外伝6 最果てを目指す本物
長いひと月が終わろうとしていた。
悪い日々ではなかった。
旅暮らし特有の人間の雰囲気とでも言えばいいのか。
この場所に蔓延するそれはケイスにとってそれは好ましいものだった。
元々ケイスも根無し草だ。家を出てあちらこちらを転々としてきた。この町には随分と長く居着いたが、それも潮時かもしれない。
また、どこか、遠くへ行く時がきたのだろう。
そんなことをふと、考えた。
夜明け前にうっかりと目を覚まして、ケイスは外へと出る。
昔の夢を見てしまった後は決まって寝付けなくなる。
さいわい訳の分からない怪物に追われる類の悪夢ではなかったから、暗い夜道を恐れる必要はない。
幽霊騒ぎなどはあったが取るに足らないことだ。
ケイスは信心深い方だったが、それ以上に自分の感覚の方を信じている。自分の五感では幽霊などいたとしても感知できない、という方向にだ。
夜明け前といっても季節は冬。日が昇るのは遅いが時刻的には充分朝だ。この起き出している人間はいるだろう。
そう思ってサーカスのテントの方へと向かう。
もし誰も見つからなかったら、海にでも向かえばいい。着く頃には丁度、綺麗な朝焼けが見えるに違いない。
歩くうちにどこからか微かにオルゴールの音色が聞こえてきた。
オルゴールはこの町ではあまり好まれない。決まりきった繰り返しの音楽ではなく、愛されるのはその場その場の一度きりの特別だ。
おそらくサーカスの所有物だろう。
いくらケイスの耳がいいとはいえ、ここまで音が聞こえてくるオルゴールなど高級品だ。
一度、テントで見た覚えもある。
両手で抱えるのがやっとなほどの大きなオルゴールで、あの型は奏でられる曲も数多い。
今聞こえてくるのは古いバレエ曲だ。
ケイスは懐かしいメロディを口ずさみながら音を辿る。
練習用のテントから明かりが漏れているのを見つける。
中にいるのが誰かは分からないが、練習を邪魔するのも悪い。
退散しようかとも思ったが、薄着で外に出てしまったせいで身体が冷え切っている。
普段の上着が一枚足りていなかった。自分ではしっかり起きていたつもりが寝ぼけていたらしい。
上着は忘れたのに、何故か楽器の入った鞄はしっかりと手に持っているのが我ながら呆れかえる。
肌身離さずだ。習慣化されてしまっているものは仕方がない。
「ああ、寒い。いくらなんでもこれ以上は無理だ」
吹き付ける風から逃げるように、ケイスは静かにテントの中へと滑り込んだ。
風こそ吹かないものの、中も冷え切っていた。
冷たい空気の中でオルゴールの音が冴えていた。
中にいたのはサァラだった。
演目には使われていない曲で、見覚えのない衣装で、彼女は踊っていた。
ケイスの目が釘付けになる。
大胆な動きをひとつひとつ積み重ねていく。
繰り返されるステップは正確無比。古典的で教科書的で完全無欠。
汗ひとつかかず。眉ひとつ動かさず。
それはとても綺麗なはずで、卓越しているはずで、けれど、どうしようもなく色褪せた光景だった。
目が釘付けになって、でも、心が動かない。
オルゴールが唐突に止まり、不格好にサァラは停止する。
「……ケイス。覗き見とか、悪趣味」
「ごめん」
「別に、謝ることのほどじゃないけど」
冷たい無表情で、サァラは言った。
さっきのあれが、人に見られたくないものであることくらいはケイスにもわかる。
「埋め合わせして」
一体何が適切なのか。
このひと月近く、無駄話は山ほどしたがサァラの本当に好きなものなどケイスにはわからない。
わからないまま考えて、ケイスは言った。
「……海にでも行くかい?」
サァラは黙ったまま頷いた。
夜明けの海へと繋がる道を歩く。
道はゆるやかに下り坂へと代わり、空の底に黒々とした海が溜まっているのが見え始めた。
朝の気配が匂いだす。朝霧の黴びた空気と硬いパンを焼く匂い。
流れる音楽は小鳥の囀りばかりで、まだあたりは穏やかな静けさに満ちている。
サァラは道も不確かなくせにケイスの半歩前を歩いていた。
「海は嫌い。海のない国で会った、最悪な女のことを思い出すから」
「じゃあなんでついてきたんだ」
「埋め合わせなんでしょ? もしかしたら私が海を好きになるかもしれない」
それはどうだろうか。
海なんてどこでも大体同じだ。多少の印象や美しさに違いはあれど、海であることには変わりようがない。
「海の嫌いな人間はいないと思ってた」
「残念。私は人間じゃないもの。ろくに見たこともない海を嫌いにだってなる。潮風って、機械の天敵だし」
なんて口ではいいながらも、表情はどこか柔らかい。
「でも船は好き、かな。列車よりもずっと、遠くどこかに連れて行ってくれそうだから」
「線路は嫌いってか」
「ええ。誰かの思い通りなんてまっぴらごめん」
夜明け前の町をステップを踏みながらサァラは進む。
石畳と鳴る、人とは違う足音。
硬くて軽やかで、冷たい。
ケイスは思い出す。彼女がさっきまで、ひとり隠れるように練習していたあの光景を。
立ち止まる。
それを訝しんで、サァラが振り返る。
「無茶苦茶な踊り方だった」
「そうだね」
「まるで人間みたいな」
「そうだよ」
人間の可動域と人形の可動域。限界を明確に定められているのは人形の方だということくらい、ケイスにも察せられる。
あれは、優れた人間にしか許されない踊り方だった。
いつかサァラは冗談まじりにケイスに言った。
『私は人間よりも優れているの』と。
だがその『人間』の定義に、ほんの一握りの真に優れた人間は含まれていないだろう。
そういうふうには作られていない。
彼女の肢体は決して踊りに最適化されて作られたものではない。
その事実をケイスは明確には聞かされていないけれど。
察するには十分だった。
「……壊れないのか?」
「心配してくれてるの?」
「いや、ただの興味だよ」
「だよね」
ケイスの返答にサァラは安堵したようだった。
「安心していいよ。私はただの人形じゃないから。ある程度は自動で修復されるし、自分で自分を修理できる。そういう仕様なの。……そう作られているのは、自動人形の中でも私くらいだろうけど」
「そうか。なら何も言わないや」
「ふぅん?」
「壊れたまま治らなかったら、どうしようかって思ったんだよ」
「やっぱり心配したんじゃない」
「いや別に、俺が損壊恐怖症なだけさ」
「なにそれ。聞いたことないんだけど」
「今作った言葉だからな。割れた皿とか見ると鳥肌が立つんだよ。もう二度と元には戻らない」
「……サーカス、向いてなくない? みんな練習でよく物を壊してるでしょ」
「料理店の皿洗い係よりはよっぽどましだろう?」
「違いないね」
止めた足もいつのまにか動き出し、普段通りの軽口に戻っていた。
建物の隙間から覗く空が白み始める。
家々に囲まれた侘しい道を歩くのもこれで終わり。
視界が開け、薄暗く染まった海に辿り着く。
「静かなんだね」
「朝だからな」
「本当にそれだけ?」
「実はこの辺で人食い鮫が出る」
「そう」
「嘘だよ」
「ばればれ」
本当は港から離れた場所だからだ。
港では早朝こそがもっとも活気に溢れた時間だが。
ここはただ海が見えるだけで何もない、雑多な集合住宅と路地の行き止まり。
けれどケイスはここから眺める海がいっとうに好きだった。
薄汚くて、価値がなくて、寂しくて。
それでもここから見る海は『本物』だから。
サァラはどうだろうか。きっと気に入らないだろう。
横を盗み見る。
静かに夜明けを待つ横顔。
ガラスの瞳は真っ直ぐに前を見つめたまま動かない。
ケイスは浅く息を吐いた。
何を思っているのか。
一体、サァラは、何を。
道の途中でもそればかりをケイスは考えている。
理由は分かっている。
見てしまったからだ。ひとりきりで練習していたあの光景を。
ひと月をつかず離れずの距離で共に過ごした。
ケイスの中でサァラという少女の印象は固まっている。
愛想と冗談、それなりの親しみと分を弁えた身の振り方。
座の一員、端役の『メリー』としての彼女は器用だ。
舞台裏では我儘盛りの年頃の少女らしい表情を見せるけれど、それもどこまで本気かわからない。
努力家で理屈家で、たまに少女趣味。
ちょっとだけ夢見がちで同時に皮肉屋。
そして何より、冷めている。
もうすぐ座を去るはずのサァラは別れを惜しむ素振りを見せない。
どれほど少女に見えても人形で、親しみの込められた台詞の節々にも嘘くさい冷たさが滲む。
根本的な感覚が、価値観が、感性が、どこかでずれているのだと思っていた。そしてそれは間違っていないはずだ。
サァラは、自分が『人間とは違う』ことを何度だって念押した。
人形に不合理は、熱に浮かされたような情動は、きっと無い。
だからわからないのだ。
もうすぐいなくなるのに。
辞めてしまうのに。
彼女はどうして。
あんな無意味なことを、していたのか。
「どうしてなんだ」
声に出してしまったことに気付いたのはサァラが返事をしてからだった。
なんでもないとはぐらかすには遅く、ケイスは誤魔化しにかかる。
「あ、いや……どうして『メリー』なのかなって」
丁度良く、前から気になっていたことを思い出す。
『メリー』が彼女の芸名だ。よくある名前だがそれを人形であるサァラが名乗ることは意味深に思える。
メリーというのはとある小説の主人公の名だからだ。
そしてその小説には、自動人形が出てくるのだ。
『シトーシア』
コルチ=ディグにより書かれた、隣国セントロノの童話あるいは冒険小説。
実在の魔法とはまた違った、非実在の幻想魔法を取り扱ったファンタジーだ。
世界観のベースに歴史的な要素も組み込まれているからか、少年少女向けの娯楽小説にしては幅広く読まれている……らしい。
ケイスはあまり小説の類は好まない。どちらかというと、演劇や歌劇の方が好みだ。
ただちょっとしたきっかけがあって読んだことがある。熱烈に勧められて押しつけられてしまい、読まざるを得なかったのだ。もう随分と昔の話だ。
そういえば二年前に完結巻が出たとかなんとか聞いた気がするが、読むこともないだろう。
内容なんてとうに忘れている。
でも、サァラの名乗る『メリー』という名に違和感を抱くにはそのおぼろげな記憶で十分だ。
「だって人形なのは『シトーシア』の方じゃないか」
主人公は冒険家の少女メリー。
そして彼女が出会うのは謎の人形少女シトーシア。
「君が名乗るなら、メリーよりもシトーシアの方じゃないのか?」
その質問に虚を突かれたようだった。
サァラは言葉を迷いながらゆっくりと答える。
「……あなたはメリーの最後を知っている?」
ケイスは黙って頷いた。
最後だけはまだ覚えている。
──存在しないとされた世界の『最果て』を目指し、少女と人形が波瀾万丈の冒険を繰り広げる。
そういう物語だった。
しかしほどなく、二人の旅は終わりを告げる。
最果てに辿り着いたからではない。
世界を巡り、真実に辿り着いてしまったからだ。
誰も彼もに忘れ去られた人形の少女。
彼女が忘れ去られてしまったのはメリーたち、人間のせいだということをシトーシアは思い出してしまった。
かつてメリーの生まれた『真ん中の国』では人間と人形が手を取り合い暮らしていた。
いま、『真ん中の国』に暮らす人間は、誰ひとりとして人形のことを覚えていない。
忘れてしまった。
人はいつしか人形を恐れ、遠く最果てへと追いやってしまった。
そして最果てごと、人形のことを記憶から消してしまった。
シトーシアはそれを目の当たりにした最後の、そして最古の人形だった。
積み上げた思い出も絆も友情も、思い出した積年の恨みの前では輝きを失う。
もう旅は続けられない。
唯一無二の親友には戻れない。
シトーシアはメリーのもとを去る。
誰にも理解されなかった無謀な冒険家の少女はひとりになり、
けれど、諦めることはしなかった。
『だってあたしたちは、二人でひとつだったでしょう!?』
もう二度とあの頃には戻れないとしても。
失うことには耐えられない。
相棒だった少女を追う。
追いついて、その手を、もう一度握るために。
もう一度旅を始めるために。
だが、その願いは叶わない。
人形を恐れる人間たちは、すべての人形をなかったことにしようとしていた。
彼らの弾丸がシトーシアにも届こうとしていた。
そして。
「メリーはシトーシアを庇い、最後に死んでしまう」
ケイスは苦い顔をした。だから好きじゃなかったのだ、あの話は。
「だからだよ」
俯きがちにサァラは言った。
「メリーが死んで初めてシトーシアは知るの。自分がどれほど愛されていたのか。自分がどれほどメリーを愛していたのか。たったひとり遺されて、たったひとり大切な相棒との旅路を振り返って、『シトーシア』の物語は終わる」
サァラが口にしたのはケイスの知らない続きと結末だ。
声は熱っぽく、夢見るような色を帯びる。
「本当に面白かった。大好きだ。私にとっての最初の物語が、あれでよかったと心底思う。でも、そんなつまらない結末、愛せるわけがないじゃない」
サァラは言う。淡々と、訥々と、何かを押し殺すように。
「あんな、つまらない人形のまま終わりたくない。手遅れになってから欲しいものに気付くような愚かな人形になんかなりたくない。
私は、メリーになりたい。自分の欲しいものを、絶対に間違えなかったあの子に」
それが、彼女が『メリー』という名を選んだ理由か。
ケイスは相槌の打ち方が分からなくなる。
適当な返事ひとつもできないまま、サァラの視線がこちらを向いた。
「おまえは人になれはしない、と『物語りの魔女』はシトーシアを呪ったのを、覚えている?」
ケイスは首を横に振る。覚えてはいない。だが違和感を感じる。
人間よりも人形がずっと優れていた世界の話だ。
人間があまりにも愚かだった世界の話だ。
シトーシアは人間になりたいなどと望んではいないのに、どうしてそんなことを言ったのだろう。
「あれはきっと違ったの。言葉通りの意味なんかじゃない。 人形は、人間になれなかった。メリーのような、強くて素敵な、本物になれなかった。きっと、そういうことなんだ」
本物、その言葉だけが何故か重かった。
「だから私は、シトーシアを名乗るわけにはいかないの」




