外伝5 普通じゃない普通の日々
それからの日々もそれなりに、当たり障りなく過ぎていった。
サァラと友好的な関係を築くため外堀から埋めようとしたのが功を奏したのか。
いつのまにか随分とこの場所に馴染んでしまったらしい。
ケイス自身は相変わらず居心地の悪さを感じているのだが、元々その感覚には慣れ親しんでいる。
どこで居心地の悪さを覚えようとも、そこに居座ることはとっくに十八番だった。
あくる朝、ケイスが目が覚ましたのは椅子の上だった。
昨晩は赤毛のブランコ乗りに誘われて酒を飲み明かした。
翌日は非番だからと調子に乗りすぎたらしい。
赤毛の彼女の姿はもう見えない。
自分よりもしこたま飲んでいたというのに。
ここには妙に酒豪が多い気がする。
魔術師連中というのは酒に酔いにくいのか。
厨房の方から良い匂いが漂っていることに気付き、ふらりとケイスは様子を窺う。
「……サァラ?」
中に立っていたのは意外な相手だった。
サァラは鍋から目を離し、こちらを見る。
赤いセーターに黒いスカートの私服姿。
「なんで料理なんてしてるんだ」
「余った材料があったからちょっと貰った」
人形に食事は必要ない。
それどころか毒だと彼女は言っていた。
「食べれないことが料理をしない理由にはならないよ。
なんでもするべきだしなんでもできる方がいいに決まってる。
ちがう?」
「努力家なんだな」
真顔で押し黙るサァラ。
赤くなるのを隠すように顔を背けた。
勿論赤くなったりはしないのだが。
時々人間よりも人間らしい挙動をなぞるサァラにはこういうことがあった。
自分の失態に気付いたのか、サァラは照れ隠しのように捲し立てた。
「丁度いいから味見して。
あっでもその前に顔を洗ってよ?
ちゃんと目を覚まして、身支度して。
私匂いはよくわからないけど、今のケイス、お酒の匂いが染みついてそうなんだもん」
不自然な照れ隠しには素知らぬ顔をして、ケイスはぬるい返事をしながらサァラに従った。
サァラが作っていたのはシンプルなスープだ。
難しくはない料理だが、味見の出来ないサァラにとっては味付けで躓きがちな料理らしい。
確かに少し薄味だった。
感想を参考に求められたので正直に言ったが、遅めの朝食には丁度いい。
美味しいと言ったがサァラは喜ぶでもなく、古びたノートに今日の出来を書き込んでいた。
「パンとかお菓子とか、いつか作ってみたいんだ。
あれが焼けるときの匂いが良いのは私にもわかる。
君たちと同じ匂いを感じているわけじゃないんだろうけど……。
私が好きだから関係ないよね」
年頃の娘のようにサァラは語る。
口にすることはできなくとも、甘いものは好きなのだと。
マドレーヌの香ばしい匂いと曲線美。
砂糖の沈んだ深いミルクティー。
色鮮やかな砂糖菓子の宝石。
楽しげに並べ立てるのをききながら、ケイスは甘味などいつから口にしていないだろう、と思う。
好きだったのだがいつの間にか手を伸ばさなくなっていた。
甘いものは、ひとりで口にするにはあまりに重くて冷ややかだ。
熱くて苦いものの方がよっぽど隣人に相応しい。
最後に口にしたのは遠い昔。
フィアンセがいた、まだ少年の時分の気さえする。
もはや彼女の顔さえも思い出せないが。
ろくに名前も覚えちゃいない。
女関係に適当なのはそういや昔からだった。
少し冷めたスープを飲み干して、サァラがこちらをじっと見ていたことに気付く。
何か、と目で問えば、サァラはなんでもないのと首を振って言った。
「結局この宿に居着いたんだね」
「まぁね。俺の家、結構海に近いところにあるから。
ここから戻るには絶妙に遠い」
一番の理由は親交を深めるのに丁度いいからだが。
サァラに信頼されるにはサァラだけじゃなく、それよりも周りの人間に。
同じ釜の飯を食い、同じ酒を飲む。
そういうのが一番手っ取り早い。
「海かぁ」とサァラは遠い目をして言った。
彼女が元いた国、セントロノに海はない。
大陸の中心部に位置しているのだ。
そんなサァラも二年の巡行で、何度か海を見たことはあるらしいが。
海がきらいなやつはいない、というのがケイスの持論だった。
「今度案内しようか。
天気の良い日にでも。
冬の明け方の海は一等に綺麗だ」
「機会があったら、ね」
どんな話をしても口説いていることにはならないし、どんな誘いをしてもデートに誘っていることにはならない。
おそらくこの口約束は果たされない。
サァラと共に海辺を歩くことはない。
理由がなく、必然性がなく、打算がない。
それが心地よかった。
鍋を空にし雑談も尽き。
ついでとばかりにテントに戻るサァラを送り届ける。
そこまではいいものの、その後のことを考えていなかった。
休みといっても暇を持て余している。
特に趣味らしい趣味をケイスは持たない。
ここまで来たのだから、楽隊の方に顔を出すことにする。
どうせひとりやふたり同じように暇を持て余している人間がいるに違いない。
此度の公演のために新しく雇われた者は皆、ケイスの同類だ。
その日その日で音楽を売り歩く気ままな彼らは、暇を持て余すのが得意だった。
早速馴染みの顔を見つけて声を掛ける。
「おーい、……あれ?」
そばかすの青年はひどく景気の悪い顔だった。
気落ちしていると言うよりは焦燥に近い、青い顔。
そういえば彼は少し、あがり症で気が弱くてそそっかしい奴だった。
また何かやらかしたのだろうか。
そばかすの彼がケイスを今にも泣き出しそうな顔で見上げる。
「ケイス、おれ、み、みみ……」
「何? 耳? うっかり鼓膜でも破いたか?」
「み、見たんだよ! ゆゆゆ幽霊を!」
物置で不気味な影を見たという。
見間違いか何かか、あるいは普通にただの人間なんじゃないかとケイスは思うのだが。
あっという間に消えてしまったらしいそれを、彼は幽霊だと言い張って譲らない。
「魔術師がいるなら幽霊だっているだろっ!?
ああ、なんでそんなことも考えなかったんだ……やっぱり来るんじゃなかった……」
「落ち着きなって。
だいたい、幽霊が出るなら墓場じゃないか。
こんなところにいるわけ、」
「墓場はここのすぐ西にあるだろ!」
「まじかよ……」
そういやそうだった。
言い張るにはそれなりの根拠があるわけだ。
……いや、根拠なのだろうか?
「はぁ、幽霊?」
サァラに件の話をしてみれば、案の定呆れたような顔をされた。
なんとかそばかすの彼を宥めたものの、正体を確かめると安請け合いしてしまった。
ほとぼりが冷めれば忘れるだろう。
気が小さいしそそっかしいが立ち直りは一級品のやつだ。
この町に居座っている時点で、根本的に楽天家の素質があるのだ。
「やっぱりいないか」
「いないいない。
うちに魂とかに詳しい魔術師はいないから、呼び寄せたとかもない。多分」
「幽霊自体は否定しないんだな」
「うーん、なんか、魔術師たちの間でも議論がわかれているらしいよ?
イスチアのすごい魔術師だったら本当のことを知ってるのかもしれないけど」
まあ、彼には適当に真相を捏造して伝えておけばいいか。
「それに本当に幽霊が出たとしたら、きっと座長は歓迎するだろうね」
「引き込む気なのか?
幽霊のいるサーカスって、どんなだよ……」
「あれ、ここをどんなサーカスだと思ってるの?」
「どうって……普通だろう。
普通のサーカスだ」
「そうだね。
普通じゃないことが、サーカスの『普通』だからね」
「今更、人間じゃないのがひとり増えたってどうってことないの」
整えられた笑みの向こう側の表情が、ケイスには分からなかった。
遠くからサァラを呼ぶ声が聞こえる。
サァラは高い声で返事をして、ケイスに背中を向けた。
いってくるね、とささやきのように告げて。
冬の夜の空は黒く、星の明かりはテントの灯りに飲み込まれてしまった。
もうすぐ今日の公演が始まる。
端役の人形少女は今日もライトの下へと向かう。
小さくなるサァラの背中を、ケイスは長い間見つめていた。




