第一話 卒爾ながら「悪魔払い」お願い申し上げます
驚くべき事にソレは、正真正銘「本物の」ネコ耳だった。
「うぉぉぉっ……!?」
あまりの衝撃に私は奇態な呻き声を上げてしまった。不覚。
毛並みのいいネコ耳を生やしたフェミニンな少年は、ピクピクと可愛らしく痙攣したかと思うと、間によく透き徹る玻璃でも介在しているごとく、潤んだ瞳で私を見上げてくる。体育座りのポジションから覗ける四肢なんか白っちくて細くて、まー私のアブナイ情欲をいちいち掻き立てるのなんのって。
「ねぇボク、お名前はなんていうの?」
私が夜のハンターフクロウみたいに眼を大きくして訊ねると、ネコ耳の男の子はネズミのようにさっと縮こまって、頑なに私と顔を合わせようとしないで、ただ小さく呟いた。
「……ない」
「……ナイくん?」
「……ちがう……ないの」
「……ナイノちゃん?」
「……ないんだってば……」
「……ナインきゅん?」
「……もう、いいよ……」
そう言って、名無しのネコ耳金髪美少年は完全に鬱いでしまった。背中の方でキツネの尻尾みたいなのが、召喚魔法を唱えるみたいに地上からSOSの救難信号をヘリコプターへ発信しようとする遭難者が持つ蛍光か松明よろしくフリフリと窓枠にたまった埃を払った。……て、シッポ?
「しっぽぉぉぉお!? はぅあぁぁあ……」
も、もうとろけちゃいそう……! このままだと私の理性のダムは間違いなく決壊してしまう。その先にどんな禁忌が貯蔵されていたかなんて自分でもミステリアスなヴェールに包まれた領域だが、こ、こんな、ご飯が何杯あっても足りないような極上なエサを前にして、私こと浅樹利紗がいつまでも浅樹利紗でいられる道理はなかった。
声を揃えて、一、二の、三っ! いただきますは、明るく元気よく快活に。
「しっぽぉぉぉぉぉ!!」
「うわぁっ!? ななななななな!?」
バリバリィン。なにかが破れる嫌な音と強烈な痛みとのデスマッチでなんとか自我を現世につなぎ留めることのできた私が眼にしたのは、少年が凭れていたはずの窓ガラスが割れて飛んで砕けて、陽晒しのベランダがぐっちゃぐっちゃになっている光景だった。鴟目大なれども、視ること狐にしかず、か……。
「あっちゃー……やっちゃったよー……いててて」
幸いなことに怪我はなかったが、頭にちっちゃな瘤ができていた。まあ、自業自得といえばそうなのだが、むむむと苛立ちのこもった譴責の眼を少年に注ぐ。理不尽な見方かもしれないが、もとはといえばこの子がいけないのだ。あんまり可愛いから。こんな若いうちからお姉さんを誑かしちゃうなんて、まったくイケナイ子ね!
彼は事務所で唯一のソファの手前におり、わたわたと所在なさげに右往左往し、私が身体を向き直そうとちょっぴり動く度にそわそわして、いじらしくもテーブルを盾にイタチレースをする構えだ。履いているのがキュロットのスカートだったからやらないけど、私が卓上を歩く奇人変人だったらどうするのだろう。眼の色変えて男の子に飛びつく度し難いレベルでのショタコンではあるのだけれど。
「……く~かわええ~!」
その小動物じみた身体の小刻みな震えを眼にする度に、私の理性の箍は外れたりくっつけられたりを繰り返した。誰にともなく、強いていうなら自制という名の日用大工さんにである。
「……あ、そ、そうだ! 箒! そう箒よ! ガラス片拾い集めるのに、ちょうどいい箒はどこかに無いかなー?」
ちらっと少年の方を見遣ると、直感的に彼は何かを覚ったのか、ささっと兎跳びして後じさった。私は自分自身でもわかるくらい意地悪そうな顔をして彼を……いや尻尾を触りたくて触りたくてもう指を百足の這う如くにうねうねやりながら一歩一歩彼へと漸近する。ここまで来ると溢れ出すこのパトスを抑えることはもはや誰にもできない――。
ピンポーン、耳に心地好いリズムがゴミや不要物の多い室内に満ちた。チッ、間の悪い客人だこと。
「こんにちはー。お届けにあがりましたー」
瞬間冷却。私は水面からあがったばかりのペンギンさんよろしくブルプルっと首を二、三横に振り振り、少年に一瞥だけを残して玄関へと向かう。案の定彼は、敵を見る眼差しを私に寄越した。心が痛い。見るな、私をそんな眼で見るなぁぁぁ。このうえ私をキュン萌えさせる気かぁぁぁ。
「こちらの方にサインをお願いしまーす」
「はーい」
爽やかな好青年の配達員さんの妙に間延びした声を真似て受取証に先生の名を記す。荷物は無論、確認するまでもなく先生宛てに決まっている。
「いやぁ、今日は好い日和ですねぇ! こんな天気の日に浅樹さんの顔が見られるなんて、きっと僕は果報者だよアハハハ」
……ところで、私の興味は猫のそれよりも山の天気よりもコロコロ変わっていく。配達の人にお礼を言って問答無用とばかりドアを閉めた後の私の興味というのは言うまでもなく、この小さなダンボール箱の中を検めることだ。
『あ、ちちちょっと浅樹さん無視しないでくださいよぉ!』
「そろーり、そろーり……」
足早に玄関を離れると、別に誰が見ているわけでもないが、私は音を立てないよう気を払いつつ箱を開けた。強いて言うなら事務机の構えてある部屋にはあのネコ耳族の少年がいるが、彼が私のことを咎める筋合いも無いだろう。それでも不思議なことにコッソリ行おうとする人間の心理にはいやいや我ながら参ったね。
『あ、あのぅ……浅樹さ~ん……もしも~し……そろそろ赦してくださいよ~……』
「またラブレターだったりするのかな~? くふふ。相手の殿方も、待てど暮らせど梨のツブテで、いても立ってもいられなくなったとかぁ? ……くふふ!」
実は前にも同じようなことがあり、先生がたまたま外出している折に届け物が送られて来て、偶然その場に私が居合わせていたあの時。そのかみもやっぱりイタズラ心から中身を実検してみたのだが、まさか先生の恋人から先生に直接宛てた紛う事なき恋文だとは思いにもよらなかった。まさかあの男っ気の無い堅物でいて色恋に淡泊そうなあの先生が……あまりにも唐突な椿事で色を失った私は、とにかくすぐさま梱包用紙をシュレッダーにかけて廃棄庫へダスッシュー。肝心のブツは上から布を当てがいドライヤーで熱を加えて丁寧に折り目を消し、文面がはっきりと読み解けるようにラミネート加工を施して、秘蔵の弱みファイルに厳重保管してしまった。思わず。記念すべき弱み一号である。
と、まあとにもかくにもそんなこんなで、まさかラブレターがダンボールに包まれて送られて来るなんて筈もないだろうから、今回のはきっと返事恋しさに催促を要求する先生の恋人さんからの荷物とは思えない。でも、と私は勢い込んでガムテープ剥がし作業に勤しむ。
『……あ、浅樹さ~ん、実は貴女が観たがっていた映画のチケットがですね……』
「新しい弱みが見つかればそれでいいや~」
別に弱みを手に入れたからってどうということはないのだが、後々に入り用なことがあるかもわからないから、手に入る物なら手に入れておきたいというのが私の本音だ。
そうしてうかうかした気分で、ダンボールにメスを入れることにした。結局素手で開けられなかったから、カッターナイフを使うことに決めたのだ。工具箱に仕舞われたそれを取り出す際に、わざと遠回りして部屋をジグザグに歩いた。それによって追い立てられ追い詰められした哀れな子羊は、とうとう工具箱の置かれた先生のデスクの下へと逃げ込み、ブルブルとおっかなそうに私を見上げていた。
私は自分でもわかるくらい猟奇的な顔をして、逃げ場の無い穴蔵でジタバタする美少年に抱きつき、顔をトラウマになるくらいギューッと強く胸に押しつけた。
「ん~~っ! あったかーい!」
羽交い締めにして耳を堪能する。唇でやんわりと噛む。綿飴を食べた時の感触が口内に拡がる。男の子は私の胸に埋もれながら「んぐっ、もぐっ」と何やら言っていたが、抵抗する度にピコピコ動く耳がもう可愛くてたまらず、また愛嬌のあるモコモコな尻尾が背中に回した私の手を打ち付けて来て……ああ! もう駄目、私溺れちゃいそうです先生!
……そうして私は、一つ罪を犯しました。
『……え、なにこの声……? え、え、ええぇぇぇぇ!? あ、あえ、あえ、ああああ、喘いでませんかもしかして!? ちょっと浅樹さん、なにやってんすかねぇちょっと!? 気になるじゃないですかぁぁぁぁぁ!!』