外伝7 早朝、海辺、薪をくべる
『メリー』の由来を聞いた。
聞いてしまったと思った。
聞かなきゃよかったと思った。
薄ら寒くて仕方がない。
なんて非合理な理由だろう。
熱量ばかりで空回り。
これではまるで。
血の通った人間のようじゃないか。
「ああ恥ずかしい。柄にもなく語っちゃった。顔から火が出そう。いえ、それはたとえ話でまるきり嘘だけど」
サァラは頬に両手を当てて視線を逸らした。
赤面しているように見えてしまってケイスは目を擦る。
彼女が言ったように当然それは嘘だ。
さっきの話も全部嘘だったりは、しないだろうか。
「なぁに。不思議そうな顔をして。あ、さっきの話は嘘じゃないからね。嘘じゃないから恥ずかしいんじゃない」
どきりとした。
いつの間にかサァラはこちらを向いていて、いつの間にか空はすっかりと淡い紫色に染まっている。
朝焼けを映し出したサァラの瞳が、照らされた頬が、唇が。やっぱり赤くて、熱を帯びているように錯覚する。
「もしかして、言ったのは初めてか?」
「うん。誰にも言うつもりはなかったよ。言わないまま、『メリー』は辞めるつもりだったし」
辞めるという響きに悲壮感はない。
卒業、引退、通過儀礼としての終わり。
名前に万感の思いは込めても、終わりに躊躇はしないのか。
ケイスの心が少し軋む。
「それに、こういうことを言えるような相手も……」
「いなかったのか」
「いなかったなぁ。だってみんな、私より格好いいんだもの。私も格好つけなきゃやりようがないでしょ?」
「ひどいな。それじゃあまるで俺が格好悪いから言えた、って言ってるみたいじゃないか」
「みたい、じゃなくてそう言ってる」
相変わらず辛辣だ。
サァラはけらけらと少女らしい笑い声を零す。楽しげだ。
ケイスは諦めて、サァラが本当のことを言っていたのだと認める。
そもそも最初から彼女はそれほど嘘つきでもない。
彼女の話を思い返せばわかる。
「好きだったんだな、あの場所が」
返事は遅れる。
「……好き? まさか」
唖然としたような顔をサァラはしていた。
まるで本気で驚いているみたいだ。
「あなたの目には、そう見えたんだ?」
「違うのか?」
「そんなわけないじゃん。好きでサーカスなんかに居着いたわけじゃない。ない、のに……」
困惑と微かな動揺を声に滲ませ、サァラは一度言葉を飲み込んだ。
そして整理を付けるように、話を始める。
「私、あの座に二年いたの。二年っていうのはね、結構古株なんだ。みんな色んな座を渡り歩くから。
そういうものなの。ひとところには留まらない。留まれない。
留まることは止まること。それは前に進むことをやめること。あのこはそう言ってた。
そういう考え方が、あの世界にはあるみたい。
いつか自分だけの道を見つけて、辿り着くんだって。『本物』に」
「私は逆に人形っていう性質上、渡り歩くことなんてできない。ひとりでどこかへ行くことすらも難しい。……ずっと見送るだけだった」
ケイスは耳を傾ける。そこに込められているのは感傷以外の何物でもない。
感傷は愛着と密接に結びついた感慨だ。だがそれをサァラに指摘するのはやめておく。
彼女は言葉ひとつひとつに迷いながら、名前のつかない感慨を手繰る。
「あのね、ケイス。
私、人間が嫌いなの。
魔術師なんていっとうに嫌い」
サァラは顔を上げた。ケイスの目を真っ直ぐと見つめる。彼とて例外ではないと言うように。
「みんな滑稽だったわ。嫌われているとも知らないで」
皮肉をたっぷりと塗り込んで。
「ほんっと、どいつもこいつも甘いんだから。
私を誰だと思ってるのかな。
私より精巧な人形なんて、多分きっと、いないのに」
彼女はぼやく。
「あんな陳腐な芸なんかじゃなくて、もっと、わかりやすくて強烈な見世物にできるのに」
ぼやけていく。
「あれだけ魔術師がそろえば……私を『物』に貶めることなんて簡単なはずなのに」
呆れて嘲笑って諦めて、ふっと柔らかい表情が滲んだ。
「甘ったるくて優しくて、ばかみたい。……でも嫌いじゃないの。
だってそれって、物語みたいでしょ?」
――ああそっか、嫌えるはずがなかったんだ。
◇
「サーカスに拾われたのは、私にとって一番の失敗だった。少なくとも最初は、そう思っていた」
「早く逃げ出したくてしょうがなかった。
何かに縛られるなんてまっぴらごめん。
自由でなければ意味がない。価値がない。
だから私は全てから逃げ出したのに」
「肝心のところで上手くいかなくて、人形だってこともすぐにばれてしまった。それだけで、もう十分に最悪。
その上、人間の見世物になるだなんて!
それ以上の屈辱ったらなかった!」
「でも……見てしまったんだ。出会ってしまったの。
人形よりもずっと綺麗な、人間に」
「あのこはなんの変哲もない踊り子だった。魔術師の血もなく、突飛な芸も持ち合わせない。
少し数奇な身の上だけど、それも世の中にはよくある程度の話。
生きるために踊って、踊るために生きる。人間というよりも最早、踊り子という生き物ね」
「綺麗な人だった。顔かたちが、とかじゃなくて。
指先ひとつの動かし方、些細な足運び、笑顔の作り方、呼吸。
舞台裏のたわいのない雑談の最中でさえ!
照明はあのこのものだった!」
「あのこがいるだけで華になる。
あのこがいるだけで、どんなくたびれたテントも一流の劇場に変わる」
「斜陽座を貶めるつもりはないけれど、やっぱりあのこには見合わなかったんだろうね。すぐに、いなくなっちゃった」
「もちろん、まともに言葉を交わしたことなんてない。さっき言ったあのこの言葉だって、私じゃない誰かに言ったもの。
あのこは一度だって、私を顧みたりしなかった」
「ばかみたいでしょ。
憧れたんだよ。
あれだけ馬鹿にした人間に。
それだけ。それだけだよ。私が二年、『メリー』をやっていたのは。一人でこっそり彼女の真似事をしていたのは。それだけの、理由だよ」
たん、と爪先を鳴らした。かつての光景に思いを馳せながら、サァラはリズムを刻み、けれど足を止めた。
歌い出しもしない。踊り出しもしない。
何もない海を前に、ただ口を開く。
「私の踊り……魂がないと言われるの。
どれほど真似てもよくできた偽物だって。
情熱がないと分かってるの。
私の動機はあまりにも弱い。
才能がないと知っているの。
そんなものがあるように、最初から作られちゃいないんだから」
「座を離れることに、本当に大した理由はないの。
未練もない。やっと自由になれるしせいせいする。
成り行きだったし、憧れのひとつやふたつ、とっくにただの思い出になってる。
でも……私はもしかしたらこの先も、ずっと踊り続けてしまうんじゃないかって、時々怖くなる。
わかっているのにね。意味のないことだって」
「人間とか人形とか、そんなの関係なかったんだ。
本物かどうか、ただそれだけ。
それだけが価値。
それだけが真実。
なのにまだ、自分が偽物だってこと認められないみたい」
それはけしてケイスに向けられた言葉ではない。
サァラがサァラのために語った言葉で、それまで言葉にならなかった感情に整理をつけて、大事にひっそりと仕舞ってしまうために吐き出されたものだった。
それをたまたま聞いていただけのケイスは相槌も打たなかったが、何も聞かなかったことにもしなかった。
陳腐な悩みだな、とケイスは思う。
二束三文でありふれている。
どいつもこいつも考えることは同じだ。
だが、笑い飛ばすには少々軽さが足りない。
説教くさいのは品がないが。
おそらく誰もが通り得る道だ。
少し、先輩風を吹かしても許されるんじゃないだろうか?
「それ、解決法はないこともない」
意に反し、サァラは然程反応を示さなかった。愉快じゃなさそうに眉を顰めている。当然だ。
わかったように口を利く奴は大体何も分かっていない。
ケイスはしかし、分かったように口を利く。
「心を込めてもどうにもならないものはならないんだから。情熱だとか魂だとか考えるのはやめちまえ。誰にも証明なんてできやしないんだ。それを語るのは観客の特権で、俺たちの領分じゃない」
ああ嫌だ。余計な説教癖がついてしまう。
サァラが拍子抜けした顔をする。それがなんとも小気味よくて、ケイスは口角を上げた。
「今、自分が偽物だと思うなら。いっそ認めてしまったほうが楽だとは思わないか」
「なに、それ……喧嘩売ってる?」
サァラの反発は無視して、ケイスは鞄を開く。
バイオリンを取り出したのを見て、サァラは困惑げに口を噤んだ。
一体何をする気なのか、と。
さて、出した言葉は引っ込められない。後は野となれ山となれ。
「偽物なりの楽しみ方、ってのはあるもんだぜ? ほら、一曲付き合えよ」
◇
ケイスがバイオリンの弓を引く。奏でられているのがサァラもよく知る曲だということに気付くまで、少し時間がかかった。
ずっと使っていた練習曲。
バイオリンの音色で聞くせいか、それとも弾いているのが彼だからか、よく知っている曲なのに、初めて聞いたみたいに錯覚する。よく知っている曲だから、足が動き方を覚えている。
誰も見ていない。今ここで踊る理由はないけれど、踊らない理由もない。
サァラは戸惑いながらも誘いに乗る。
いつも通り、正しく、ステップを踏む。
波の音は旋律と混ざり合い溶ける。雑音を飲み込んで演奏は続く。
聞き惚れている暇はない。サァラが止まれば、きっとそれも止まってしまう。
潮風が髪を巻き上げる。視界を遮るそれに構うことなくサァラは回る。
難しいことを考えるのはやめた。心の中は凪のように静まりかえって何もない。
考えることを放棄しても、正しくは踊れる。いつか見た憧れを、サァラの身体はとっくの昔に記憶している。
だからいつも通り、これは正しいだけのつまらない踊り方のはずなのに。
(どうしてこんなにも……)
音が止まってしまうことが、足を止めてしまうことが。
今は、名残惜しい。
いつまでも続けばいいなんてことは思わない。そんな大層な願いを抱くほどにこの時間に価値はない。
いつもとは違うのかもしれない。楽しんでいるのかもしれない。それがなんだ。曲は終わる。動きは止まる。
どうせ誰も、見てはいない。
――拍手が聞こえた。
小さくて、まばらで、気怠げな拍手だ。
はっと目を覚ましたように、そのときようやくサァラの目に映る。
窓から覗く寝起きの顔がある。すぐそこで見ていた子供がいる。他にも、多くはないが、他にもだ。
拍手は確かに彼らのもので、彼らは確かにそこにいた。
冬の朝だ。
人間の大嫌いな、冬の朝だ。
何もかもが憎らしくてたまらなく思える時間だ。
慌ただしくて、手を止める暇も目をとめる暇もない。
寒さも眠気も知らないけれど、サァラはそれを知っている。
この、小さくまばらな拍手が、混じりけのない好意の証が、どれほど得がたいものか知っている。
この町の住人は音楽と共に生きるからこそ、たかが音楽、たかが踊りで彼らを振り向かせることは簡単なことじゃない。
ましてやサァラの技量では。
――どうして。
サァラは振り返る。
自分じゃないならば彼だ。
何の変哲もないアルバコスタの音楽家。
軽薄で不運で脳天気なケイス=フラット。
彼はあいも変わらずへらへらと笑うだけ。
踊っている間はまるで意識しなかった、聞き飽きたはずの音楽が耳に残っている。
意識なんてしていなくても、サァラの記憶領域は完璧に先程までのことを覚えていた。
慌てて観客に一礼しながら、サァラはきゅっと胸元を押さえた。
存在しない心臓が、余韻にうなされている。
◇
さて。
勢いだけでやってみたが、意外とうまくいくものだ。
よく考えれば早朝だった。罵声を浴びせられなくてよかった。本当に。
拍手の余韻に浸りつつ、ケイスはこっそりと胸をなで下ろしていた。
賞賛は酒よりも回りがいい。少量ですぐに効く。
抜けるのも早いが。
「ケイス、さっきの拍手、あなたに向けられたものだよね?」
放心気味に、サァラがそんなことを聞いてくる。
「いいや、この拍手は君に向けられたものさ。……六割な。六割だからな。四割は俺のだからな。おひねりは五分五分でもいいよな?」
「いや、その話は置いといて。大体たいした額でもないでしょうがどんだけ金に困ってんの、みみっちいな! 持ってきなよ全部!」
サァラの景気のいい返事を受けて、ケイスはうきうきと金額を数え出す。大した額でもない。当たり前だ。パンでも買って帰るか。
「それより説明して。どうして今のが、私に向けられたものだと言うの? わからない。今の、なんだったの?」
しゃがみ込んだケイスをサァラは仏頂面で見下ろしていた。
しわくちゃの紙幣を纏めて懐にしまいながら、ケイスは答える。
「補ってやればいい。足りないなら足せばいい。別に、それだけだよ」
「は……?」
「ようするに、魂がないだの頓珍漢な文句をつけられるっていうのは、観客に与える感動が足りないってことだろう? 味が薄いってことだ。甘さが足りないなら追加で蜂蜜をぶち込む。それで大体なんとかなる。品はないし芸もないけど。出る結果は同じだからいいだろ別に」
「たとえ話はいらないって」
感動は火だ。
サァラひとりで灯せる火が小さいのならば薪をくべてしまえばいい。
踊りで足りないのなら音楽を、音楽でも足りないというのなら物語を。
当然なんの解決にもなっちゃいない。偽物がいくら足掻いたって本物には敵わない。
敵わないが、別にそれで構わないだろう。火は灯せる。
「つまり、君の踊りがより上手く見えるように、錯覚できるように、俺がちょっと頑張って引き立て役の演奏をした。それだけ」
疑うような目つきだった。
「本当にそれだけ?」
「……そりゃ、足し方にも適不適があるけども」
足せば足すほど複雑になり、味を調えるのが難しくなるのもまた事実だ。
「その場その場に適切な演奏は違うしな。けどこのくらいなら、俺だって考えたらわかるさ」
「わからないよ!?」
「……?」
何故サァラはこうも怪しむような目で見てくるのか。
「絶対おかしい」
「普通だって。理屈だし、学校で教わったことの応用だ。首都には俺程度、ごまんと居る」
「それ、大衆音楽の『普通』じゃないでしょ」
「まあ、必要ないからな。俺も普段はそんなこた考えちゃいない。金に見合った分しかやる気ないし。毎日食べるパンは素朴な方がいいだろう? 音楽だって同じだよ。凝ったものは胃にもたれる」
「ああ、うん、そういう考えもあるよね、わからないこともないよ? ……はぁ」
サァラが呆れたように肩を落とす。
ご丁寧に嘘の溜息まで吐いて。
溜息を吐かれるのには慣れているがサァラの溜息はわざわざ吐いてることが分かる分、大きく感じる。
サァラは呆れたように眉を下げたまま言う。
「……ありがと」
「え?」
不意を打たれ、返事ができなかった。
「私のために弾いてくれて、ありがとって言ってるの」
「別に、君のためじゃないさ」
「そうだね。そうだった。君たちの音楽は、それを聞く人のためにあるんだものね」
そうだ、この町ではどれほど巧みだろうと、客のつかない音楽に価値はない。
娯楽は消耗品で嗜好品だ。今日のサァラを目にとめた人のほとんどは、明日にはきっときれいさっぱり忘れている。
無意味かも知れない。
らしくないことをしたとは思う。
どうやらケイスはこの人形のことを、人として好ましく思ってしまったらしい。
まったく感傷的で嫌になる。
その感傷を良しとしてしまった自分もだ。




