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掌編 オオカミ少年のレシート~転ばぬ先の杖を振り続けた男~

作者: 平瀬川神木

AIに読んでもらい、AIに挿絵を描いてもらった、電気紙芝居、朗読版もよろしければどうぞ。

https://youtu.be/xGM-9lOQM08

 彼は決して目立つ男ではございませんでした。 



 町工場の一角、油の沁みついた機械の横で、黙々と部品を検査しておりますこの男。年齢は五十代。口数が少なく、若い連中との飲み会にも出ない。



 朝はいつも一番に工場へ来て、作業用の水銀灯が灯るより先にヘルメットをかぶっていた。そして落とし物でも探すように、薄暗い工場内の床面を隅から隅まで見て回り、それが終わると、彼が工場を目覚めさせるように作業用の水銀灯を灯した。



「まじめだけが取り柄でよ」



 町工場の社長が笑いながら言ったその言葉は、いつしか全員の共通認識になっておりました。


 新人が機械の操作をする為に、不慣れな分厚い革手袋を外そうものなら、それを見た彼は一目散に飛んできて大きな声を張り上げます。



「作業中は手袋を外すな!このバカ野郎!」


 委縮してしまう新人を見た他の若手も駆け寄ります。


「なんでそんなことにばかり目くじら立てるかなぁ。気にしないで良いからな。細かい人なんだよ」


 ただ、ある時期から彼は過剰に神経質になってきたそうでして、機械の異音に敏感になり、少しの焦げ臭さにも大げさに反応したそうでございます。


「またかよ」「そんなの前から鳴ってたよ」


 注意喚起が増えるほど、彼が『面倒なひと』と見なされていくのは道理でございまして、若手が「うるさいんですよね、あの人」と陰で言っても、誰も彼を止めなかったですし、彼自身もそんな声が耳に届いても、注意喚起をやめることはなかったそうでございました。


 つまり注意喚起が増える程に、彼の注意喚起は誰にも届かない独りよがりの警告になっていくという、なんとも惨めで滑稽な存在に変わっていくのでございます。



 事故が起きたのは、八月の終わり、工場内のみならず、日本中が溶ける様な暑い日でございました。


 大型の加熱圧縮機が暴走し、部品が飛散したそうでございまして、ライン近くにいた作業員二人が負傷し、機械の前にいた彼は、胸を裂かれて亡くなったそうでございます。


 工場の時間は止まり、道路にはパトカーやら救急車やら消防車やら、近隣に鳴り響いた音も大変大きく派手な爆発音でありましたから、あちらこちらから通報が入ったそうでございます。


 死亡者と複数の負傷者が出る大きな事故でしたから、翌日には労働基準監督署の労働災害調査官が工場に入りまして、事故調査を始めたのでございました。


 工場が保管している、法定基準の整備記録が洗い出されるなかで、事故調査官はひとつの奇妙な点検票を見つけたのでございます。


 日付の記入がない。異常箇所の欄だけが、詳細にびっしりと書き込まれている点検票。その裏に、丁寧な几帳面な文字で書かれたメモ書きがあったそうでございます。


「8月10日。第3ライン、圧縮機異音続く。推定ベアリング摩耗。上申するも様子見指示。万一の場合、椎名くんと山田くんの位置が危ない。自分が手前に立つよう配置を変えておく」


 その日から彼は、自分が圧縮機の前を担当するよう、静かに段取りを変えておりました。誰にも言わず、責任も問わず、ただ最悪の時に若者が傷付かぬよう、傷つく人数を減らすよう。


 調査員は彼のロッカー内の私物にも目を通したそうでございまして、その中には大学ノートに書かれた日記のような個人作業日報もございまして。


「4月13日。新人の工藤君は革手袋に慣れないらしく、すぐに外してしまう。革手を外すことが、指の切断につながることを彼に教えていかなければならない」


「5月8日。山田君がまた右耳の耳栓を外したままだった。彼の担当位置は音圧が高い区域だから大きな問題だ。仲間の声や指示が聞こえにくいのはよくわかるが、私自身その対価として40代の頃には既に左耳が使い物にならなくなっていた。どうにかわかってもらわないと」


「6月19日。昼の納品時に、誰かが長物材を一時的にでも壁に立てかけていた。さらにその下にフォークリフトから死角になるようにパレットを置いていた。昼休み時間に資材置き場で山本君が昼寝をしている。引っ掛ければ長物在が倒れて、100キロを超える鋼材が降り注ぐ事態だった。運が良かっただけだ。山本君には違う場所で昼寝するように言ってみよう」


「7月24日。木村君にあれだけ言っても切削油の補填を忘れた。しかもゴーグルもしてくれない。油が足りなければ、ドリル刃物が焼きついて折れ飛ぶ可能性が高まる。運が悪ければ両目一気に失いかねない。木村君は子供が生まれたばかりだ。家族の為にも木村君自身が子供を見つめ続けられるように、せめてゴーグルは付けるようにお願いしよう」


 彼は独身でございましたし、幼い頃に両親も他界して、中学時代を施設で過ごし高校はいかずに働き始めたいきさつもございまして、言葉選びが雑で粗暴であったことは確かでございました。


 それもこれらの想いが上手に伝えられなかった要因の一つと言えましょう。


 数週間後、労働基準監督署の事故調査官が工場に出向き、社長と工場長に対して報告と是正勧告を行ったそうでございます。


「社長さん。このレシートは亡くなった従業員さんの財布から出てきたものですがね、値段が高い柔らかい革の手袋や、人間の声の周波数を通過させやすい耳栓、昼寝用のアイマスクや軽量小型のゴーグルや。これらはご本人は使っていなかった商品でして。その使い道はこちらの日記と整合すれば想像が出来ます。私は今回、この会社の本当の責任者は、本当のボスはいったい誰だったのだろうか?そんな気持ちになっています。これからはあなた方首脳陣が、この工場で働く若い命と安全を一番に考えてあげてください」



 社長と工場長は調査官に深く頭を下げた。事故防止対策が不十分だったこと、改善指示を怠ったこと。本来自分たちの仕事を誰かに任せっきりにしてしまっていたこと。


 それを見た調査官は一言。「謝る相手が違うのでは?」


 次の日から、けが人も出て人数が減った町工場の現場には、工場長も社長も作業着を着て、革手袋を付けて、耳栓をして、ゴーグルを装着して作業に出たそうでございます。


 今まではあまりうるさいことを言わなかった社長でありましたが、すっかり口うるさい嫌な人になってしまっておりました。


「やっぱり労基署に絞られたんだな」

「大丈夫、長続きはしないよ」

「罰金が怖いんだろ」


 若い従業員たちは、口うるさくなった社長にそんな評価をしていたそうでございます。


 朝、作業用の水銀灯が灯る前の、人知れない工場内点検が行われなくなったこの工場は、床には外れた機械ボルトが転がっていたり、鉄の切子やこぼれた油跡がそのままになっておりまして、ずいぶんと一気に年を取ってしまったような有様でございました。


 一人で彼の代わりを務めようとしていた社長ではございましたが、その性質や経験の違いから、代わりにはならない現実を社長自身でも痛感していた朝、いつものように時間ギリギリで出勤してくる若い従業員たちに対して、やり場のない気持ちを抱えた社長の瞳からは、涙がポロポロとこぼれてきたそうでございます。


 何があったのかとみんながそこに集まり、そのまま全員での話し合いが始まりました。言葉に詰まる社長の代わりに、工場長が労基署の調査官から聞いたことを皆に伝えると、その中には自分が柔らかい革手袋をもらったものもいれば、耳栓をもらったものもおりましたので、誰もが責任を分け合うようにうなずきながら、それでもあの男の生き方が、皆の記憶に食い込んだ秋の始まりが顔を見せ始めた朝でございました。


「もっと話を聞けばよかった」


「何も言わずに、全部自分で引き受けてたんだな……」


 彼のロッカーには、壊れかけた折りたたみ傘と、自費で買った工具や安全装備品一式。


 棚には缶コーヒーの空き箱。ラベルにはマジックで、こう書かれておりました。


「みんなの休憩分、雨の日用」


 皆はその後しばらくの間だけは、少しだけ早めに出勤したそうでございました。


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