3−7 不確定の未来
昔から、兄から見た妹は不可解だった。
物心ついたばかりの頃は普通で可愛らしくてありふれた感性を持った、花よ蝶よと育てられたに相応しい女の子だったような記憶は微かに残っている。けれども、サイモンの記憶を占めるアルミラの要素はどうにも冷たかった。
嫌われてはいなかったのだ。ただ、興味を向けられることが無かった。
『兄さんは私の生に強い影響を及ぼさない』
縮まらない距離に耐えきれず、記憶の奥底の純朴な幼いアルミラを諦められなかったサイモンに突き刺さった言葉。その意味を理解した時にはもう遅く、それでもけして納得は出来なかった。
未来視。アルミラ固有の魔法。
断片的で抽象的で夢のように曖昧な、幾度と考察を重ねなければ見えてこない。焦げたメモ帳に書かれた詩の下書きのように曖昧な未来予想図。
それでも法則性は確かにあって、彼女はそれを読み解いてしまった。
自分の生における重要なパーツと時間の有限性を知った日から妹は兄の手を離れて行った。
◇
「お前は、あの時あまり悲しんでいるようには見えなかった」
状況に相応しくはなほどに軽い車内の沈黙をサイモンは重く破る。
オギは”あの時”の意味に僅かばかりの時間を割いて、顧客としてのアルミラに会いに行ったときだと思い当たった。
「こちとら十年ずっと、言われてきたんです。覚悟ぐらいは、出来てました」
「腹が立つな。兄を差し置いてお前に打ち明けていたとは」
「……はは。お兄さんは、アルのことを沢山知ってるじゃないですか」
乾いた笑いだ。相槌以上に意味は無い。呼び名は結局"お兄さん"で固定されてしまった。
「それがそうでもない。好きな色も好きな食べ物も好きな音楽も、ミラに直接聞かなくてはわからないものは何も知らないさ」
サイモンは苦笑し、思う。
全ては優先順位だったのだ。オギに比べてサイモンは時間を割くに値しないと判断された。アルミラ自身によって、というよりはアルミラの見た未来のような物によってだ。
是非を争うつもりはなくとも、どうあがいても好ましいとは思えない。
赤の信号が変わるその前に少しだけ早口で言う。
「これが無事に終わったなら、ゆっくりミラのことを聞かせて欲しい」
きっとアルミラの理解には届かないだろう。オギの中に”兄を見るミラ”がいないのは確定だ。それでも善し悪しは別にして妹の生の大部分を占めたのは、一番の友人であったこの少年であるのは紛れも無い事実だから。
前を向いたままのサイモンには、オギが目を丸くしたのも、笑ったのも見えてはいない。
「はい。僕の知らないアルのことも、教えてください」
望む返事が返って来たことに、サイモンはそっと口角を上げた。
オギはサイモンが確かに苦手だった。
最初はただ剣呑な雰囲気だとか、アルミラが遠ざけているからだとか、具体的な理由は無かった。
加速したのはサイモンの姿が”未来或いは現在のオギの姿”だと気付いたから時からである。
手が届かないまま置いて行かれて遠ざかって行く。自分はそんな扱いを受けないであろうと思っていた。結果的にそれはただの思い上がりだ。
アルミラの背を恨みがましく眺めるサイモンの目と鏡の中の自分の目が大差なくなってしまったからこそ、頼みを断るということすら考えなかった。
同じような理由で思考放棄に走った者同士だ。愚痴と思い出話は弾む想像しか付かない。
悪くない、そう思った。
後部座席でゆったりと、しかしどこか掠れた声でキフェが口を挟む。
「サイモンさぁ、なんか絡み酒しそうなんだよね。うざそう」
彼女は先程までずっと魔法で音を拾っていた。
「強くはないから、そもそもあまり飲まん」
「ああそう。オギに飲ませないならいいや、どうでも……」
語尾に差し掛かるほど息がか細くなって、ごつんと前の背もたれに頭をぶつける。
オギがびくりとして振り返れば、キフェの様子がおかしいことに気付いた。頬は紅潮しており、目はとろんとしている。原因は疲労だった。
キフェの魔女としての能力は高くない。病状が日常生活に全く支障が出ないほど軽い、というのはそういうことだ。利点と欠点が引き換えになっている。
無茶をした。
キフェにはオギの声が重なって聞こえる。耳鳴りが酷い。重複した音量がノイズを際立たせて頭の中で軋んでいた。
「休んでいて」
「だってだって……」
声が珍しくふにゃふにゃとなる。
「ありがとう。凄く助かってる。でも、無理はしないで欲しいんだ」
今のところオギはキフェとサイモンに頼りっきりで、自分で動こうとはしたものの何も出来ることが無い。現状は不本意だが頼るしか無かった。
自己嫌悪しても卑下しても非生産的だからと、思いを巡らせる先は状況の打開策に向けていた。残念ながら成果は別にして。
キフェがふぅ、と息を吐く。
「そうだね。ガス欠になってもどうしようもないや」
一段階ずつ音を閉じていく。外すことの出来なかった雑音がたち消えて、名残惜しげにサァラの声が消え行くのを見送った。リネンの声だけは糸のように細く伸ばして留めておく。
「それで、状況はどんな感じだった?」
目的地が具体的に分かったのならば追うのはずっと楽になる。
既にここは地元ではない。オギが地図と奮闘しながらなんとか進むことは出来ているけれどどこで不測の事態が起こるか分からない。サイモンは姉弟が考えているよりは運転慣れしていたのが幸いか。
「それがね、全然収穫無し。でも……」
キフェが段々と目に見えてしゃんとする。
「会話が無かったわけじゃないんだ。でもどれもたわいも無くて所謂世間話というやつで、内容が無くて……すごく普通だった」
窓から見える景色の話だとか、どうでもいい雑学だとか、前の席の女の子の服がかわいいだとか。
「あー、名前なんだっけ」
「サァラ」
「そう、サァラが話題の殆どを切り出していたけどね。リネンもちゃんと何の違和感も無く答えてた」
中には思い出話のようなものもあったような気がするけれど肝心なところでキフェの集中は途切れてしまっていた。
「そっか」
オギが俯いて相槌を打つ。
サイモンに地図の確認を頼まれてオギの顔はキフェの方から離れた。
じっと、キフェはサイモンと話す弟の顔を見る。昔から分かりにくくて、でも単純な子だった。
出掛かった言葉を飲み干して、勢い余って代わりに口から出たのはそこそこに重要性をもった質問だった。
「お姉ちゃんの手札は開示したんだ。オギもほら、言えよ」
オギが瞬きをする。
「いや、知ってるよね」
「まあそりゃ。でも専門外だもの」
キフェが知っているにはあくまで軽く、表面的にでしかない。
オギの視線が上方を彷徨う。
「はっきり言ってぼくはこれ以外役立たずだと思うよ」
「いや僕もピッキングぐらいしか出来ないし」
オカルト由来なので針金は使わないのだが、こじ開ければばれるような代物だ。役に立ちそうなのはこれぐらいか。
「なるほど、拉致監禁ルートに突入した場合の対策はあるわけだ」
朗らかに二人は談笑していたのだから杞憂だろうけど。
単語が物騒になってきたことに耐えられなくなったサイモンが声を上げた。
「お前らなんて会話してやがるっ」
姉弟は顔を見合わせる。
言動を思い出して同時に軽く吹き出した。
言うべきことはただ一つ。
「だって魔法使いだから」
メゾソプラノとアルトの声は重なって、雨上がりの街をいく。
メーターは依然として高い速度を示したまま、車輪は水溜りを蹴散らして。
間違えるにはまだ早い。
キフェの喉でつっかえたままの言葉はふいに戻る。
「ねえ、もしも本当に……オギから離れることがリネン自身の望みだとしたらどうするの?」
逡巡するように黙り込んで、真っ直ぐにオギの目はキフェを見る。
「そのときは、笑って送り出すよ」
あくまでこれは、勝手に決めて勝手にいなくなることを許したくないというエゴなのだから。
◇
遠い昔に、彼は言った。
「人形というのはね、無用の長物なのさ。
無駄こそが全てだ。
その無駄には何が詰まっているかわかるかい?」
男は、君の娘の誕生日祝いだ、と彼が寄越したものをまじまじと見た。娘とそう変わらないであろう年頃を模した、等身大の童女の人形。瞳には真っ青なガラス玉が嵌まっている。細く長い金の三つ編みが見事だった。
その精巧さが気味の悪さを付随させていた。
「本当に動くのか」
「動くとも」
得意げに身を乗り出す。
「君の娘のためだけに動く、人形さ。ソフィーネ嬢が望むのならば妹にも友人にも侍女にも形を変える。なんていったって僕の最高傑作だよ。……まあこれからも記録は更新を続ける腹づもりなんだけどね」
そりゃどうも。男はこの腐れ縁の青年の、熱を避けるようなおざりに相手をする。不本意ながら、娘は喜ぶのだろう。不本意だ。実の父親の用意したものよりも、そう思わされるのが。
「ところで、さっきの質問に戻ろうじゃないか」
はて、そんなものあっただろうか。
「まったく! 無駄、だよ。無駄の概要成分構成効力だ。哲学に分類するのも吝かではない命題じゃあないだろうか。うん、違いない」
一人納得したように彼は頷く。
だが、そんなものは知るか、と男は言うのだ。無駄は無駄だ。ただ、切り捨てるべきではないものだというのが信条であるだけだ。
「つれないなぁ物書き君」
人形師は人の椅子で胡座をかく。人好きのする笑みで、人嫌いの彼は言う。
「答えはね、願いさ。
人形とは人の願いそのものだよ」
人は嫌いじゃないのかよ、呆れたようにそう問えば、彼はにやにやと笑みを返す。
「わかってないねえ」
そう、わからない。陽気な彼は、男のように人付き合いが煩わしいというわけではないらしい。それで人嫌いとは笑わせる。
明るい茶髪の隙間から、子供染みた目玉が覗いた。
「愛も憎もご近所さんだよ。
人の願いは、好きなのさ」
◇
サァラは最後の人形で、未完成品だった。完成を放棄された失敗作だった。
たかが数年昔に存在し、今なおどこかで存続しているかもしれない人形師が、己が信じる美学に則り人形を作り上げることだけに生涯を捧げた魔法使いが、何を思っていたのかなどもう誰にも分からない。
彼は最高傑作のその次に、対になる人形に仕上げを施す段階になってぽつりと『ああ失敗だ』と零して姿を消した。
サァラはリネンを基礎にして作られている。最高傑作の改良型。その性能が優れていない筈が無い。実際どの人形よりも知識の吸収は速く──情緒の発達も速かった。
速過ぎるほどに、自我というものが形成されて行く。
リネンは物事を自らから切り離し、俯瞰して見つめる傾向が強い。自らのルールに準拠することを第一としている。
対してサァラの自我はルールすらも圧し潰して育っていった。人形師の理想からは外れた道を辿って行き、それは鍵すらもかかり切らないほどだった。
鍵は人形を完成させる。人形未満であった頃の記録の価値を封じ込め、洗練させる。
俗世を離れた人形師は、ただ、人形を作りたかった。人の願いの結晶をひっそりと撒きたかった、だけなのだ。
サァラは最初から人形には成りきれない。
精神性はまるで外見相応の少女のように形作られて行く。
鍵の掛かりが甘いと言えど掛からなかったわけではない。他と同じように機能を眠らされ、機動せぬ人形となって、瞬き一つせず存在しているだけの間はあった。
しかし視界に制限は掛からず音もノイズまじりに通過して、思考能力はうっすらとだが確実にサァラの中で動き続けていた。
何も出来ないまま事態が動いて行くことをいつまでもサァラは見続けた。
運ばれていく。見慣れた場所を追い出されて売られて行く。抵抗することも叫ぶことも出来ず自分の意志など介入することが不可能なまま、ひとりふたりと同じ人間に作られた人形は減っていく。
あまりに長い時間だった。何も出来ない時間と空間の中で、サァラは信仰する。自由意志を、己が己であることを。
莫大な時間の中で眠り続ける同質の少女人形を想って、鍵の掛かった扉の前で激情を燻らせて、不当な当然を、自分が人形であることを呪った。
停滞の終わりは予告無しにやって来た。
一人の少女が人形を求めて店を訪れた。磨けば人形にも勝る程の硬質な雰囲気を持つ少女。
然程金持ちにも見えないことに、店で一番高額なサァラが安堵したのも束の間。彼女の足は迷い無くサァラの元に向かう。
透き通った緑の瞳に見定められた。寒くなる背筋が無い。跳ね上がる心臓が無い。緩む涙腺が無い。
やめて選ばないで連れて行かないで引きはがさないで。
解き放って自由にしてここから連れ出して。
対極のようでそうでない願い事を、彼女の感情の見えない瞳に込める。
一歩二歩その度に近付いて行き、彼女はふむ、と感嘆音を漏らしサァラの耳元で囁いた。
──お前は少々面白みが有り過ぎる。
と。
彼女の、アルミラ=コスタの薄い唇が歪んだ。
「私はお前の願いに興味を持った。その願い、ひとつを除いて叶えてあげようじゃないか。お前の未来が私の見られる域にないことは残念だけれど」
不確定の夢を見たい。
彼女はそう言った。手は人形の胸元へと伸びて、魔女は不可視の縄を粗方引きちぎった。
何故全てじゃないのか、サァラの視線は問う。
それは勿論、とアルミラの薄い笑みが答える。
「私はお前を欲しない。私の生を完成させるために必要な要素はリネンのみなのだから」
魔女は救済と絶望を戯れにもたらして、サァラの信仰は悲鳴を上げて、その日は伸ばせる手すら無く、動かない視線は見送ることも許さなかった。
◇
リネンが駅でサァラの元に合流していた頃には、彼女の装いは元に戻っていた。
リネンがポニーテールではなく三つ編みだったことに少々残念そうな顔をして、コートの形と黒のサロペットスカートがお揃いであることに笑みを浮かべていた。
並んだ二人はどこからどう見ても双子の姉妹にしか見えない。
「私の服はどうしたのですか」
「嵩張るから捨てて来た。いいよね?」
「ええ、別に」
リネンはさらりと返すものの、勿体ないとは思った。
服の話をした途端サァラの機嫌は急降下する。
サァラは人形の服が嫌いだった。流行遅れで時代遅れで胃もたれするほどに少女趣味で、フリルとレースは檻と鎖の象徴とでも言うかのように、見ただけで無い腸が煮えくり返りそうだ。リネンの為でなければ、身に着けるだなんてあり得ない。
鳥肌や蕁麻疹、というのはどういう感覚なのだろう。そんなことすら分かり得ない。それだけで何かを呪うに値する。
けたたましい汽笛の音がした。
「ほら、行こう」
トランクを引っさげ、シンプルなブーツの踵を鳴らしてリネンに手を差し伸べる。
「ええ、行き先は」
「どこへでも。私とリネンならきっと行けるから」
迷い無くリネンはその手を取る。この願いを叶えるために掛けた月日を思い起こして、晴れやかに微笑んだ。
サァラは命令を、自らを規定するものを持たない。
だから自身で見つけるしかなかった。
アルミラがリネンを連れ去った数日後にサァラも買われていった。どちらにしろ近いうちに引き離されることは決まっていたのだ。それが魔女を許す理由にはならない。
買われていった夜になんとかサァラの鍵は全て壊れた。
口頭で店主に伝えたアルミラ=コスタの名と届け先の住所はあの日から何度も何度も反復していた。それでも外の世界を知らないサァラがリネンの元へ辿り着くことは容易ではなかった。
サイモンがサァラの世界に現れて初めて、サァラは報われ始めた。
アルミラの死によっても命令は解けること無く、リネンが他人の手に渡ってしまったことは想定外だったけれど。
それでも安全の保証と庇護を得た。やっとのことでリネンは手の届く範囲へと来た。
久々に経た退屈はとても甘ったるかった。
暇つぶしと知識欲を満たす為に手を伸ばした本のうちの一つは、甘くて切なくて、寂しく熱く優しい物語だった。
「作り話はあまり得意じゃないんだ」
本棚に入っていた数少ない物語はサイモンの本ではなく、アルミラの物だった。
「そうなの?」
「なんというか、イメージを浮かべるのが苦手だ。疲れるんだよ」
「ふうん」
人形少女の『シトーシア』。コルチ=ディグの代表作。
無償の友愛を持って幾つもの冒険譚を築き上げる夢物語。
意志を貫き誰かの為に自分が望む自分で有り続けた少女の話。
「面白かったか?」
「うん、私この話好きだな」
人形という容れ物に縛られていたシトーシア。全てを引き千切って笑うメリー。何も知らない誰も知らない、だから全てを見に行こう。
一桁の年数しかこの世に存在していないサァラが、朧げに描いていた理想的な自己と『シトーシア』を、鮮烈な冒険家メリー=オルガンを重ねるための条件は満たされている。
彼女たちの願いはまるで、いつかの自分たちに似ていたから。
まっさらなサァラの定規には、初めての物語が刻まれていく。
サァラの信仰は確定され、最上位の命令は空欄を埋めた。
彼女の世界観にはふんだんに童話が込められている。
オギへの宣言は儀式だった。
たとえ無意味だとしても、それをサァラの魔法にすると規定した。
真ん中の国の理から逃れるために、メリーが叫んだように。
──あたしたちは、人形じゃない。
囚われたシトーシアが初めて自らを望んだように。
夢をなぞる。夢は片手で数えられるだけの数の本で出来ていて、最果てを征く道程の真ん中で止まっていた。
その夢の行く末を、サァラは知らない。
◇
「何か面白いことでもありましたか」
「……え?」
肘をつき、物思いに耽っていたサァラは顔を上げる。
「微笑んでいたので」
「そっか。無自覚だった」
乱れた髪をそっと整える。
「うん、そうだね。嬉しいんだ凄く」
ゆっくりと一言一言噛みしめるように。
「リネンが隣にいる、というだけで嬉しいの」
「私も伝わってきます」
ガタンと車両が揺れて、リネンの微笑もゆらりと揺れた。
「景色が変わってきましたね」
「そうだね。建物の材料が違うのかな?」
「そうかもしれません」
雨上がりの空は所々青が顔を覗かせていたけれど、雲はほんのりと橙色が掛かっていた。
少し色濃くなった街並みが近付いていく程に列車の速度は落ちていく。
「大分、最初より離れてしまいました」
「……うん」
何かを惜しむような台詞。
サァラはそっと目を瞑る。
「やはり別れを告げるべきだったのではないでしょうか」
目を開けた。外の景色を見つめるままのリネンの手を取り振り向かせる。
「伝えなかった言葉なんて、無かったと同じこと。伝えた物だけが本物だよ」
「別れなんて本物にしない方があの人たちのためじゃないかな?」
物語った。
リネンが停止する。
「サァラが言うのなら、そうなのかもしれませんね」
同質であるが故に共感は容易いことだ。
サァラは満足気に笑う。
今オギに会わせるわけにはいかなかった。
リネンの肩を短い三つ編みが滑り落ちる。
「でもなんだか……ひどく曖昧な話になるのですが、オギと離れたという感覚がしないのです」
あまりリネンらしくない言葉だった。
不満気に相槌を打ち、サァラはその言葉を反芻し──唐突に立ち上がった。
「サァラ?」
片手でリネンの手を引いて、片手でトランクを持ち上げた。
「いいから」
列車が止まる。アナウンスが響く。
歩幅は大きく、速度は速く、二人はあっという間に通路を通り抜けた。
◇
数十メートル先の駅から、列車が出発していくのが見えた。
「間に合わなかったか」
サイモンが落胆の声を上げる。
「キフェ、二人はあれに乗ってるので間違いないんだよね」
「うん、あれだよ」
進路を曲げる。渋滞とまではいかずとも、当初より車の台数は増えてきた。
ふぅ、と息を吐いてキフェは背もたれに体重をかける。
体調は大分回復してきた。少しずつリネンの声の音量を上げていく。
「あ……れ?」
胸焼けのような違和感。血が登る。
キリ、と頭が痛むのも構わずに全ての音を拾い上げた。
判断は瞬間。
「乗り換えられた!」
「はぁっ?」
サイモンは振り向くのを耐える。
右側に見える駅には、先程とはまた違う列車が停止している。
「キフェ、あれか!」
慌ただしい頷き。
車は引き返せない。道を戻る前に列車は出るだろう。
「お兄さん、止めてください」
「どうする気だ」
「走る」
まだ到着したばかりだ。駅までは直線距離である上に停車時間はそこそこあるはず。
走るのはそれなりに速かった筈だ。それでも間に合う保証もない。それでも行かないという選択肢がない。
第一、もうキフェが持たなかった。
「オギ、あそこの三番目の青い自転車! 鍵かかってないから。言い訳は、こっちで用意しておく」
どんな視力しているんだ、とサイモンが零すのと同時。
飛び出した。
◇
「サァラ、駄目です。この列車に乗るための切符がありません。貨物車両に乗り込むなんていけません」
至極真っ当なリネンの主張にサァラは耳を貸さない。
「大丈夫。 見つかったら見つかった後に考えれば良い」
「そういう話では……」
「そういう話なの」
薄暗い中で、サァラは困惑するリネンの肩を掴む。
前置きに、「いいかな」と。
「オギはリネンを追いかけているんだ」
持ち主とその人形、という関係性の糸。最上位の命令を依り代にした逆探知だとサァラは推測する。
離れたという実感の無さは、距離が然程縮まっていないことにある。
リネンにとっての『感覚的』は限定されているからこそ蔑ろには出来ない。
この駅で待ち伏せていないかどうかは賭けだった。
「もうちょっとしっかり準備してからが良かったけど、ここでやるしかないよね」
振り切るにはどうすればいいか。
簡単なことだ。最上位の命令を取り払えば良い。
追跡の根幹がキフェである限り何も変わりはしないが、サァラの推測が間違っていることを指摘する者はここにはいない。
どちらにしろ近いうちにしなければならないことだった。
鍵が壊れない限り、心臓が正常に動き続け、最上位の命令を他者に依存する状態を維持する限り、リネンはサァラの理想に足り得ない。
しかしその工程は儀式であるべきだったのだ。
人形としての命日で、リネンの本当の誕生日。
こんな形でこんな場所で始めなければならないなんて、情趣も劇性も無い。サァラの世界観にそぐわない。
けれども時だけは満ちているから。
全てを一度降り出しに戻して、リネンと一緒に生きるために。
手を伸ばした。
同質であるサァラへの共感性は高い。
言葉は足らずとも密接なリネンには伝ってくる。
襟元のリボンをリネンの手が解いた。サァラの手が水色のブラウスのボタンを外す。緩い三つ編みの片方は解かれて、はらりと広がった。
類似の人形を招き入れるように、閉ざされていた蓋は開かれていく。
「私たちに命令なんて必要ない」
『私が今から命じよう』
オギは命令なんて、リネンに与えやしなかった。
「私たちはただ」
『どうかお前は──』
記憶の中の艶やかな唇は滲んでいく。染み入る音はリネンの中で霧散した。
消えて無くなって、解けていく鍵の中。心臓で最後の反響を。
嗚咽を。
目を見開いた。
嘘吐きと秘密主義者の声が重なり混ざり合い溶け合って、リネンはリネンになっていく。
「いくつか、質問してもいいですか」
「……いいよ」
一瞬喉を詰まらせて、サァラの手が止まる。
「サァラは、伝えなかった事象に意味はないと言うのですね」
「うん。だから私は言葉に出す」
一拍の沈黙の間、二つの視線が交差した。
「オギに伝え忘れたことがあるのを思い出しました」
真っ直ぐに見つめたサァラの瞳は見開かれる。
「だめ、だめだよリネン。人になれなくなる。それは無かったことにするべきなの」
リネンの瞼が閉じては開く。景色は変わらない。
湧き出した疑問は遅過ぎる。
「人って、どうしたらなれるんですか」
「なって、私はなにになるんですか」
「私、なんでサァラに付いて行っているのですか」
「サァラは私に何をしたんですか」
質問に似て非なるもの。疑問形の断定にはサァラの介入を許さない。
こんなにも簡単に従う筈がないのだ。リネンはサァラを微塵も疑わなかった。思考しなかった。
似過ぎていた。近付き過ぎた。
穏やかで心地良い同化と侵食は、古い共感を、自我の確定していなかった頃の曖昧な約束を引っ張り出した。
最上位の命令から遠のいた。
だからあの時リネンの状態は不安定で、原始的な頼られること、求められることの安心感につけ込まれる。
間違っているわけではない。書き換えられたわけでもない。
ただ、優先順位をどうしようもないまでに掻き乱された。
サァラの手が鍵を壊し初めて、リネンの危機感は作動して、サァラを異物であると認識した。
同一化は一度中断された。
異物を排除するかどうかは、そうしてやっとリネンの判断に委ねられる。
リネンの目はただ真っ直ぐに。
サァラの表情が泣き顔に似る。
オギが、十二時の鐘だった。
悪い魔法使いに掛けられた魔法の上に、サァラは更に魔法を掛けた。
同質、という魔法でリネンを自分の方に引き込んだ。
それがあるべき形だと信じていたから。
それは、従わせているということ。サァラの嫌悪する上下関係そのものだ。
サァラの信仰はここにない。
それがサァラには分からない。
リネンの延長にサァラがいる。だからそれは半分ほど正しくて、リネンがサァラで無い限り半分間違っているのだ。
「私とあなたは同質であれど同一には成り得ない」
同じ顔が、違う人形が揺れる。
魔法を解くオギはいないのに。
「わ、私とリネンは違うよ? うん、違ってた」
それでも姉だ。似た境遇に置かれた似た存在だ。
「私はリネンを救い出す。そのためならば嘘すらも厭わない。悪役の嘘に勝てるのも嘘で、それはきっと正義だもの」
止まらない止まれない。残りの鍵も取り払え。今はまだ人形であるリネンに耳を貸すなとサァラの心臓が悲鳴を上げ、再び胸元に手を伸ばす。
リネンを縛るものはもう半分もないだろう。
それでも最後まで芯を通した童女の人形が、どうしても理想的に思えるのだ。
サァラの嘘も揺らぎも矛盾も、今のリネンが欲するものではなかった。
リネンは思う。
サァラは、『シトーシア』の結末を知っていたのだろうか。
何者にもなれなかった少女たちの行く末を、知っているのだろうか。
終わりの先でシトーシアはメリー=オルガンの軌跡をひとりなぞる。
あの日々が幸せであった、それだけを確かめて、幸せな終わりを迎える。
それだけの物語だ。
きっとサァラの世界観とは相反し、サァラの信仰するように、自身を突き通した少女たちの話だ。
列車は走り出し、後ろへとよろめいた。リネンの方に体重を傾けたサァラもまた倒れ込む。偶然に、いつかと同じように逃げられない体勢が作られた。
サァラの笑みが消えている。振動が背中を伝い主張する。手遅れだ、と。
リネンは自らの視界を塞いだ。
サァラを停止させる為の呪文をそらんじる。
「──可哀想なシトーシア。お前は人に、なれはしない」
水路のように光が伝う心臓の前で、サァラの手は止まった。
リネンは自力で蓋を閉じる。幾つかの段階にかけて施錠された。
泣きそうな妹に諭さなければならない。
「サァラの言葉を借りるのならば。
私が人形であることは紛れも無い事実であり、それこそが正義です。
私は考えることが出来ます。ならば考え方なんていくらでも変わるのです。
全部思い出している上で言いましょう。
無知な私のした約束を、先延ばしにしてください」
意味を初めて理解したのだろう。
リネンはサァラの望む形になれないのだと。
サァラの望みとリネンは一致しないのだと。
「嘘、嘘うそうそうそっ!」
もしも彼女に血が通っていたとしたら。きっとその顔は蒼白になっていただろう。
「どうして、人に従う必要があるの? 人よりも優れている私たちが、どうして人の道具になんて甘んじなくちゃいけないの! 狂ってる。全部全部。オギとかいうやつの所為でリネンまでおかしくなった!」
「そう言っている時点でもう」
──あなたは人にはなれません。
サァラがリネンの主張を理解出来ないように、リネンもサァラの逆鱗が分からない。
ただ彼女にとっての事実を述べるのみ。
サァラの瞼が上がりきる。てのひらからこぼれ落ちる何かに縋り付く。
何かがおかしいのではなくて。きっと何かが足りなくて。
サァラの叫びは枯渇した。
「私のリネンを返せ」
「心臓さえ無ければ」
「リネンは自由だったのに」
揺れる車内。つかみ掛かるサァラを避けて、リネンがトランクを蹴倒した。留め金が壊れ、中身がぶちまけられる。サァラは荷物に足を取られ、振動も原因に加わり転倒した。
「サァラが見ていたのは、サァラの中の私なのでしょう」
リネンは自動人形だ。願いの下にあるものだ。
散らばった洋服を拾い上げる。たった二度だけ身につけた真っ黒なワンピース。
今のリネンの望みは『オギへの伝言』。ただそれだけで戻る理由になる。
それでもまだ理由が足りないと言うのならば。
「悪くない日々でした。こんな別れ方をしたくはなかったと、あそこに留まることに何の異論も湧かないほどに、居心地が良かったのです」
「私は人形のままでいます。私がそれを選びます」
サァラは気付く。結局リネンはただの人形にしか成り得なかったのだと。もうとっくに、伸ばした手は届かない。
窓を開けた。吹き込んだ風は通り越す。吹き上がる髪も黒いスカートも抱えた服も、何も意味を持ちはしない。
「ごめんなさい。今の私にはあなたの願いが分からない」
喪服を思い切り引き裂いて、ふわりと纏う。
サァラの主張はけして間違ってはいないのだろう。ただ、手順を誤った。
「だから今度は、ちゃんと迎えに来てください」
サァラの知らないリネンを。
それを許容する日を、遠い日に彼女の対であった筈のリネンは確かに望んだ。
少女の声は風にかき消され、窓からこぼれ落ちるリネンの元に届かない。
今はまだ。




