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空白のリネン  作者: さちはら一紗
外伝『暗幕のメリー』
29/44

外伝8 天上には遠い場所


「ねぇ、ケイス……君、もしかして」


 サァラにはまだ音楽はわからない。

 けれどこの二年、サァラは感性というものを一番大事にしてきた。自分が良いと思うものに敏感であろうとし続けた。

 物語によって自我を強め、踊り子の少女によって行く先を決めた。

 いつだってサァラを形作っていたのは、心を震わす何かだ。心など、ないとしても。震わすに足る『良きもの』を探すことをサァラはやめられない。


「君の腕は『本物』なんじゃないのかな」


 それを聞いたケイスは目を丸くして、笑い出した。


「はは。お褒めに預かり光栄だな。だが残念。それは見当違いも甚だしい」


 サァラは憤慨する。

 笑うことないだろう。

 大真面目だ。大真面目に考えて言ったのに。


 何が面白いのかケイスはまだ笑っていたし、挙げ句の果てに噎せていた。

 サァラは不安になって自分の発言を思い返してみたが、やはり何も面白いことなど言っていない。はずだ。


「笑い過ぎ!」

「いや、違うんだ、ごめんて、純粋に噎せ、オエッ……」

「…………」


 見直したと思ったらこれだ。もう放っておいて帰ろうか。と思いつつも先程感じた恩の手前、それができない。

 不機嫌そうな顔をしてみせるのはせめてもの抵抗だ。

 ようやくケイスが素面に戻る。


「落ち着いた? ていうかなんで笑ってたの」

「さぁ? お愛想で笑ったつもりだったのに加減を間違えて止まらなくなっただけなんだ、実は。そもそもなんの話をしていたっけ?」

「……海に落としてやりましょうか」


 寒中水泳はさぞや心臓に悪いだろう。寒さに弱い人間の不便さを思い知るがいい。

 とぼけるケイスをぐいぐいと押した。

 サァラの力じゃびくともしない。この身体は軽過ぎる。

 一番初めにぶつかった時も、盛大に飛ばされたのはサァラの方だけだった。

 おのれ人間、許さない。


「お、おい、マジで落とす気か? 思い出した、思い出したってば!」

「……まあ、いっか」


 この男に腹を立てても無駄な気がする。

 サァラは着実に学んでいた。





「しかしまぁ、『本物』ねぇ」

「む……ちょっとくさいこと言った自覚はあるってば」

「別にそんなことなかったさ。ただ、君の言う『本物』ってなんだろうと思って」


 そう問うたケイスの声音からはもう、おふざけの色が消えている。

 人形でもあるまいし、どうしてこの男は切り替えが極端なのだろう。釈然としない思いを抱えながらサァラは答えを考える。

 自分の言った言葉だ。説明など簡単だろう。そう思ったけれど、不思議と何も出てこない。

『本物』、自然にそう口にした。自然にそう考えた。だが何をもって本物とするのか。


「……わからない。それを説明する言葉を私はまだ持たない。けど何かが違うの。隔絶、断絶、『本物』とそれ以外は、何かが絶対的に違う、と思う」

「なるほど」


 サァラの曖昧な返答を本当に吟味しているようだった。


「じゃあひとつの定義を挙げようか。

 さて、トルカナで最も信仰を集めているのは、ありとあらゆる芸事の女神だ。我儘で高飛車で癇癪持ち、けれど人の作り出す芸術を愛し惜しみない恩恵を注いだといわれている。

 神殿は今も昔も劇場を兼ねていて、トルカナの首都にあるそれはもう、世界で一番の劇場だ。上演されるのはすべて、女神への献上品なんだから。

 舞台は祭壇であり、客席は即ち天上。彼女に捧げられたものはすべて、紛れもない本物だとは思わないか?」


 サァラは答えに迷う。

 あまりにも遠い世界の話で想像がつかない。


「それは確かに、正しいと思う。けど……何か違う気がする」

「そうだな。これはあくまで俺の定義だ」


 曖昧にしか出来なかった返答に、ケイスは深く頷いてみせる。


「答えはそれぞれだし人によって違うし、全部正しい。……ってな感じで最終的に小綺麗な一般論に纏めると、角が立たずそれっぽくなる。真似していいぞ?」

「そういう半端に道化をしようとするところ、往生際悪くって駄目。格好付けるなら最後まで通せば?」

「こりゃ手厳しい」


 勿論ケイスに堪えた様子などない。サァラは呆れたような振りをする。振りだ。

 ケイスは言った。先の話は自分の定義に過ぎないと。

 でも、それでは。

 あれがケイスにとって正しいことだというならば。


「……なれないの?」


 それは絶対的な否定だと。

 自分は絶対に『本物』ではないと言ったのだと。

 そういうことになってしまう。


「俺は今に、満足してるよ」


 その言葉から、嘘の匂いはしなかった。



 ◇



 サァラと別れた後、ケイスは自宅へと帰る。

 今月で引き払うと決めたため、家具はもうほとんど残っていない。荷造りも今日で終わる。口うるさい大家ともこれでおさらばだ。

 どんよりと湿った空気の廊下を鼻歌交じりにケイスは進む。 

 別にいいことがあったわけではない。鼻歌でも歌わなければサァラのことを考えてしまいそうだった。

 今月でサァラはサーカスを離れ、ケイスもこの町を発つ。もう二度と会うことはないからか、随分とさらけ出してしまった。

 悪くはなかった、ただどうしてか、先程から古傷が熱を持っている気がする。

 そんな時は歌うものだ。歌は人並みでしかないが、人並みだからこそ軽率に頭を空にできるというもの。

 振り払うための鼻歌が、海辺で演奏したあの曲になっていることには気付かない。


 そして隣の扉の隙間から、青白く、生気のない顔が覗いていることにも――


「やぁ、ケイス。帰ってきたんだね」

「おおっと、びっくりした。おまえか。相変わらず辛気くさい顔してんな」

「そうかい? 最近はすこぶる好調なんだけどな」

「ああそうだな。機嫌が良さそうでなによりだよ」


 隣人、ミランダの姿を認め、安堵する。

 いや、別に怪奇現象が怖いわけではないが。相変わらず心臓に悪い、幽霊みたいな女だ。

 なんてろくでもないことを考えるが、これでも気を許した友人である。

 ミランダはにこにこと陰気な顔に陽気な表情を浮かべながら、ケイスを部屋へと誘った。


「お茶でもどう?」

「優雅だな。頂くよ」

「安物さ。君の舌にはすぐばれてしまうだろうけど」

「もう高いお茶の味なんざ覚えてねぇよ」


 酒が飲めないミランダと話すときはいつもこれだった。

 淹れ立ての紅茶は予想よりも熱くて、ろくに飲めずにケイスはカップを置く。

 欠けたカップから湯気が立ち上るのをぼんやりと眺めていると、隣人が話し始めた。


「荷造りはもう終わったかい? そう、もうすぐか。君がここを出てしまったら……静かになるね」


 ミランダとの付き合いは長い。この町に流れ着いたばかりの頃からだ。お互い行く当てがないもの同士、仕事にもあぶれた灰色の時代を共有した過去がある。

 今もお互いぎりぎりの生活だが、どうしようもなく困り果てることはなくなった。


「この町に来たばかりの頃、観客は君だけだったな。感謝してるよ」

「こちらこそ。あの頃は、どれだけ君の音楽が慰めになったことか」

「……ひどいものだっただろう? あの頃は」

「そうだね。私は、今の君の方が好きだよ。どちらかというと、ね」


 ミランダが茶を啜る。そろそろ頃合いか、とケイスもカップを持ち直した。胃の中に熱い塊が染みこんでいく。こうして茶を飲むのも最後かと思うと名残惜しい気はしないでもない。

 町を出ると決めたが早まったか、と考える。

 今のサァラはだいぶ絆されているから、記憶を消されずともサーカスを抜けられるだろう。町を出る理由はあまりない。ただ、この機会を失えばケイスはきっとこのまま、この町に骨を埋めてしまう。

 そんな漠然とした危機感だけで自分は外へと出るつもりなのだ。


「別に、帰ってこないつもりでもないさ。またしばらく旅暮らしも悪くないと思ったんだ。便りでも出そうか?」

「いいね。絵葉書が好きなんだ。君の文章は別にいらないけど」

「つれないな」


 二杯目の茶を入れたところで、ケイスは貰い物の菓子があったことを思い出した。鞄の中から包みを取り出そうとしたとき、サーカスのビラが一緒にはみ出そうになる。ケイスは慌ててそれをしまう。

 が、ミランダの細い瞳は既にそれを見つけていた。


「……そういや君、今はサーカスで仕事をしているんだって?」


 ケイスは固まる。嘘は吐けない。


「それ、どこで聞いた」

「なんだい、別に知られて困ることじゃないだろう」


 困らない。困りはしない、が。

 仲間内には箝口令を敷いて、ミランダには知られないようにしていたはずだ。彼女に知られてはならないと、それだけは思っていた。


「それにしてもふうん、ケイスが、ねえ」


 ケイスの動揺を素知らぬ顔で素通りし、ミランダは菓子をひとつつまみ上げる。咀嚼して飲み下し、指を舐めて彼女は言う。



「――君、ほんとは魔術師なんて大嫌いなくせに」



 ケイスは黙り込む。

 茶があってよかった。口に含んでいる間は何も喋らずに済む。

 そんなことで彼女が見逃すはずはないのだが。


「君の人生を狂わしたのは魔術だろう?」

「……よく覚えてるな」


 長い付き合いだ。

 ケイスの弱音と本音を、彼女は知っている。


「まさか、忘れたのかい? 許したのかい?」

「……忘れてないさ。許してもない」


 魔術とは襲い来る理不尽だ。ケイスの身体はそれを覚えている。


「ああそうだ。奇跡は決して願った通りには与えられない」


 低い声で、暗い暗い瞳でミランダが言う。夜毎に積もらせた恨み言をあの日のように囁く。


「あの星の光はすべてまやかしだ。奇跡なんてどこにもない。あってはならないんだよ」


 それは確かに、過去に語ったケイスの言葉だ。一字一句違えない。何一つ忘れることのない記憶力の持ち主、ミランダは、ケイスが忘れたいケイスのことも、忘れない。


「ああ……そうだな」


 嗄れた喉からそれだけを絞り出す。

 幽霊のような彼女はぱっと、似つかわしくない明るい笑みを浮かべた。


「なんてね。それが君の、この町での最後の仕事になるんだろう? 折角だ。私も観に行くと約束しよう」

「別にそんな、無理しなくたって」

「無理なんかじゃないさ。もののついでだ。君は気にしなくていい。ただいつも通り、そうだな。いつも通りの演奏が、聞けることを祈っているよ」


 ぞっと赤い唇を舐め、優しい声でそう言った。 



「というわけで、チケットをおくれ。タダで」

「このやろう。売り払うなよ」

「君じゃあるまいし。そんなことするもんか」

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