透明な傘
雨の降る日、小学校から姉と一緒に帰っていた。
先を歩いていた姉が突然、背の高い男に担がれて近くの白い車に乗せられた。
目の前に落ちた透明な傘──私は何が起きたかわからないまま走り去る車を見ていた。
約三ヶ月後、遥か北の町で姉が発見された。知らせを聞いて両親と私は急いで現地へ向かった。私を責める両親の無言の眼差しからこれで解放されると思った。姉が助けられた事よりその事に安堵した。それだけ暗く沈んだ暮らしだった。
警察にいたのは確かに姉。ショックで喋る事が出来なかった。それでも見つかって両親は号泣した。嬉しかったのだろう。でも姉は遠い目をしていた。
警察から訊かれてもずっと黙ったまま。どこにいたのかも犯人の顔も語らない。不安もあるが姉を自宅に連れて帰った。両親や親戚は姉に優しかった。誰も何があったか訊こうとはしない。触れるのを恐れていた。男に連れ去られて何もなかった筈はない。外傷はなかったがそう考えるのは普通だろう。そして喋られない状況に大人達は誰もが勝手に確信して憐みの眼差しを姉に向けていた。
中学時代の姉は外を歩けず家にいた。高校に行かなかった。大人しく勉強はしていた。
私は大学を出て就職した。姉は精神科に通って薬を飲んでいるが好転する訳もなくぼんやりしていた。
家の中では普通に日常生活を送れていたので家族の手をわずらわせる事はなかったが姉の将来について話す両親の顔は暗かった。
私には大学時代から付き合っている彼がいるが結婚は考えていない。彼に抱かれている時に限って姉の顔がはっきりと脳裏に浮かぶ。果てる彼を見てなぜか申し訳なく思う。私を好きなのに私は心から感じられない。股間の痛みだけで彼の好きな気持ちを受け流している罪悪感。
それに彼には姉は体調を崩しているとしか言っていない。全部知ったらドン引きして破局するだろう。それも仕方ないから言おうかと何度も思ったが彼の優しさに甘えて今に至ってしまった。やはり一度区切りをつけた方がいいのかと思いながら話す機会をうかがっている。
紫陽花の咲く雨の日曜日。買い物帰りに歩く道は姉がさらわれた場所。男に担がれた姉の救いを求める顔。私が目をそらした先に転がる透明な傘。嫌な記憶。忘れたい。でも忘れちゃいけないと思う。幸せになっちゃいけないと思う。憂鬱だ。やっぱり彼に話そう。
《今度の土曜日の晩、どこかに食べにいかない?》
スマホでメッセージを送る。
《いいよ》
すぐに返事が来る。そして返信。
《いつもの店でね》
いつもの居酒屋。気軽に話すには丁度いいから。
「土曜は晩御飯いらないから」
母に言う。
「そう。デートもいいけどあんまり遅くならないでね」
素っ気なく母は言う。彼の事は両親には言っている。でも結婚するかお互いに触れない。
土曜日の晩。いつもの居酒屋で彼と会った。彼はIT系の会社に入って研修中。覚える事が多くてわからないとぼやく。
言いにくいが本題に入る。結婚の事はともかく家の事情を知って欲しいと切り出す。彼はビールを飲んで聞く姿勢になる。色々あって姉がずっと学校に行けずに通院している事を話す。彼は微妙な表情になる。
「それで俺が迷惑するのか」
素っ気なく答える彼。冷たい、優しい。同時に感じる。
「別に嫌じゃなかったらいいの。ごめんね」
「謝らなくていいから。みんなが幸せに暮らしている家なんてないから」
一般論? 自分の事? 何か引っ掛かる。詮索したくなるゲスな気持ち。彼の右手の手のひらの傷。子供の時に怪我したと言った傷にゲスな視線がいく。勝手に納得する。幸せな家庭は無いとは言わないがごく僅かだ。
九月の週末、彼が家に来た。一応顔を合わせた方がいいと思って呼んだ。父は外出、母と歓談。姉が居間の横の廊下を通る。
「こんにちは」
彼が言う。無反応な姉。誰も驚かない。彼が皿に入った菓子を取る。姉の視線が手先にいく。
「ううっ……」
聞いた事がない姉の唸り声、母も異変に気づく。姉が部屋に入って彼の右手を掴む。
「えっ!」
彼は驚く。姉の呼吸が激しくなる。
「じゅりゃあしれわかならあたがざばがあばだが」
何語かわからない言葉を口走る。
「やめろ! あっ……」
彼の表情が凍った。どんな気持ちになればこんな石みたいに固まるのだろう。
「どうしたの! しっかりして」
必死に叫ぶ私。姉は苦しんで横たわる。居間は異様な雰囲気。母が救急車を呼んだ。救急車の中で彼は引きつけを起こしたように震えていた。何が起きたの? 全く想像できない。黙って彼の手を握る。指先が不自然に震えている。
彼も姉も面会謝絶になった。命に別状はないそうなので母とタクシーで帰宅した。
「お姉ちゃん、どうしたのかな」「さあねえ」
居間でこぼれた茶や菓子を掃除しながら二人で話した。父が帰宅した。異様な状況に驚いた。母が説明した。
「お前はいつも迷惑ばっかりかけているな。嫌なら家を出て男と暮らしてもいいんだぞ」
父の吐き捨てる言葉を浴びる。
「やっぱりお姉ちゃんの代わりに私がさらわれて男に犯されて殺された方が良かったのね。何なら今から死んでもいいけど」
私も喧嘩腰に言った。いつもの事。
「下品な女だ。さすが姉を見捨てただけあるな。お前が助けたらあいつは可哀想な目に遭わずに済んだんだ」
ま〜た始まった。私への恨み節。小学生が助けられる訳ないのに何言ってるんだよ。大っ嫌い。父も父に愛される姉も。
「そんなにお姉ちゃんが大事ならお前がいつも送り迎えすれば良かっただろ」
言っちゃった。いつものアレが来るかな。
パーン!
「虐待オヤジからビンタ一発頂きました〜!」
痛みを堪えて茶化してみせる。あぁ涙出そう。唇を横に伸ばして笑ってやる。ここで笑わなくてどうする。笑うんだ。涙を一滴も流さず満面の笑みをクソオヤジにくれてやるんだ。血の色にたぎった怒りの炎を目ン玉に燃やして修羅の笑みを。私の気持ちをドブ色に汚して。
「いい加減にして!」
母が叫ぶ。
「何で叩いたの! 許さないから」
母の金切り声が響く。父は私を睨みつける。バッカみたい。
「やってられないわ。外で飲んでくる。下品な女が好きならお父さんのフェラしてやってもいいわよ。五万で。じゃあ行ってきま〜す」
気だるく言ってバッグを持って出かけた。今日のビンタは頬骨に当たって効いた。
遅い夕食は居酒屋のカウンター席で唐揚げとサラダとお茶漬けとビール。スマホを見ながらくつろぐ。彼が心配。姉みたいにならないか不安。姉が喋ったのも衝撃。怖い。冷静になると感情が込み上げる。クソオヤジはどうでもいいわ。知らないアイドルの歌が流れる店を出る。
翌日、仕事から帰ると姉が退院していた。
「すぐに退院できて良かったね」
どうせ反応しないだろうと思っていたが顔を向けた。何かを言いたそうな顔だった。
「どうしたの?」
私が訊くと姉の表情がもとに戻った。わからない。
父は既に帰宅していた。
「昨日は悪かった」
少しだけ申し訳なさそうに言った。どうせ母に搾られたのだろう。いつものパターン。
「気にしていないから」
いつもの無愛想な返事をして部屋に入る。
入浴して居間でくつろぐ。父は寝室でテレビを見る。母が洗い物を済ませて座る。
「何か警察の人が来たよ」
母が言った。あの様子だから仕方ないか。
「何だったの」
「それがね……」
母が話した。彼が子供の時の記憶を失っていた事。一時期いなくなって見つかったのが子供の時に姉が発見された町だった事。
「明日、警察の人と現場に行くそうよ」
母の言葉を聞いて早足で部屋に戻ってスマホでメッセージを送る。
《大丈夫?》
八時を過ぎていたから返事は期待しない。でもすぐに返信が来た。
《大丈夫。詳しい事は後で。じゃあ》
それ以上は怖くて送れなかった。
しばらく彼から連絡が来なかった。その間、姉は何度か警察に呼ばれた。あの騒動の後、話せなくても筆談が出来るようになったそうだ。
父は仕事から帰ってきたら黙ったまま。母は口数が少ない。また陰鬱な雰囲気。
彼から連絡が来て会う事になった。何て言えばいいのか。
約束の日、近所のカフェで会った。
彼は幼い時に誘拐された。そこに姉がいた。誘拐した夫婦は生贄と称して姉に彼を殺させようとした。女が唱える奇妙な呪文。男に羽交い絞めにされた彼。手のひらの傷は姉がナイフで刺したから。痛みで暴れた彼は地下室から逃げ出した。
それが彼の失った記憶。
訪れた現場の家は崩れかけた空き家の隠された地下室に変な祭壇や像が飾られていた。床には大量の血痕が見つかった。
家主の夫婦は自殺していた。姉が保護された一週間後に近所の林で遺体が発見された。
話を聞いて頭が痛くなった。彼も姉もおかしくなったのは納得できる。軽い吐き気がした。でも言いたくなった。
「ありがとう。お姉ちゃんが助かったのはあなたのお陰だったのね」
彼を《あなた》と呼んだのは終わりを感じたせいか。でもお礼を言いたかった。
刑事が家に来て夫婦の写真を姉に見せた。写真を見て姉は怯えた。刑事が言うには彼が逃げた隙に姉も逃げたそうだ。
愚かな夫婦に父も母も私も怒りを感じた。唯一家族の思いが同じになった時だった。
彼は会社を辞めて実家の母親と暮らす事にした。
引っ越す前日に彼が家に来た。
「自分を責めないで。俺は大丈夫だから」
彼が姉に優しく言った。姉は遠くを見たままゆっくり頷いた。
そして私達は別れた。
姉は相変わらず話せないが表情が少し表に出るようになった。私は一人暮らしを始めた。
翌月、彼が死んだ知らせが来た。
離婚した父親が無理心中を図ったそうだ。生贄として差し出したのはカルト狂いの父親。捜査が再開したから観念したのか。皮肉にも生き残ったのは父親だけ。何で自分だけ死ななかったのか。それもくだらないカルトの教えだからか。
悲しかった。どこもクソオヤジは厄介だ。うちのクソオヤジとは滅多に会わなくなったからわからない。その方がお互いにいいから。
母と会って外で昼食。たまには帰ってくればと言う母の顔は疲れていた。
「お姉ちゃんの世話が大変なの?」
私が訊くと、
「全然。家事はやってくれるし助かるけどずっとこのままって考えるとね」
後になる程、口調がモゴモゴになる。確かにそうだ。
病院に行く時はビクビクしながら母の腕をしっかり掴んで歩くのは変わらない。
「余計な事を言ってクソオヤジに引っ叩かれるのはごめんだから何も言えないけどどこかに相談すれば」
「ああ見えて後悔しているんだよ。あの日は休みだったから迎えに行けば良かったって」
「後悔するなら私に八つ当たりしたのを後悔して欲しいわ」
乾いた気分で言う。
「あんたは大丈夫なの」
「まだ落ち着かないわ。夢に見るのよ。起きたら悲しくなる」
思ったまま答える。元カレの死をニュースで見る。驚きから悲しみに変わるまでジワジワと傷に染みる。しかも姉が関わった事件。どうしてこうなったのを何度も繰り返す。
「やっぱり家に来れば。一人でいたら余計に考え込むし」
母が心配そうに言う。余計な事を言った気分。どうしよう。
「考えておく。ごめんね。心配かけて」
笑顔で答える。
翌月のある週末に実家に出かける。父はまた外出。気を遣っているのか。
母と姉と一緒に家を掃除。浴室やトイレまで掃除、洗濯して一時間。料理や持って来た総菜を皿に盛りつけて昼食の準備。正午をすぎて居間でくつろぐ。
姉は黙ったままだが手際はテキパキしている。確かに母が言う通り手はかからないし、私より細かく家事をこなす。
しばらく食事しながら歓談。姉はたまに微笑む。こんなにやわらかい表情をするんだ。
変わったなと思う。
「ドーナツ買って来たの」
私がドーナツの箱を開ける。
「あら、おいしそう。後でいいわ」
母は喜ぶ。姉の表情が曇る。雰囲気が凍りつく。
「どうしたの」
私が訊く。姉は黙ってチョコレートのドーナツを取る。そばに置いた紙に鉛筆で書いて見せた。
《あの人と食べた》
あの人──すぐに誰か思いついた。姉も彼の死を知っている。私の知らない彼を知っている姉に嫉妬はない。昔の友達を知っている女同士。そんな感覚か。
「そうなんだ」
それしか答えられなかった。姉はドーナツをかぶりついた。間を置いて悲しい表情になった。私は黙って姉の背中をさすった。
「いいから。無理しなくても」
私がゆっくり話しかける。姉の背中が震える。
午後三時を過ぎて家を出た。母からタッパに余り物を詰めてもらった。父の車が通り過ぎて後ろで止まる。
「乗って行かないか」
父の誘いに答えて車に乗る。
「どうだったか」
どうせ姉の様子の事だろう。
「元気そうで良かったね」
ドーナツの話をしたら激怒すると思ったから言わない。面倒くさいから。
「お前は大丈夫か」
「えっ何、心配してくれているの。まあ……色々あるけど大丈夫よ」
強めに始まった口調は穏やかになった。
「男が出来たなら結婚してもいいんだぞ。お前は自由にやればいい」
「もう追い出したいの」
思わず笑って言った。
「いや、気を遣わなくいいからな」
父の言葉が曇りがちになるのが気になった。
「どうしたの」
「いや。色々と考えてな。家にいると時間が止まった気分になるのかな」
「そうね。私はお父さんもお母さんももっと自由でいいと思うけどね。何か昔の事に縛られている気がする。私も巻き込まれた気がする。そこから脱け出す事も出来るんじゃないかなって」
私が言うと父は「そうだな」と答えた。
駅で別れて電車に乗って帰宅。のんびりくつろぐ。たまには帰ろうと思う。
夕食は母の手料理をレンジでチンして食べる。馴染みのある味で安心する。入浴してくつろいで寝る。何か疲れた。
しばらくして彼を殺した父親の裁判が行われた。どうしようか迷ったが仕事を休んで傍聴した。
法定は慣れない雰囲気。入って来た被告人。彼と似てない。そこで明かされる事実。彼はこの夫婦に誘拐された。妻の病を治すには生贄が必要だとカルト狂いの夫婦にそそのかされて。
そんなインチキ臭い理由で平気でさらうの? 遺された家族はどう思うのか。斜め前の席で泣いている中年の女。もしかして実の母親か。彼は自分がさらわれたのを知らなかったのか。疑問が湧き上がる。殺人の動機は実の親子でないのがバレたから。納得した。許せない。あまりにも勝手すぎる。
「返して! うちの子を!」
斜め前の女が叫ぶ。裁判長が注意する。いや黙っていられないだろ。女は何度も叫んで退室させられた。
懲役十年の判決。一審だからわからない。退廷する男の横顔は無表情。彼を殺した男に靴を投げつけたい気分。来ない方が良かった。
新幹線と電車を乗り継いで帰宅。疲れた。二度と行く事はないだろう。誰にも言う必要はない。コンビニで買った弁当を食べて入浴してベッドに入る。法廷の様子を思い出す。どうしてわざわざ行ったのだろう。別に墓参りをする訳も家で線香をあげる訳もない。無表情な男は彼を殺した。許せなくて怒りと悔しさが込み上げる。お前が死ねば良かったんだ人殺しと叫んだら良かったのか。とにかく苛立ちで眠れなかった。
歳月が経ち私は勤め先の同僚と結婚した。
父も母も穏やかに暮らしている。姉は少し話せるようになって家事を手伝っている。夫は家庭の事情を理解してくれている。今は普通の暮らし。それがいい。姉が筆談で伝えるには夫から染み出る香りはどこか懐かしいそうだ。気に入っている。
道端に捨てられた骨の曲がった透明な傘──
私は拾わないけど誰かが拾うだろう。
(了)