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空白のリネン  作者: さちはら一紗
3章 the doll ≠ the girl
13/44

3−2 いずれ空白に至る少女

 十年前の雨の日は、異様までに鮮明に覚えている。

 アルミラに関する記憶は残りやすいのだがその中でも格別だ。

 勿論完全ではないので、所々抜け落ちた荒い大筋だけの記憶ではある。


 その日オギは外にいた。キフェは側にいなかった。

 オギは一人傘をさして、街をふらふらと歩いていた。理由があったのか無かったのか、それは大きな問題ではない。

 いつの間にか味気のない住宅街へと迷い込んでおり、色を洗い流してしまったような景色に幼いオギはほんの僅かに心細くなって、明るい色を、母か姉の傘を探していた。

 彩度の低い日だった。

 灰色の膜が覆いかぶさったかのようであり、うっすらと掠れた壁も緩やかに吹き込む冷え冷えとした空気も、纏わり付くように静かだった。

 だから赤い傘が目に焼き付いた。

 傘の下、淡い色のコートを揺らして少女は一礼。傘をくいと持ち上げれば、そこから覗くのは大人びた顔立ちのあどけない笑みだ。

 アルミラは出会い頭に要求を突きつけて、雨の中へと手を差し伸べる。

 オギの出した結論は早かった。


『いいよ』


 その手を取ることに迷いは無く。

 白く骨張ってはいるけれど、病的な雰囲気は感じさせないしっかりとした手の感触。

 こればかりは捏造だろう。アルミラの手の感触なんて、年々更新されていったのだから。

 記憶は勝手に抜け落ちていく。"あった"ということだけ覚えて忘れていく。

 そこから先はまるで魔法に掛けられたように、アルミラとの日々があった。



 ◇



 オギは自分で掛けた魔法を解かなければならなかった。

 呼びかけた声は高すぎず低すぎず、耳障りの良い声だから、だからこそ正しい言葉へと変換しなければならない。

 視界をぼやけたままにしておくことは許されず、焦点は合ってしまう。

 我に返ればそこにいるのは赤い傘を差したリネン以外の何者でもなく、人形は澄ました顔で、心配そうな素振りなんて微塵もせずに、オギに手を掴まれたまま固まっている。

 それでも、オギがそこにアルミラを見てしまった事実は変えられることはなく。


「大丈夫ですか」

「ごめん」


 今のオギに分かるのは、自分のことに関する善し悪しぐらいで。


「少しの間、離れててほしいんだ」


 リネンをアルミラと間違うことだけは、きっと悪なのだと逃げ出した。



 ◇



 それから暫く、オギはリネンを避けた。

 リネンの活動可能な時間は限られているため、少し生活リズムをずらすだけで接触は激減した。

 元々、リネンは能動的にオギと関わろうとはしないのだ。

 少し早めに家を出て、少し遅めに家に帰る。それだけで事足りた。丁度忙しくなってきたこともあって、どちらかというと目的はそちらに寄っていた。

 二、三日距離を置いたら戻っているだろうと予想をつけたものの気が付けば一週間を過ぎており、もう習慣として大分定着してしまっていた。切り替えるタイミングを逃した上にどこか気まずい気分は抜けず、ずるずると逃げ続けることになる。

 アルミラのことに対して、先延ばしにすることは得意だ。何せ十年分の経験がある。そんなものは得意である必要なんてなかったのに。

 おそらくオギは感情も何もかも先延ばしにしてきており、それは今も尚変わらないのだと思う。


 そんな時だった。

 もう二度と、関わることはないだろうと思ってきた人間がオギを訪ねてきた。


「あの人形を返してくれないか」


 きっかりと店が開く時間通りに訪れた人影はアルミラの兄だった。

 微かにアルミラと血の繋がりを思わせる、鋭い相貌をこちらに向け、相変わらず几帳面そうな、どこか忙しない雰囲気を身に纏っていた。

 少し待っていて欲しいという旨を伝え、奥へと呼びかける。


「マト……?」

「はぁーい」

「少しの間、えっと十五分ぐらい変わってくれませんか」


 マトがすぐに顔を見せる。ベネットはしばらく出張だ。


「いいわよ。けど、その人誰?」

「……知り合いです」


 それ以上でもそれ以下でもなかった。



 店の外で彼に要件を問う。


「お客様、ではないんですよね」

「ああ」


 上着は羽織っていないため、冷気の主張は強い。例えそうでなくても、オギは早く中へ帰りたかった。


「リネン……あの自動人形(オートマタ)は僕に譲ってくれたのではなかったんですか?」


 睨むことがないように目を見開いたままで固定する。

 アルミラと同色の瞳は最後にあった時と同じで温かみがない。

 鮮やかな髪色と健康的な顔色に加え体格も良く、彼女とはそれほど似てはいなかった。


「語弊があったな。数日だけだ。借り受ける、とでも言うのが正しいか」


 彼は、オギが承諾することが前提であるかのように話す。


「理由によります」


 事実そう考えていたのだろう、一瞬だけ不可解そうな表情へと変わった後、気付きを得たような顔になった。


「言うまでもないと思っていた」

「すみません」

「いや、謝るな。どうせ思ってはいないだろう?」


 皮肉っぽい言い方だけはアルミラに似ていた。

 違いはきっと、アルミラには好意の裏返しじみた他意があり、彼にはオギにさして興味そのものがないことだろう。

 オギは頬を引きつらせたものの図星だった。建前と仮面が足りていなかった。

 しかしアルミラの兄はオギにそれ以上は構うことなく、硬い表情を僅かに緩め、用件を答える。


「妹のことだ」



 ◇


 貞淑さとは程遠く、幼いキフェの細い足はづかづかと距離を詰める。


「アルミラ、君、ぼくの弟に何をした」

「同意は得た」


 悪びれも無く当然とでも言うように。それは許されざることで、気がつけばキフェはアルミラの胸ぐらを掴んでいた。


「違う! 違うだろ? この……」


 ──魔女め。

 アルミラは不可思議そうに眉をひそめ、囁いた。


「それはお前とて同じこと」

「……っ」


 力の緩んだキフェの腕を、アルミラは掴んでそっと外す。

 重めの色調の玄関口にて、髪も服装も肌も何もかも薄い少女の言葉は堅固だった。


「十年。十年だけだ。約束する」

「……だからオギを寄越せって言うのか」


 断られることなど考えてもいないような顔で頷くアルミラに、キフェは手を上げた。

 ぱちん。弾けた音に階段を駆け下りていた筈のオギは脚を止め、見逃した一部始終を想像することもできず、半泣きで逃げ出すキフェを見た。

 頬を抑えるアルミラへと目を向ける。


「喧嘩?」

「乙女心は複雑だな」

「はやく仲直りした方がいいんじゃないのかな」

「私は怒ってないぞ?  でも先に叩いたのはキフェだから。私から謝るわけにはいかない。あと、私は悪くないし」

「僕は見てないからわからないけどさ」


 赤い頬のまま、何故か誇らしげに胸を張るアルミラ。年上のくせに時々妙に子供っぽいのだ。オギは流し目で非難を送る。


「で、なんで喧嘩したの」

「さあ?」


 本当にわからない、とでも言うように首を傾げる。

 キフェとアルミラは、オギより二歳年上で二人は同い年だ。その上同じ女の子だ。性格も少し似ている気がする。

 もう少し仲が良くてもいいのに。最初は、オギだって二人が仲良くなるだろうと思っていたのだ。


「喧嘩してばっかりだからわからないというより……なんか一方的に嫌われてるな!」


 蓋を開けてみれば、犬も猿も狼狽えるほどに険悪だったのだが。


 近所でさほど劇的でもなんでもない出会い方をしたこの少女は親の都合でこちらに越してきたという。それなりにお金持ちなようでちらりと見た彼女の家は大きかった。本当の家は二つ隣の街にあるそうだが、そちらはもっと大きいのだろう。

 お嬢さまだ、とオギは思う。

 いつも一人で出歩く上に言動もどこか粗野だ。色白で華奢な外見と反している。所謂"らしさ"はない。


 それでも彼女は魔法使いなんかとは違って普通の人で、普通の女の子よりとびっきり素敵で、ちょっぴり特別なのだとその時オギは思っていた。


 アルミラと同じ学校同じ空間で勉強するようになったキフェのいらだちは半端ではない。あまり近寄りたいとは思わない。


 発想も発言も突拍子なくて、頭はいいくせに先生に目をつけられているのだ。廊下で空のバケツ(アルミラは華奢過ぎて重いものは持てない)を提げながら悠然と立つ様子は、反省する者の姿勢ではない。ぶっちゃけ先生の胃がかわいそうなのでやめて欲しい。

 人伝に聞く限りでは、キフェも盛大に巻き込まれては割を食らっているらしかった。容易に目に浮かぶ。


 キフェもアルミラも、主張が強過ぎるせいか友人が少なかった。アルミラに限っていえば引っ越してきたばかりなのと、どこか近寄りがたい雰囲気のせいもある。

 率直に言えば、二人ともお世辞にも性格が良い方ではなかったのだ。

 ふと疑問に思って、七歳のオギは扉を開けてアルミラに問う。


「あのさ、なんで十年だったの」

「そのぐらいで私が死ぬから」


 明日の天気は晴れだといいな、そのくらいの軽い調子で言う。


「そうなんだ?」

「うん、そうなんだ」


 何故だかすとんと腑に落ちた。

 驚愕も衝撃もなく、かといって疑う気持ちも悲しむ気持ちもない。

 まだ知り合ってから然程時間が経っているわけでもないし、幼いオギは彼女に対して無知だ。

 それでもアルミラがそう言うのならそうなのだろう、という納得感だけがあった。

 理解できないことが受け入れることに繋がっていたのだろう。三千を優に超した日数はまだ余りにも莫大だったから。




「二日遅れたけど、誕生日おめでとう」

「あれ、覚えていてくれたんだアル」

「当たり前だろう。 友人なんだぞ」


 オギが十二歳なのだからアルミラは十四歳だ。だが、あまり背丈は変わらない上に彼女の高い靴底を差し引けばオギの方が高いだろう。

 最初の頃、オギはアルミラのことを"ミラ"と呼ぼうとしたのだが、かなり嫌がられた。可愛らしすぎて背筋が寒くなるとかなんとか言っていたけれど、どうやら家族がそう呼んでいるようだから反抗心か何かなのかもしれない。

 オギは自転車を引き出しながら聞いた。


「それで、引っ越しの用意は終わったの?」

「終わってない。抜け出してきたんだ」


 にんまりとアルミラが笑う。


「駄目じゃん」

「煩い。私の時間は貴重なんだぞ」

「はいはい。こんなところで潰していいんですかアルミラさん」

「いい。友人と過ごす時間は、見合うどころかお釣りだってくる」


 楽しそうに声を高鳴らせて言うものだから、オギもつられて笑った。


「嬉しいか?」

「うん」


 アルミラはふわりと広がる夏用の白いワンピースの裾を抑えて、自転車の荷台に乗る。

 引きこもって本ばかり読んでいるからか彼女は白過ぎるぐらいに白いが、病弱とは程遠い。

 ただ運動能力は壊滅的だ。


「今日はどこに行く?」

「橋の向こう! 行ったことないんだ」

「たいしたものは……あったかな」

「いい。見ないまま引っ越すのはいやだ」

「本当の家に戻るだけじゃないか。たかが隣の隣の町だし。頑張ったら自転車でも行ける、かな? どうだろう」


 何時間掛かるだろうか。

 列車の方が速いのはわかるが、お金がない。忙しい両親に我儘を言うのは気が引けた。

 オギ考え込んでいると、アルミラが細い声でぽつりと言った。


「オギと毎日会えなくなるのは、いやだ」

「僕以外の友達でも作ればいいじゃないか」


 軽く頭を叩かれた。ずれた眼鏡を直す。


「や、だ」

「うん。遊びに行くからさ、ね?」

「よし」


 アルミラがオギの腰に腕を回す。

 ハンドルを握って、地面を蹴った。

 からからからと小気味よく回る音だけが聞こえた。


「学校、卒業したらさ。こっちに来るからな。一人で住む」

「家族は許してくれるの?」

「許可はもぎ取る。取れなかったら何の意味もない」

「そっか」


 世界の中心は私だ、とでも言いたげにいつもは振る舞うアルミラが今日はどうにも弱々しかった。


「オギ、お前は一生私の友人でいてくれるな」

「もちろん」


 問いかけの形をとったその言葉は了承以外の返事を求めてはいない。

 彼女が片手でそっと帽子を押さえる。


「あと五年」

「うん」


 千八百の月日は少し真実味を帯びてきた。


「それから……オギは眼鏡が似合わないな」

「余計なお世話だよ」


 空は白群。

 自転車は流れるように下りていく。

 緩やかな下り坂はからからと終わりに近づいていた。



 そして残りの月日は負の数に突入してから長い。

 アルミラが何を考えているのかなんて、オギは最後まで知ることは出来なかった。

 彼女はことあるごとにオギのことを『唯一にして最高の友人』だと形容した。

 オギの初恋はアルミラだ。何の脈絡も無い一目惚れ。

 しかし彼女に恋し続けることは許されず。三千を優に超した月日は、全てを見透かしたように無邪気に笑う、"少女"の精神で固定されたアルミラ=コスタを解読するに至らない。


「今更なのは分かっている。妹が遺したものは全て見た。何かが遺っているとしたら、あの人形以外に当てが無い。私は妹を、ミラを理解したいんだ」


 だからこそ。

 何もかも手遅れなくせに真っ直ぐにそう述べる、彼女の兄の言葉を、オギが断れるものか。



 ◇



 彼は妹を理解したかった。理解無しに納得出来る人間ではなかった。だから、オカルト嫌いだというのにオカルトを理解していた。納得と好意を持つことは同義ではなかったが。

 しかし、どれほど歩み寄ろうとしても妹は兄の手を離れて、理解されようとはしなかった。


 アルミラは理解なんて求めていなかった。むしろそれを拒絶すらしていた。

 アルミラは、理解無しの盲目的な納得さえあれば良かったのだ。

 だから彼女は、誰も理解しようとはしない。


 兄であるサイモン=コスタの手の届かないまま妹は消失し、彼女の解読を一度は放棄した。

 だというのに今、まだサイモンはアルミラの遺言と片鱗を探している。

 アルミラの部屋を未だに彼女の部屋としたまま、家具だけの残るがらんどうを維持し続ける。

 女々しくてしみったれていて、半端に未練がましい兄だろう。自嘲の言葉に情けないとも思えない。


「これでいいんだな」

「うん」


 彼の自室で一人帰りを待っていた少女が、そこにいた。


「あなたは妹の遺志を探す、私はそれのお手伝いをする」

「君にメリットがあるとは思えないな」

「私を庇護してくれたでしょ。それで十分。出来ることならこれからもお願い」

「まあそれぐらいは俺にも出来るが……しかし」

「いいの」


 少女は人差し指でサイモンを遮った。

 袖の少し長い、赤のタートルネック。黒のサロペットスカート。流行りの配色とデザインで、年相応に髪を後ろで纏めている。

 そこらへんにいそうな少女だけれど、とびきりに作りのいい顔をしていた。


「あなたなら分かるでしょ?」


 牛乳入の紅茶色のポニーテールを揺らして、深緑の瞳が青年を覗き込む。


「もう一度姉に会いたいって気持ち」

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