1−3 魔法の価値
無意識のままに冷えた廊下にオギは足を乗せ、おそらくリネンよりは安定した足取りで目的地へと進む。何年も使い続けたルートはまともに目を開けていなくても壁にぶつかることは無い。
意識の覚醒は石鹸をすり減らしたところで起こる。視力の悪い右目を閉じて景色を把握し、ほっと息をついた。今日は石鹸を使いすぎる前に目が覚めた。
オギは大きく欠伸をした。じわりと涙が浮かんでくるが両手は当然のように塞がっているから、泡の浸食していない腕の方で目を擦った。
「おはよー……」
ふらふらと今にも倒れそうな足取りで、キフェがか細い声を出す。思わず二度見をするレベルの寝癖も、オギにとっては珍しくもない。
「おはよう」
水場をキフェに明け渡す。一度水に浸さないと直らない髪は彼女の朝の時間を大幅に奪っていた。
「げほっ、うえっ……」
水音とともにキフェが呻く。
「目、覚めた?」
「うん……さいあく」
思いっきりしかめっ面をして、鏡を睨みつける。たった数秒を経た後はいつも通りのキフェの表情が戻っていた。髪はどうにもならないから、一つにまとめてしまっていたけれど。
洗顔の際一定の確率で鼻に水が逆流する持病。どうやったらそうなるのか、オギにはいつまでたっても理解はできない。
削ってしまった石鹸の分、元を取ろうとでもいうように、はっきりとした意識の中でオギは手を洗う作業に戻る。
短く切った爪の間、指の付け根、手首まで。皮が剥けるなんて馬鹿な事態にはならないが、念入りにもほどがある。
習慣というものはどうにも変えられない。
「キフェ、何時に寝た?」
いつもより、瞼が垂れ下がったままの姉に問いかける。
「……時計見てない」
「何してたんだよ……」
目の下にうっすらと隈がある。
彼女はただでさえ必要としている睡眠量が多い。体質の違いだろう。それを誰よりも理解しているのはキフェ自身だ。
「あー、リネンか」
「ばれた?」
ばれるも何も、それ以外に何がある。
「あいつ寝ないじゃん……」
「それが、『寝る』に近い機能はあるわけなんだよ。むしろ人間よりも寝るね」
「へえ。気づかなかった」
「いやいやオギ、それはあまりに無関心過ぎやしないかい?」
否定も肯定もせず、オギは石鹸の泡が全て流れたことを確かめる。
「で、結局キフェは夜更かししてたわけなんだ?」
「いや、すっかり時間を忘れてさ。いつベッドに入ったかも記憶に無いんだよねー」
一体その間、何をしていたというのだろう。後でリネンに確かめようと決める。
「……それはセクハラだよ?」
流し目とトーンの低い声音。お前の考えていることなどお見通しだというように。
「今の言葉は自供に等しいんだけど」
「え、あれ? あれー?」
そのまま首を傾げて、キフェは逃げた。
◇
「大体良く考えたらさー、おかしいと思わない?」
「いや、唐突に何。というかリネンはいないのか」
少々墓穴は掘ったものの、オギの前には普段と変わりないクオリティの朝食が並んでいる。
「んー、あの子はぼくの部屋で寝てるよ。どうせ朝ご飯も食べないし」
「ああそうか」
さっき休息時間が長いと聞いたばかりだった。
オギといたころは長時間放ったらかしにしていたから、その間の休息で釣り合いが取れていたのだろう。反対に昨日はずっと動きっぱなしだった。
「あとさ、朝ぐらいオギと二人きりで話す時間を確保したいなーって」
にっこりと笑ってキフェが言う。
「お姉ちゃんが君と同じ時間に起きる理由なんて、それぐらいしか無いのだよ」
「無理する必要はないってば……」
流石に胸を張られても困る。オギの方にだって早朝に起きる理由は無い。ただ気付いたら目が覚めているというだけだ。
寝不足の姉に付き合わせるのは申し訳ない。
「気にする必要は無いよ。二度寝するから」
「あ、うん。何か色々労力がもったいない気がするんだけど」
「ふふー。いいのいいの。ぼくには価値があるのー」
楽しそうに断定されてしまってはもう言葉は無い。
「で、本題に戻るけどさあ」
「うん」
「やっぱりリネンにはおかしさしか無いと思うんだよね」
「根本的にアルがまともなことをするわけが無いじゃないか」
アルというのは友人の愛称だ。
まあ、そうだねとキフェが相槌を打つ。
「あいつは常識の外に存在していたもの」
頬杖を付いて、苦々しげに言った。
いなくなっても扱いは変わらないんだな、とオギは苦笑した。
姉は自分に正直だ。そこが好ましくもあるのだが、一般的に歓迎される性分ではない。
「とにかくリネンは普通じゃないの。報告は以上」
「人形の普通なんて知らないんだけど」
「失望した」
人形顔負けの張り付いた笑みのまま、淡々と吐き捨てた。
背筋が冷える。
「えへへ、冗談」
「割としゃれにならない……」
キフェの逆鱗はあまりにも見えにくい。予測不可能につき、度々ひやひやさせられる。
「オカルトに携わる人間として自動人形の基本ぐらい理解しとけ、って意味に取っておく」
「あ、ごめん。お姉ちゃん多分、基本も知らない。聞きかじりの知識しかない」
手を左右に振って、悪びれも無く言った。
オギは解釈を諦めた。
「それも精々むかしむかしのお伽話程度だしね。マトはそういうのに詳しいから」
キフェはオギの職場の先輩の名を出した。そういえば彼女は伝承だとかを調べているうちにオカルトに足を突っ込んだタイプだった。
「それに最近噂の自動人形は隣国のだからなぁ。入ってこないわけだよなかなか。規制きついし値段えぐそうだし」
この国はオカルト関連の出入りについて厳しいのだ。
「あと、それよりも、ぼくはオカルトじゃなくて"魔法"って言って欲しいかなー、なんて」
「どちらも同じだよ」
「違う」
いつになく、真面目な顔で言う。
「違うよ、オギ。全然違う」
その言葉には一片の迷いも無い。
「どれだけ廃れて、小さくなっても、魔法には変わりないんだよ」
ただオギは頷いた。
「うん」
否定も肯定も、根拠が湧かない。けれどキフェがそういうのなら、そうなのだろう。
「だいだいさあ、ぼくらからそれを抜いたら何になるの?」
「いや、べつに変わらないんじゃ」
「変わるよ!切実だよ?」
オギは手を止めた。
「あ、無職」
切実だった。
「まあそれが"魔法"って呼ぶことと何の関係もないけどね」
「関係ないのかよ」
「だってオカルトなんて味気なく言われてもテンション上がらない」
「本当に関係なかった」
脱力する。
内容があるようにも空っぽのようにも思える会話に、キフェは満足そうに微笑んだ。
「ねえ、オギ。あのね」
滅多に聞かない優しい声音で脳を浸す。
橙色の眩しい光は、もう淡く消えていた。
◇
リネンは時計の針を確認した。
キフェに指示された時間ぴったりなのを確認して、ドアノブを回す。
着替えてこいとは言われたものの、無い物ねだりはできないから持っていたものの中から選んだ。
『好きなやつでいいよ』という曖昧な言葉は、長くリネンを悩ませた。
結局選んだのは一番簡単な作りに見えるものだ。昨夜の会話を参考にした。
一番奥の緑の扉の部屋にキフェはいた。
「あ、これは危ない。滅茶苦茶に眠い」
何度も瞬きを繰り返しながらぶつぶつと呟いている。
「ぬぬぬ、眠気に負けてたまるものかー」
じたばたと身体を動かしているけれど、とろんとしたままの瞳は変わらない。
「姉様」
「あれ? いつからいたの。わーなんか恥ずかしい! きゃー」
声をかけた途端、キフェの動きはより大きくなった。
どうすればいいのか分からない、といった風にリネンは立ち尽くす。
キフェがおいでと手招きした。
先ほどの奇行は無かったかのように、一瞬にして表情は変わる。
「今日は何もしなくていい。リネンは見ているだけでいい。だけど全部覚え込んで」
目線を合わせて、そう告げた。
「可能かどうかは分かりません」
キフェの発する情報量は多すぎる。半日にも満たない時間で、リネンは知った。
だが彼女はリネンの言葉に構わずに、笑う。
「君は案外優秀だよ。ただ知らないだけ」
透き通った鳶色に、リネンが映った。
「このぼくが、君の性能を保証しよう」
その表情はリネンの知らない初めてのもの。
「魔法を掛けてあげる」
囁いた。
静寂があった。
キフェは一言も発することは無い。小さな物音だけが時々鳴っていた。
ここは一階だった。二階、昨夜リネンが案内された場所とは違い部屋数は少なく、広かった。
厚い深緑のカーテンの隙間から漏れる光が、宙を舞う僅かな埃を照らす。
雑他に収納されているように見える棚。整頓されているとは思えない長机には箱やら書類やらが積み上がっている。それでも、床に零れることがないのは彼女なりに考えて置いている、ということなのだろう。
現に動作には迷う様子が見えない。
隅に置かれた手の込んだデザインの椅子は、二階にあった簡素なものとは全く違っている。レースのクロスが引かれた小さな丸テーブルや今は何も飾られていない花瓶も、使われている形跡は微弱だった。
異様な存在感を放つのは部屋の中央だ。被せられた濃紅の布の下から金属の脚立が覗いていた。
「古典的に、魔法使いの象徴として挙げられるものはいくつかある」
引き出しから取り出した片眼鏡のレンズを拭きながら、低めのトーンでキフェが言う。
「三角帽にマント、帚や杖」
右手で髪を耳に掛け、そっとレンズを覗き込んだ。その仕草は穏やかでたおやかで、まるで別人のようでもある。
「ああ、これでは魔女だね」
埃が張り付きくすんだ鏡の前に立ち、片眼鏡をはめる。その所作はあまり慣れてないように見えた。
「魔女ってあれだよね、ロマンとか神秘とかその前におぞましさが浮かんじゃう単語だよねーまったく。悪魔なんているんだったらぼくはとっくに契約してるっつーの。好き放題だよ。世の中ばびゅーんだよ」
年季の入った風評被害はいかんともしがたいわ、と首を振った。
「悪魔との取り引きは魂を差し出さなければならないのでは」
表情一つ変えずに述べるリネンに、キフェは訝しげな顔をする。
「また微妙なことを知ってるね」
「前の主様が」
盛大な舌打ちが聞こえた。
「教えるならもっとジョーシキ的なことを教えろっての……」
がしがしと頭を掻く。今はもう確かめる術の無い、ほとんど迷信みたいな言い伝えだ。
「まああれだ。これがいわゆるジョークというやつだよ」
リネンはこくりと頷いた。
「ぶちゃけ確かに、"魔女"はあまりいいモノではないんだけどさ」
肩をすくめた。
キフェの右目のレンズは透明ではなくて、薄く緑がかっていた。注視しても気付くかどうか分からないぐらいに。
「あ、それから魔女っぽい小道具と言えば鏡や大きな鍋だとかかな。おすすめは子瓶。なんか香辛料でも適当に入れとくだけで雰囲気でるよ! 正直病院の棚とかもいいと思う!」
きらきらと目を輝かせながらキフェは語る。先ほどまでの厳かな空気も装備品により上方修正された理知的な雰囲気も彼方へと消え去っていた。
きっとオギならここらでキフェ言葉を遮るのだろう。昨夜のパターンに良く似ていた。つまり本題から外れている可能性が高い。
リネンは指摘すべきかと考えたが、あくまで指示は「全て見ろ」でしかない。聞くことまで範疇に含むか、と思考を広げ始めたところで自分の世界に入りかけていたキフェが正気に戻る。
リネンはまだ、あらゆることが遅かった。
「でだ。要するに魔法使いは道具無しにはいられないということだよ」
あるものはたった一本の銀の針で心を奪う衣装を縫い、
あるものは白い陶器の匙で万病の薬を調合し、
あるものは壊れかけた竪琴で理性を狂わして、
あるものは新品の羊皮紙に呪いを紡ぎ、
──そしてあるものは、数多の歯車で偽物の命を作る。
歌うように、低く軽く通る声でキフェは囁いた。
リネンの肺にあたる位置が音の波に晒された。
「まあ、今は昔の話さ」
かかとの低くぺたんとした靴、すらりとした脚が床を跳ねる。
キフェは余計なことばかりだけど、あらゆることが速かった。
「そしてこれがわたしの"杖"」
芝居じみた動作で濃紅の布をつまんだ。するりと小気味よく布がこすれる音がして、脚立の上の黒い箱が現れた。
初めて見るものだった。そもそもリネンには見たことがあるものの方がずっと少なかった。けれどその名称を聞いたとき、人を写すものだと思い当たる。言語はリネンの中でしっかりと確立されていた。
「写真機ですか?」
「そ、全くもって魔法である必要性が存在しないでしょ」
キフェがベストのポケットから、一枚の写真を抜き出した。全体的に暗い、白黒の一枚だ。景色はこの部屋、そのままを写している。
キフェは万年筆を取り出して、撫でるように何かを書き込み始める。透明なインクなのだろうか、はたまたインク自体が最初から入っていないのだろうか。何を書いているのかはリネンには分からない。リネンだけではなく、特定の者にしか分からないようになっていた。
「これが魔法ですか」
「そう、廃れてしまったファンタジーの形だよ」
びっしりと書き込んだ写真に、そっと手をかざす。片眼鏡の奥の瞳が細くなった。
次にキフェが手を離したとき、何かが変化している筈なのだ。しかし写真は写真のまま、そこにあった。
「あはは、分かんなかったかな」
何かが変わったのは、分かる。それがなんだか分からない。
キフェはもう一枚懐から同じ写真を出して、並べてみせた。そうしてリネンは初めて理解する。白黒写真は、明るく、物の輪郭がくっきりと写り、光の差し込む様子がはっきりと見えるように変わっていた。
だがたったそれだけだった。
「ちっちゃいでしょ? おまけにこれ、魔法なんか使わなくったって努力と技術で出来るものなんだ」
片眼鏡を外す。
「無価値に等しい。だからばれない。だからいいんだ。作り物と嘘にはそれだけの価値がある」
にっこりと笑って、言った。
「つまり、所詮無意味な道楽でしか無いんだよ。このご時世に置いて魔法なんてものは、ね」
いくらリネンが無知だといえども、キフェの言葉が賞賛の反対側に位置していることぐらいはわかる。だから、彼女が今浮かべている笑顔が状況に不適切であることも理解しかけていた。
漏れ出る息ほどの声量も無く、キフェの唇が動く。
「……君は多分、ひっくり返してしまえるんだろうなぁ」