ケイスの手ではなかったのだから。

 いつの間にか、ゆっくりと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 魔術だ。

 怪我に乗じたのかそれとも最初から仕組まれた事故だったのか。

 誰かが、ケイスの腕を奪っていったこと、それだけが自明だった。



 奪ったのは凡庸な男だった。

 善良で実直そうで、虫も殺せなさそうな、よくいる落ち目の音楽家だった。

 素知らぬ顔をして、どこかの裏家業の魔術師をけしかけた男だった。


 その男が、大きな劇場で演奏する。

 男が拍手喝采を浴びている。

 ケイスは彼の演奏を、無心で聴いていた。

 何も響かない。何も届かない。何も、感じない。

 音の羅列にしか聞こえない。

 ひどいものだ。子供の頃の自分の方が、よっぽど良い演奏をするだろう。


 もしも。もしもだ。

 もしもその手で、自分から奪った腕で、天上へと至ってくれるのならば。

 自分が十年、至れなかった理想を見せてくれたのならば。嫉んで恨んで憎んで、それでもケイスは愛してしまうだろう。 

 自分がそういう生き物であることを、彼は理解していて、だが。

 だが。


 ――ああ、そんな、そんな音楽のために、その程度の音楽のために!

 俺の手を!

 奪ったのか!


 客席に響く万雷の拍手の中。

 怨嗟はついぞ、届かなかった。



 程なくしてその男は死んだ。

 その罪を糾弾する間もなく、呆気なく、なんの変哲もない雨の日の事故で息絶えた。

 束の間の名声を得た男の腕は、原型を留めてなかったという。

 恨みの矛先を失い、取り戻すという僅かな希望すらも潰えた。

 もどらない。もう何も。


 かつて、正しい答えが見えていた。

 この答えを、この手では掴めない。

 追えば追うほど乖離していく。

 そしていつしか、見えていたはずの理想すら、見えなくなった。



 時は経ち、少年は青年になる。

 生来の諦めの悪さだけを頼みにして、血の滲むような努力の末に、元の立ち位置に帰ってきた。

 かつていた舞台にもう一度立つことが叶った。

 同じ場所で同じものを演奏することが許された。

 けれどこれ以上はない。

 どれほど認められても、自分だけは認められない。

 これは偽物だと。 

 あの日の自分の真似をし続ける滑稽な紛い物だと。

 そんな考えを振り払えない。

 それは妄想だろうか。不安を拭えないだけだろうか。

 劇場を満たすこの拍手は嘘ではないはずだ。

 だが、だが、だが。

 信じられずに客席を見回して、ある日。


 彼は席に師を見つける。

 真っ直ぐにこちらを見る目を。

 師だけは、拍手を、しなかった。



 そして、彼は家を捨てた。

 名を捨てた。

 生まれ育った街を逃げ出した。

 光を浴びることに耐えられない。

 どんな曲を弾こうと、あれほど焦がれた天上へと届くことはない。


 けれど彼は音楽以外にものを知らない。

 それ以外で食べていく術を知らない。 

 始終浮かれた音楽に毒された港町に辿り着いたのは必然で。

 最後まで捨てられなかった愛器だけが、ケイスの側にいた。



「ようこそアルバコスタへ。

 この町でそんな顔をしてはいけない。

 詩歌や踊りや演奏を、生業をするのならば。

 こんな、私みたいな呪わしい顔をしてはいけない。

 浮かれた顔をしなければ、音楽が君を愛さない」


 幽霊のような顔をした若い女と出会う。

 酒が飲めないくせに酒場で働く、喪服のように黒い装いばかりをした風変わりな女だった。鮮やかな朱を引いた唇で、よく笑う。


 祭りの前夜の熱に浮かされ続けるような町だった。

 音楽を飲み干し食らい、ただ愛する。

 その腕に価値は見出さない。

 好きか、嫌いか、ただそれだけ。


 彼の演奏を前にして、この町の人間は誰ひとりとして立ち止まらない。

 明日食べるパンにも困る有様で、明後日なんて見えもしない。

 笑いがこみ上げる。

 そうだ。これでいいのだ。これが、ただしいのだ。

 今の自分には、人の心すら満足に奪えない。

 この町では誰も、ケイス=フラットに価値を見出さない。


 女は、ミランダは囁く。


「君は自分が無価値だと思うのだろう?

 肯定しよう。この町は、君の諦めを受け入れよう。

 私は君の薄暗い感情を受け止めよう。

 生憎、酒は飲めない身だけれど。

 君の都合のいい観客になってあげる。

 君を心地の良い酩酊に、連れて行ってあげる。

 この町に相応しく、作り替えてあげる。


 さぁ、君の演奏を聴かせておくれ」



 積み上げてきたものを全部、忘れた。

 自ら投げ捨てたそれらは、もう二度と拾い上げることはない。

 天上を目指したあの頃は遠く彼方。

 今ここにいるのは誰かの望む音楽を売り歩く、その日暮らしの音楽屋。

 陽気に軽薄に笑顔を振りまいて、酒を愛し、女を愛し、音楽を愛す。


 幸福だ。嘘じゃない。死ぬときはこの町がいい。それほどまでに、愛してる。

 愛してしまうのだ。

 失った恋人の面影を次の女に求めるように。

 この町で、音楽を、愛してしまう。


 時々ありもしない古傷が痛む。

 いっそ、すべてを忘れられたらよかったのに。

 すべてを失っても、まだ、縋り付いている。

 そのことを、彼女に出会う度思い知る。


 御伽噺のような魔法などない。

 奇跡など起こらない。

 あるのは悲劇にも満たない理不尽と、お粗末な呪いだけ。

 出来るのは偽物のまま、無様に生きながらえることだけ。


 ケイス=フラットは、決して、『本物』にはなれはしない。

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