外伝2 魔術師のサーカス
結局、貰い物のチケットを売り払えないうちに、開演時間が近付いてしまった。
臨時収入は諦めて、ケイスは大人しく観覧することに決める。
猫のメイクを施した女にチケットをちぎってもらい、入り口の前に立っていたハーモニカ吹きに会釈をして、テントの中へと入る。
中は想像よりもずっと広かった。
「随分といい席だな……」
店主は一体どこで手に入れたのやら。
開演前の薄暗い空間に続々と人が入ってくる。
一張羅を着た家族連れ、お互いしか見ていない男女、赤ら顔の老人に、チケットを力一杯握りしめた兄弟。
誰ひとりとして、堂々と謳われている今夜の『魔法』を恐れたりはしていない。
不思議なものだ。
普段は皆、なんとなしに魔術を避けようとしているのに。
サーカスなんてものが、魔術師の巣窟であることを知らぬ人間はいないのに。
ここには魔法をかけられに来る人間しかいない。
まったく身勝手極まりない。
そしてケイスも身勝手な人間のひとりであった。
娯楽を売る生業の者として、ケイスとて、自ら望んで化かされるのは嫌いじゃないのだ。
前座のありふれた演奏から始まり、道化たちの楽しげな曲芸、たねも仕掛けもある奇術、風変わりな人形劇、細々としたスープやサラダのような演目が続く。
一体この中の、どれだけが魔法で、どれだけが芸なのか。見極めようと目を細めながらケイスは腕を組んでいた。
そんな穿った目で見ていられたのも、メインディッシュが運ばれてくるまで。
花形のスターたちの華麗な演目が弾けるように始まり、音楽も一層勢いを増す。
ついケイスはなんのためにここへ来たのかも忘れて見入ることになる。
ショーが終わった後、笑顔で帰って行く客たちを横目に、ケイスは感心していた。
演目そのものよりも、観客としての自分自身にだ。こういうのを素直に楽しめる稚気が、自分の中にまだ残っていたとは意外だった。
余韻のままに、帰って行く客と一緒に歩いていきそうになったが、すんでのところで本来の目的を思い出す。
行き先は裏だ。
さて、誰に声をかけたものか。
「やぁやぁお客さん、こんなところで迷子かい」
「やぁやぁお客さん、帰り道はあちらだよ」
鏡のように対称な動きを見せる、双子の巨漢がケイスの行き道を塞いだ。先のショーにも出ていた二人だ。
いきなり現れた俊敏な巨漢二人にぎょっとしつつもケイスは答える。
「ああ、さっきまでは客だったんだけどここからは客としてじゃないんだ」
コートから人員募集の載ったビラを取り出す。
双子の巨漢はちらりとケイスの持つ黒鞄に目を向けてまったく同時に頷いた。
「なるほどお仕事探しだね」
「なるほど食い扶持稼ぎだね」
「団長はどこに?」
「今なら奥のテントだよ」
「時間が時間だから、ちょっと急いだ方がいいかもね」
「近道はあっちさ。武運を祈るよ兄弟」
「兄弟になれるといいね、それじゃあね」
「ああ、ありがとう」
双子に教わった通りの道を行く。
夜の外はひどく肌寒い。
先程までの浮かれた空気はどこへやら。小さなテントとテントの間は静まりかえっていて、ぽつぽつと設置された明かりが剥き出しの地面を照らしている。
いつでもどこでも、舞台裏は静かで寂しいものらしい。一抹の懐かしさを覚えながら、ケイスは足早に進む。
何度目かの曲がり角で、燃え尽きかけの裸電球が瞬いている。ばちばちと繰り返す不規則な点滅にケイスは気を取られた。今にも消えてしまいそうだ。
そしてとうとう、その明かりが切れる。
生まれた暗がりに、ケイスは歩く速度を緩めようとして、
「きゃっ」
「うおっと」
後ろの誰かとぶつかった。
軽い感触と声からして、女の子だろう。
明かりはもどらないが、ぼんやりと転倒したシルエットが見えている。
「わるい、大丈夫か」
蹲る少女に手を差し伸べる。
ケイスはこれでも紳士を自認しているのである。
「ああ、うん、平気。どこも支障なし。こちらこそごめん。ありがと。手、借りるね」
少女の声はそう言って、ケイスの差し伸べた手を取る。
しかしその手を取って、ケイスは固まった。
生身の感触ではない。
掌が、硬く、冷たい。
死んだはずの電球が、再び息を吹き返した。
光のもとで、少女が目を見開く。ケイスの顔を見て、怯えたように口を開いた。
「……きみ、誰」
淡い亜麻色の髪を高く結った、年若い風貌の娘。愛嬌のある顔立ちだが、どことなく鋭い印象を与える緑の両眼。
それだけなら綺麗なだけの、どこにでもいる娘だ。
だが丈の短い赤色のドレスから伸びる腕は、作り物だった。
ケイスは驚きながらも掴んだ手を離せずにいた。
義手か?
いや、腕だけではない。
両手両足、いや、違う。
すべてだ。
眼も髪もその唇も白い首筋もすべてが、偽物だ。
ケイスはようやく、この少女がどの演目に出ていたのかを思い出す。
初めの方の、風変わりな人形劇だ。
出てくるのは本物の人間の大きさほどもある人形と、人形遣い。
彼の操るとおりに人形は動くはずが、途中からその人形は人形遣いに逆らい、ひとりでに踊り始める。
そんな演目だ。
ケイスは当然のように、始めから人間が見事に人形のふりをして動いていたのだと思っていた。
まさか、逆だというのか。
「人形、なのか……? 本物の?」
ガラスの瞳が鋭くケイスを睨みつけた。
少女は手を振り払った。
先程までの怯えなどなかったかのように、毅然と続ける。
「ついてきなさい。拒否権はないから」
人形少女に引きずられるようにして辿り着いたのは、当初のケイスの目的通り、団長のいるというテントだった。
「失礼します」
中に居たのは、意味深な眼帯に悪人面、いかにも悪の魔法使いといった風情の男だ。そうでなければ海賊だろう。
だが、残念ながら彼がこのサーカスの座長であることは明らかだった。
「なんだ、メリー。こんな時間にどうした」
「座長、私に記憶操作の魔法を売ってください。この男に知られました」
メリーと呼ばれた少女が言い出した言葉に、ケイスは耳を疑った。今、何を言った?
座長は目を細め、パイプを吹かす。
「高いぞ?」
「承知の上です。私の不注意が招いた事態だし……でも」
くるりとケイスの方へと向き直る。可憐な顔立ちを台無しにして、低い声で詰め寄った。
「絶対許さないから。あんたが忘れても許さないから。一体何だってこんな時間に裏にいるのかな本当に。ほんとうに、ああ、もう!」
ひとしきり捲し立て、少女は問う。
「やっぱり一発殴ってもいい?」
「は?」
「覚悟しなさい。私の給料一ヶ月分の恨み……!」
「いや、待て、待て待て待て!」
あんな軽い拳で殴られても痛くも痒くもないだろうが、問題はそっちじゃない。
記憶を消す、だって?
そんなとんでもない魔法が本当にあるのか。
いや、あるのだろう。できるのだろう。
そこの座長と呼ばれている男はあまりにも、こう、なんというか、迫力がある。
まじでやばい。
このままではやばい魔術師に頭を弄られる。
ケイスはやけくそ気味に叫んだ。
「待て、聞いてくれ、俺は雇われに来たんだ!」
記憶を一部でも失うなんて冗談じゃない!
魔法は望んでかけられに行くもので、望まぬ魔法などまっぴらごめんだ。
「ほら、団員になってしまえば、その子のこともいずれ知ったことだろ? ちょっと順序が逆転しただけになる。
魔法をかけるのは俺を雇わないと決めてからでも遅くはない!」
ほんとは短期の契約のつもりだったけれど。今この瞬間を乗り切るには法螺も仕方がない。
明日のことは明日の自分が考えるだろう。
背中にじっとりと冷や汗をかきながら、反応を伺う。
吉と出るか。出ろ。
「ふむ、確かにな。
メリー、お前もせっかく貯めた金をこんなところで吐き出すのは惜しいだろう。
それに、お前の契約は今月いっぱいだ。来月の演目は既にお前抜きで組んでいる」
「ぐっ」
少女は悔しそうに呻いて拳を下ろした。
もしかして純粋に殴りたかったのだろうか。
可憐な見た目に似合わず血の気が多いらしい。人形だけど。血も涙も普通にない。
とにかく、風向きは自分の味方だ。
こちらから仕掛けてしまう他はない。
「とりあえず一曲聴いちゃくれませんかね?」
ケイスは余裕の笑みを取り繕いながら、黒鞄を開いた。
中から取り出されたのはバイオリン。煮詰めたカラメルのように美しい色をした一品だ。
座長はふむ、と自らの顎を撫でた。
「そのバイオリン、魔術がかけられているな。イスチア製……リミニス商会の高級品か?」
その言葉を聞いてメリーが僅かに身じろぎした。
イスチアは、魔術が衰退の一途を辿るこの時代にしては、最も魔術の盛んな国だ。
特にリミニス商会の扱う魔術用品は多岐に渡り、
そのうちのいくつかは魔術の入国に厳しいこのトルカナでも流通している。
ケイスは驚く。座長の言うとおりだった。
見ただけでわかるのか。
魔術師だからというだけではなく、楽器の目利きも相当のものなのだろう。
「……ああ。必ず持ち主の元に帰る魔法だ。盗難予防さ」
それ以外に魔術はかかっていない。
世には問答無用で人を魅了する音色を奏でる楽器がある、なんて噂もあるが、これに関して言えば発揮されるのは純粋な実力だけだ。
身ぐるみ剥がされたとしてもこれだけは手元に残る。
例えすべてを、失ったとしても。
「商売道具、なんでね」




