3−6 今更だとしても
昔から魔法を解くのは得意だった。
アルミラの一世一代の魔法はオギを拒絶するもので、ひとりの秀才のそれを解くにはあまりにも時間が足りず、足りない以上に拒絶自体が解法を煙に巻いた。
魔女の魔法は変則的だ。それは体内の回路が絡み合っていることに由来している。正常に動かないどころか動き過ぎる方に傾いている。
言うなれば回路不全症患者は体内に魔法道具を埋め込まれているようなものだった。
表向きには健康体で何一つ問題なんて無いままに、まるでそれが正しい寿命であったというように、密かに彼女の回路は誤作動を起こしてアルミラは事切れた。
そうして初めてオギはコスタの家に招かれる。娘の友人としてではなく今度は魔法使いとして、彼女を葬る為に生来の魔法を解く人間として。
正負の感情の入り混じった顔に見送られて、肌から乖離した景色の中へと分入って、賭けに負けたオギは何度も夢に見たアルミラの元に向かう。
けれども。
久しぶりに見た彼女の形は既にアルミラとしての要素を欠いており、オギはもう納得せざるを得なかった。
涙腺は鍵を掛けられたままくしゃりと顔が泣き笑う。
「よりにもよって僕にやらせるとか、悪趣味だよ」
勘付いてはいたけれど隠したいようだから彼女の体質には言及しなかったのに。最後に種明かしをしたら意味が行方不明ではないか。
魔女の魔法を解いたのは一度だけ、それもベネットの助手という形でだけだ。
「ああ、もう。知らないからね」
それでも自分以外がしなくて済んだことを、心のどこかで安堵した。
回路を断っていくたびに認識がすとんと落ち着いていく中で恨み言は滲んでいく。
きぃんとした違和感と頭痛だけが増えていく。
十年に満たない月日と初恋の人の残滓は、オギの手によって終わった。
◇
あの時に得た感情の名前をオギは知らない。
慢性的に取り憑かれていたけれど、いつの間にか慣れてしまっていて存在すらも忘れていた。
あらゆる気力は正常に作動していて、食欲も睡眠欲もリネンに対する好奇心までもがすぐに湧いた。
別れを告げられて、分かりきった賭けの結果を待っている時の方がよっぽど擦り切れていたぐらいだ。
その感情に似たものが今、オギの腹の中で自己主張を始めていた。
わからない。似ている。似ているけどわからない。わからなくて気持ち悪い。気持ち悪くて不愉快だ。
瞼を上げて天井を睨み付ける。
オギはいつも"おまけ"だった。
キフェのおまけ。アルミラのおまけ。ベネットのおまけ。
そのことに何の文句もなかった。
なかったのだ。
不愉快だ。暫定的にこの感情をそう分別する。
おまけでもオギは構わなかった。自分が好ましいと思っている人間について行けることは喜びだ。
だけどあれじゃまるで──置いて行かれたみたいじゃないか。
その答えは半ば無意識のように弾き出された。初めて自分で自分に気付いた。
ああそうか。
合点がいく。
アルミラは勝手に決められて勝手にオギを置いて行った。
最後にオギを部外者にした。
視界の輪郭はやっとのことで定まった。
先送りの感情が払い戻された。
端的にただ、ばかばかしい。
そういえばアルミラは馬鹿だった。
寝なければ実質的に寿命が増えるのではなんて宣って、ぶっ倒れる程には馬鹿なのだ。
ほんの少しオギは笑う。
早い話が、オギは確かにアルミラを好いていたのだ。
それだけのことで、アルミラに追い縋る理由になるというのに。
時計の針は丁度良いぐらいに進んだことを確認して立ち上がる。
廊下をゆっくりと突っ切って居間に向かう。
「だいたいなんで、たかが数年生きただけの人形に騙されるんだよ阿保か!」
「煩いそもそも生きてないだろうが。ああそうだ、俺が阿保だったのはいいがな、仕方ないのもあるだろう!」
「知らないよ。付け込まれるのが悪いんだよこのシスコン」
「なんだとミラの悪口は許さないぞ」
「君の悪口だよ分かれよ」
キフェとアルミラの兄が剣呑にいい争う中をお構いなく突っ切って、電話の前で直立する。
午後三時に追加二分。
けたたましく電話のベルがなった。
『覚悟はできた?』
リネンと同じ声を噛み締めて、こほんと一つ咳払いをした。
「好きな子の為に見栄も張れなかった程度の奴だよ、僕は」
『……何がいいたいの』
前後の文脈が噛み合わないのはキフェの専売特許だ。後で使用料を請求されることだろう。
最初に暴論を叩きつけたのはサァラの方なのだから、このくらいの不整合は許して欲しい。
「覚悟なんてこれっぽっちも出来ていないけど、リネンの決めたことに僕は関与する資格は無い」
受話器の向こうでサァラの相槌が安堵を示す。
オギは彼女が何かを言う前にもう一度口を開いた。
「でも、君が人形だろうが人だろうがリネンの妹だろうが、さして知らない子には違いないし、僕が指図される謂れもないよね」
沈黙。
『……そっか、変わるのが怖いんだ』
「最初にも言っただろう。つまり僕はそれほど臆病だということだ」
今日のオギは回りくどい。面倒くさい相手の前で面倒くさい人間になって何が悪い。
「そもそも最初から、僕のためというのが嘘だ」
リネンを装ってオギから鍵となる命令を引き摺りだそうとしたのだから。
どうせ演技は十八番だろう。
サァラの声が凍りつく。
『結論は』
「君は信用に値しないし何より僕を納得させられていない」
オギも大概世間知らずだと自分では思っているが、サァラはそれ以上に論理性が欠けていた。
迷いで身動きが取れないのなら、明らかなものに流されてしまえばいい。
「つまりね、それは唯の誘拐なんだよ」
ぶつりと音が途切れた。
あの時と同じだ。
勝手に周りが決めて勝手に動いていく。
そもそもからしてオギは受け入れるべきではなかったのだ。
諦めも納得も、必要なんてなかった。例えアルミラがそれを求めていたとしても、そんなことは知ったことかと切り捨てればよかった。
終わりが終わることを穏やかに迎えるのは終わりを生きるアルミラのみで、オギにはその資格などない。
後悔も不条理感も、先送りにし過ぎていたのだと、気付きながら目を背けていた。
だからオギは我儘を通したいと願うのだ。
比較してしまえば小さいものだけれど、確かにそれは誰かのおまけであり続けたオギの自己主張だった。
まったく馬鹿ばかりだ。正しい理論なんてどこにもない。
リネンにアルミラを重ねて八つ当たりをしている今でさえどこもかしこもおかしいのに。
唖然とした顔のキフェとどこか満足気な顔のサイモンに笑いかける。
「だから、手伝って欲しいんだ」
勝手に事態が移り変わっていくのが、どうしようもなく気にくわないから。
たとえサァラとリネンの望みが一致していたとしても。
"何と無く気に入らない"という理由だけで、オギはリネンを迎えに行く。
◇
「よしきた休戦と行こうじゃないか」
次に言葉を発したのはキフェでそれが合図になったように行動は開始された。
とりあえず、といつもの鞄を引っ掴んでサイモンの車に乗り込んだ後でキフェが問う。
「ところでオギ、作戦は?」
「気合」
「わあ。さいっこうに頭悪い上に似合わないね」
一念発起に溺れかけていて、そんな余裕はなかった。助けてお姉ちゃん、である。
「話にならんな」
サイモンが呆れた。
全くだ。我ながら頭の中が真っ白で呆れ返る。
「ぼくの弟を馬鹿にしたら本気で許さないからね。君の妹なんかに誑かされるような馬鹿だけど」
「貴様こそうちの妹に散々暴言吐きやがって。許したわけじゃあないんだぞ。というか現在進行形で言ったな」
「は? 言ってないし」
「妹”なんか”と言った」
「細かいよ黙ろうよ知るかよ」
二人が非生産的な問答をしている間になんとかオギは考えを纏める。
勢いで車内に乗り込んだが意味があったのかは不明である。
「あのさ、サァラの資金はどのくらいかな」
「多少家から持って行かれていたな」
サイモンがざっと金額を告げる。想像以上に大金で、オギは顔をしかめた。
「なんだ。想像ほど悪くないじゃん」
キフェは逆だったようだが。
オギが挙手する。
「二人の移動手段は列車だと思うんだ」
リネンとサァラの外見からしても怪しまれない、真っ当でありふれた手段だ。
「ああ、だがもうとっくに出発していてもおかしくない」
オギにリネンを最後に会わせる、というのはサァラの虚偽と考える方がしっくりくる。
となればオギに与えた『思考の猶予』なんてものはただの時間稼ぎで、電話は駅内のを使ったのだろう。
時間稼ぎの最中めいめいは何をしていたかというとサイモンは何も知らずサァラを装ったリネンを送り出していたし、キフェは普通に仕事をしていたし、オギは大体を把握しておきながらただ鬱々としていた。
どう考えてもオギが一番悪かった。
掠れた息のような笑いが漏れる。
「うん……その……ごめん」
「謝らなくていい。が、骨の髄まで反省しておけ」
「ほんとだよ。オギあれだからね。積もる話という名のお説教コースだよ」
その一点に関しては立ち直るべきではなかった気がしてくる。キフェは追い討ちをかけるようなことはしないでいてくれたようだが、彼女なりに不満は溜まっていたらしい。というよりいつも、キフェの不満の原因はオギとアルミラだったのだから。
「それよりどうするんだ。移動手段が分かっても今どこにいるのかが分からないとどうしようもないぞ」
もっともだ。
「なんとかしてよお金持ち」
「この車種と自分で運転しているという時点で察してくれ」
小金持ちだったらしい。
沈黙が重い。
突然がしがしとキフェが自分の頭を掻いて、声を上げる。
「あーくそぅ! やっぱりこれしか無いか」
根幹では無駄であるがせめてもの誤摩化しとして本来不必要なモノクルを装備して、キフェが取り出したのはリネンの写真だ。
大事な大事な手品の種だけれども、
「可愛い弟のためだもの。出血大サービスだよ。対象の声だけじゃなくて今回は環境音まで拾ってやるんだから」
そしてキフェは、道理に合わない魔法を補強するための呪文を唱え始めた。
ちり、とキフェの耳の中で不可視の火花が散って音が瞬間消え去った。
ピントの合わない雑音の中、確かに求めるリネンの声を。
リネンを起点とした領域の音を。
風切り音はいらない。
車輪の音もいらない。
知らない子供の声も男のいびきもいらない。
拾い上げるのはリネンに良く似た人形の声と、車内の放送だ。
「イスチア方面。次の駅はゼペート市庁前。向こうがどれだけ準備をしているのかは不明だけど、国外に出られたらぼくたちにはほぼ打つ手が無いよ」
系列は似通っているから言葉の壁はそうでもないけれど、昔の名残でオカルト職の出入国は厳しいのがこの国だ。
「便利だな、オカルトという物は」
サイモンは既にエンジンを掛けている。
「君、魔法は嫌いだろう」
「便利というのはただの事実だ」
嫌悪感を撤回するわけではないというように鼻を鳴らした。
オギは目を見開いたまま言葉を絞り出す。
「なにその魔法。こわい」
「ふふふおねーちゃんのとっておきさ」
原理ははぐらかして効能だけを端的に説明する。
「地の果てまで追跡してみせるよ、ガソリンが尽きない限り! 私は免許持ってないからサイモンが頼りだね。頼られてるよ色男!」
「さっきまで俺一人で取り返してこいとかどうとか言ってたのはどこのどいつだ」
「オギがやる気になったんだから水を差すなよ馬鹿。ん? 何? 一人でやる? いいよ?」
休戦宣言はどこへやら、キフェの喧嘩腰は解かれない。
「お兄さん、お願いします」
オギが言う。
サイモンは前を、向いたまま不機嫌そうに返した。
「君に義兄と呼ばれる筋合いは無い」
「お兄さん」
「だから……」
「名前、聞いてもいいですか」
そういえば十年間アルミラの口から出たことは無く、あったとしても記憶にない。
「あ、わたしも知らないや」
サイモンの背が固まる。
姉弟は沈黙が止むのを神妙に待った。
「ったく!お前ら姉弟はっ!」
キフェの口から楽しげに笑い声が漏れる。
サイモンはやけくそ気味に名乗りを上げて、オギは彼の名前を今までの分を取り返すように呼んだ。
うるさい、しつこい、悪乗りしだしたキフェにも向けた言葉はそれほど刺々しくはなくて。
それがどこか可笑しいけれど、この空間自体がおかしい物だと分かっていたけれど、ちっとも悪い気はしなかった。
◇
「ところでキフェ。さっきの魔法、僕に仕掛けてなかっただろうね」
「はぁ? ぼくがそんなにデリカシーないと思ってるわけ?」
酷く不本意そうに彼女は否定の言葉を吐く。
食い入るようにオギの目に焦点を合わせて。
オギはレンズの奥で目を僅かに細めた。
「気付いてないかもしれないけど、キフェの目がそんな風に僕を見るときは、大概胡散臭い」
「えっ」
笑いかける。
「十数年見続けた僕の姉だもの。信用してるさ」
「だよねぇ……」
キフェが安堵の息を吐いたが、オギの台詞には続きがあった。
「勿論、”仕掛けたことがある"という方に」
青ざめていく姉を眺める。
全部終わった後に待っているのはキフェの説教とオギの尋問だ。
状況は依然として不利なまま、関係性は大きなパーツを欠いたまま、それでも車輪は回っていく。




