3−8 空白のリネン
どうか間に合え。
時を止める魔法を今一度オギは切望する。
ブレーキは握らない。ひりつく喉も張り付く服も無視し、空回りしそうになる足を踏み込んで、車輪を回す。
無情な汽笛はこう告げる。『きっとお前はまた間に合わない』
馬鹿げている。
こんなことで、あの時動かなかった自分を正当化できるわけでもなく。
先延ばしにしたオギの選択はもうとっくに手遅れで、今動いたとして過去の何かが変わる筈もなくて、これはただの代償行為の衝動で。
その先にいるのは待ち望んだ人ではない。
だからなんだというのだろう。
荒い息が思考をかき消し、並列した筈の車両は少しずつ遠ざかるけれども。
走る程に時計の中で零れ落ち、十年の目盛りへと近付いていく。
最後の砂の一粒は、オギの数歩その先で黒々と宙を舞った。
「リネン!」
たとえ届かないとしても、オギがその手を伸ばしたことだけは紛れも無い事実である。
空を切る手。歪む重心。景色がずれて世界は回る。
自転車は盛大な音を立てて倒れ込み、オギは宙へと投げ出された。
落ちるのはリネンとほぼ同時だった。
悪態と呻きを口の中で転がしながら、衝撃に慄くままの身体を持ち上げる。明日の痣はどうでもいい。希望観測に基づき痛みも嫌な予感も投げ捨てた。
「リネン、大丈夫か!」
ぼろ布同然に擦り切れた元黒服の中から白い顔が浮きだす。
「はい、無事です」
髪はほつれ、タイツは伝線し、靴底は剥がれ、様相は酷い有様だけど。
リネンを壊すには走り始めの列車の速度が足りなかった。
「無事、だね」
もう何だかよくわからなくなって、打ち付けたところの痛みがじわじわと引いていくような気がするのがおかしくて、笑った。
「君は馬鹿か」
「ついかっとなって」
しれっと澄ました、傷一つない顔で言うものだからこれまたおかしいのだ。
「癪に触りました。魔が差しました」
「あれ、怒ってるんだ」
あくまでリネンは大真面目に。
「根幹に干渉されて強引に連れて行かれるなんて、相手がたとえ同じ人形で、妹に値する存在だろうと怒ります」
「そういうものか」
「はい、そういうものです」
思えば最初から、リネンはこんな風だった。
そろりと立ち上がる。膝が少々痺れを発しているけれど些細な問題だ。
しばし無言のまま、リネンはオギを見つめていた。
言葉を探す。何かを、何かを言いに来たのだ自分は。
「……もしかしたらだけどさ、サァラに付いて行くのが正解だったのかもしれないよ」
なんて、結局自分のないようなことしか言えないのだけど。
「では、次に迎えに来たら前向きに検討することにしましょう」
リネンは何の迷いも無くさらりと言い放った。
思えばオギの言葉を言いに来たのではなくてリネンの言葉を聞きに来たのだから、これでよかったのだ。
オギを急き立てていたような心臓の音が、呼吸が、ようやくすとんと落ち着いた。
その落ち着きが、リネンの声に柔らかさを錯覚させる。
「その時には、あの子のかけた迷惑も清算させなければなりません」
主にサイモンの私財だとか、そこで転がっている無断の借り物の上にがらくたと化した自転車だとか。
無表情であるがどこか深刻そうな面持ちのリネンがオギを再び見上げた。
「少なくとも窃盗と無賃乗車は確実なのですが、サァラは捕まりますか?」
「ちょっと無理かな」
苦笑した。法は人形を裁かないだろう。
「では、私たちでたっぷり絞らなければなりませんね」
座り込んだままのリネンに手のひらを差し伸べる。
「サァラは来るかな」
リネンの細い指が重なる。
何年先になるだろう。もしかしたら明日、明後日かもしれない。
サァラとリネンが同じでないならばそれでいいと彼女が受け入れる日の為に。
どうにも危うい彼女を補う存在になろう、とリネンは決めた。
「来ますよ。約束しましたから」
どこかほんのりと微笑んだ。
オギがリネンの手を握る。
握った。
その動作に、リネンの手首と甲の間に少々空間が空いていたことは影響しない。
要するに、すっぽぬけた。
リネンはそのまま後ろへ、こてんと倒れ込む。
ひと時画面は静止した。
「オギ、オギ、どうしましょう。どうしたらいいですか。どうにかなりますか。あの、その」
負荷が許容範囲以上だ。飛び降りるのは無理があった。記憶が正しければ妙な回転まで加わっていた気がする。無謀だった。ワンピースは擦過傷を防いでも緩衝材としては不十分だった。
「分かった! 分かったから、何とかなるから!」
へたり込んだまま目を白黒させるリネンへ声を上げた。
おそらく今日のリネンは相当調子が狂っているようである。
◇
「オギ、すみません」
紆余曲折あったものの、いつものようにリネンはオギの半歩後ろを歩く。
とりあえずと手は嵌め直して固定しておいたが、どうやら大きく壊れてはいないようだった。内部を見たところでも、壊れたというよりは見た目通り外れたといった様子だ。
道具さえあればすぐに直るだろう。
「ああうん、いいよ別に。でももう無茶しないでね」
「はい、分かりました。……いえ、その話ではなく」
軽い足音が止まる。
「私は人形であることを求められたのです」
オギが振り返るその前に。
「申し訳ありません。私は今から、人形に許されていない領分を侵します」
◇
自動人形は願いと役割によって確立する。
あの日のリネンは言葉を浴びることしか知らなかった。
隣人との差異は少なくあるべきだと彼女は言う。
『だから私の十年は完璧で幸福でなければならない』
恋に恋した幼いアルミラ=コスタは目的も手段も順序も厭わない。
オギの初恋は作為的なものだった。
『たった十年と言うけどね、私に取っては半生以上なんだ』
オギの中では一体何割だというのだろう。分母は多ければ多いほどいい。
しかしそれは、アルミラの終わりはオギの終わりではないことを意味していた。
やっと気付いたときにはもう遅く、聡くて愚かなアルミラには自分を嫌いにさせる魔法なんて掛けることはできなかった。
『笑えるだろう? 好かれたままでいたいと思うんだよ。忘れて欲しくない、なんて思ってしまうんだ』
オギには続きがあるというのに。
キフェは、オギを悲しませるなと言ったのに。それが出来ないのならば、オギの頭の中からいなくなってしまえと言ったのに。
だからこそ明確な好意の言葉で縛るわけにはいかなくなった。魔女の言葉は容易く呪いに転じるのだから。
上書きする何かが必要だった。
汚い”私”を取り繕い、綺麗で些細な思い出にするためにも。
秘密で秘密を塗り固め、薄情さを際立たせる。
アルミラにとってオギが大したことの無い存在であったと示せば同様に、オギにとってのアルミラさえも価値を下げることになるだろう。
塗りかえられない魔法使いの性というものに、願いを託した。
だからどうか、忘れぬまま思い出さなくなって欲しい。アルミラの存在を早く過去にしたい。
それはオギの十年を奪い去った少女の、ある意味での贖罪で、本質的にはただの身勝手だ。
最早存在しない魔女の上に、技術の結晶たる人形を。
どうしようもない好奇心が、優先順位を塗り替えてしまうことを。
ただ願いだけが加速する。
「どうかお前は、オギのためにあれ」
──そしてどうか、オギの中で私が価値を失うように。
利他的な願いの裏で、自分の心臓の止まり方ばかりは読み解けなかった少女はそっと、自分が賭けに負ける未来を想った。
◇
アルミラの生涯をかけた遺志もキフェの痛切な望みも、リネンは壊して投げ捨てた。
サァラとの同一化が進んだ人形は『秘匿せよ』という命令を拒み、一切合切をまき散らす。それでも行動は命令に準拠して、オギの主観にとって無かったことにするには都合の悪い記録を吐き出した。
リネンは最初から、アルミラのためには存在していない。アルミラの願いはオギにある。
記憶を頼りに、声帯をアルミラに近づける。
幸か不幸か、疲弊したオギが見紛うほどには元々似通っていた。
彼の背後で彼の袖を握って、僅かな時間、偽物になろうとする。
誰もそんなことは望んでいない。今のリネンが独断で、それが正しいのだと考えただけである。
正誤は最早関係がなかった。判別する人間がいなかった。
結論は一つ。
少年と魔女の空白を、人形は埋められはしなかった。
オギは振り向かなかった。後ろにいるのは確かにリネンだと認識しながら、アルミラに似た声を聞き続けた。
もしもオギが賭けに勝っていたとすれば。二人の関係の名称は変わっていたのだろうか。
昔から、魔法を解くのだけは得意だったのだ。掛けられていたことにもうっすら気付いていた。
だというのにお互い、好意の一つも伝えられない馬鹿者だ。
「あ、はは。どうしようもないな、僕もあいつも」
オギがアルミラの手を取ったあの日から、きっかり十年の月日は擦り切れた。
背後にはいない少女へと、音の無い言葉がから回る。
──君はどうしようもなく我儘だから、僕は君の最後の願いだけは決して叶えてなるものか。
「リネン」
「何でしょうか」
「ありがとう」
きっとこれは、後々の人生まで容赦なく変えてしまえるぐらい我が儘な女の子に恋をしたというだけの話で、それが今終わったというだけのこと。
これからのオギは魔法使いらしく真っ当に、魔法の存亡と技術の粋へと関心を払うべきなのだろう。その理由の中心に、魔法に取り憑かれた少女を据えることぐらいは許して欲しい。
少し離れた所でサイモンの車が止まった。中から二人が駆けてくる。
オギはリネンに、手を差し伸べた。
「それじゃあ、行こうか」
亜麻糸の髪がちらついた。
「はい」
雨の代わりに光を降らして、今日も世界は終わっていく。
fin.




