第9話「砂塵の彼方からの来訪者」
その日の午後、風はいつもより少しだけ強く、乾いた土の匂いを遠くから運んできた。
ルークは家の前の木陰に座り、木材を削って新しい農具の柄を作っていた。
小刀の刃が木の繊維を断ち切る薄く鋭い音が、静かな昼下がりの空気に響く。
足元ではシロが丸くなって昼寝をしており、時折小さな耳をピクピクと動かしていた。
畑の方では、グランが相変わらず一定のペースで雑草を抜き、土の表面を滑らかに整えている。
平和で変わらない日常の風景だ。
しかし、ルークの手の動きがふと止まった。
風に乗って、微かな異音が耳に届いたのだ。
それは草が擦れる音でも、獣の足音でもない。
規則的で、しかし疲労に満ちた重い足音が、複数重なり合って聞こえてくる。
ルークが視線を上げ、荒野へと続く道の彼方に目を凝らすと、土埃の向こうに小さな人影がいくつか見え隠れしていた。
人影はゆっくりと、足を引きずるようにしてこちらへ向かって歩みを進めている。
「どうしたの、ルーク」
家の中から籠を抱えて出てきたセリアが、ルークの視線の先を追う。
彼女の目もすぐにその人影を捉え、表情がわずかに引き締まった。
王都からの追手か、それとも盗賊か。
セリアは無意識に腰のあたりに手をやるが、そこに剣はないことを思い出して手を下ろす。
人影が近づくにつれ、その姿が鮮明になってきた。
彼らは武装した兵士ではなく、色あせた粗末な服を着た数人の男女と、その手を引かれる小さな子供たちだった。
背中には大きな荷物を背負い、靴は泥と砂で汚れきっている。
その顔には深い疲労と、喉の渇きによる苦痛が色濃く刻まれていた。
彼らはルークの家の周囲に広がる青々とした草原と、黄金に輝く麦畑を目の当たりにして、信じられないものを見るように足を止める。
死の荒野と呼ばれたこの土地に、豊かな自然が存在していることが理解できないようだった。
「あの……すみません」
先頭を歩いていた初老の男が、ひび割れた唇を震わせて声を絞り出す。
その声はかすれ、風の音にかき消されてしまいそうだった。
「水を、少しだけ分けていただけないでしょうか。子供たちが、もう限界で……」
男は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、ルークに向かって頭を下げる。
ルークは小刀を置き、すぐさま立ち上がって彼らのもとへと駆け寄った。
セリアも家の中から木製のコップをいくつか持ち出し、ルークの後を追う。
「ここに座ってください。すぐに水を持ってきます」
ルークは男の肩を支え、草原の柔らかい土の上へと座らせた。
セリアが水路から汲み上げたばかりの冷たい水をコップに満たし、子供たちの口元へと運ぶ。
子供たちは震える両手でコップを掴み、まるで命の雫をすするように夢中で水を喉に流し込んだ。
ごくごくという喉を鳴らす音が響き、こぼれた水が土に吸い込まれて黒い染みを作る。
水を飲んだ子供たちの顔にわずかな赤みが戻り、深く安堵の息を吐き出すのを見て、初老の男の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
男は地面に額をすりつけるようにして、何度も礼を言う。
「顔を上げてください。水ならいくらでもありますから」
ルークは男の背中を優しく撫で、ゆっくりと話を聞き始めた。
彼らは王国の外れにある小さな村の住人だったという。
最近になって王国の土地が急激に痩せ細り、作物が全く育たなくなったため、飢えから逃れるために村を捨てて流浪の旅に出たのだと語った。
当てのない旅の中で、噂に聞いていた死の荒野に迷い込み、絶望しかけていたところでこの緑の土地を見つけたのだという。
「王国の土地が、痩せ細っている……?」
セリアが怪訝な顔をしてルークを見る。
ルークは小さく頷き、静かに視線を落とした。
王国の豊かな土壌は、彼が宮廷錬金術師として長年密かに魔力を注ぎ込み、地脈を調整し続けていたからこそ維持されていたのだ。
彼が追放され、その調整が途絶えたことで、土地は本来の姿に戻り始めているのだろう。
しかし、今のルークには王国を気にかける義務はない。
目の前で疲弊しきった人々を見捨てることだけが、彼にとって避けるべきことだった。
「もし行く当てがないのなら、ここに住むといいですよ」
ルークが静かな声で提案すると、男や周囲の男女は驚きに目を見開いた。
「よろしいのですか。我々は何も持っていませんし、お役に立てることも……」
「畑はいくらでも拡張できますし、家もすぐに用意できます。子供たちが安心して眠れる場所が、必要でしょう」
ルークは微笑みながら立ち上がり、広大な荒野の方へと視線を向ける。
彼の手にかかれば、家を何十軒建てることも、森を広げることも容易いことだ。
男たちは互いの顔を見合わせ、やがて嗚咽を漏らしながら再び深く頭を下げた。
ルークは地面の岩石に触れ、新たな家の基礎となる石材を錬成し始める。
静かだった二人だけの生活に、新たな命の息吹が加わろうとしていた。
砂塵の彼方からやってきた彼らは、この名もなき豊かな土地の、最初の住人となったのである。




