番外編「月夜の守護者と静かなる撃退」
深い群青色の空に、氷のように冷たく白い満月が浮かんでいる。
星々の瞬きすらも月の光に飲み込まれ、大地には青白い影が長く伸びていた。
ルークとセリアの暮らす木造の家は、深い静寂に包まれている。
開け放たれた窓からは夜風が滑り込み、薄い麻布のカーテンを音もなく揺らしていた。
寝室のベッドでは、二人の規則正しく穏やかな寝息だけが、静かな部屋の空気を微かに震わせている。
ルークの腕の中で、セリアが安心しきったように身を預け、その体温を分け合っていた。
完全に無防備な、平和そのものの夜である。
しかし、結界の外側に広がる深い森の奥深くでは、全く異なる空気が渦巻いていた。
古くからこの土地に根付いていた瘴気を過剰に吸い込み、巨大に膨れ上がった異形の獣が、重い足取りで村の方向へと歩を進めている。
四つ足のその獣は、岩山のように隆起した筋肉に覆われ、全身から腐った泥のような強烈な悪臭を放っていた。
鋭く伸びた牙からは粘り気のある唾液が滴り落ち、それが地面の草に触れると、草は瞬時に黒く変色して枯れ果てていく。
獣の目は血のように赤く濁り、ただ破壊と捕食の衝動だけで前へ前へと巨体を押し進めていた。
太い樹木の幹に肩がぶつかると、大木は乾いた音を立ててへし折れ、大地を揺るがす重い音を立てて倒れ伏す。
鳥たちは恐怖に羽ばたくことすら忘れ、森の虫たちは息を潜めてその悪夢が通り過ぎるのを待っていた。
獣の巨大な足が結界の境界線へと踏み込もうとした、まさにその時である。
突如として、目の前の空間を遮るように、巨大な土の壁が立ち上がった。
いや、それは壁ではない。
ルークの生み出した最強の守護者、ゴーレムのグランであった。
グランは月光を浴びて青白く光る硬質な岩石の装甲を揺らし、一切の感情を持たない琥珀色の目を獣へと向けている。
その巨躯から放たれる圧倒的な質量の圧は、周囲の空気を物理的に圧縮するかのような重苦しさを持っていた。
獣は突如現れた障害物に怒りを露わにし、大気を震わせる低い咆哮を上げる。
しかし、グランは一歩も引くことなく、丸太のような太い腕をゆっくりと横に広げ、畑への道を完全に塞いだ。
さらに、グランの足元から、一つの白い影が滑るようにして前へと進み出る。
神の使いである霊獣、シロである。
普段はルークの足元で愛らしく尻尾を振っている小さな姿はそこにはない。
シロの白い毛並みは月の光を吸収したように眩く輝き、その小さな体から漏れ出す神々しい魔力が、周囲の空間を陽炎のように歪ませている。
シロが静かに赤い瞳を見開き、獣を真っ直ぐに、にらみつけた。
その瞬間、森の空気が完全に凍りついた。
シロの眼光に込められた絶対的な格の違いが、見えない刃となって獣の精神を真っ向からえぐる。
獣の赤い濁った目が見る見るうちに恐怖に見開かれ、隆起した筋肉が痙攣するように震え始めた。
グランがただ無言のまま、足元の岩盤を踏み砕くほどの重い一歩を前へと踏み出す。
大気を切り裂くような風圧が生まれ、獣の巨体を吹き飛ばさんばかりの勢いで襲いかかった。
獣はもはや咆哮を上げることもできず、尾を股の間に挟み込み、無様に向きを変えて森の奥深くへと逃げ出していく。
木々をなぎ倒しながら遠ざかっていく重い足音が、やがて完全に聞こえなくなった。
争いの痕跡は全くなく、ルークの大切な畑の野菜たちは、一枚の葉すら傷つくことなく月光の下で静かに呼吸を続けている。
グランはゆっくりと腕を下ろし、元の待機姿勢へと戻った。
シロもまた、大きくあくびを一つして魔力の光を収めると、短い尻尾を振りながらグランの足元で丸くなる。
彼らは主の眠りを妨げることなく、誰に褒められることもなく、ただ静かにこの豊かな土地の平和を守り抜いたのだ。
やがて東の空が白み始め、鳥たちが新しい朝の訪れを告げるさえずりを響かせ始める。
今日もまた、何事もない平穏な一日が始まろうとしていた。




