3−1 雨と心臓
「アルミラ、ぼくは君が嫌いだ」
小さなキフェはまず初めにそう述べた。
教えていない筈の名前を呼ばれたことには表情を変えず、
「だろうな」
と小さなアルミラは淡々と返す。亜麻糸のように細く薄い色をした髪を、耳に掛けた。日に焼けていない頬が露わになる。
「で、キフェはそれだけを言うためにここまで来たのか?」
「そうだよ」
臆面もなく、相手を尊重する気もなくキフェは同意を示した。
アルミラが口角を上げる。微かに覗く歯が、小馬鹿にするような白さをしていた。
元は整った顔立ちには分類されるのだろうが、笑い方に可愛げのない娘だった。
「私は好きだぞ、キフェのこと」
──何故ならオギの姉だから。
そう付け足された言葉にキフェは一瞬凍りつく。戸惑って憤慨して、そのまま癇癪を起こした。
揺らぐ自論と定まらない思考を支離滅裂に投げ付けて、そのうち自分でも何を言っているのかわからなくなり、幼いキフェはぼろぼろと涙を零し始める。苛立ちだったのか悔しさだったのかは不明だが、確実にその原因だったのはアルミラだ。
黙って聞いていた"原因"は少し頭をもたげて、ぽつりと言った。
「世の中が平等だなんて言うつもりはないが、隣人との差異は少なくあるべきだと思うんだ」
同い年の少女は自らの正当性を主張して、ただの我儘を迷いなく通そうとするから。
甘ったるい傲慢に、幼いキフェは絶句する。閉じた口の中で恨めしげに『さっさと死んじゃえ』と転がした。
◇
キフェは写真を見ていた。オギとリネンが出発する前に撮ったものだ。
時刻は夕方、二人は赤屋根の街を出て列車に揺られている頃だ。揺られている頃だと知っている。
本日の営業は早めに終了し、仕事場の隅でそっと写真を眺めていた。
少し嘘くさい笑顔のオギと、キフェが仕込んだ通りに笑うリネン。
キフェは二人の声を幻聴する。ぽつりぽつりと、味気ない会話未満。無理も無かった。
それは彼女にだけ聞こえていた。
オギも知らない、キフェの魔法だ。
何故そんな事が起こるのかは分からない。姿形を留めるための写真を通して伝えられるのは今現在の音声だなんて、馬鹿げている。理屈に合っていない。だいたいモノクルすらも掛けていない。
それが回路不全症者、俗にいう"魔女"の生まれながらにして使える魔法の、法則にならない法則だった。
「あいつも、リネンを自分の代わりにするつもりなのかな……」
小さく溜め息を吐いて、窓際の鉢植えを眺める。
枯れかけたカプシクムはまだ粘る。
タグにおまけのように書かれた花言葉は"旧友"であることに初めて気付き、顔をしかめてタグを引きちぎった。
そのまま写真と一緒に、マッチで火に焼べて。母親の置いていった灰皿の上で炭に変わっていくのを見守り、キフェは立ち上がる。
「さて、夕食を作り過ぎるとしようか」
何故ならキフェは、オギの姉なのだから。
◇
魔女、という言葉があった。
道理を揺らがせる魔法の中でも、一際理屈とは仲の悪い魔法があった。
昔々に栄えた筈の魔法文明が未だに残し続ける引っ掻き傷であり、それなりに些細な問題へと転じ始めている病であり、幾重にも手遅れを重ねてきた福音であり。
あるときは魔法とは関連の無い病に伏した童話作家の娘を、あるときは弟を慈しむ姉を、あるときは誰かの初恋であった誰かの友人を指す言葉だった。
◇
冬の空は灰色が多い。雪もちらほらと降るが、盛大に積もりはしない。
二月三月、何事もなく過ぎ去って冬も盛りに入って来た。
リネン用に新しい傘をキフェが買ってきた。目立つようにかなんなのか、色は林檎のように瑞々しい赤だった。どうやら流行色であったようで、今年の冬は冴えるような赤が多かった。
目が回る。
休日は生憎の雨で、オギは自室の窓辺から道を流れていく傘を見下ろしていた。
ゆっくりと本を開く。序盤のほうに挟んだしおりを抜き取った。
それなりに薄いはずの最終巻。集中力さえあればオギは速読らしいと気付いたのだが、どうにもこれは進まない。
面白くはある。だけど疲れてしまう。
きっかりと一章分を読み終えてしおりを挟めば、雨はいつの間にか止んでいた。
たしかアルミラは物語の類いはあまり読んでいなかったな、と思い出す。読書家ではあったのだが大抵がオカルトに関する物だ。一カ国語しか分からないから読める本は限られていたが、それでも消費速度は恐ろしかった。
生き急ぐように、取り憑かれたように。それでも何処か幸せそうだったから好きなことをやっていたのだと思う。
ノックが聞こえた。
「何?」
「オギ、お願いがあるのですが」
鞄を抱えて、リネンが扉から顔を覗かせた。
「自転車を出してもらえないでしょうか」
「いいけど、どこ行くの?」
「魔法書店へ。注文していた本を取りに行って欲しいと姉様に頼まれました」
姉もなかなか忙しいのだ。
「わかった。というか自転車の後ろ、怖くないよね」
リネンが頷いた。二、三度乗ったことがある。
「悪い気分ではありませんでした」
『まぁ、悪い気分ではないな』
オギが硬直した。
声が重なる。そんな筈は無いのに、リネンが悪戯っぽく笑った気がした。
「それに速いことはいいこと……オギ?」
オギはリネンと目を合わせること無く、鞄を引っ手繰り言った。
「やっぱりいいよ、僕一人で行ってくるから」
「ありがとうございます……」
ほんの僅かに疑問符を含んだようなリネンの言葉を聞き流し、駆け出した。
『また、乗せてくれ』
鍵を強く、握りしめた。
何かを間違えただろうか、と考えるリネンを置いて。
◇
「マト。久しぶり」
キフェが傘を閉じながら、店の中に入ってくる。
「あら珍しい。キフェがこっちに来るなんて」
「まーね」
オギもリネンもいないところで、マトと話をしたかった。
「ベネットは?」
「いつも通り、奥」
「オギにはぼくがここに来たこと、内緒だよ」
「相変わらず秘密主義なんだから」
「プライベート、プライベート」
へらへらとキフェが笑う。
実際たいした話ではないし、聞かれても問題は無い。
なんとなく、その方が落ち着くだけだ。秘密という言葉の魔性に惚れ込んでいた。
「で、進み具合はどう?」
「微妙」
同い年なのもあり、マトはキフェのもっとも仲のいい友人の一人だ。そもそも友人自体少ないのだが。
「しかしマトがやってもそうなのかー。これじゃぼくが分からなくっても仕方ないよね」
「自動人形の存在を隠す理由があるとしたら……」
キフェがにやりとした。
「陰謀論?」
マトが首をすくめた。
「多分それは違うわ」
「なんだつまんないの」
そんな大層なものならば、オギやコルチに行き渡っていることからしておかしいのだ。
「真相は物語ほど派手じゃないと思うわよ」
「いいよ、それで」
嘘みたいな現実だってあるのだから、幻滅するのはまだ早い。
カウンターに乗り出した。
「ね、あれ持ってきて」
「……というか仕事中なんだけど?」
「もう殆ど片付いてるくせに」
「キフェと話してると時間が際限なく過ぎていくの。いやよ、ベネットなんかに怒られるとか」
「あはは、実はぼくのほうが暇じゃなくてさあ」
「……なんで来てるのよ。帰れ」
「やだあと三十分!」
ふぅ、と息を吐いた。マトは保護者ではないのでキフェのスケジュールには関与しない。
待っているようキフェに言い、奥へと入っていった。
「はいこれ」
装飾の付いた綺麗な箱を差し出す。宝石箱のようだが事実それそのものだ。空いていた丁度いい箱がそのぐらいしか無く、中地が柔らかいのも都合が良かった。安物だが鍵付きである。
「自動人形の心臓、ねえ」
ソフィーネから譲り受けた物はここで預かってもらっていた。
オギはそのことをキフェには話していない。ということをマトは知らないので、オギから聞いたのだと思っている。
リネンの胸部の中央、あの硬い部位にはこれと同じものが仕舞われているのだろう。
心臓というもののただの立方体に見える。片手に乗るほどの小さな黒い箱。光に当てれば薄らと文様と継ぎ目が見える。単体ではなく、幾つかのパーツを組み合わせて作られているらしい。オギに解体出来ず、ベネットもまだ手をつけていない。
「ブラックボックス……?」
「ジョークかしら。制作者もなかなか茶目っ気があるわね」
「いや、ただの回路の固定材の色じゃないの」
もしくは塗りつぶして隠したかったのか。
キフェが大げさに溜め息を吐いた。
「やぁだなあもう。時代の先取り感っていうか、これ作った人、絶対生まれてくる時代を間違えたよ」
ずっと未来か、もしくはずっと過去。おそらく現代では受け入れ難い代物だろう。
それが、闇に葬り去られた理由か。
「だから公になってないのかも、ね」
「凄過ぎて何がどうなってんのか分かんなさそー」
リネンを分解するわけにもいかない。
「いっそもう一体手に入れるか」
「今度の休み、行く?」
「はえ?」
マトがにっと笑った。前髪の奥で両目が得意げに揺れる。
「微妙とは言ったけど、進んでないとは言ってないでしょ」
「さっすがマトだよ」
口笛でも吹きたい気分だ。持つべきは友人である。
上機嫌なキフェに、マトはふと疑問を投げつけた。
「でも、そんなにキフェがこれに拘る理由って何なの?」
今までキフェがこれほど何かに拘るといったことは無かった、というわけではない。しかし一度だけだ。
キフェは受付のベルを鳴らさないようにそっと指でなぞる。
「未知と神秘は魔法使いの主食だもの」
猫のように微笑んだ。
「半分だけじゃない、それ。どうせオギでしょ。あたしに掛かればお見通し」
「む」
「相変わらず過保護なんだから」
そうだろうか。キフェは首を傾げた。
「だってぼくは、オギの姉だしさ」
どうせ最終的に物事を決めてしまうのはオギなのだから。過程に関与しようとするぐらいは正当だろう。
◇
オギは自転車をがむしゃらに漕いだ。
灰色の道はどこもかしこも冷え冷えとしていて、風が容赦なく耳を痛めつけた。
それでもアルミラの声はオギを浸食し続ける。
鮮明さはない。こうであっただろう、という希望観測に基づく朧げな台詞。だけどいかにも彼女らしい。自分の再現度が嫌になる。
「うわっ!?」
雨上がりの道が前輪を予想外に滑らせた。
盛大な音を立ててオギはサドルからずり落ちる。
視線は集まるものの、オギがすぐに立ち上がったことで離れていった。
「馬鹿か僕は」
右手で膝を払い、呟いた。
どうにもいけない。ここ数ヶ月、特に問題はなかった。
だから疲れているに違いない。実際寝不足気味である。特に忙しいというわけではないのだが、やるべきことを後回しにしているうちに日付が変わってしまっている。
転んだのが帰り道でなくて良かった。傷一つ無いのも運がいい。
残念ながら水たまりに突っ込んでしまった左手を見ながら少し迷い、結局ズボンで拭いた。
あんなことを思い出してしまう原因はもしかすると、ソフィーネの影響が今になって出ているのか。或いは、アルミラと初めて出会ったのが冬の雨の日だったからだろうか。
どちらでもいい。一に睡眠、二に睡眠だ。体内時計の出来が無駄にいい所為で、朝寝坊も昼寝も苦手である。本当に疲れているときはその限りでないが。
書店で注文していた本を受け取って、折角だからと色々な本を眺めていたのが悪かったらしい。何か特定のものを探していたわけでも読んでいたわけでもないのに、気がついたら時計の針が半周していた。
そろそろ帰る頃合いか、と考えて外に出る。
止んだ筈の雨が降っていた。
半ば逃げ出すように出てきた所為で傘なんて持っている筈が無く。
にわか雨とは言い難く、すぐに止む気配も無い。しとしととしつこく降り続けそうな雨だ。
傘を買うか。
普段からそこまでバランス感覚に優れているとは言えず、今日一回転んでいる。傘をさしながら漕ぐのは賢明とは言えない。引いていこうと決めた。
鞄の中に手を突っ込む。手応えが無い。ぼんやりとしていたおかげで曖昧だが、中に入っていたのは注文書だけだった気がしていた。
財布が無かった。
途方に暮れる。
本が濡れればキフェは嘆きそうだ。分厚さからしても、高かっただろう。
「すみません、電話、貸してもらえませんか」
流石に「電話なんて無い」という素っ頓狂な答えは返ってこなかった。
電話に出たのはキフェだった。「えーしょうがないなー」だとか、気の抜けた受け答えをしながらも手短に用件は伝える。
家から歩けば三十分は掛かるだろう。
本を入れた鞄を背負い直し、入り口付近へと向かう。
長々と立ち読みをするのは気が引けた。今日はあまり文章が頭に入らない、というのもある。
魔法書店とはいえそれだけ取り扱っているようではお金にならない。置かれているのは奥のひっそりとした棚と、残りは他から取り寄せている。
入り口付近は普通の本の新しいものが、目立つように置かれていた。
オギもそれほど読書家というわけではない。専門書の類いは職業柄それなりに読むのだが。
だから、並べられている本の中で知っているのは一冊だけだった。
何となく息を吐いて、外に出た。屋根の下で空を見上げる。
特に珍しくも何ともない灰色。
雷の気配はない。
雨音と、水の纏わり付いた足音が聞こえる。
オギは雨の日が嫌いではなかった。
重量感のある静けさが好きだった。
『初めまして、オギ=ミアノ』
何かが弾けたように、オギの顔が前を向いた。
赤い傘の下に隠れた淡い色の髪。あどけない声と大人びた口調。差し出した手は熱い。
幼いアルミラ=コスタの幻影はオギの頭の中で囁き続ける。
オギの記憶力はそこまで上等ではない。ならば十年前の台詞など覚えている筈が無い。
だからこれは脳内補完と事実の推測、オギの中のアルミラという複製品であるべきなのに。
『私はお前の十年が欲しい』
頭の中で響くこの声は正しく過去のアルミラなのだと、そう思えた。
ただ一つ問題があるとすれば。
幻影は半分本物で。
差し出された手にはオギの傘があり。
その手は適切なほどに柔らかく、そして冷たかった。




