Snow white
白銀の中に、一歩足を踏み入れた。途端に俺の右脚は膝下まで埋もれてしまう。それに構わず左足も踏み込んだ。どれだけ積もっているのだろうか。踏みつけたことで積み重なった結晶が擦れて音を立てる。一昨日から降り続いた雪は周りの世界を全て、白に染め上げてしまった。唯一見える色は、雲の退いた青空だけ。
俺は、この白が嫌いだ。他の色を否定して、冷たさだけを残すこの色が。だから俺は、冬が嫌いだ。
両足に纏わりつく雪を鬱陶しく思いながら、静まり返った森を進む。こんな日に『森の様子を見てこい』だなんて指示してきた親父を恨んだ。俺が雪を嫌いなことを知っているくせに、と悪態を吐いたって届くはずもない。この時期、猟は休みだ。その代りに猟師は森の様子を毎日見に行かなければならない。自分で行けば良いものを、何故俺に行かせたんだか。
吐き出した息は白く消えた。一通り見て回ったが、特に変わった様子はない。木々も、動物も、いつも通り。体も冷えてきたことだし、そろそろ帰ろう。首に巻いたマフラーに顔を埋めた。手袋をはめた手も既に悴んで感覚がない。さっさと帰って温まろうと踵を返し歩き出す。真っ白な森の中に、俺の足跡だけが残っていた。ちょっとでも道を逸れれば迷ってしまいそうだ。滑らないように注意しつつ帰路を急ぐ。
もうすぐ森の出口に辿り着くというところで、遠くに人影を見付けた。なにやら森に入ろうか迷っているらしい。密猟者か、ただ白に染まった森を見に来たのか。どちらにせよ、これは止めなければならない。面倒だとは思いつつ、なにかあった時の為に腰の短刀に手を掛け近付いて行く。その姿がはっきりと見え始めた頃、漸く相手も俺に気付いたようだった。俺の足音を聞いて驚いたように此方を振り向く。
それは、真っ白な少女だった。
肌も、肩にかかる髪も、ワンピースも、ブーツも、全部真っ白。雪に融け込むかのようなその姿に、息を飲む。触れればすぐに壊れてしまいそうなほど華奢で、儚い。この寒い中外に出るのにワンピース一枚とは、薄着過ぎやしないだろうか。マフラーも手袋も、上着すらも着ていない少女は、薄く蒼みがかったその目を大きく見開き俺を見た。
「だ、だれ?」
なにかに怯えるかのような反応に疑問が浮かぶ。何故こんな場所に居るのだろうか。訊きたいのは俺の方だ。
「誰って……俺はこの森の見回りをしてただけ。あんたこそ誰だ? こんな日にそんな恰好で外に出るなんて、死にたいのかよ」
不信感を隠すことなく彼女を見れば、そんな俺が怖かったらしく涙目になる少女。きつく言い過ぎてしまったか。後悔しても今更で、挙動不審になる少女から思わず目を逸らした。
「ご、ごめんなさい! あの、わたし、外に出てみたくて、それで……」
その言葉に俺は再び彼女を見た。外に出てみたいって、彼女は一体なにを言っているんだ? 外に出たいのならちゃんと暖かい恰好をして、ちょっと家の周りにでも出れば良いだけなのに。何故わざわざこんな森の中にやって来たのか、疑問は増えるばかりだ。
眉を顰めて見ていれば、彼女は更に慌てて言葉を探している。その華奢な肩が小さく震えているのことにに、俺は気付いた。よく見れば唇も紫に変色してしまっている。雪の中をこんな薄着でうろついていれば寒いのも当然。彼女の自業自得なのは解っていた。だが寒さに震える彼女を放っておけなくて、俺が着ていた上着をその肩に掛けてやる。身長が俺の胸辺りまでしかない小さな彼女に俺の上着は大きく不恰好だが、何もしないよりはいいだろう。
「えっと、あの」
「話は後。家まで送ってやるから、取り敢えずそれ着とけ」
戸惑う彼女に照れ臭くなって、ついでにマフラーと手袋も押し付けた。直接外気に触れた肌が寒さで痛い。折角貸してやったのにいつまでもそれを着けようとしない彼女に痺れを切らし、少々強引に着けてやる。これでさっきよりはずっと暖かくなったはずだ。初対面だとは言え、寒さに震える少女を放っておけるほど俺は鬼じゃない。
「あの、これ!」
「いいから着てろって。さっさと行くぞ」
きっと赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、なるべく目を合わせないように歩き出した。寒くないと言えば嘘になるが、彼女が寒さに震えるのを見ているよりはずっといい。そういえば彼女が何故こんなところにいるのか理由を聞きそびれている。
歩きながら話を聞こうと振り返れば、いきなり彼女は小さな悲鳴を上げて雪の中へ倒れ込んだ。雪に足をとられて転んだらしい。俺に転んだところを見られたのが恥ずかしかったのか、彼女は雪の中に座り込んだまま頬を染める。白い彼女は白い景色に融け込んで、一緒に消えてしまうんじゃないかと思った。そんなことありえない。慌てて首を振って思考を断つ。未だ座り込んだままの彼女に呆れると同時に、なんだか温かいものが俺の中に広がった。彼女とはさっき逢ったばかり。それでもやっぱり彼女を放っておけなくて、その手を引いて立たせてやる。手袋越しに触れた手は小さかった。
「ご、ごめんなさい!」
「別に」
つい素気ない態度をとってしまった自分に嫌気が刺す。もっと他に言い方があっただろうに。その手を離して離して再び歩き出せば、また彼女の悲鳴が聞こえた。その声に慌てて後ろを振り返る。今度はどうやら足を滑らせて尻餅をついたらしい。こんな短距離で二度も転ぶなんて、よっぽど雪道を歩くのに慣れていないみたいだ。この辺りで雪が降るのは珍しいことじゃないのに。
彼女の傍に近寄って、脇腹に手を入れて持ち上げてやる。簡単に抱き上げられた彼女は驚くほど軽くて、ちょっとでも力を入れたら折れてしまいそうなくらい細かった。
「す、すみません、すみません! ありがとうございます……」
真っ赤な顔で謝る彼女が可愛くて、思わず笑いそうになる。笑っては一生懸命歩こうとしていた彼女に悪い。だが小さな体で更に縮こまっている彼女を見て、つい堪え切れずに笑ってしまった。涙目になる彼女の服についた雪を手で払ってやる。
「いや、笑って悪かった。これでよくここまで来られたな?」
「え、あの、その!」
必死に言葉を探す彼女に笑いが止まらない。なんだか小動物のように思えてしまって、無意識にその頭を撫でた。更に赤く染まる彼女の顔。そんな彼女を見ていたら寒さなんて吹き飛んで、身体が熱い。
今度は転ばないようにと、一度は離した小さな手を握る。そのまま歩き出そうとすれば、彼女の驚いたような声が背中に聞こえた。一度振り向いて、繋いだ手に力を込める。
「これでもう転ばないだろ。ほら、行こうぜ」
自分からしておいて赤くなる頬を見られたくなくて、その手を引いてゆっくりと歩き出した。一歩後ろをついてくる彼女が転ばないように注意しながら歩く。終始物珍しそうに辺りを見回す彼女に時々雪の中から顔を出す草花や動物の名前を教えてやると、とても嬉しそうに笑ってくれた。どうやら彼女は知らないことが沢山あるようで、俺の話を喜んで聞いている。どこにでもあるような草花でも、興味深そうに眺めていた。その横顔はさっきの赤い顔とは一変、楽しそうに笑っている。途中、何度も転びそうになる彼女の手を引いて支えてやった。その度に白い肌を真っ赤に染めて慌てる彼女が酷く愛おしいと思ってしまう俺は、おかしいのだろうか。それとも放っておけないと思わせるくらい可愛い、彼女が悪いのだろうか。
森から遠ざかるにつれて立ち並ぶ家の数が増えてくる。彼女の家が何処なのかも聞きそびれていたことに気付いて、大人しくついて来ていた彼女を振り返った。
「なあ、お前の家ってどのあたりだ?」
「あ、えっと、この近くなので……」
俺の目を見て、彼女は困ったように笑う。なにかあるのだろうか。繋いでいた手を離して続きを待ってみても、彼女はそれ以上何も言おうとしなかった。
「じゃあ、そこまで送るから」
「いえ、ここで平気です! あの……」
彼女が突然、俺の服の袖を引く。俺と彼女には身長差があるから、当然彼女は上目使いになるわけで。彼女の潤んだ目を直視できず、俺は目を逸らした。
「な、なんだよ……」
「あ、えっと、服もお話も、色々ありがとうございました。ごめんなさい、貴方だって寒いはずなのに。それで、あの……図々しいのは解っています。でも、一つお願いがあって」
彼女は俺に向かって勢いよく頭を下げる。
「よかったらまた、お話を聞かせて頂けないでしょうか?」
その言葉に驚いていると、少し顔を上げた彼女の懇願するような瞳と目が合った。眉をハの字に下げたその顔に、俺が逆らえるはずもない。俺だって、彼女にまた逢いたいと思っているのだ。苦笑いを浮かべて彼女の目を見る。
「嗚呼。……俺で、良ければ」
そう頷いてやれば、顔を上げた彼女はとても嬉しそうに笑った。その笑顔に、胸が高鳴る。そんなことで彼女が笑ってくれるのなら、いくらでもやるよ。
その後、彼女は上着とマフラー、手袋を俺に返すと足早に去って行った。その小さな背を見えなくなるまで見送り、俺も自宅へ向けて歩き出す。次の約束をし忘れたと気付いたのは、彼女と別れてすぐのこと。思わず振り返ったものの、彼女の姿を追うことはない。また森に行けば逢えると、俺は何故か確信していた。
次に彼女と逢ったのは、あの日から丁度一週間後のことだ。あれだけ嫌いだった雪の中の見回りも、彼女と逢えるかもしれないと思うと全く嫌にならない。それどころか彼女に逢えることが楽しみで、俺は毎日森を訪れる。でも彼女は毎日森へやってくるわけではない。来たり来なかったり、その日は決まっていないようだった。時折森の入り口で待つ彼女に逢っては、手を繋いで一緒に森の中を歩く。歩きながら俺が色々な話をしてやると、彼女はそれを楽しそうに聞いているのだ。何度かそうして逢っているうちに、少しずつ彼女のことを知ることができた。
まず、彼女はアルビノらしい。だから肌も髪も雪のように真っ白で、でも目だけは薄い蒼。純粋な彼女に、その色はとても良く似合う。
そして、彼女は体が弱い。その所為であまり外に出たことがないのだそうだ。知らないことが多いのはきっと外に出ることが少ないから。俺が彼女に逢うことができるのは、彼女の体調が良く外に出ることを許された日だけだ。初めて彼女と逢ったあの日、初めて家を抜け出して自ら外に出たのだと話していた。だからあんな薄着で外を彷徨っていたところを俺に出逢ったのだと。全く、俺がみつけてやれなかったらどうするつもりだったんだか。家の人にも随分心配されていたらしい。今は反省して、ちゃんと外に出ることを告げてから来るようにしているそうだ。
そして、最後にもう一つ。本人に直接聞いたわけではないからその真偽は判らない。けれど俺は何度も彼女と逢ううちに、なんとなく気付いてしまった。
もしかしたら、彼女はもう長くないのかもしれない。
逢うたび、日に日に悪くなっていく体調。歩いていられる時間も段々短くなってきているのが分かる。最近は少し歩いては休憩、また少し歩いては休憩、と彼女のペースに合わせてゆっくりと進むようにしていた。
そして今日も、彼女のペースに合わせて森を歩く。彼女はあの日以来、ちゃんと上着を着てくるようになった。手袋越しに手を繋いで彼女が転ばないように気を付けながら、森の中を二人で彷徨う。行き先なんてものは決めてなくて、いつも彼女が行きたいと言う所へ連れて行った。
今日は森の奥へ行きたいと言う彼女を連れて、雪に埋もれた道を往く。もう森の入り口が見えなくなった頃、疲れて歩く速度の落ちた彼女と並んで一本の針葉樹の下に腰を下ろした。見える世界は、どこも白い。
「寒くないか?」
「はい。……綺麗ですね、真っ白」
「そう、だな。でも俺は、夏の方が好きだ」
この白が嫌いだとは、もう思わない。俺の中で白は彼女の色だ。綺麗で、純粋で、触れたらすぐに消えてしまいそうなほど儚い色。
「夏、ですか。雪が消えて、きっと今よりずっと沢山の草花がみられるんでしょうね」
「嗚呼。勿論、春も秋も全然違う景色になる」
「それはいいですね。私も見てみたいなあ……」
遠くを見つめながらそういった彼女は消えてしまいそうなくらい儚くて、怖くなった。俺は無意識に手を伸ばし、その体を腕の中に閉じ込める。向かい合った彼女の体が一瞬で強張ったのが分かった。でも、手を離したら彼女が消えてしまいそうな気がして。そのまま頭を撫でてやれば、彼女の腕が控えめに俺の背に回る。そんな彼女を、俺は強く抱き締めた。耳元に口を寄せる。
「なら、一緒に見よう。春も、夏も、秋も、全部の季節を一緒に見よう」
彼女の体が震えた。彼女が何を考えているのか、俺にもなんとなく解っている。彼女はきっと、無理かもしれないと考えているのだ。でもそんな事は考えたくなくて、俺はその細い体を抱く腕に更に力を込めた。彼女の肩口に顔を埋める。彼女はそれに応えるように体をすり寄せた。どうか、伝わってくれ。
「…………はい、一緒に見たいです。きっと楽しいですよね。貴方と一緒に、もっとたくさんの景色を見たい。だから、これからも連れてきてくださいますか?」
その言葉に、俺は力強く頷く。腕の中の彼女が微笑んだのが分かった。
難しいかもしれないなんてことは解っている。それでも希望を失いたくなくて、未来がある事を信じていたくて、彼女と約束をした。守れるかどうかなんて判らない、ただの口約束。それでも俺と彼女にとって、それはとても大切な約束。
彼女の体をそっと離すと、その薄青の瞳と至近距離で目が合う。見つめ合う、数秒。そしてそのまま、どちらからともなく唇を寄せた。それを見守っていたのは、白に覆われた森だけ。彼女の傍で、彼女を護りたい。彼女との約束を果たしたい。彼女に残された時間が、あと僅かだったとしても。
暫く無言でお互い照れていたのだが、腕の中の彼女が急に咳き込んだ。慌ててその体を抱き寄せ、背中を擦ってやる。どうやら長居しすぎてしまったようだ。落ち着いた彼女を見てそろそろ帰らなければと立ち上がる。続いて立ち上がろうとしたところを手で制し、彼女の前に背を向けて屈んだ。
「え、あの」
「乗って。無理してほしくないんだ」
そう彼女を促せば、少しの間を開けて小さな体が預けられる。首に回される細い腕。怖がらせないようにゆっくりと立ち上がり、森を出る為歩き出した。背中に触れる体温が愛おしく感じる。永遠とは言わない。せめて一分一秒でも長く、こんな時間が続いてほしいと願わずにはいられなかった。
やっと家々の立ち並ぶ集落についた頃には、彼女は俺の背で夢の中。安心しきっているらしく気持ちよさそうに眠っている。起こすのは可哀想だが、生憎俺は彼女の家を知らない。仕方なく自分の体を揺すって彼女を起こした。
「ん……」
「起こしてごめんな。お前の家ってどこ?」
「あの、あかいやねの、おうち……」
眠そうに目を擦る彼女はまだ半分夢の中で、たどたどしい言葉と共にひとつの家を指さす。だがその手からはすぐに力が抜け、彼女は再び眠りに落ちた。そのままずり落ちそうになる彼女を慌てて背負い直し、深呼吸をする。信頼されているんだかなんなんだか。
彼女の家を訪ねるのは初めてだ。どこの誰かも判らない俺なんかがいきなり彼女をおぶって行くのも如何なものか。でも背中の彼女は眠ったまま、起きる気配はない。だからと言って連れて帰るわけにもいかず、俺は意を決してその扉を叩いた。
「はい、今開けます」
中から聞こえたのは落ち着いた女性の声。彼女を背負ったまま素早く背筋を正す。その言葉通り、扉はすぐに開かれた。
「どなたかしら?」
「あ、えっと」
優しそうな女性だ。髪の色は違うが、その目の色や雰囲気がどことなく彼女に似ている。以前父親や兄弟は居ないと言っていたから、彼女の母親だろうか。なんと言っていいものかと思案していれば、女性は俺の背で眠る彼女に気が付いた。
「あらまあ、気持ちよさそうに眠っちゃって。貴方がそうなのね、お話はよく聞かせて貰っているわ。どうぞ、入って?」
「あ、すみません。ありがとうございます、失礼します」
大きく開かれた扉に軽く頭を下げて中へ入れてもらう。彼女を連れているとは言え、いきなり訪ねてきた俺を嫌な顔ひとつせず迎え入れてくれた。家の中に入る俺を見て、女性は優しく微笑む。初めて入った彼女の家はとても暖かかった。未だ目覚めない彼女をベッドに運ぶため、案内された部屋に向かう。彼女を下ろせば、背中に伝わる体温が消えた。静かに眠り続ける彼女に毛布を掛ける。
「ごめんなさいね、ありがとう」
「いえ、俺こそいきなり訪ねてきたりしてすみません。それに、何度も彼女を連れだしたりなんかしてて……」
「貴方は悪くないわ、謝らないで。そうだ、お茶でもどうかしら?」
彼女を寝かせ、その言葉に甘えることにした。温かい紅茶をいただき、向かいに座った女性をそっと見る。やはり、彼女に似ている。
「ふふ、あの子に似ているかしら?」
「え、あ、はい。すみません、じろじろ見たりして……。ええと、お母様、ですか?」
朗らかに笑う女性と彼女の笑顔が重なった。思わず尋ねると、優しく微笑んだ女性は頷く。
「ええ、私はあの子の母親です。最近ね、『外に出たい』って言うことが増えたのよ。その為に嫌いな薬も、治療も、頑張ってするようになって……。きっとあなたのお蔭ね、ありがとう」
「いや、俺は何もしてないですよ」
責められると思っていた。彼女を勝手に連れまわしているのは俺だ。だから、罵られることも覚悟していた。それなのに彼女の母親は『ありがとう』と笑う。その目を見つめると、彼女の母親は急に真剣な顔をした。
「こんな話、本当はしたくないんだけどね。少し、聞いてもらえるかしら? あの子と関わる以上、避けられないことだから」
「はい」
「貴方ももしかしたら気付いているかもしれないけれど。……お医者様から、あの子はもう長くないと言われているわ」
特に驚いたりはしない。おれもなんとなく感じていたから。思い過ごしであってほしいと思っていたが、その言葉でそれが確信に変わる。思わず目を伏せ手元を見た。
「でもね、貴方を責めるつもりはないの。だってあの子、帰ってくるととても楽しそうに貴方との話を聞かせてくれるのよ。最初は反対していたんだけどね。あの子があんまり楽しそうだから、あの子が幸せならそれで良いと思ったの。……あの子に外の世界を教えてくれて、あの子の世界を広げてくれて、ありがとう」
顔を上げれば、愛おしそうに微笑む彼女の母。この人は、彼女の母親なのだ。彼女が少しでも長く生きていてくれることを、きっと一番に願っている。勿論、そう思うのは俺も同じ。それでもこの人は彼女の幸せを願った。それが彼女の命を縮めることになるかもしれないことを、きっとこの人も解っている。
「……俺になにか出来ることがあるのなら、言ってください」
真っ直ぐその目を見れば一瞬驚いたような顔をして、それからまた笑ってくれた。
「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいわ。……そうね。そう遠くないうちに、あの子は私達をおいて逝ってしまうでしょう。だからその時まで、あの子がやりたいようにしてあげたいの。それには貴方の協力が必要です。きっと貴方も、たくさん辛い思いをすることになるわ。それでも、いいの?」
「勿論です。俺に出来ることなら、なんだってやります」
迷いはない。ずっと前から決めていたことだ。彼女が最期まで笑っていてくれる為なら、俺はなんだってする。
目の前で、彼女の母が姿勢を正した。俺もそれに倣って背筋を伸ばし、再び真っ直ぐにその目を見る。
「ありがとう。……あの子の母親として、貴方にお願いがあります。出来る限り、あの子の傍に居てあげてください。あの子の傍で一緒に笑って、支えてあげて。最期の時まで、どうかあの子の傍に」
その声は、震えていた。この人にとって彼女はたった一人の大切な娘だ。きっと自分が一番傍に居てあげたいんだろう。でも、その役目を俺に頼んだ。それだけ俺が彼女を良い方向に変えられた証。俺に希望を託してくれた証。どこの誰かも判らない俺なんかに、彼女の傍に居ることを許してくれた。ならば俺は、その期待に応えたい。
「はい。彼女が望むなら、俺に叶えられること全てやります。だから最期まで、あの子の傍に居させてください」
椅子から立ち上がって頭を下げる。そんな俺を、彼女の母親は泣きながら抱き締めてくれた。何度もありがとうと言ってくれた。俺は、あの子を最期まで傍で支えよう。彼女が少しでも長く、笑っていてくれるように。
その日から俺は、毎日彼女の許を訪れるようになった。彼女の体調に合わせてある時は家で、ある時は森で。時間が許す限り、俺は彼女の傍で過ごす。時には家に泊まらせてもらうこともあった。一日中一緒に過ごして、一緒に笑い合う。このまま良くなってくれるんじゃないかと、心のどこかで期待していた。けれど彼女の体は弱っていくばかり。
そしてついに、彼女はベッドの上から起き上がることすらできなくなった。
日々衰弱していく彼女に、見ていることしか出来ない俺。悔しくて悔しくて仕方ない。だからせめて彼女の前では、最期まで笑顔でいよう。これくらいしか俺にはできないけれど、彼女がそれで安心するのなら彼女の前でだけはずっと笑顔で。そう、心に決めた。俺が辛そうな顔を見せたら、きっと彼女も不安になる。
彼女がベッドから起き上がることすら出来なくなって一週間後の夜。窓の外には雪が降っていた。また世界が白に染まっていく。彼女を診ていた医者が、彼女の母親と俺をリビングに呼んだ。そして告げられる、残酷な言葉。
「もって、あと数日でしょう」
覚悟はできていたつもりだ。弱っていく彼女を、俺はずっと傍で見てきた。それでも最期まで彼女を支えると決めたのは俺。いつかこの日が来ることを頭では解っていたつもりなのに、なにもできない自分に涙が滲む。震える両手を強く握り締めた。涙を堪え、唇を噛む。
それでも、彼女の母は強かった。
「そうですか。……覚悟は、もうできています。だから最期はあの子の好きにさせてあげてください」
凛とした声で医者を見つめる。俺は、そんな後姿を眺めることしかできなかった。彼女の幸せを願う母は、強い。
「お嬢さんは彼を呼んでいましたよ。行ってあげてください」
零れそうな涙を袖で拭う。こんな顔、彼女に見せちゃいけない。医者の言葉と彼女の母に背中を押され、俺は彼女の部屋に入った。窓際に置かれたベッドに歩み寄る。静かに横たわったまま俺を見上げる彼女は随分と痩せてしまった。初めて逢ったあの日の彼女は、もういない。
ベッドの横に置かれた椅子に座り、彼女の頭を撫でた。
「俺を呼んでたって聞いたよ。どうした?」
上手く笑えているだろうか。苦しげに呼吸をする彼女が少しでも楽になるように、その小さな手を握った。もう彼女は、普通に喋ることすらままならない。
「あ、のね。あした、おそとに、いきたいの。もりの、おくの、まっしろな、ところ」
途絶え途絶えなその言葉に、俺は笑って頷く。彼女が望むなら、どこへだって行こう。それが嬉しかったのか、彼女は笑った。
「じゃあ、明日の朝行こうか。朝の森も綺麗なんだぞ。寒いから、あったかい恰好して行こうな」
苦しいはずなのに、彼女は笑って何度も頷く。その姿が痛々しくて、俺は彼女の頭を抱いた。彼女の前では泣かないと決めたんだ。彼女の髪に顔を埋めて息を吸えば、彼女の甘い匂いがする。そのまま何度か髪を梳いていれば、彼女の手が俺の服を掴んだ。殆ど力の入っていないその手を握って細い指に口付ける。顔を赤らめた彼女に、俺は笑った。大丈夫、俺はここにいるから。
その日、俺は彼女の家に泊まらせてもらうことにした。少しでも長く彼女の傍に居たい。彼女の望みで、彼女を挟んで俺と彼女の母親が並んで眠る。手を繋いで、三人一緒に。彼女の母親が眠ったのを確認して、俺はひとり涙を堪える彼女にキスをした。真夜中に、しかも彼女の母親が一緒に居るこの部屋で。そのまま彼女を抱き寄せ、髪を梳く。ばれたりしないか不安だったが、幸い彼女の母が起きることはなかった。涙は止まり、彼女は嬉しそうに笑う。彼女が泣く顔なんて見たくない。もっと俺に頼ってくれたらいいのに。そして彼女の温もりを感じながら、俺は彼女と眠りについた。
翌朝、暖かい服装に着替えて支度をする。彼女は何かを悟っているようだ。出掛ける前に母親と二人で話がしたいと言うから俺は席を外した。リビングで独り、それが終わるのを待つ。彼女の様子から、俺もなんとなく解った。
きっとこれが最期だ。
暫くして、彼女の母が部屋から出てくる。その目には涙が浮かんでいた。
「あの子が待っているわ。行ってあげて」
その言葉に頷いて彼女の許へ。俺の姿を見た彼女は嬉しそうに笑う。真っ白なコートと、彼女の母が作った白いマフラーと手袋を着けてやり、準備完了。彼女は今日も真っ白だ。彼女の背中と膝裏に手を入れ抱き上げた。初めて逢ったあの日も、彼女を抱え上げたことを思い出す。雪の中に埋もれた彼女を助けてやったっけ。あの時よりも、彼女はずっと軽くなっていた。
彼女の母親に見送られ、二人で森に向かって歩き出す。彼女は俺の腕の中で景色を目に焼き付けるように辺りを見回していた。そんな彼女をしっかりと抱きかかえ、森の奥を目指す。彼女が行きたいと言ったのはきっと、俺と彼女が初めてキスをしたあの場所だ。明け方まで降っていた雪の所為で今日も森は真っ白。腕の中の彼女と、同じ色だ。森の中に俺の足跡だけが残る。あの日のように二人分の足跡が残ることは、ない。
速度を落として足を止めた。あの時と同じ木の下で、彼女を膝にの上に抱いて座る。苦しげな呼吸を繰り返す彼女の背を撫でると、彼女は笑った。
「まっしろ……」
「嗚呼、そうだな。寒くないか?」
「ふふ、うん。あのとき、と、いっしょ、だね」
嬉しそうに笑う彼女は、ゆっくりと目を閉じる。そんな彼女に、俺は優しく口付けた。目を開ければ、頬を染めて笑う彼女。愛しいその体を抱き締める。あの日を思い出しながら、その頭を優しく撫でた。
暫くそのままでいると、突然彼女が激しく咳き込む。慌てて背中を擦れば、彼女は俺を見上げて首を傾げた。その目に溜まる、涙。
「ね、おはなし、きいて?」
正直、聞きたくないと思った。けれど彼女が望むなら、俺は聞かなきゃ。辛そうな彼女の姿に胸が締め付けられる。それでも彼女が不安にならないよう、俺は微笑んで見せた。
「いいよ。なに?」
少しでも呼吸が楽になるようにと背中を擦り続ける。気休めにしかならなくても、彼女が苦しむ姿は見たくなかった。
彼女はゆっくりと片手を伸ばし、俺の頬に触れる。俺はその手に自分の手を重ねた。
「あの、ね。ここ、つれてきてくれて、ずっといっしょ、いてくれて、ありがとう。いっぱい、いっぱい、ありがとう。もっといっぱい、いろんなとこ、いきたかった。もっといっぱい、いっぱい、いっしょに、いたかった。でもね、やくそく、まもれない。でも、わたし、わたし、ね。ずっと」
「その先は、俺に言わせてよ」
その言葉を遮って、彼女を抱く腕に力を込める。
「好きだ。今までも、これからも、ずっとずっと好きだ」
そう告げれば、彼女の瞳から涙が溢れた。それを人差し指で拭ってやる。それでも涙は止まらず、俺はその瞼にキスをした。そうすれば彼女は、とても嬉しそうに笑う。
「わ、たしも。わたしも、すき」
「知ってるよ」
髪を撫でて、抱き締めて。今の俺に出来ること全部、彼女へ。俺の想いは伝わった。彼女の想いも、伝わった。
彼女の呼吸が徐々に速度を落とす。弱まる鼓動に、堪らず強く抱き締めた。
「ね、あのね」
「うん」
「も、ばいばい、しなきゃ、いけない、から。ねえ、わたしが、いなくなっても、ずっと、すきでいてくれる?」
彼女が優しく笑う気配がする。きっと彼女は解ってて言っているんだ。体を離して、その唇にキスをした。
「これからもずっと好きだって、言っただろ。ずっとずっと、愛してる」
嬉しそうに笑った彼女の頬を涙が濡らす。駄目だな、彼女の前では絶対に泣かないって決めていたはずなのに。涙は止まらず、彼女の頬に落ちた。
「うれしい。……なかない、で? わたしも、だいすき。ずっと、ずっと、だいすき。だから、わらって?」
俺の頬に手を添えて、彼女は困ったように笑う。その彼女の目にも、涙。
愛しい彼女の、最後のお願いだ。俺は乱暴に涙を拭った。上手く笑えてるかどうかなんて分からない。それでも俺は、精一杯の笑顔を見せた。
「ありがとう。……だいすきだよ」
最期に綺麗な笑顔を見せた彼女は、俺の腕の中で眠るように目を閉じる。彼女の息が止まった。彼女の鼓動が止まった。幸せそうな顔で眠りについた彼女の唇に、キスを落とす。強く抱き締めた彼女の体は小さかった。彼女の頬を俺の涙が濡らしていく。戻らない体温に、俺は彼女を抱えて叫んだ。
真っ白な雪の中、真っ白な彼女は永遠の眠りにつく。抱き締めたその体は、雪と同じで冷たかった。
アルビノって、そんなに強くなければ赤目じゃなくて青い目になるんですよね。スノーホワイトは色見本で見るとうっすらと青みがかった白です。でも降る雪は青空の下だと真っ白に見える、と思います。
関東で大雪が降った日に思い付いた物語。雪が融けてしまう前に投稿出来てよかったです。因みに私は主人公を雪白くん、ヒロインを真白ちゃんと呼んでおりましたが、正式な名前は付けておりません。愛称くらいに思っていてくださいませ。
作品とは全く関係ありませんが、私は家の中から見る雪は好きでも、外に出るのは嫌だったり。雪の日は家の中で過ごすに限る、と思っております。でも晴れている日もほとんど外に出ません。ただの引き籠りです。