2話
「いくよ」
先陣を切ったのはユイシャだ。
「はあぁっ!」
子供の細い脚とは思えぬ鋭さで地を蹴り、一気に師匠の懐へと肉薄する。手にした枝が空気を切り裂き、師匠の喉元へ向けて最短距離で放たれた。
だが、師匠は動じない。
「踏み込みが、甘すぎる」
紙一重。わずかに首を傾けただけで、その必殺の一撃を虚空へと逃がす。
「甘いと、こうなる」
師匠の呟きと共に、容赦のないカウンターの拳がユイシャの顔面に迫る。
回避不能。直撃を覚悟し、ユイシャが目を伏せたその瞬間――。
「……甘いな、師匠よ。これならどうだ!」
横合いから飛び込んできたオウマが、渾身の力で枝を突き出した。
師匠の拳を、その細い枝の腹で強引に受け止める。
――ガッ!!
金属同士が激突したような衝撃音が響いた。
「甘いのはお前だ。オウマ」
師匠の拳に込められた圧倒的な「暴力」の余波。
それを受けきれなかったオウマの体は、木の葉のように軽々と後方へと吹き飛ばされた。
「ぐっ……、あぁっ!?」
地面を数メートルも転がり、泥にまみれるオウマ。
受けた腕は痺れ、枝は今にも砕け散りそうなほどに震えていた。
(……な、何だ今の重さは!? 何も使わず、ただの突きが……まるで破城槌か……!?)
吹き飛ばされた衝撃の中で、オウマは驚愕に目を見開いていた。
だが、その視界の端で、別の影が動く。
「――隙ありだよ、師匠っ!」
泥を跳ね飛ばし、ユイシャが弾丸のような速さで体勢を立て直した。
師匠がオウマに意識を向けた、その一瞬の空白。彼女は逃さず踏み込み、師匠の無防備な脇腹を目掛けて渾身の一撃を叩き込む。
確かな手応えだった。
……しかし、師匠の口角が無慈悲に吊り上がった。
「悪くはないが、良くもない。……まぁ、一言で言えばイマイチだな」
直後、ユイシャの視界から師匠の姿が消えた。
否、消えたのではない。彼女の放った一撃を、師匠は筋肉のわずかな撓みだけで「吸収」し、そのまま流れるような動作で回し蹴りを放ったのだ。
「あぐっ……!?」
衝撃。
腹部を巨大な槌で叩き割られたかのような激痛が走り、ユイシャの体は紙屑のように宙を舞った。
「――っ、しまっ!?」
地面へ叩きつけられる寸前、泥まみれの影がその身を滑り込ませる。オウマだ。彼はユイシャの下敷きになる形でその衝撃を強引に受け止め、二人まとめて泥水の中を転がった。
「……っ、がはっ!」
「……うそ、でしょ……?」
肺から空気を無理やり絞り出され、ユイシャは泥の中で悶絶する。
二人を赤子のようにあしらった師匠は、服の土埃を払うことすらなく、退屈そうに鼻を鳴らした。
「お前らの実力は……まあ、そうだな。せいぜい『Gランク冒険者』ってところか……それ以下だな」
その無慈悲な格付けが、静まり返った河原に冷たく響いた。
泥水にまみれ、重い沈黙が二人を包み込む。
先に震える声を出したのはユイシャだった。
「……オウマ、その……ありがとう。助かったわ」
屈辱に顔を歪めながらも、彼女は消え入るような声で感謝を口にする。
対するオウマは、全身の痛みと羞恥に顔を真っ赤に染め、乱暴に視線を逸らした。
「……ふん。か、勘違いするな。たまたまお前が、俺のいる場所に落ちただけだ」
ぶっきらぼうに吐き捨てながらも、オウマは痺れる腕を隠すように泥を払う。
二人は泥水にまみれた体を重そうに起こし、ふらつきながらも立ち上がった。
そんな二人の不甲斐ない姿を一瞥し、師匠は短く言い放つ。
「よし、お前ら。帰るぞ」
その声には慈悲も、ましてや労いの欠片もない。
だが、その一言で張り詰めていた緊張の糸がふっと緩み、二人の肩から力が抜けた。
沈みゆく夕日が、泥にまみれた二人の小さな影を長く引き延ばす。
前を歩く師匠の背中は、岩山のように大きく、どこまでも揺るぎない。
(……この男に追いつかねば、勇者に届かぬか)
(……今はまだ、あの背中が遠すぎる。でも、必ず……!)
二人は顔を見合わせることもなく、ただ一心に師匠の背中を追い、黄金色に染まる畦道を歩き始めた――
――その後。
三人の住まいは、村の喧騒から離れた外れに、ぽつんと佇んでいた。
一日の泥と疲れをお風呂で洗い流し、さっぱりとした身なりのユイシャは、軒先のベンチに腰を下ろして夜空を仰いでいた。
そこに、とてとてと短い足音を響かせて現れたのは、師匠の飼い犬であるポテ太郎だ。
ポテ太郎は、夜露に濡れた鼻をひくつかせ、つぶらな瞳でじっとユイシャを見つめながら近寄ってきた。
「……ワンっ」
短く、どこか聞き分けのいい鳴き声。
ユイシャはふっと表情を緩め、ポテ太郎の柔らかな頭を優しく撫でた。
「聞いてよ、ポテ太郎……。私ね、今日ね……オウマのこと、ほんの少しだけ……本当に、爪の先くらいだけなんだけど……『いいかも』なんて思っちゃったの」
独り言のように漏らした言葉が、静かな夜の空気に溶けていく。
だが、ユイシャはすぐに、自分を戒めるように首を振った。
「……でも、ダメよね。私には心に決めた魔王様がいるんだから。浮気なんて、絶対に許されないんだから!」
きっぱりと言い切り、自分に言い聞かせるように拳を握る。
そんな乙女の葛藤を理解しているのかいないのか、ポテ太郎はただ、心地よさそうに目を細めていた。
「……よーし、なんかスッキリした! ありがとう、ポテ太郎」
「ワン!」
返事をするように、ポテ太郎がもう一度短く吠える。
満天の星空の下、ユイシャの頬は、お風呂上がりの火照りとは少し違う熱を帯びていた。
それから、しばらく後のこと。
一日の泥と疲れをお風呂で洗い流し、さっぱりとした身なりのオウマが、入れ替わるように軒先のベンチへ腰を下ろした。
そこに、再び「とてとて」と短い足音を響かせて現れたのは、やはりポテ太郎だった。
ポテ太郎は夜露に濡れた鼻をひくつかせ、つぶらな瞳でじっとオウマを見つめながら近寄ってくる。
「……ワンっ」
短く、どこか全てを見透かしたような鳴き声。
オウマは周囲に誰もいないことを確認すると、ポテ太郎の柔らかな頭をぎこちなく撫でた。
「……聞いてくれ、ポテ太郎。俺は今日、気づけばユイシャの奴を助けてしまっていた。あろうことか、あの小娘に礼を言われて……あ、あろうことか、少しばかり『可愛い』などと感じてしまったのだ!」
独り言のように漏らした懺悔が、静かな夜の空気に溶けていく。
だが、オウマはすぐに、自分を打ち消すように激しく首を振った。
「……いや、ダメだ! 断じて認めんぞ! 俺には心に決めた勇者がいるのだ。浮気など、魔王としての誇りが……いや、男の矜持が絶対に許さんッ!」
きっぱりと言い切り、自分に言い聞かせるように両手で自身の頬をパチンと叩く。
そんな、元魔王のあまりにも純情な葛藤を理解しているのかいないのか、ポテ太郎はただ、心地よさそうに目を細めていた。
「ワン!」
まるで「お疲れさま」とでも言うように、ポテ太郎がもう一度短く吠える。
満天の星空の下、オウマの耳たぶは、夜風にさらされてもなお、熱を帯びたままだった。




